Month: August 2019

スィートショップ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “スィートショップ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年1月) スィートショップ 出身地 日本 ジャンル J-POPロック 活動期間 1997年 – 2003年 レーベル ポリドール(1999年

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KAORU (プロレスラー) – Wikipedia

KAORU 2021.04.11撮影 プロフィール リングネーム KAORUインフェルナルKAORUDara 本名 前田 薫 ニックネーム ハードコアクイーン戦う美魔女人生ハードコア 身長 167cm 体重 63kg 誕生日 (1969-02-09) 1969年2月9日(53歳) 出身地 長崎県佐世保市 所属

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今宵、月が見えずとも – Wikipedia

「今宵、月が見えずとも」(こよい、つきがみえずとも)は、ポルノグラフィティの楽曲。2008年12月10日にSME Recordsより27作目のシングルとしてリリースされた。 概要 前作『Love,too Death,too』から約2ヶ月ぶりのリリース。 ベストアルバム『PORNO GRAFFITTI BEST ACE』『PORNO GRAFFITTI BEST JOKER』リリース後初の作品[1]。2008年5作目となるシングル作品で、3rdシングル『ミュージック・アワー』以来約8年ぶりに表題曲のオフボーカルバージョン(Instrumental Track)が収録された。一方でポルノグラフィティのシングル作品としては初めてカップリング曲未収録となっている。 初回生産限定盤と通常盤の2形態でのリリース。初回生産限定盤の特典はスペシャルブックレット、オリジナルピック、BLEACHオリジナルワイドキャップステッカー、BLEACHオリジナル一護×ルキア両面カレンダー。また、両盤ともに期間限定でポルノグラフィティ×BLEACH特製カバー付PSPが当たる応募ハガキが封入。 初動売上のみで同年リリースのシングル『痛い立ち位置』『ギフト』『Love,too Death,too』の3作それぞれの累計売上を上回り、2週目で「あなたがここにいたら」の累計売上を上回って、2008年リリースのシングル5作の中で初動・累計共に最高の売上を記録した。また、累計売上が10万枚を突破したのは『リンク』以来、2週連続TOP3入りは『ハネウマライダー』以来で、3年ぶりにオリコン年間シングルランキングTOP50入りを果たした。 収録曲 今宵、月が見えずとも 作詞:新藤晴一 作曲:岡野昭仁

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恋するアンチヒーロー – Wikipedia

『恋するアンチヒーロー』(こいするアンチヒーロー)は、羽仁修作の日本の演劇である。2012年に羽仁の劇団・演劇集団イヌッコロの第5回公演として上演された。その後は演劇集団イヌッコロによる再演の他に、それ以外の団体によっても再演が重ねられている。戦隊ヒーローにおける「悪の秘密結社」側を主人公とするラブコメディで、カフェを舞台としたワン・シチュエーション・コメディである[1]。2019年に映画化作品『恋するアンチヒーロー THE MOVIE』が公開された。 あらすじ[編集] ごく普通の青年である真中は、就職活動に失敗して何となく読んだ求人雑誌に載っていた募集を見て、世界征服を企てる悪の秘密結社・シャムニャーンの戦闘員になった。しかし世界征服と言う野望を持っているわけではない真中は、仕事が面白くなくシャムニャーンを辞めたいと思っている。 真中より先にカフェに来た同僚の新田と佐々木は、真中が女性店員2人のどちらを好きなのだろうかと詮索している。美人の菜々ではなく、「10人中9人が選ばない」容姿の美樹が、じろじろと見てくる新田たちが自分に好意があると勘違いして高飛車な態度をとる。真中が恋しているのは菜々の方だ。菜々はシャムニャーンと敵対する正義のヒーロー・ガルルンジャーの大ファンである。菜々の気を引きたい真中は、自分はガルルンジャーの一員・ガルグリーンだと嘘をつく。新田と佐々木、そして偶然カフェにやってきたシャムニャーンの怪人・ヘルタイガーと話を合わせて、ガルルンジャーとして菜々の前でヘルタイガーを倒す姿を見せる、という芝居を打つ計画を立てた。 カフェにガルレッドとガルピンク、ガルブルー、ガルイエローの4人がやってくる。菜々が真中をガルグリーンと呼んだことが4人に聞こえた。真中はレッドたちに問い詰められるが、ピンクがレッドに「前のグリーン、あなたと私がボコボコにしちゃって辞めちゃったじゃない?それで新しい子が入るって上から聞いた気がする」と言い、それに話を合わせる。女癖の悪いレッドは、菜々ではなく美樹に好意を寄せた。真中たちも自分が好きだと勘違いしている美樹は、皆に「王様ゲーム」で決着をつけるように言う。ゲームは殴り合いに発展する。レッドはシャムニャーン自体を窮地に追い込む圧倒的に強いヒーローであるが、横暴で、かなり難のある人物である。ピンクとレッドは恋人同士であるが、レッドの女癖の悪さにピンクは強がって気にしていないふりをしている。 そこへヘルタイガーが再び現れて、茶番劇の計画を話してしまい、真中たちの嘘がばれてしまう。レッドは佐々木と新田をボコボコに打ちのめして、真中に「こいつらにとどめを刺せ。そうすれば本当にガルグリーンとして迎え入れてやる。」と要求するが、真中は仲間に手を出すことが出来ずに、レッドにボコボコにされてしまう。立ち上がった新田が、自分は元ガルグリーンだ、覚えていないのかと問いただして、「仲違いばかりしているガルルンジャーに嫌気がさして辞めたんだ、シャムニャーンで本当の仲間を見つけたんだ」と、レッドに戦いを挑むがあっさり負けてしまう。しかし、レッドに対する不満が積もっていたイエローとピンクの反撃に遭い、レッドは仲間に倒されてしまう。真中の嘘はばれてしまったが、彼らの友情に感動した菜々はシャムニャーンの大ファンになった。 2012年 初演は演劇集団イヌッコロの第5回公演として、7月18日から22日までテアトルBONBONにおいて上演された。真中役は真山明大[2]。他に向野章太郎、加古臨王らが出演した。この年にイヌッコロが過去の公演を再演する「SHOW CASE」シリーズが始まり、その第1弾『イヌッコロ SHOW CASE ver.1「恋するアンチヒーロー」』として、11月8日から11日まで劇場HOPEにおいて再演された。再演の演出は森訓久。真中役は安達雅哉。ほかに渡辺隼斗、ウネバサミ一輝らが出演した[3]。 2014年 「SHOW CASE」の第2弾『イヌッコロ SHOW CASE ver.2

