百足足尼命 – Wikipedia
百足足尼命(ももたりのすくねのみこと、生没年不詳)は、『風土記』に伝わる古代日本の豪族。『記紀』には彼に関する記載は存在しない。『肥前国風土記』では阿曇連百足(あずみのむらじももたり)と表記されるが、阿曇連を賜姓されたのは後世のことであり[1]、百足足尼命の時代は阿曇連の氏姓は未発生である。 発祥の地は『和名類聚抄』には、筑前国糟屋郡志珂郷から阿曇郷にかけての一帯(現在の福岡市東区志賀島から糟屋郡新宮町)が発祥の地とされており、大和政権に帰属した段階で、摂津国に拠点を移している。ワタツミの神を始祖としており、『新撰姓氏録』には、「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」と記されている。 『肥前国風土記』によると、景行天皇の時、 志式嶋(しきししま)の行宮(かりみや)に在(いま)して西の海を御覧(みそなは)給ひしに海中に島あり。煙気(けぶり)多(さは)に覆へりき。勅(みことのり)して陪従(みとも)の阿曇連百足(あづみ の むらじ ももたり)を遣りて察(み)しめ給ひしに、島八十餘(やそあまり)あり。 その中の二つの島は有人島で、小近(おぢか)という島には「土蜘蛛大耳」(つちぐもおおみみ)が、大近(おおちか)という島には、「土蜘蛛垂耳」(つちぐもたりみみ)が住んでいた。百足は大耳らを獲得した。天皇は彼らを誅殺しようとしたが、大耳たちは以下のように述べた。 「大耳(おほみみ)等(ら)が罪(つみ)は、実(まこと)に極刑(しぬるつみ)に当れり。戮殺(ころ)さゆとも、罪を塞(ふさ)ぐに足らじ。若し恩(めぐみ)の情(こころ)を降し給ひ、再(また)生くることを得ば、御贄(みにへ)を造り奉り、恒(つね)に御膳(かしはで)に貢らむ」 そう言って、木の皮を取って、長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑の調理をし、献上した。天皇は恩を与えて、赦免した。その島は遠いけれども一見すると近いように見えるので、「近の島」というべきだとして、値嘉の島と名づけられた[2]。 『同風土記』には続けて、 この島(値嘉の島)の白水郎(あま)は容貌(かたち)、隼人に似て、恒に騎射(うまゆみ)を好み、その言語俗人(よのひと)に異なり[2]。 とある。これは、「海人」の言語が支配者層とは違う異民族のものであったことを示しているのではないか、と黛弘道は述べている。 また、『播磨国風土記』には、百足たちが難波(なにわ)の浦上(うらかみ)というところに住んでいて、移住した場所を元の居住地の地名をとって、「浦上」と名づけた、という話もある[3]。 なお、7世紀中葉の孝徳朝の頃に、同じ『播磨国』に同名の百便(ももたり)の野があって、百枝(ももえ)の稲が生えていた。これを阿曇連百足が稲を刈り入れて天皇に献上した。その際に天皇は、 「この野を墾(は)りて田を作るべし」 という勅令を出した。そこで、浜足は一族の阿曇連太牟(あずみのむらじたむ)を派遣して、現地の人夫(よぼろ)を召し抱えて、開墾させた。そこでこの野の名を「百便」(ももたり)といい、村の名前を「石海」(いわみ)と号した、とある[4]。 以上の話から、阿曇一族が大和王権の中で、大勢力へと成長しつつある過程を垣間見ることができる。 ^ 宝賀寿男「第3章
Continue reading
Recent Comments