野球界の永久欠番 – Wikipedia
野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、野球の競技者・関係者などに対して適用される永久欠番について述べる。
野球界における永久欠番の歴史は1939年、MLBアメリカン・リーグのニューヨーク・ヤンキースでルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、不治の病とされのちに「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれる筋萎縮性側索硬化症で引退を余儀なくされたが、戻ってくるまで他の誰にも使わせずに開けておくとする事でチームに居続けることができるとして歓喜した[注 1]。
当初はあくまでもヤンキースという一つの球団によるゲーリッグ個人に対してだけの措置であったが[注 2]、ナショナル・リーグでニューヨーク・ジャイアンツが1944年にカール・ハッベルの11を永久欠番に指定し、ナショナルリーグ初の永久欠番となった事で、徐々に広がり各チームが永久欠番を導入していった。ドジャース、レッドソックス、アスレチックスなど多くのチームは、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。
1997年4月15日に20世紀以降での初の黒人選手としてメジャーリーグでプレー[注 3]し、その後の黒人選手がMLBでのプレーできる道を切り開いたジャッキー・ロビンソンを顕彰し、MLBはマイナーリーグを含めたMLB傘下すべてのチームで42をロビンソンの番号として永久欠番に指定した。ただし、この制度制定時に42を使っていた選手・コーチは引退するまで、チームを移籍した時も含めて、継続して42を使用することを認められた。制定当時は選手・コーチを含めて該当者が約20人程いたが、MLBで最後に42をつけた選手はヤンキースのマリアノ・リベラで、2013年シーズンを最後に現役を引退したことにより欠番の例外となる人物はいなくなった[注 4]。現在日本のプロ野球球団で、外国人選手が42を着けることが多いのはこのためである。
その他マイナー・リーグにおいても永久欠番が独自で制定されている[注 5]。
日本のプロ野球においてもかなり早い段階で導入している。読売ジャイアンツでプレーしていた黒沢俊夫が1947年6月23日に腸チフスにより33歳の若さで急死。それを受けて1947年7月9日に沢村栄治の「14」とともに「4」が日本プロ野球として初めて永久欠番に指定された。なおこの時点でMLBで永久欠番に指定されていたのは上述のゲーリッグの「4」とハッベルの「11」のみである[2]。
メジャーリーグベースボール(MLB)の永久欠番[編集]
日本プロ野球(NPB)の永久欠番[編集]
現在の永久欠番[編集]
- 解消した永久欠番
- 近鉄バファローズは鈴木啓示の現役引退を機に、1985年7月31日に1を永久欠番に指定[注 24]。その後2004年の近鉄とオリックスとの合併を受けて、鈴木本人がオリックス球団から背番号1をオリックスの永久欠番にする事を相談されたが辞退した[4]ため、合併先のオリックス・バファローズでは背番号1は永久欠番ではなくなった。新球団最初に背番号1を背負ったのは後藤光尊。
名誉番号(準永久欠番)[編集]
偉大な功績をあげた選手が退団する際、その功績を讃え着用していた背番号を「名誉番号」「準永久欠番」として、前任選手や球団の「預かり」という形で一定の期間空き番号としておく場合がある。MLBにおいては「Honored(Honoured) Number」と称されている。
名誉番号については、移籍によって退団した選手が再び球団に戻ってきたときに備えて欠番としておく場合や、その番号を「継承」するにふさわしい選手の台頭を待つことを目的とする場合、永久欠番とすることを検討したものの前任選手本人に固辞されたり反対意見があったりなどして正式決定に至らなかった時や、不慮の死などに見舞われた選手やコーチへの追悼の意味を込めてその背番号を凍結する場合などがある[5]。
また球団によっては、その「継承」に関して一般的な名誉番号とは一線を画す一定の明確な条件を持つ背番号も存在する(東京ヤクルトスワローズの1[注 25]など)。
継続中の名誉番号(通算5年以上のみ)[編集]
対象番号が現役球団関係者より「名誉番号」「準永久欠番」「欠番とする」と公式に表明され、かつ通算5年以上欠番状態が続く番号、もしくは長期間欠番状態が続く、事実上の永久欠番の番号を記載。
チーム | 番号 | 欠番対象者 | ポジション | 欠番期間 | 備考 |
