Month: August 2019

北海道札幌星園高等学校 – Wikipedia

北海道札幌星園高等学校(ほっかいどう さっぽろせいえんこうとうがっこう、Hokkaido Sapporo Seien High School)は、かつて北海道札幌市中央区南8条西2丁目にあった市立高等学校。校舎は現在、市民活動プラザ星園[1]として使用されている。 1925年(大正14年) – 札幌市立実業女学校として創立(南10条西3丁目、札幌市立高等女学校〈現・北海道札幌東高等学校〉に併置)[2]。夜間本科、修業2年[3]。 1957年(昭和2年) – 学則改正により夜間女子本科修業3年となる[3]。 1933年(昭和8年) – 学則改正により女子本科修業2年、高等科修業1年、専修科修業1年となる[3]。 1935年(昭和10年) – 青年学校令により公立青年学校札幌市立実業女学校と改称。夜間女子本科修業2年、専修科修業1年となる[3]。 1941年(昭和16年) –

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第84回天皇杯・第75回皇后杯 全日本総合バスケットボール選手権大会 – Wikipedia

第84回天皇杯・第75回皇后杯 全日本総合バスケットボール選手権大会(だい84かいてんのうはい・だい75かいこうごうはい ぜんにほんそうごう―せんしゅけんたいかい)は、2009年1月1日から12日まで国立代々木競技場第一・第二体育館と東京体育館で開催された全日本総合バスケットボール選手権大会である。 出場チーム[編集] 男子[編集] JBL JBL2 学生 社会人 高校 地方ブロック 女子[編集] WJBL 学生 社会人 高校 地方ブロック 試合結果[編集] A~D:東京体育館A~Dコート Y1:代々木第一体育館

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野狐 – Wikipedia

竹原春泉画『絵本百物語』より「野狐(のぎつね)」。本項の野狐(やこ)、または野干を描いたものとされる[1]。 野狐(やこ)は日本に伝わる狐の妖怪。普通の野生の狐、人間を化かしたりする狐、神格を持たない狐などを差して野狐と称する。野犴(やかん[2])と表記する場合も室町時代以前にはある。野狗(やこ・やく)、野狛(やこ)の字をあてられることもある。「狗」も「狛」も当時では犬の類といった意味。 人間を化かす狐たちのことである。『人国記』(16世紀頃)には和泉国の信太明神(大阪府)に野狐が多くおり、それが人をたぶらかしていたという文が見られる[3]。 何かに化けてひとを驚かしたり、まぼろしを見せたりして人を化かしたりする存在として民間に流布している狐たち(妖狐の項目も参照)はおおよそ、この野狐に該当しているといえるが、キツネと呼称されることがほとんどであり、あえてヤコと表現される場合はそう多くはない。野狐という表現が用いられるのは主としてそれとは別の狐(信仰されるような存在)との対比が意識される場合であることが多い。江戸時代、野狐は狐たちの間の最低層位にあたる存在の呼称であるとされ、皆川淇園『有斐斎箚記』に収められた当時の宗教者が語った狐の階級も、高いものから天狐・空狐・気狐・野狐の順であげられており、階級としては一番低い[4]。また、江戸時代の随筆『宮川舎漫筆』では、狐が語ったという話として、狐は大きく分けて善狐と野狐の2種がおり、前者は人に対して善であり後者は悪をなすものであると説かれている。これらの説も、天狐や善狐など、一般的なキツネとは違ったものとの対比をとるために「野狐」という区分が設けられたものであるといえる。 野狐憑き[編集] 九州地方を中心にキツネに憑かれること(憑物・つきもの)を「野狐憑き」(やこつき)という。「野狐」の意味は上述したように明確な神格を持たない狐などを差していると考えられる。 憑物として表現される際の「野狐」の姿は伝承ごとにほぼ一致しており、その姿や性質は、管狐や飯綱、オサキなど同類の伝承と近似・類似している。実在のキツネと違って色が黒いとも白いともいい、ネズミより少し大きい、あるいはネコよりも小さいとされ[5]、本来の野狐は目に見えないともいう[6]。長崎県平戸市周辺では、野狐が常に大勢連れ立って歩くといわれることから「ヤコの千匹連れ」という言葉もある[5]。 長崎県や佐賀県などの北部九州では、野狐に憑かれた者は病気のような症状が現れるといわれる[7]。壱岐島ではヤコオともいい、イタチに似たもので、これが人の脇の下に潜むとその人はヤコオに憑かれるという。ヤコオに火傷の傷跡や疱瘡(天然痘)を嘗められると死ぬといわれていたため、疱瘡を患った者はヤコオを寄せつけないように蚊帳の中に入り、周囲に麻殻の灰をまくか、または刀剣を置いて野狐が中に入ることを防いだ[5][6]。 南九州では家筋に野狐が憑くとされ、野狐を飼っている(野狐の憑いている)家筋はその後も代々憑き、養いきれなくなると牛馬に憑くこともあるという[5]。野狐持ちの家の人は、野狐をけしかけて仲の悪い者に憑けるといい、鹿児島県揖宿郡喜入町(現・鹿児島市)ではこれに憑かれると半病人のようになってしまうといわれていた[5]。 参考文献[編集] 宮川政運『宮川舎漫筆』 (『日本随筆大成』第1期 第16巻〈新装版〉 吉川弘文館 1994年 ISBN 4642090169 ) 関連項目[編集]

