屋根付橋 – Wikipedia

府内城の廊下橋(大分県) ローズマン・ブリッジは映画マディソン郡の橋の舞台となった。 屋根付橋(やねつきばし)は、屋根の付けられた橋のことである。橋の構造材の劣化速度を遅くする目的で覆いをかけたものや雨風を防ぐため、景観のためなどさまざまな理由から橋が覆いで囲まれている橋。世界的に広く存在し、あるいは「幌付き橋」、「廊下橋」、「鞘橋」、「有蓋橋」ともいう。 目次 1 構造 2 世界各地の屋根付橋 2.1 アジア 2.1.1 日本 2.1.1.1 日本書紀に残る記述 2.1.1.2 愛媛県南部における屋根付橋 2.2 ヨーロッパ 2.3 北アメリカ

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広島建設 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “広島建設” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) この項目では、千葉県の企業について説明しています。東証二部上場企業、旧社名が広島建設については「ソルコム」を、北海道北広島市本社の土木建築業については「広島建設 (北広島市)」をご覧ください。 広島建設株式会社Hiroshima Kensetsu Co.,Ltd. 種類 株式会社 市場情報 非上場 略称 広島建設

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三八式十五糎榴弾砲 – Wikipedia

三八式十五糎榴弾砲(さんはちしきじゅうごせんちりゅうだんほう)は、日本陸軍が1911年(明治44年)に制式制定した榴弾砲。 1904年(明治37年)、日露戦争の開戦に伴い、日本陸軍がドイツのクルップ社に砲身後座式の近代火砲を数種発注した[4]うちの一つ。駐退機を持たない克式十五珊榴弾砲を補完〜更新する目的の、野戦重砲兵向け榴弾砲である。 クルップでは、日本陸軍の要望に合わせて若干の修正を加えたものの既存モデルの設計を流用して直ちに製造に取り掛かり、翌明治38年(1905年)には発注数を揃えて出荷したものの、日本に到着したのは奉天会戦よりも後であり、日露戦争の戦場には間に合わなかった。 その後、改めて日本国内で審査を行い、若干の改正を施して1911年(明治44年)12月をもって三八式十五珊榴弾砲として制式制定[5]され、昭和に入って三八式十五糎榴弾砲と改称された。 閉鎖機は段隔螺式で、装薬可変式の分離薬筒。装薬は一号方形薬だが、照準器が旧式なため同一表尺で異なる弾量の砲弾を発射するのに、弾種別に専用の薬嚢を用いるという、このクラスの重砲としてはあまり用いられない方式[6]をとっている。 移動は8馬輓曳を前提としたが、体格に劣る国産馬での輓曳は事実上不可能であった。このため、陣地変換に際しては分解して荷車に積載せねばならなかったが、元々分解搬送を前提としていない設計であったため、これには多大の時間を要した。もちろん、移動した先での組立て〜再設置にも時間がかかり、野戦重砲といいながらも実質的には攻城砲並みの機動力しか持たなかった。これは本砲最大の欠点となった。[7] 採用以降、陸軍は野戦重砲兵の主火器として本砲を整備し、大阪砲兵工廠で国産化もされたが、上記理由により生産期間はそれほど長くはなかった。1918年(大正7年)に野戦重砲兵連隊が独立編制になる頃から四年式十五糎榴弾砲との置換えが始まり、1935年(昭和10年)頃にはいったん予備保管兵器となった。しかし、日中戦争の勃発により動員され、その後は限定的ながらも第二次世界大戦の終結まで運用され続けた。 本砲の機動力不足を解消する試みは対米開戦後の重砲不足の中で開始され、四年式十五糎榴弾砲に準じた分解式への改造は不調に終わったものの、1944年(昭和19年)には決定版として自走化が検討され、四式十五糎自走砲(ホロ)として実用化された。 本砲の初陣は1914年(大正3年)の青島攻略戦にまで遡るが、野戦重砲として本格的に使用されたのは1937年(昭和12年)、日中戦争に伴い動員下令となった野戦重砲兵第五旅団隷下の野戦重砲兵第十一連隊および野戦重砲兵第十二連隊に配備されて出征した。両連隊とも1939年(昭和14年)にいったん復員したが、野戦重砲兵第十二連隊は1942年(昭和17年)に再動員となりフィリピンに派遣され、1944年(昭和19年)〜1945年(昭和20年)にかけてルソン島で米軍と戦い、全滅した。野戦重砲兵第十一連隊も1944年(昭和19年)に再動員となったが、本土決戦の準備中に終戦となった。 四式十五糎自走砲の主砲として搭載された。軽量な三八式は九七式戦車車体に無理なく搭載でき、直射を含む機動射撃では短射程はあまり問題にならなかった。大きな炸薬量により、米軍戦車を正面から撃破できる貴重な対戦車戦力として重宝された。 ^ a b 佐山二郎「日本陸軍の火砲 野戦重砲 騎砲 他」188頁、189頁。  ^ 一号装薬使用時。二号装薬では200 m/s、三号装薬では150