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阪神タイガース | 6 | 金本知憲 |
外野手 | 2013年 – | 2012年の現役引退の際に永久欠番にすることが検討されたが、金本が固辞した事もあり見送られた[注 26][6]。 2016年~2018年の監督在任中に再び着用したが退任後は再び欠番となっている[7]。 |
オリックス・バファローズ | 51 | イチロー | 外野手 | 2001年 – | 2001年MLB移籍後、そのまま誰も使用しないまま、2019年シアトル・マリナーズで現役を引退。 それを受け、球団は改めて「事実上の永久欠番」としての扱いを継続する事を表明した[8]。 |
北海道日本ハムファイターズ | 11 | ダルビッシュ有 | 投手 | 2018年 – | 2012年のダルビッシュのMLB移籍後、1年空けて新入団の大谷へ継承された。 2018年の大谷のMLB移籍後、球団は「2人に匹敵するスター選手が登場するまで」として連名での欠番とする事を表明[9]。 2023年に開場予定の「ES CON FIELD HOKKAIDO」内の施設である『TOWER11』でこの2選手を称えている。 |
大谷翔平 | 投手・外野手 | ||||
86 | 大沢啓二 | 監督 | 1995年 – | 2010年に死去した際に永久欠番にすることも検討されたが[10] 「選手や監督らの恒久的な永久欠番を制定しない」という球団の方針で見送られるものの[11]、 現在も欠番状態が継続中である。なお東急・東映などの前身球団を含め球団史上86は大沢しかつけていない。 |
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福岡ソフトバンクホークス | 15 | 藤井将雄 | 投手 | 2001年 – | 2000年10月に現役のまま病死。その後も15を使用した選手は一人もおらず、 親会社がソフトバンクに変わった現在も欠番のままである[12]。 |
89 | 王貞治 |
監督 | 2009年 – | 2008年限りでの監督退任後、永久欠番化も検討されたが王本人が辞退[10]。しかしその後は長期間欠番状態が続いている。 | |
千葉ロッテマリーンズ | 26 | (マリーンズ・ファン) | その他 | 2005年 – | 2005年よりファンのための番号として事実上の永久欠番にしている。これはベンチ入り25人の選手に次ぐ「26番目の選手」の意味[13]。 試合中、ベンチには26のユニフォームが飾られており、ホーム開幕戦での始球式で登板した人物が着用することがある。 また、ロッテのファンクラブの名称も「TEAM26」である。 |
かつて欠番指定されていた番号[編集]
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- 55 – 松井秀喜(外野手)2003年 – 2008年、2014年 – 2021年
- 2003年MLBに移籍後、2009年から13年まで大田泰示が着用。その他の期間は、松井が2012年に現役を引退した後も欠番状態が続き[10]、2022年から秋広優人が着用することになった。
- 55 – 松井秀喜(外野手)2003年 – 2008年、2014年 – 2021年
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- 31 – 掛布雅之(内野手)2014年 – 2015年、2018年
- 1988年に引退した後、背番号については欠番に指定することなく萩原誠、広澤克実、濱中治、林威助の4人が着用していたが[注 27]、2014年に林威助の退団と同時に掛布がゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)として阪神に復帰したことを機として、掛布の後を継ぐに足る選手の台頭するまで31を凍結する方針を固めた[14]。2016年に掛布が二軍監督に就任した際に着用し、2017年シーズン限りでの退任後再び欠番となった後、2019年からはジェフリー・マルテが着用している[注 28]。
- 53 – 赤星憲広(外野手)2010年 – 2013年、2015年 – 2017年
- 赤星の引退は試合中の怪我による電撃的な引退であったこともあって欠番としていたが[15]、2014年途中に入団した投手の建山義紀が着用[16]。建山が同年限りで引退した後は再び欠番となり、2018年からは島田海吏に継承された[17]。
- 31 – 掛布雅之(内野手)2014年 – 2015年、2018年
