プレスター・ジョン – Wikipedia
1558年に作成された世界地図上に描かれたプレスター・ジョン(プレステ・ジョアン) プレスター・ジョン(英: Prester John、羅: Presbyter Johannes、葡: Preste João、プレステ・ジョアン)は、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する[1]。 伝説の起源[編集] 1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた[2]。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている[3]。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる[1]。 12世紀のドイツで記された、オットー・フォン・フライズィングの年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている[4][5][6][7]。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した[8]。ペルシア、アルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記されている[1][8]。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれた。チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている[8][9]。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いているという伝聞を付記している[10]。 オットーが記録した報告は、東方に伝わっていたネストリウス派がウイグルの一部で信仰されていた点[6]、西遼(カラ・キタイ)の皇帝・耶律大石がイスラム教国に勝利を収めたこと[6][10][11][12]などに起因すると考えられている。オットーの年代記に現れるペルシアの王サミアルドスは、1141年のカトワーンの戦いで耶律大石に敗れたセルジューク朝の王アフマド・サンジャルに比定される[13]。西遼の支配層である契丹人は遼の時代に仏教徒に改宗しており、12世紀初頭に耶律大石に率いられて中央アジアに移住した一団も仏教信仰を保持していたが、ヨーロッパに誤ってキリスト教徒と伝えられたと考えられている[13]。しかし、耶律大石自身は仏教を信仰していたが、彼の軍内にはネストリウス派の信者が含まれていた可能性も指摘されている[14]。 プレスター・ジョンの戦果の報告の後に書かれたオットーの情報には、聖トマスのインドでの布教を述べた『聖トマス行伝』に現れるインド王グンダファル(Gundaphara)からの影響が指摘されている[15]。ほか、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がオットーの記述のモデルとなった人物の一人に挙げられている。 プレスター・ジョンの書簡、噂の流布[編集] 12世紀前半のインド大司教ヨハネのローマ来訪、オットー・フォン・フライズィングのプレスター・ジョンに関する最古の記録は、大きな反響を呼ばなかった[16]。しかし、プレスター・ジョンの書簡の写しとされるものがヨーロッパ中に流布し、プレスター・ジョンの使者が現れたという噂も広まっていく[4]。 1165年頃、東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスの元にプレスター・ジョンを差出人とする書簡が届けられる[9][17]。マヌエル1世の元に届けられた書簡にはアレクサンドロス3世の英雄譚や布教のためにインドへ赴いた聖トマスの伝承が組み込まれており、62の国を従えた「3つのインドの王」プレスター・ジョンと彼の王国の栄華、不老泉などの王国の自然、インドに住む様々な怪物が記されていた[18]。同様の手紙は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、教皇アレクサンデル3世、フランス王ルイ7世、ポルトガル王アフォンソ1世の元にも届けられ、吟遊詩人、放浪の楽士を介してプレスター・ジョン伝説はヨーロッパに広まった[9]。ラテン語による書簡の原文は1150年から1160年の間に作成されたと考えられており[12]、120以上存在する書簡の写本は様々な言語に訳されている[19]。写本作家によって記述は脚色され、版によってはアマゾン族、インドのバラモン、ゴグとマゴグ、イスラエルの十支族など様々なアジアの伝承が取り入れられている[20]。書簡の作者は判明しておらず、制作の意図も諸説ある[20]。当時の人々の願望を反映した理想郷、放浪の詩人が仲間を楽しませるために様々な逸話を組み合わせて作ったものなどが動機に挙げられ[20]、ネストリウス派のキリスト教徒によって作成されたとする意見もある[21]。歴史家レオナルド・オルスキーは神権政治の理想を説いたものだと解釈し、バーナード・ハミルトンは聖職者が世俗の支配者に服従する世界の有様を説こうとした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が作成に関与したと考えた[20]。1220年ごろにバイエルンのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによって書かれた叙事詩『パルチヴァール』にはプレスター・ジョンの伝説も織り込まれ[22]、『東方旅行記』の著者として知られる14世紀のイギリスの騎士ジョン・マンデヴィルは書簡の写本を元にプレスター・ジョンの国の見聞録を書き上げた[23]。 イスラーム教徒との戦争が膠着する状況を反映して、まだ見ぬプレスター・ジョンへの期待はヨーロッパ諸国、十字軍内に広がっていく[6][5]。アレクサンデル3世はイスラーム勢力に対抗するため、1177年9月27日付けのインドのプレスター・ジョンに宛てた書簡を記し、医師のフィリップをプレスター・ジョンへの使者として送り出した[21][24]。アレクサンデル3世の書簡は以前に届けられたプレスター・ジョンの書簡の返信という形式をとっておらず、その内容にも触れられていない[21]。また、書簡の中でアレクサンデル3世は同盟の締結を提案しながらも、ローマ教会の正統性を主張していた。その後フィリップは消息を絶ち、彼が携えていた書簡の行方もまた判明していない[21]。ユダヤ人医師ジョシュア・ロルキが引用した学者マイモニデスの手紙では「キリスト教徒の領主プレステ・クアンの国に住むユダヤ人」について言及され[9]、1181年頃に編纂された『アドモント修道院年史』にはアルメニアにプレスター・ジョンの国が存在すると書かれていた[25]。 1219年のチンギス・カンのペルシア侵入後まもなく、キリスト教徒であるタルタリー王ダヴィドが東方のキリスト教徒の援護に向かうといった、恐らくはネストリウス派のキリスト教徒によって作り上げられた噂が広まった[26]。話の中ではチンギス・カンがイスラエル王の子でジョン王の孫にあたるダヴィデ王に擬せられており、中央アジア、ペルシアのイスラーム教徒に勝利を収め、シリア・エジプトのキリスト教徒の救援に向かっていると伝えられていた[26]。ダヴィデ王の治める中央アジアのキリスト教国こそがプレスター・ジョンの国ではないかと噂された[21]。1219年、キリスト教勢力の支配下にあるシリアの都市アッコの司教ジャック・ド・ヴィトリーは説教の中で、「二つのインドの王」ダヴィデがイスラーム教徒と戦うキリスト教徒の援軍として現れることを説いた[27]。1221年には、アッバース朝の首都バグダード近郊にダヴィデ王の率いる軍隊が現れた報告がキリスト教世界にもたらされる[28]。同年に実施された第5回十字軍に際して枢機卿ペラギウスと騎士修道会はこの噂を吹聴し、中東への新たな援軍の派遣を要請した[29][30]。 12世紀におおよその内容が形成されたプレスター・ジョンの伝説は、13世紀に入ると写本作家、アジアから帰還した旅行者の見聞録によってより誇張されていく[1]。プレスター・ジョンはヨーロッパ世界の探求心を刺激し、多くの探検家が派遣されたことでより現実に即したユーラシア大陸、アフリカ大陸の地図が作成されるようになる[31]。 アジアから帰還した旅行者の報告[編集]
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