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ルナ (映画) – Wikipedia

『ルナ』(La Luna)は1979年のイタリア、アメリカ合作映画。 父と死別した少年とその母の旅路を通して、親子の交流を描くヒューマンドラマ。 ストーリー[編集] 突然の事故で夫を失った世界的オペラ歌手カテリーナは、思春期を迎えた息子ジョーを伴ってニューヨークから公演先のイタリアへ移り住む。仕事などが忙しく、息子の誕生日を忘れていた母親に背を向けたジョーは、麻薬に手を染める。禁断症状に苦しむジョーを前になすすべのないカテリーナは、息子を胸に抱き、その股間へと手を伸ばす……。カテリーナはジョーを連れて車でドライブに出かけるが、途中でケンカして置きざりにされてしまう。再会したジョーにカテリーナは実の父親の存在を話し、会わすことにする。ジョーはその男の職場を訪れた後、帰宅する彼の後を尾行していく。男は、自分の母親と共に海辺の家に暮らしていた。ジョーは自分の名を名乗らずに「あんたの息子は麻薬中毒で死んだ」と伝える。祖母はジョーを孫ではないかと気づく…..。 キャスト[編集] スタッフ[編集] 監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ 原案:フランコ・アルカッリ、ベルナルド・ベルトルッチ、ジュゼッペ・ベルトルッチ 脚色:ジュゼッペ・ベルトルッチ、クレア・ペプロー、ベルナルド・ベルトルッチ 英訳:ジョージ・マルコ 音楽:エンニオ・モリコーネ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 編集:ガブリエラ・クリスティアーニ 衣装:リーナ・ネルリ・タヴィアーニ 提供:フィクション・シネマトグラフィカS.P.A、20世紀フォックス 評論家ロジャー・イーバートは、ベルトルッチについて「ソープオペラとフロイト的症例(この二者はその性質上伝統的に対立する敵同士なのだが)を手に取り、力づくで交尾せしめた」として星2つをつけた[1]。 アンジェラ・カーターは、ジル・クレイバーグのパフォーマンスについて、ロンドン・レビュー・オブ・ブックスで「ジル・クレイバーグは、声帯によって偉大なヨーロッパの監督と共演する機会を掴み、生の生命力といった感のある印象的なパフォーマンスを見せた」と評した[2]。 ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、1979年9月7日付けの日記に「ベルトルッチの『ルナ』を見た。醜悪で、安っぽく、下品なゴミだ」と記した[3]。