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- 13 – 岩瀬仁紀(投手)2019年
- 2018年の引退後、「後継者にふさわしい選手が台頭するまで空き番号とする」こととなり1年間欠番となったが[18]、2020年からは橋本侑樹に継承された。
- 13 – 岩瀬仁紀(投手)2019年
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- 7 – 福本豊(外野手)1991年 – 1999年、2017年 – 2021年
- 引退後のコーチ・二軍監督時代の1989年から90年にも使用。退団後は特別な番号として2000年まで欠番状態が続き、2001年以降は2016年まで断続的に使用されていた[注 29]。その後、2017年から2021年まで再び欠番状態となり[19]、2022年から吉田正尚が着用。
- 7 – 福本豊(外野手)1991年 – 1999年、2017年 – 2021年
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- 2 – 城島健司(捕手)2006年 – 2009年
- 城島のMLBへの移籍と共に将来的な復帰を想定して凍結していた。しかし、2010年に城島がソフトバンクではなく阪神でNPBに復帰した事で球団として欠番指定を解除し、城島の出身高校の後輩に当たる今宮健太が着用[20][注 30]。
- 9 – 小久保裕紀(内野手)2004年 – 2006年
- 2003年シーズン終了後に巨人へ無償トレードした際に、将来的な復帰を想定して「監督預かり」としており[12]、小久保がホークスに復帰した2007年から引退する2012年まで再び使用した。引退後は3年間欠番になった後、2015年に柳田悠岐が継承した。
- 2021年にヘッドコーチとして復帰した際には、下記の経緯から過去に欠番扱いとされていた90を着用している。
- 2 – 城島健司(捕手)2006年 – 2009年
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- 3 – 大下弘(外野手)1960年 – 1967年
- 1959年限りで引退した際「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。またその際には大下選手の同意を求める」という当時の西亦次郎球団社長の意向で当分の間欠番としていたが[21]、 1968年に大下が古巣・東映フライヤーズの監督に就任し、さらに背番号3をつけた事で自ら背番号を返上、その年に中日から移籍した広野功が使用する事になった[注 31]。
- 6 – 中西太(内野手)1970年 – 1972年
- 1969年の引退後、相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、1972年暮れに西鉄から福岡野球株式会社(「太平洋クラブライオンズ」)への売却後に「もう新球団になったんだからいいじゃないか」と、当時の稲尾和久監督の推薦で菊川昭二郎(33から変更)が使用した。
- 3 – 大下弘(外野手)1960年 – 1967年
- (西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズ)
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- 27 – 伊東勤(捕手)2004年 – 2006年、2011年
- 前身の西鉄クリッパース→西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ時代から西武初期の1981年までは、もっぱら内野手および外野手(関口清治・田中久寿男・竹之内雅史・大原徹也など)が着用していたが、1982年に伊東が着用して以降は2018年まで捕手限定の背番号となっていた。
- 2003年の現役引退及び監督就任に伴い、自らが後継者として認める正捕手が出るまで欠番とした。その後、2006年に細川亨、細川の移籍後、1年の空白を置いて2012年に炭谷銀仁朗が継承。しかし、2019年に炭谷のFA移籍に伴う人的補償で巨人から加入した投手(2022年は投手コーチも兼任)の内海哲也がそのまま着用したため、現在は事実上捕手限定の背番号ではなくなっている。
- 27 – 伊東勤(捕手)2004年 – 2006年、2011年
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- 18 – 三浦大輔(投手) 2017年 – 2018年、2021年