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ディゾット – Wikipedia

DiesOtto(ディゾット[1])エンジンは、「ディーゼルエンジンの利点を取り入れつつ、ガソリンで走ると言われている」[2]実験的自動車エンジンである。 名称は、「Diesel」と「Otto」のかばん語で、ドイツのエンジニア、ルドルフ・ディーゼルが最初に発表したディーゼルエンジンと、ニコラウス・オットーにちなんだオットーサイクル(ガソリンエンジンの発明者は、ニコラウス・オットーとアルフォンス・ボー・ド・ロシャの両名と様々に言われているが)を意味している。 目次 1 エンジンの特性と動作原理 1.1 試験と実物説明 2 脚注 3 関連項目 エンジンの特性と動作原理[編集] メルセデス・ベンツによるコンセプトエンジンは、直列4気筒で排気量は1.8リットル。ピーク出力は175 kW (235 hp)以上、比出力は97 kW/L (130 hp/L)、ピークトルクは400 N·m、比トルクは220 N·m/Lとなっている。メルセデス・ベンツでは、これらの規定の最大値に到達する回転数を明示していない[3]。 DiesOttoの特徴は以下の通りである。 均一予混合圧縮着火(HCCI) 可変バルブタイミング

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頭文字D ARCADE STAGE – Wikipedia

頭文字D > 頭文字D ARCADE STAGE 頭文字[イニシャル]D ジャンル カーバトル ゲーム:Arcade Stage Ver.1~ZeroTHE ARCADE ゲームジャンル レーシング 対応機種 アーケードゲーム 開発元 セガAM3研(旧:セガ・ロッソ →ヒットメーカー) 発売元 セガセガ・インタラクティブ(Zeroシリーズ時代) プレイ人数

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ジン (ガンダムシリーズ) – Wikipedia

ジン (GINN) は、テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED』シリーズに登場する、モビルスーツ (MS) に分類される架空の有人式人型ロボット兵器のひとつ。「プラント」の軍事組織「ザフト」の主力量産型MSであり、物語冒頭から多数の機体が登場するほか、続編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の序盤でもザクウォーリアなどの新型機とともに配備されている。 メカニックデザインは大河原邦男が担当した。『機動戦士ガンダム』に登場するザクIIなどのジオン公国軍系MSに似た単眼(モノアイ)式の頭部メインカメラを持つほか、後頭部のトサカ型アンテナや背部の翼型スラスターといった独自の特徴も併せ持つ。これらの特徴は、作中に登場するザフト軍MSの多くに見られる。 本項では、関連作品に登場する派生機についても解説する。 デザイン[編集] デザインは大河原邦男によって複数のアイデアラフが提出されたあと、『機動戦士ガンダムSEED』の監督である福田己津央のオーダーを通して完成した。原案となったラフの段階で肩部装甲とされていたパーツは翼状のバックパックに差し替えられており、指示書きにおいて頭部のトサカ状パーツは烏帽子がモチーフであることが言及されている。 設定解説[編集] ザフトの初代制式主力機にして世界初の汎用量産型MS。その源流となるのはファーストコーディネイターであるジョージ・グレンの木星探査船「ツィオルコフスキー」に搭載された外骨格・補助動力装備型の宇宙服である。その後、不整地でも移動可能な二足の脚部と、運搬用のアームを持つ作業用機械としてフォークリフトに類似した「パワーローダー」が開発される。プラントの技術陣では、これを前身として、多種多様な武器を持つ手と様々な足場に対応できる足を有しつつ、「戦艦に匹敵する火力」「戦車に匹敵する装甲」「戦闘機に匹敵する機動性」を両立した機動兵器としてモビルスーツの開発をスタートさせる[注 2]。 CE65年にMS試作1号機「ザフト」がロールアウトした後、CE67年に実用量産モデルとしてジンの初期型であるYMF-01Bプロトジンが完成[注 3]。その後、プラント・マイウス市の一部を極秘裏に改造し、MSの生産体制を構築。ジンはより戦闘力を高めた制式量産機として完成する。 CE69年に存在が明かされたZGMF-1017ジンはハインライン局によって開発された機体であり、地球に比べてプラントの人的資源は少ないため、サバイバリティを考慮して一人乗りの機体としている[注 4]。初期のMSであるゆえに主な仮想敵はMAであり、戦力比にして地球連合軍の主力MAであるメビウスと1:3、または1:5という優位性を誇る。 一方で、モビルスーツの構造は既存技術を固めたものであり、機械的に解析や構造を模倣する事はさほど困難ではない。これは制式機であるジンにおいても同様で、オーブ連合首長国ではそのままコピー機を作ることすら可能であった。また、ただし、その操縦系統は高度な反射神経・運動能力・判断力・認識力が必要とされ、難易度の高いOSによってコーディネイターにしか操作が行えないという図式を形成する事で、戦争序盤においては優位性を勝ち得ていた[注 5]。 機体構造[編集]