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木崎 (新潟市) – Wikipedia

木崎(きざき)は、新潟県新潟市北区の町字。郵便番号は950-3304[2]。 1889年(明治22年)から現在の大字。新発田川下流域に位置する[4]。 もとは1876年(明治9年)から1889年(明治22年)まであった木崎村の区域の一部で、1876年(明治9年)に内島見興野が改称して成立した[4]。 隣接する町字[編集] 北から東回り順に、以下の町字と隣接する。 この節の加筆が望まれています。 内島見興野(うちしまみにしこや) 1730年(享保15年)の新発田藩による阿賀野川の松ヶ崎開削、翌年の松ヶ崎本流化により、新発田の宝光寺が新発田藩から寄進された島見前潟を開発して成立[5]。 1737年(元文2年)に検地を受け、はじめは木崎新田と称した[5]。 年表[編集] 世帯数と人口[編集] 2018年(平成30年)1月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 小・中学校の学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6]。 番地 小学校 中学校 1番地~998番地11006番地21014番地4~3434番地13436番地6、3442番地3、3449番地3456番地7~3469番地13471番地2~3500番地43679番地1~4005番地14443番地5~4515番地5447番地~5516番地 新潟市立木崎小学校 新潟市立木崎中学校

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美凶神YIG – Wikipedia

『美凶神YIG(びきょうしんいぐ)』とは、菊地秀行による日本の伝奇小説。1996年に開始し、刊行が止まっていたが2018年に完結した。 出版と完結の経緯[編集] 1996年に光文社カッパ・ノベルスから2巻が刊行され、2000年と2001年に光文社文庫から2巻が刊行されたが、完結していなかった。カッパ・ノベルス版の刊行から22年後の2018年には、創土社のクトゥルー・ミュトス・ファイルズから、書き下ろしを加えて新装版上下巻で刊行され完結した[1]。 もともとは単に『YIG』というだけのタイトルであったが、2巻にて『美凶神YIG 2』と変更された。 「 始祖ラヴクラフトや後の追随者とは全く別の、いわば菊池流クトゥルー神話とでもいうべきものが誕生しそう 」 — (『美凶神YIG 2』著者のことばより) 旧支配者が復活したらやばいとは言われているが、やばいので防がれてしまうのが、ラヴクラフトやオーガスト・ダーレスのストーリーであった。だがロバート・ブロックは『アーカム計画』でカタストロフを起こしてしまった。本作は、旧支配者の復活から10年後の近未来(執筆当時)を舞台に、人類と邪神の戦いが描かれている。また、菊地はクトゥルフとヨグ=ソトースを敵対者同士とすることが多く、本作でも同様である。 構成は、旧版が1巻5章、2巻5章(新版の10章まで)。新版は、上巻1-7章、下巻8-14章。 クトゥルー 海底の旧支配者で、イカに似た頭部を持つ。ラヴクラフトが『クトゥルーの呼び声』で言及した邪神。人類を滅ぼして、地球を支配したいと考えている。 ヨグ=ソトホース 異次元の旧支配者。ラヴクラフトが『ダンウィッチの怪』で言及した邪神。人類を滅ぼして、地球を非物質宇宙へと持っていきたいと考えている。 ネクロノミコン(死霊秘法) アブドゥラ・アルハズレッドが記した書物。ラヴクラフトの『ダンウィッチの怪』を信用するなら、怪物の撃退法が書かれているらしく、世界中の諜報機関が探し求めている。 ラヴクラフトの著書には公的機関に何冊か収蔵されていると書かれているが、作中現実では「あるかもしれない」幻の文献。ただ1冊がミスカトニック大学にあるが、誰にも読むことができない。「金庫に300年間封印中で、外から無理に取り出そうとすると内側から爆破焼却される」状態となっており、この1冊は詰んでいる。 瑠々井栄作が1冊持っており、キーアイテムとなっている。