- 2016年の現役引退時に、横浜ナンバーと称し「チームを牽引し象徴となるべき存在がつける番号」として、球団と三浦の双方の合意を得たふさわしい選手が出るまで欠番とした[22]。2019・20年に三浦自身がコーチ・二軍監督時代に着用したが、2021年の一軍監督就任と同時に81に変更。2022年から小園健太に譲った。
- 18 – 三浦大輔(投手) 2017年 – 2018年、2021年
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- 1 – 前田智徳(外野手)2014年 – 2018年
- 7 – 野村謙二郎(内野手)2006年 – 2012年
- 9 – 緒方孝市(外野手)2010年 – 2013年
- 20 – 北別府学(投手)1995年 – 2002年
- 4人共、引退時に球団の「名誉番号」として預かり番号の指定をされ、本人推薦の元で継承されたもの。
- 20は2003年に永川勝浩、7は2013年に堂林翔太、9は2014年に丸佳浩、1は2019年に鈴木誠也[23]にそれぞれ継承され、その役割を終えた。その後、9は丸の移籍で2019年から空き番となっている[注 32]。20は永川の引退・コーチ就任(74に変更)で2020年に一度空き番となった後、2021年からドラフト1位で入団の栗林良吏が着用することになった。なお、1については、鈴木がメジャーリーグ球団への移籍を目指してポスティング申請を行い、シカゴ・カブスに入団したため、2022年は空き番となる。
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- 6 – 宮本慎也(内野手)2014年 – 2020年
- 2013年で現役引退後、ふさわしい選手が出るまで欠番指定されたが、2021年から元山飛優が着用することになった。
- 8 – 大杉勝男(内野手)1984年
- 引退時の1983年11月9日に「保留欠番とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた」と発表[注 33]。1年の期間をおいて、1985年から広沢克己に継承された。
- 27 – 古田敦也(捕手)2008年 – 2021年
- 2007年での現役引退後、正捕手の番号[注 34]として、球団・古田本人のいずれかが推薦する捕手が出るまで欠番となっていた。2022年から中村悠平が継承した。
- 6 – 宮本慎也(内野手)2014年 – 2020年
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- 18 – 田中将大(投手)2014年 – 2020年
- 2014年にニューヨーク・ヤンキースに移籍したことで、「ふさわしい選手がでるまで欠番」扱いとなったが、2021年に田中の楽天への復帰が決まり、再び本人が着用することになった。
- 19 – 野村克也(監督)2010年 – 2016年
- 2009年限りで監督を退任した際に名誉監督というポストで永久欠番とすることが提案されたものの[24]、正式な発表がなされないまま欠番扱いの状態が続いた後、2017年から2021年まで藤平尚真が着用していたが[25]、2022年から46に変更した。今後の着用者は未定[注 35]。
- 18 – 田中将大(投手)2014年 – 2020年
その他[編集]
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- 90 – 景浦安武(外野手)1973年 – 2015年
- 景浦は水島新司の野球漫画『あぶさん』に登場する南海ホークスの架空の主力選手。
- 背番号90を着用していたことから、1973年の連載開始とともに連載に合わせる形で球団は南海からダイエーを経てソフトバンクに至るまで90を凍結していた。2014年の連載終了後、永久欠番にすることも考慮されていたが、水島の了解を得た上で2016年からロベルト・スアレスが着用[26]、40年以上にわたる欠番状態が解消された。スアレスの退団[27](その後阪神に移籍。阪神では75を着用)以降は再び欠番となるが、2021年シーズンからはヘッドコーチの小久保裕紀が着用している[28]。
- 90 – 景浦安武(外野手)1973年 – 2015年
韓国プロ野球(KBO)の永久欠番[編集]
韓国では、1986年にOBベアーズ(現・斗山ベアーズ)に捕手として在籍していた金栄伸の54を制定したことに始まる。