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形而上詩人 – Wikipedia

形而上詩人(けいじじょうしじん、英語:metaphysical poets)とは、ジョン・ダンやジョージ・ハーバートなど、17世紀のイギリス抒情詩人の中で、形而上学的な仕掛けとその研究に関心のあった詩人たちを指す。「形而上詩人」という言葉を最初に使ったのは、後の時代のサミュエル・ジョンソンであり、形而上詩人と言われる詩人たちが自分たちで形而上派を名乗ったり、運動を起こしたりしたことはなく、さらに多くの詩人たちは他の詩人のことを知らず、本も読んだこともなかった。 20世紀初頭、T・S・エリオットらによって再評価され、脚光を浴びた。エリオットは『形而上詩人』(1921年)というエッセイを書いた。 形而上詩人のスタイルは、ウィット(機智)、巧妙な論法、「形而上的奇想(metaphysical conceits)」、および/または、アンドルー・マーヴェル(Andrew Marvell)の魂と一滴の雫を対比させるような、普通でない直喩またはメタファーが特徴的である。何人かの詩人(とくにジョン・ダン)はネオプラトニズムの影響を受けている。形而上詩人の中に見つかる初期のプラトニックな奇想の一つとして、最愛の人の中の理想の美が、永遠の王国の究極の美の記憶の役を果たす。 「形而上」の意味[編集] 『詩人伝(Lives of the Most Eminent English Poets)』(1779年 – 1781年)の『カウリー伝』の中で、サミュエル・ジョンソンは17世紀のはじめについて、「形而上詩人(metaphysical poets)とも呼ぶべき作家の一団が現れた」と言及した。しかしジョンソンは「形而上(metaphysics)」という言葉を本来の意味で使おうと意図したわけではないようで、おそらくジョン・ドライデンのジョン・ダンについての警句「彼は風刺詩だけでなく自然さのみが支配すべき恋愛詩の中でもmetaphysics(空論、抽象論)を好んで用いた。そして、恋の優しさで女性の心を引きつけ楽しませるべき時に、哲学の素晴らしい空論(speculations)で女性の心を困惑させた。この中で……カウリー氏は彼を真似て失敗した」について言及したのだと思われる。ドライデンが形而上派、つまり形而上詩人のグループについて語る前に「metaphysics」という言葉を使った作家はウィリアム・ドラモンド・オブ・ホーソーンデン(William Drummond of Hawthornden,