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浮田幸吉 – Wikipedia

表具師幸吉の碑(岡山市旭川河畔) 浮田幸吉(うきた こうきち、1757年(宝暦7年)- 1847年(弘化4年)?)は、日本で初めて空を飛んだとされる人物。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)とも呼ばれる。 浮田幸吉墓(静岡県磐田市・大見寺) 江戸時代中期1757年(宝暦7年)備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。7歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う。 空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。 表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。 その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。 晩年は不詳で、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられている。墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」。 幸吉の飛行が事実であるならば、1849年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも60年以上早いが、幸吉もこの種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは9世紀から同様の実験家たちが存在した(下記リンク参照)。また、重航空機に限らなければ、有人飛行はモンゴルフィエ兄弟の熱気球によって幸吉の飛行の2年前の1783年11月に達成されている。 1997年(平成9年)(没後150年余り?)には旧岡山藩主池田家当主・池田隆政より、幸吉の岡山所払いが許されている。 幸吉を題材にしたフィクション[編集] 『鳥人』 1940年に公開された丸根賛太郎監督、嵐寛寿郎主演の映画。日活京都作品。 『鳥人伝』 新田次郎による小説。1956年、新潮社より発行の『氷原・鳥人伝』に収録。 『空飛ぶ表具屋』 筒井康隆による短編小説。『オール讀物』1972年5月号に発表。1972年に短編集『将軍が目醒めた時』に収録され、1976年に新潮文庫に。2002年からは新潮文庫『傾いた世界―自選ドタバタ傑作集 2』に収められる。

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ウィリアム・ワグスタッフ – Wikipedia

ウィリアム・ワグスタッフ ウィリアム・ワグスタッフ(英語: William Wagstaffe FRS FRCP、1683年/1684年 – 1725年5月5日)は、グレートブリテン王国の医師。1722年に天然痘の予防接種である種痘に反対したことで知られる[1]。 カブリントン(英語版)の教区牧師トマス・ワグスタッフ(Thomas Wagstaffe)の息子として、1683年/1684年にカブリントンで生まれた[2]。ノーサンプトンの学校に通った後[3]、1700年10月31日にオックスフォード大学リンカーン・カレッジ(英語版)に入学、1704年6月16日にB.A.の学位を、1707年5月5日にM.A.の学位を修得した[3][4]。 1707年にオックスフォードからロンドンに引っ越した[3]。ロンドンでは親族のトマス・ワグスタッフ(英語版)(イングランド国教会の元聖職者で、ウィリアム3世とメアリー2世への忠誠宣誓を拒否したため聖職を解任された人物[2])が王立内科医学会(英語版)から開業資格免許を取得しないまま医師業を開業しており、ウィリアム・ワグスタッフも医術に興味を持ち、トマス・ワグスタッフの娘と結婚するに至った[3]。ワグスタッフの娘がすぐに死去したため、ウィリアム・ワグスタッフは医師チャールズ・バーナード(英語版)の娘と再婚した[3]。 1714年7月8日にオックスフォード大学でM.B.およびM.D.の学位を修得した後[3]、1718年3月13日に王立協会フェローに選出された[5]。同年12月22日に王立内科医学会(英語版)のフェローに選出され、1720年に学会の監査官(censor、職務は開業資格免許を取得せずに開業する医師の取り締まり)に任命された[3]。1720年12月29日、ソールズベリー・ケイド(Salisbury Cade)の後任として聖バーソロミュー病院の医師(physician)に選出された[3]。 1725年3月、聖バーソロミュー病院に休暇を申請して、バースで休養したが、同年5月5日にそこで死去した[3]。 学究より社交を好んだため、貧乏になり、やがて気分もふさぎ込むようになったという[2]。 政治では高教会派トーリー党に属し、ヘンリー・サシェヴェレル(英語版)を賞賛した[3]。 ^ a b Cunningham,