チーム | 番号 | 欠番対象者 | ポジション | 制定年月日 | 備考 |
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サムスン・ライオンズ | 10 | 梁埈赫 | 野手 | 2010年 | 韓国プロ野球初の2000安打達成者で、四球と敬遠の個人通算記録を所有する。 |
22 | 李萬洙 | 野手 | 2003年 | チーム一筋の捕手で韓国史上に残るスラッガー。三星ライオンズで22を使用した唯一の人物である。 | |
36 | 李承燁 | 一塁手 | 2018年 | 韓国最年少で300本塁打とシーズン56本塁打のアジア記録(当時)を樹立。 2004年に千葉ロッテマリーンズ移籍により指定。 2012年、チーム復帰により再使用し、2017年限りで現役を引退した。 |
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ロッテ・ジャイアンツ | 11 | 崔東原 | 投手 | 2011年 | 1984年韓国プロ野球最優秀選手、韓国シリーズ4勝記録。通算103勝26セーブ、1019奪三振記録。 2011年9月14日に大腸癌のため53歳で逝去。同月30日に指定。 |
LGツインズ | 9 | 李炳圭 | 外野手 | 2011年 | LGツインズ史上初めて通算2000安打(韓国プロ野球のみの記録)を達成。 「赤兎馬」のニックネームで看板打者として活躍。 |
41 | 金龍洙 | 投手 | 2011年 | 通算227セーブ、251セーブポイントはともに当時の韓国記録。 | |
斗山ベアーズ | 21 | 朴哲淳 | 投手 | 2002年 | 長年チームを支えたエースで、韓国プロ野球初年度に樹立した22連勝は韓国記録。 |
54 | 金栄伸 | 捕手 | 1986年 | ロサンゼルス五輪に韓国代表で出場経験を持つ期待の若手捕手であったが、 1986年に水難事故により逝去。これをきっかけに韓国球界初の永久欠番に指定された。 |
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起亜タイガース | 7 | 李鍾範 | 内野手 | 2012年 | ヘテ・起亜の主力選手としてのみならず、中日ドラゴンズやWBC韓国代表でも活躍した。2012年4月、引退を機に指定。 |
18 | 宣銅烈 | 投手 | 2002年 | 韓国史上最高投手と呼ばれ、1999年の中日ドラゴンズでの現役引退後、欠番となっていた。 2001年途中のヘテからの身売りの際に「宣銅烈の18を返上、新人投手に与える」と発表したが、 猛反発を招き撤回を経て、2002年1月28日に正式に指定。 |
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ハンファ・イーグルス | 21 | 宋津宇 | 投手 | 2009年 | 21年間韓国プロ野球で活動。通算最多である3003イニング、210勝、2048奪三振記録。 2009年9月22日に指定。 |
23 | 鄭珉哲 | 投手 | 2009年 | 宋津宇に次ぐ通算記録2位の161勝を挙げる。読売ジャイアンツにも在籍。 引退と同時に宋津宇と共に指定。 |
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35 | 張鍾勲 | 内野手 | 2005年 | 3シーズン連続本塁打王(1990 – 1992)、通算340本塁打を記録。 テスト生から這い上がったその生い立ちは「練習生神話」と呼ばれた。 2005年9月15日の引退試合と共に指定。 |
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52 | 金泰均 | 一塁手 | 2021年 | チームの4番打者として長らく活躍を続け、通算長打率4割2分1厘は韓国記録。 千葉ロッテマリーンズにも在籍。2020年の引退後に指定。 |
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SKワイバーンズ | 26 | 朴勍完 | 捕手 | 2014年 | サンバンウル・レイダース、現代ユニコーンズ、そしてSKワイバーンズの正捕手として韓国球界最長の23年間選手生活を続けた。 2014年4月、引退を機に指定。 |
台湾プロ野球(CPBL)の永久欠番[編集]
チーム | 番号 | 欠番対象者 | ポジション | 制定年月日 | 備考 |
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中信兄弟 | 67 | 曽紀恩 | 監督 | 2012年 | 初代監督。球団社長も務めた。2012年3月25日指定。 |