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こめ油 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “こめ油” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) こめ油(こめゆ、こめあぶら、べいゆ、米油、rice bran oil) は、米糠から抽出される植物油である。米糠油(こめぬかゆ、こめぬかあぶら)とも。様々な呼び名や書き方があるが、日本農林規格 (JAS) では「こめ油」を使用している。 原材料と副産物[編集] こめ油の原材料は、玄米を搗精した際の副産物である米糠である[2]。日本では主食である米を原料にしているため、原料をほぼ国産で賄える唯一の植物油である。また、抽出工程のみを行う工場を含めれば、こめ油製造工場は北海道から沖縄県まで存在する。近年は東南アジアや米国からの輸入も行われているようだが、その量はごくわずかである。 日本においては、国産原料を使用していることから学校給食関係者には好評であるが[2]、大豆油などに比べると価格が高いので、使用は一部に留まっている。 また、米の消費量が年々減少しているため、こめ油は安定した出荷がありながら、製造会社は原料の手当てに苦慮している。1990年代にはエノキタケの培養床に米糠が使われたため、栽培業者と製油業者の間で原料の奪い合いが起きた。エノキダケの方が収益性が良く、栽培業者が米糠を高く買い取ったため、一時、こめ油業界は深刻な事態に陥った。その後、エノキダケの培養床は米糠からトウモロコシの芯(コーンコブ)に移行したため、危機を乗り越えることができた。しかし、長期的に見て原料供給が増える見込みが立たないことに変わりはない。 他の植物油原料と異なり、米糠には油脂分解酵素リパーゼが多量に含まれている。そのため、原油中の遊離脂肪酸量が多く、酸価

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トライアングル・サービス – Wikipedia

トライアングル・サービス(TRIANGLE SERVICE)は、主に業務用・家庭用ゲーム機用のコンピュータゲームを製作している会社である。ユーザーからの略称はトラサビなど。 商業向けでゲーム製作には数十人〜数百人規模とかかっている作品が多い中において、僅か3名の製作スタッフによってゲームを製作している。そのうち、サウンド・キャラクターデザインを除く全てを藤野社長一人が担当している。 会社設立までの経緯[編集] 藤野俊昭はヒューマンクリエイティブスクール卒業後、いくつかのゲームメーカーを転々としていた。その中でG-STREAM G2020の開発に関わった際、発注元であるオリエンタルソフトから給与未払いのうえゲームデータも未完成のまま奪われてしまう、という詐欺まがいの仕打ちを受けてしまう。 藤野は「G-STREAM」を自分の思ったとおりのゲームに完成させて売る、という目的の新たな会社を設立した。それがトライアングル・サービスである。 ちなみに会社名は「ナイアガラ・トライアングル」と「サニーデイ・サービス」が由来であり、ビジネス用語の「サービストライアングル」からではない。 開発したゲーム作品[編集] 発売タイトル[編集] イベント用タイトル[編集] いずれも商業製品としては未発売。 アーケード向けの作品。基板は『シューティングラブ。2007』と同じくNAOMI(ROM)。内容及びタイトルは『シュウォッチ』のオマージュと「ウルトラマン」のパロディ。正義の味方「射ルトラマン」に10秒間の連射でパワーを与えるという設定。射ルトラマンの声優は藤野社長本人。BGMは『シューティングラブ。2007』でも一部楽曲を手がけたWASi303によるもので、アーケードゲームとして初めて[1]主題歌には『初音ミク』の音声が使用されている。 シューティングラブ。8 プラットフォームはWindows。その名の通り、『シューティング技能検定(業務用)』を8人同時対戦できる作品。8人対戦に適したように、アーケード版とは若干ミニゲームの内容も変更されている。 トライアングルサービスの作品としては、シューティングゲーム以外のジャンル作。ゲームショーに出展はしていたが、諸事情で発売未定となっている。2009年2月12日にシューティングラブ。200Xの公式ブログで情報が公開された。 トライアングル・サービスがピンチです![編集] トライジールのドリームキャスト版を販売するに当たって注文予約数の少なさに困惑した藤野社長が、自社サイトに上記タイトルのサイトを開設し購入の呼びかけを行った[2]。内容は「借金をして会社を立ち上げたが売り上げが芳しくない」ということをかなり率直に書いた完全な自虐ネタで、企業自らがこの様な形での呼びかけを行うことはテレビゲーム業界においては前代未聞であり、賛否両論ながらネット上において注目を集めた。その結果多数の個人およびゲーム店などから応援のメッセージや問い合わせが殺到し、ソフトは2006年末頃までに生産分のほとんどを売りきり、2007年初頭にDCソフトとしては異例の再生産を行うまでになった。結果としてこの呼びかけは大成功だったと言える。 また、2006年11月に銚子電鉄がウェブサイト上で自社の窮状を訴えた際に、ゲーム系のサイトでしばしばこの件が引き合いに出されたが、とくに関連性はない。 シューティングラブ。[編集]