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前後即因果の誤謬 – Wikipedia

前後即因果の誤謬(ぜんごそくいんがのごびゅう、ラテン語: post hoc ergo propter hoc、英: post hoc[1])とは、ある事象が別の事象の後に起きたことを捉えて、前の事象が原因となって後の事象が起きたと判断する誤謬(因果の誤謬)である。前後関係と因果関係の混同。相関関係の順序があまり重視されない「虚偽の原因の誤謬」とは微妙に異なる。 前後即因果の誤謬は、時系列に因果関係があると見なす点で誤りとなる傾向がある。誤謬は、因果関係を否定するような他の要因を無視し、事象の順序だけに基づいて結論を導くことで生じる。身近なところでは、迷信や呪術的思考の多くはこの誤謬に分類される。 前後即因果の誤謬は以下のような形式で表せる。 A が発生し、その後 B が発生した。 従って、A が原因となって B が起きた。 B が好ましくない事象である場合、この形式を逆転させることが多い。すなわち、「B

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高低アクセント – Wikipedia

高低アクセント(こうていアクセント、英: pitch-accent)またはピッチアクセントとは、アクセント(すなわち語あるいは形態素の中の1音節が他の音節よりも卓立していること)の一種で、アクセントの置かれた音節が、強勢ではなく音の特定の高低配置により指定されるものを言う。標準中国語のような声調言語ではそれぞれの音節が独立の音調(トーン)を持つことができ、高低アクセントと対照をなしている。高さアクセント[1][2]あるいは高アクセント[3]とも。 高低アクセントを持つとされる言語には、セルビア・クロアチア語、スロベニア語、バルト語派、古代ギリシア語、ヴェーダ語、トルコ語、日本語、ノルウェー語、スウェーデン語、西部バスク語[4]、ヤキ語(英語版)[5]、朝鮮語の一部の方言、上海語がある。[6] 高低アクセント言語は二種類のカテゴリーに分けられる傾向にある。一つはアクセントの置かれた音節が持つ高低配置(例えば「高」、あるいは「高-低」)が一種類のもので、東京の日本語や西部バスク語、ペルシャ語などが該当する。もう一種類はアクセントの置かれる音節が持ちうる高低配置が二種類以上あるもので、パンジャーブ語、スウェーデン語、セルビア・クロアチア語などが該当する。後者のカテゴリーでは、アクセントの置かれた音節は同時に強くも発音される場合もある。 高低アクセント言語とされる言語のなかには、アクセントを持つ語だけでなく、アクセントの置かれない語を持つ言語もある(日本語、西部バスク語など)。他の言語では、すべての主要な語にアクセントが置かれる(ブラックフット語、Barasana-Eduria語など)[7] 。 一部の研究者は、「高低アクセント」という類型は存在しないと主張している[8]。 「高低アクセント」という術語は、上記とは異なる用法もある。すなわち語句内の音節または拍(モーラ)にプロミネンスを与えるときに音高を用いることを指すこともある[9]。 以下で用いているトーン記号は次の通り。á:高、ā:中、à:低、â:下降、ǎ:上昇。アクセントの置かれる音節を太字(a)で示している。 高低アクセントの特徴[編集] 定義[編集] 学者らは高低アクセントに様々な定義を与えている。典型的な定義は以下の通りである「高低アクセントシステムとは、同じ語の中で一つの音節が他の音節よりも卓立し、この卓立が音高により実現されるシステムである」(Zanten and Dol (2010))[10]。すなわち、高低アクセント言語では強勢アクセント言語と同様、単語をどう発音するかを示すには、語中のどの音節(一音節のみ)にアクセントが置かれるかを示すことが必要であり、全ての音節のトーンをいちいち明示する必要はない。この、語または形態素の中に卓立する音節が一つだけある特徴は、”culminativity”(仮訳:頂点性)として知られる[11]。 高低アクセント言語を強勢アクセント言語と区別する他の特性として以下が提唱されている「高低アクセント言語は、アクセントの置かれた音節が「一様で不変の音調曲線」を持つという基準を満たさなければならない。純粋な強勢アクセント言語では、この点が異なり、強勢の置かれた音節の音調曲線は非常に自由に変化しうる」(Hayes (1995))[12]。この特性は多くの高低アクセント言語に当てはまるが、例外もあり、例えばフランク語方言では肯定文と疑問文となどではアクセントに伴う音調が異なる[13]。 他に提唱されている説によれば、高低アクセント言語はアクセントの置かれた音節を示すのに「F0だけを用いることができる」(F0とは音高である)が、強勢アクセント言語では他に長さや強さも用いる場合がある(Beckman)[14]。しかし他の学者らはこれに同意せず、高低アクセント言語で強さや長さにも役割がある場合があることを知っている[7]。 強勢アクセント言語の特徴として考えられているものの一つに、強勢アクセントは「義務的」である、すなわち全ての主要な語にアクセントが置かれる、という点がある[15] 。これは高低アクセント言語では必ずしもあてはまらず、例えば日本語や北部ビスカヤ・バスク語では、アクセントの置かれない語がある。ただしすべての語がアクセントを持つ高低アクセント言語もある[7]。