富邦ガーディアンズ | 85 | 徐生明 | 監督 | 2013年 | 台湾史上初の700勝を挙げる名監督であったが、2013年前期優勝の後、後期の試合後に心筋梗塞で急逝。 |
2012年シーズン前に、中信兄弟の前身である兄弟エレファンツの林易増の4(2001年~)、王光輝内野手の26(2008~)、統一ライオンズの曽智偵捕手の10(1999~)の永久欠番指定を一斉に解消している。その後兄弟エレファンツは2012年3月25日に初代監督である曾紀恩の番号「67」を改めて永久欠番を制定。
同じく富邦ガーディアンズの前身である、興農ブルズ時代に10がファンの番号、17が黄忠義二塁手の番号として2009年に永久欠番に指定されていたが、2012年に義大ライノズに買収された際にチーム一新として消滅した。
日本の独立リーグの永久欠番[編集]
四国アイランドリーグplus、ベースボール・チャレンジ・リーグ、北海道フロンティアリーグでも永久欠番を制定している球団が存在する。また、日本独立リーグ野球機構(IPBL)に所属していないが、関西独立リーグ(旧・BASEBALL FIRST LEAGUE)と日本海オセアンリーグの球団についてもここで取り扱う。
四国アイランドリーグplusの永久欠番[編集]
- 高知ファイティングドッグス
- 愛媛マンダリンパイレーツ
- 77:弓岡敬二郎(監督)[32] 2016年11月25日
- チーム初のリーグ総合優勝、独立リーグ日本一、前後期優勝とリーグ総合優勝を合わせた完全優勝を達成。2016年監督退任並びにオリックス・バファローズへのコーチ復帰時に永久欠番に指定された。2022年から監督に再任するに当たって再び着用している[33]。
ルートインBCリーグの永久欠番[編集]
- リーグ全球団
- 10
- リーグ発足前年、急死した新潟県在住の少年野球選手が生前「新潟のプロ野球球団を応援したい」という思いを抱いていたことを遺族の手紙でリーグ創設者の村山哲二が知り、それを励みにリーグを実現させたことから、少年が所属していた野球チームでキャプテンが使用する番号(少年が付けることを望んでいた)をリーグ全球団の永久欠番としている[34]。リーグ発足当初は新潟アルビレックス・ベースボール・クラブだけが永久欠番としていた[35]。2014年の時点では欠番に指定していたのは新潟と信濃グランセローズであった[36]。この段階では10番を付けた選手が在籍する球団があったが、2015年の開幕前に石川ミリオンスターズ[37]および群馬ダイヤモンドペガサス[38]の該当選手が番号を変更したことで、このシーズンよりリーグに10番の選手はいなくなった[39]。その後、リーグから西地区4チームが離脱して日本海オセアンリーグを結成した(2022年からリーグ戦開始)が、同リーグはこの番号の扱いについて明確にしていない(2022年シーズン開幕時点のロースターでは10番を付ける選手は在籍していない[40])。
- 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ
北海道フロンティアリーグの永久欠番[編集]
- 士別サムライブレイズ
- 10
- 「応援してくれる皆様の番号」としてサポーターズNo.に指定されている。
日本海オセアンリーグの永久欠番[編集]
- 石川ミリオンスターズ
- 12:木田優夫(投手) 2014年9月14日
- プロ野球選手として実働26年、56試合の独立リーグ最多登板を記録。独立リーグ日本一に貢献。
- 34:森慎二(監督・コーチ・投手)[41] 2017年9月2日
- 監督としてチームを初の独立リーグ日本一に導く。2017年、西武コーチ在任中に急逝し、永久欠番指定された[41]。
さわかみ関西独立リーグの永久欠番[編集]
- 兵庫ブレイバーズ
- 17:山川和大(投手)[42] 2016年12月28日
- 2016年のドラフト会議で巨人に育成選手指名され、入団決定。その後、山川は2022年に兵庫に復帰したが、背番号は前回所属時とは異なる30を使用する[43]。
- 27:薬師神真之(内野手)[42] 2016年12月28日
- 2016年のシーズン中に現役のまま急逝[44]。「活躍、ならびに志と高い人間性に敬意を表して」決定された[42]。
- 50:向谷拓巳(内野手)[42] 2016年12月28日
- 2016年のドラフト会議で楽天に育成選手指名され、入団決定。
- 66:山崎章弘(監督)[42] 2016年12月28日