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赤穂藩 – Wikipedia

赤穂城 高麗門二層櫓 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 「元禄赤穂事件」(忠臣蔵)の浅野家が治めた藩として有名だが、最も長く在封したのはその後に移封されてきた森家である。なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった[1]。 前史(赤穂藩以前)[編集] 戦国時代は赤松(播磨守護)・浦上(備前守護代)・宇喜多氏らが赤穂郡も領したが、いずれも他郡からの間接統治であった。赤穂(加里屋)に入部して直接統治したのは生駒親正が初であり、石高は桃山・江戸期を通じ最大の6万石であった[2]。 文禄4年(1595年)に生駒氏は讃岐国12万6千200石に転封となり[3]、赤穂は再び宇喜多秀家による間接統治に戻る[4]。宇喜多氏は関ヶ原での実質的な西軍の現地指揮官となり、戦後に改易のうえ流罪となった。 池田家の時代[編集] 関ヶ原で東軍に属した池田輝政は大幅な加増を受け、播磨一国の国守となる。輝政の五男・政綱は元和元年(1615年)、兄である忠継の死により岡山藩を相続した忠雄より、母・良正院の遺領分のうち3万5000石を分知され、ここに赤穂藩が立藩した。寛永8年(1631年)、政綱は嗣子なく没し、同国佐用郡平福藩で2万5000石を領していた弟の輝興に相続が認められた。しかし、輝興は正保2年(1645年)、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し、本家である岡山藩主池田光政の預かりとなり、改易となった(「正保赤穂事件」)[5]。 浅野家の時代[編集] 同年、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。長直は石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、さらに城下町も造営した。転封と工事により財政は悪化した。池田家の代より始まっていた塩田開発を奨励し整備を行い、塩を赤穂の特産品とした。以後、塩は赤穂の特産として藩財政を支えて行くこととなる(当時は通称「赤穂塩」と呼ばれていた。現在の現地遺跡の発掘により、その起源は、弥生時代にまで遡るとする研究結果もある)。 第2代藩主・長友は寛文11年(1671年)、義兄・義弟に分知し、石高は5万石となった。 元禄14年(1701年)、第3代藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こし、長矩は切腹、浅野家は改易となった。この際、藩札の残額が九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老の大石良雄らが、債権者による混乱の対処に奮闘した(取り潰される藩のものとしては、額面の6割[6]という高い率の銀正貨で回収している)[7]。 広島藩の「浅野家文書」では赤穂藩の藩札回収に広島本家と三好藩からの多額の援助が記され[8]、赤穂藩の断絶後に浅野本家は鴻池家からの借財が桁違いに増加している[9]。一方、岡山藩の記録では赤穂の「札之高都合三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩札を持つ備前商人が(赤穂藩としては、基本的には他領での流通を制限した事になっているが、実際には藩外にも流出した)「四分六分」の換金率(額面の4割)だと言われて赤穂城下で喧嘩同然の騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に、仕方なく池田家で肩代わりしたと記される[10]。 そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。連座した長矩の弟・浅野長広は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられたが、宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広の跡は嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野家は、安房国で続くことになる。 永井家および森家の時代[編集] 刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている。 同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家赤穂藩士の格式(席)は、藩主に御目見が許される士分(給人格)と徒士、御目見が出来ない下代(足軽・中間など)の大きく3つに分けられた。下代の多くは苗字を名乗れなかった。森家赤穂藩には大石氏(広島藩・浅野本家の大三郎系が絶家ののち、大石信清系が大石宗家の扱いで花岳寺にて大石氏の祭祀を継承している[12])など旧浅野家臣もみられる[13]。 幕末の安政4年(1857年)に森主税が家老になったが、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた中下級武士の反感を買って暗殺される事件があった[14](「文久赤穂事件」)。 1869年(明治2年)の版籍奉還で藩主森忠儀が知藩事に就任。1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となり、その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。森家は1869年(明治2年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)には華族令の施行とともに子爵を授爵した。

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