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イワキアブラガヤ – Wikipedia

イワキアブラガヤ Scirpus hattorianus Maikino, 1933. はカヤツリグサ科の植物の1つ。日本の福島県で発見され、後に北アメリカで見つかった。ただし日本ではその後の記録がなく、現在では一時的な帰化によるものと考えられている。 大柄な草本[1]。花茎は多少肥厚しており、高さが1mを越える。表面は滑らかで、葉がある。花茎から出る葉は長さ20-30cm、幅8-10mmで、線形で扁平、基部には長さ4-5cmの鞘がある。 花序は花茎の先端に生じ、長さ5-10cm。苞が2-3個あり、細くて葉状で、花序より長い。枝は表面が滑らかで、時に短い小枝を出す。小穂には柄がなく、8-40個が集まって頭状につき、広卵形で先端はやや鈍く尖り、長さは2-2.5mで灰黒色を帯びる。鱗片は長さ1mm、先端はごく鈍く尖る。痩果は長さが鱗片よりわずかに短く、淡い色で楕円形、断面は偏3稜形となっている。花被に由来する刺針は4-5個で、非常に細く、直立しており、上部にはわずかな小刺針がある。刺針の長さは痩果とほぼ同じかやや短い[2]。葯は長さ0.7mm。 日本では福島県で発見され、その後に滋賀県など数カ所から報告された[3]。しかしその一部は誤同定とされ、また最初の発見地を含めてその後の記録がない。後に北アメリカから発見され、東部地域に広く分布していることが明らかになった。後述のように日本の記録は一時的な帰化によるものと考えられる。 本種は当初日本で発見されたが、後に北アメリカで東部にこれと区別できないものが広く分布していることが判明し、1967年にそれに対しても本種の学名が当てられた[4]。 本種は北アメリカ産のセフリアブラガヤ S. geogrianus によく似ており、同一種と考えられたこともあるが、現在では別種との判断が普通である[5]。本種との違いとしては、この種では刺針がないか、あっても1-3しかなく、また痩果に比べてかなり短い。 セブリアブラガヤは1980年に福岡の背振ダム周辺で最初に見つかったことでこの名があり、のちに栃木、神奈川などで発見されている[6]。 本種は1925年に服部保義が採集し、その標本に基づいて牧野富太郎が1933年に記載した[7]。この時点では発見地についてはIWAKIとのみ記されていた。後に実際の発見地は、磐城国(福島県の太平洋側である浜通り地方)ではなく、岩代国(同県の日本海側である会津地方)の耶麻郡磐梯町大寺および会津若松市湊町赤井戸ノ口原であることが示された。しかしこの地ではその後に見られなくなり、少なくとも1955年以降には確認されていない。大井(1983)も「日本産かどうかに疑いがある」と記してある[8]。彼はさらに馬の飼料に混じって持ち込まれ、一時的に帰化したものとの判断を示しているという。黒沢他(2015)はそれらを精査し、本種の標本はいずれも当初の発見地付近のものか、それに由来する栽培品であったことを示した。牧野も自宅で栽培したものを元に多数の標本を作製していたという。これらとは別個のものと思われる滋賀県の標本は小穂が未熟なために種の判断が出来なかったという。このような結果からは本種が帰化かどうかはともかく、日本に存在したことは確かであるが、その分布域がきわめて狭い上に、時代的にもごく短期間に集中しているらしいとの判断を示した。 このようなことから本種は北アメリカと日本に隔離分布しており、日本では福島県の固有のものであるが絶滅した、との判断と、北アメリカ原産のものであり、日本での記録は一時的な帰化によるもの、との判断が両立していた[9]。この問題を明らかにするためには本種の分子系統的研究が必要だが、植物の乾燥標本では組織中のDNAの分断化や劣化が起きやすく、通常の分析に用いられるような試料が得られにくい。兼子他(2013)は劣化したDNAからも得られるような短い配列について検討を行い、以下のような結果を得た。 日本の本種の標本と北アメリカ産の本種とされるものとは塩基配列が一致すること。 本種を除く東アジア産の本属の種群と北アメリカ産のものとが異なる系統を構成するらしいこと。 この結果は日本産の本種は形態的にも遺伝的にも北アメリカ産のものと同一と見なすことが出来る、すなわち両者の隔離が起きてさほど時間が経過していないことを示し、また日本の本種は東アジアの他の種とは系統が異なること、つまり北アメリカの種群から産まれてきたものである可能性が高いことを示す。つまり古い時代に、例えばベーリング陸橋を経由してやってきた可能性を全く否定は出来ないものの、むしろより近い時代に北アメリカから持ち込まれた帰化種であると判断するのが妥当である、としている。