- チーム創設以来指導に携わり(当初はコーチ、2013年より監督)、監督時代は毎年優勝またはそれに準じる成績をあげた。なお、2019年の再任に際して再度着用した(同年限りで退任)。
- 77:田中耀飛(外野手)[45] 2017年12月25日
- 2017年のドラフト会議で、リーグ史上初の支配下登録枠で楽天に指名され、入団決定。
日本のアマチュア野球の永久欠番[編集]
大学野球[編集]
- 日米大学野球選手権大会日本チーム(現・侍ジャパン大学日本代表)
國學院大學(東都大学野球連盟)
- 38:彬子女王(皇族、三笠宮家)
- 2016年に同学の特別招聘教授に就任し、同年9月21日の秋季リーグ戦(対東洋大学)にて始球式を務めたことによる。38は「宮(ミヤ)家」にちなむ。
創価大学(東京新大学野球連盟)
- 15:鳥居輝之(投手)1992年 – 2015年
- 3年時の1992年2月10日に病没。2015年秋季より田中正義がつけるまで監督の岸雅司が欠番としていた[46][47]。
女子プロ野球の永久欠番[編集]
埼玉アストライア
野球ナショナルチームの永久欠番[編集]
- 野球中華民国代表
- 野球アメリカ合衆国代表
- 野球プエルトリコ代表
- 野球ベネズエラ代表
注釈[編集]
- ^ 引退の際、 “Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth.”(「今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています」)と名言を残している
- ^ 一例としてベーブ・ルースの「3」が永久欠番に指定されたのは1934年のヤンキース退団から14年後の1948年6月であり、その間に合計7人の選手が背番号「3」のユニフォームを着用している。
- ^ ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグ最初の黒人選手であると誤解されがちだが、実際にはアフリカ系アメリカ人のモーゼス・フリート・ウォーカーが1884年にトレド・ブルーストッキングスでプレーしているのでこちらが確認できる最初の黒人選手である。
- ^ リベラの背番号としての「42」もヤンキースから永久欠番に指定されたため、ヤンキースの「42」はロビンソンとリベラの両名を称える永久欠番になった。なお、カージナルスも2006年に「42」で顕彰する対象にブルース・スーターを追加している。
- ^ 例えば読売ジャイアンツでプレーしたこともあるジェフ・マントはトロント・ブルージェイズ傘下AAA級チームであるバッファロー・バイソンズにおいて優れたリーダーシップによって優勝に貢献したとして、彼が着用していた「30」が永久欠番に指定されている[1]。
- ^ 第1期監督時代は90、第2期監督時代の1993年 – 2000年は33を着用。
- ^ 1946年には今泉勝義と坂本茂も使用していた。
- ^ 監督時代の1965年 – 1974年は77を着用。
- ^ 1946年の一時期のみ水野忠彦が着用。
- ^ MLBではヤンキースの4が同様にゲーリッグのみの番号となっている他、NPBでは大沢啓二が日本ハムファイターズの監督に就任した際に球団史上初めて86を着用し退団後より準永久欠番扱いされているという事例がある。
- ^ 第1期監督時代は選手兼任だったため、背番号はそのまま11。背番号11にまつわるエピソードも参照。
- ^ 第1期監督時代は1を、第2期監督時代は81を、第3期監督時代は83を着用。永久欠番に制定されている球団の監督を務めながら、その番号は使用しなかった珍しいケースである。
- ^ 1967年は68を着用。また、現役時代の1938年 – 1946年は17を着用。
- ^ 1975年に変更されるまでは28を着用。
- ^ 第1期監督時代は88を着用。現役時代に1971年に変更されるまでは27を着用。
- ^ 1973年 – 1974年の監督時代は81を着用。
- ^ 稲尾の退団から欠番指定までに24を着用したのは古賀正明、トニー・ミューサー、小川史、秋山幸二、ジョージ・ブコビッチ、平野謙、小野和義、金村義明、眞山龍、松永浩典、ライアン・マルハーンの11人。
- ^ それまでは日本ハムファイターズ時代の1993年から2005年までは、マスコットの「ファイティー」が付けていた。
- ^ 前身の東映フライヤーズ時代では、1962年に初優勝した時、当時のオーナー・大川博が「100」の背番号を付けたユニフォームを着用し、パレードなどに参加したことがあった。なお、東映製作による記録映画として『東映優勝 背番号100』が同年制作・公開されている。