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岡本直之 (財務官僚) – Wikipedia

岡本 直之(おかもと なおゆき)は、日本の財務官僚。内閣官房日本経済再生総合事務局次長や、内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官、初代財務省大臣官房政策立案総括審議官等を経て、国土交通省政策統括官。 人物・経歴[編集] 徳島県徳島市出身。徳島県立城南高等学校を経て[1]、1985年 東京大学法学部卒業、大蔵省入省[2][3]。理財局国有財産総括課配属[4]。関東信越国税局潮来税務署長等を経て[5]、1991年 横浜市企画財政局財政部財政課財政担当課長[2][3]。大蔵省関税局課長補佐、大蔵省理財局課長補佐[5]、独立行政法人日本貿易振興機構チューリヒ事務所長、財務省理財局国債企画官などを歴任し、2005年 農林水産省生産局畜産部畜産企画課畜産総合推進室長[6]。 2007年から長野県企画参事(知事特命担当)(部長級)として、北陸新幹線延伸に伴う交通政策などを担当した[6][2][3]。2009年 財務省主計局主計官(内閣、司法・警察、財務係担当)。2010年内閣官房行政改革推進本部事務局参事官[2][3]。 2012年 財務省理財局総務課長。2013年 財務省大臣官房審議官(理財局担当)[2][3]。2014年 内閣官房日本経済再生総合事務局次長。2016年 財務省大臣官房審議官(大臣官房担当)[2][3]。 2017年から内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官兼内閣府大臣官房審議官(経済財政分析担当)兼内閣府地方創生推進事務局次長を務め[2][3][5]、アベノミクスを地方にまで波及させるべく地域づくりに取り組むなどした。2018年 財務省大臣官房政策立案総括審議官兼大臣官房企画調整主幹(企画調整総括官)。2020年7月20日国土交通省政策統括官[7][8][2][3]。2021年財務省大臣官房付、退官、国務大臣秘書官[9]、テレコメディアアドバイザー、リアライズコーポレーション顧問、三井住友銀行顧問[10]。 大蔵省同期[編集] 大蔵省入省同期に、可部哲生国税庁長官、藤井健志内閣官房副長官補、矢野康治財務事務次官、岡村健司財務官、小部春美元財務総合政策研究所副所長、中島淳一金融庁長官、森田宗男金融国際審議官、中井徳太郎環境事務次官、中尾睦内閣官房TPP等政府対策本部国内調整統括官、野島透元財務省九州財務局長、岸本浩国立印刷局理事長、川嶋真造幣局理事長、田中秀明明治大学教授など。 ^

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ダニエル・アーランドソン – Wikipedia

ダニエル・アーランドソンDaniel Erlandsson アーチ・エネミー – ドイツ公演バックステージ (2016年8月) 基本情報 出生名 Daniel John Erlandsson 生誕 (1976-05-22) 1976年5月22日(45歳) 出身地  スウェーデンマルメヒュース県 マルメ ジャンル メロディックデスメタルデスメタルデスラッシュヘヴィメタルパワーメタルドゥームメタルゴシックメタルロックハードロックスラッシュメタルスピードメタルプログレッシブ・メタル 職業

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津田信澄 – Wikipedia

津田 信澄(つだ のぶずみ)は、安土桃山時代の武将。織田氏の連枝衆(一門衆)であるが、姓は津田を称し[2]、諱の初名は信重[2]といった。通称を七兵衛。近江大溝城主で、摂津大坂城代[注釈 7]。 尾張の戦国大名・織田信秀の三男・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。享年に諸説あり、このために生年は確定することができないが、織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。 弘治2年(1556年)に父・信勝は謀反の企てを起こして敗北し、永禄元年(1558年)に父は伯父(信勝の兄)・信長によって暗殺された[注釈 8]。しかしその子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された[4]。 『寛政重修諸家譜』等で、永禄7年(1564年)正月に元服して津田七兵衛信澄を称して津田氏[注釈 9]を名乗ったと記されているが[4][6]、これは誤りである[3]。 元亀2年(1571年)、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子となった[注釈 10]。磯野姓を名乗っていたかどうかは不明。天正2年(1574年)2月3日に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆の「御坊様」として出席し[3]、3月27日に信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取った際にも重御奉行の「津田坊」とまだ童名で呼ばれている[3]ので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかった可能性はある。 天正3年(1575年)7月、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍した。これが信澄の初陣であろうから、天正2年夏から翌年夏までの間に、信澄は元服したと推測される[3]。越前一向宗との戦いでは、柴田勝家・丹羽長秀と鳥羽城を破って、5、6百の一揆勢を斬った[注釈 11]。 同年9月25日、京から来た公家の吉田兼見を馳走して、信長への取次役を務めている[11]。10月27日、兼見が信長に礼参した際には、信澄が進物を披露した[3]。 安土城にある伝織田信澄邸跡(左)。大手道を挟んで伝森成利(蘭丸)邸と隣り合う。 天正4年(1576年)1月14日、信澄が高島郡より上洛した事が確認される[注釈 12]ので、磯野家の所領に住んでいたことがわかる。同年1月、丹波八上城の波多野秀治が離反したので、黒井城の戦いで苦戦する明智光秀の救援に赴援した[注釈 11]が、結局、光秀は退陣を余儀なくされた。 天正6年(1578年)2月3日、磯野員昌が信長の叱責を受けて突如高野山へ出奔したため、その所領・高島郡がそのまま信澄に宛行われ、新庄城から移って、明智光秀の縄張りで新たに城を築いて大溝城主となった[注釈 11][12]。高島郡領内の復興にも尽力して、大溝城下に、比叡山延暦寺の飛地境内にあって(信長による)兵火に焼けた大善寺の別院を建立してその開基となった[注釈

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