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珠算名人位決定戦 – Wikipedia

珠算名人位決定戦(しゅざんめいじんいけっていせん)は、日本珠算連盟が主催する珠算界の最高峰を決定する珠算の競技会である。勝者には「珠算名人」の称号が与えられる。 参加資格[編集] (2021年名人位決定戦現在) 競技方法[編集] (2008年名人位決定戦現在) 1.予選(1回戦) 前回名人を除く参加者で次の順で7種目を制限時間内に行い、1種目100点満点で採点し700点満点の合計点の上位31名を選ぶ。問題の程度(いずれも紙に印刷してあり、答えを3桁ごとのカンマつきの数字で書く) 種目 問題数 制限時間 問題例 かけ算 20題(無名数1~10問目、名数11~20問目) 3分 521,904×72,951=729.51×495.194= 法実合わせて11桁の問題、小数が出てくる問題が約半数、答えが小数の場合は、無名数問題は小数第4位未満、名数問題は円位未満を四捨五入する。 わり算 20題(無名数1~10問目、名数11~20問目 余りを出す問題2題) 3分 49,137,665,028÷746,308=0.707806÷0.896354= 法商合わせて11桁の問題、小数が出てくる問題が約半数、答えが小数の場合は、無名数問題は小数第4位未満、名数問題は円位未満を四捨五入する。また、2問だけ答えを整数で求め、余りを記入する問題がある。

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桑沢洋子 – Wikipedia

桑沢 洋子(くわさわ ようこ、1910年11月7日 – 1977年4月12日[1])は、20世紀の昭和時代に活動した日本のファッションデザイナー[2]。桑沢デザイン研究所および東京造形大学の創立者で、服飾から生活全般にわたる分野において「産業デザイン」を提唱した[3]。桑澤洋子と表記されることもある。 東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区)に出生。1928年に女子美術学校(現在の女子美術大学)師範科西洋部へ入学、1932年に卒業。1933年に新建築工芸学院へ入学しバウハウスの思想に触れた。写真家の田村茂と1934年に結婚するも、1951年に離婚。 新建築工芸学院の川喜田煉七郎に紹介され東京社の編集に携わる。1937年に婦人画報社(現在のハースト婦人画報社)の前身にあたる東京社へ入社。雑誌社でジャーナリズムに触れ女性の社会進出、職業婦人が活躍する将来に向け衣服による生活改善、勤め先に着ていける服装の制作を提唱した[4]。 1941年に服飾デザイナー伊東茂平のもとで洋裁技術を修行。翌1942年に東京社を退職し桑沢服飾工房を設立。服飾デザイナーとして活動を始める。 1945年、婦人画報誌などで服飾デザインについての執筆を開始。1948年に服飾デザイナーの職能団体「日本デザイナークラブ」の結成にメンバーの一員として参加する。多摩川洋裁学院長、女子美術短期大学(現在の女子美術大学短期大学部)講師を兼任。ファッションデザイナーとして産業的、機能的デザインを提唱した。 美術教育機関を設立することで服飾に関する相談や対応、デザイン全般の基礎教育、職能教育の具体的な提案ができると考え、1954年桑沢デザイン研究所を東京・青山に設立(同研究所は1958年に東京・渋谷へ移転)。ファッションデザイナーとして企業ユニフォームや学制服など多くを手がけた。 1966年、より高度な美術・デザイン教育機関として東京造形大学を東京・八王子に設立し学長に就任。東京造形大学設立時の教員には佐藤忠良、勝井三雄、竹谷富士雄などが集まった。東京造形大学学長、同大学理事長を歴任。バウハウスの理念を実践しデザイン史に広く功績を残した。1973年に藍綬褒章を授与。 主な著作[編集] 服装-色彩を中心として(朝日新聞社 1954年) 現代のアクセサリー(河出書房 1956年) ふだん着のデザイナー(ほるぷ総連合 1980年) 基礎教育のための衣服のデザインと技術(家政教育者 1966年)

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