- ^ 球団や球界に対する功績を残した特定人物を称える意味ではなく、不特定のファンのための番号を「永久欠番」と称したのは当時日本プロ野球界では初の試みであった。球団創設の年に制定されたため、チーム発足以来背番号「10」を使用した選手・監督・コーチは一人もいない。なお、マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの1人として背番号10を着用している。
- ^ ちなみに日本のサッカークラブにおいては同様の発想でスターティングメンバーの11人に続く12人目のメンバーという意味である「12」をサポーターのための番号として欠番としているチームが多い。サッカー界の永久欠番を参照。
- ^ 当初は「東京六大学野球での主将の番号だった」という理由から西谷尚徳の背番号に内定していたが、「ファンのための欠番」となったことで入団発表直前に6に変更となった( 広野功『広野功の楽天誕生秘話』。日刊ゲンダイ、2013年11月19日号、33面)。
- ^ 川上哲治の「16」、長嶋茂雄の「3」、村山実の「11」、山本浩二の「8」など、現役引退後に専任監督やコーチなどによる残留や復帰した時に当該人物が着用した例は上記のように複数あり、王貞治の「1」は巨人時代に選手・監督を通して一貫して着用していたが、「監督」としてのみ着用した背番号が永久欠番になった例はこれが初となる(現役時代は中日で「22」と「20」を着用。また、中日と阪神で監督を務めたときにも同様に背番号「77」を着用しているが、両球団では永久欠番には指定されていない)。
- ^ 1993年から1995年まで近鉄の監督を務めた時の背番号は70であった。
- ^ 1989年の若松勉の現役引退に際し、原則として「球団生え抜き、かつそれに見合う実績を挙げた選手」が「ミスタースワローズ」の称号とともに継承する番号とした。その後は池山隆寛(1992 – 99)、岩村明憲(2001 – 06)、青木宣親(2010 – 11)、山田哲人(2016 – )と引き継がれている。なお、2014年オフに大引啓次がフリーエージェントで移籍加入した際には、契約時に球団から誠意として提示されたが、前述の経緯を尊重して本人が辞退して2を選択した。
- ^ 金本の固辞の他にも、本拠地球場である阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では「栄光の背番号」として紹介され、金本以前にも景浦將、藤田平、和田豊など歴代の名選手が代々背負ってきた番号である事から球団内外でも6を金本「のみ」の番号にする事に対して異論が多かったことも理由である。
- ^ 特にヤクルト・巨人で主軸打者として実績のあった広澤は球団から「掛布のイメージを払拭して欲しい」という要望を受け着用している。
- ^ マルテが「31」を希望した際には、掛布自身はあくまでも「背番号は僕のものでもなんでもなく球団のもの」であるとして判断を球団に委任している(阪神の新外国人マルテに掛布氏背番号「31」で賛否)
- ^ 使用したのは進藤達哉、日高剛、水口栄二、濱中治、赤田将吾、糸井嘉男の6人。このうち、オリックス生え抜き選手は日高の1人のみ。
- ^ その後、今宮は2019年から本人の希望で6に変更し、2は投手のカーター・スチュワート・ジュニアが着用した。
- ^ 当時の西日本スポーツ(1968年1月21日)は、「広野の背番号は大型打者にふさわしく、大下弘選手(現東映監督)が(昭和)36年に引退してから、長い間欠番になっていた『3』に決まった」と報じている。
- ^ 直後に、丸の人的補償で加入した長野久義の背番号に9を提示されたが、本人は辞退して、空いていた5を選択した。
- ^ 後年の文献・資料では「永久欠番」と記述している物も見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、引退表明を1面で大きく扱ったサンケイスポーツ(東京版・1983年11月10日付)の記事では「保留欠番」と記述されているため、本項もそれに従う。
- ^ 国鉄時代の根来広光以後、加藤俊夫、大矢明彦、古田と歴代の正捕手が継承してきたが、1989年のみ例外的に投手のロン・デービスが着用した。
- ^ 2022年開幕時点で新入団選手には着用者がいない上、在籍選手での変更もなかったため、今後着用者が出るとすれば、シーズン途中または2023年以降に在籍選手が変更するか、他球団からの移籍選手や新加入の外国人選手に与えるかのいずれかとなる。
出典[編集]
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