知多電気 – Wikipedia

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知多電気株式会社(ちたでんき かぶしきがいしゃ)は、明治末期から大正時代にかけて現在の愛知県半田市に存在した電力会社兼ガス会社である。1917年(大正6年)までの旧社名は知多瓦斯株式会社(ちたガス)。

ガス専業会社として1910年(明治43年)に設立・開業。電気事業は4年後の1914年(大正3年)より追加されたものだが、こちらが主力事業となった。1921年(大正10年)に名古屋市の関西電気に合併され、電気事業は同社の後身東邦電力、ガス事業はガス専業の東邦ガスへとそれぞれ引き継がれた。

知多瓦斯設立[編集]

1889年(明治22年)、中部地方で最初の電気事業者として名古屋市に名古屋電灯が開業した[5]。以後、同地方では主要都市に次々と電気事業が起業されていく[6]。また1907年(明治40年)に名古屋瓦斯(東邦ガスの前身)も開業し、名古屋市では都市ガス供給も始まった[7]。この時代の都市ガスの用途はガス灯が主力であったことから、ガス事業は灯火供給という点で電気事業と競合関係にあった[7]

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知多半島東海岸に位置する知多郡半田町(現・半田市)では、ガス事業・電気事業ともに同時期に起業の動きがあった。まずガス事業を担う知多瓦斯株式会社は、1910年(明治43年)2月14日、半田町字西勘内に資本金50万円(うち12万5000円払込)で設立された[2]。この時期、日本全国でガス会社の設立が相次いでおり、名古屋瓦斯も各地のガス事業設立に関与して豊橋瓦斯・浜松瓦斯(両社とも現・サーラエナジーの前身)などを立ち上げていた[8]。知多瓦斯も名古屋瓦斯の関与で設立されたガス会社の一つであり、初代社長は名古屋瓦斯社長の奥田正香が兼ねた[8]。役員には地元半田の人物も3名を連ねており、うち中埜半助と穂積寅九郎(三重紡績知多分工場主任心得[9])が取締役を務める[2]

知多瓦斯の設備工事は順調に進み、1910年6月、半田町と隣の成岩町を供給区域として開業した[8][10]。開業当初、6月末時点のガス孔口数は灯火用が583個、熱用が80個であった[10]

一方、電気事業を担う知多電灯株式会社は地元の中埜又左衛門(酢醸造業、中埜半助の実弟[11])ら11名によって発起され、1910年3月30日付で事業許可を得た[10]。しかし知多瓦斯が順調に開業した一方で、この知多電灯では機械の調達などに手間取って開業が遅れてしまい、知多瓦斯開業を機に事業を一時見合わせ、次いで翌1911年(明治44年)5月に権利一切を知多瓦斯へと譲渡して消滅してしまった[10]

電気事業開業[編集]

1912年(明治45年)2月、現在の名鉄常滑線を建設した鉄道会社愛知電気鉄道が兼営電気供給事業を開業し、常滑など知多半島西海岸の地域に電灯がついた[12]。事業許可取得が1911年4月と知多電灯の1年後ではあるが、これが知多半島で最初に開業した電気事業となった[12]。同社の点灯区域は徐々に拡大しやがて半島南端の師崎にも及んだ[12]。また半島東海岸北部の東浦村(現・東浦町)には岡崎の岡崎電灯が進出し、1913年(大正2年)2月より供給を始めた[13]。同社は元々半田方面への進出を狙っていたが、供給権が知多電灯に認められて東浦村の供給のみに留まったという[14]

知多電灯への事業許可から4年後の1914年(大正3年)1月12日[15]、知多瓦斯は半田町・成岩町・亀崎町で電灯供給を開始して電気事業を開業した[10]。電源は名古屋電灯からの受電とする計画であったが、同社の送電線工事が遅れたため、暫定的に自社発電所を設けた[10]。この発電所は出力60キロワットの内燃力(ガス力)発電所で、半田町字西勘内にあり[15]、イギリス製の吸入ガス機関(サクションガスエンジン)と日立製作所製三相交流発電機を備えた[16]。その後1915年(大正4年)11月14日[17]、名古屋電灯の変電所が完成し同社からの受電が始まる[18]。受電契約高は300キロワットで、受電開始を機に供給が武豊町・阿久比村(現・阿久比町)にも広がり[18]、動力用電力の供給も行われるようになった[10]

電気事業開業後、電灯への切り替えによりガス灯は衰退していき[10]、電灯・電動機利用の増加で事業の中心が電気事業に移ったため[18]、1917年(大正6年)12月16日付で知多瓦斯から「知多電気株式会社」へ社名を変更した[19]。同時に本店を半田町字南浜へと移転している[19]。次いで1919年(大正8年)、東浦村に供給していた岡崎電灯が矢作川水系の足助発電所完成を機に知多電気への送電を始めた[14]。2年後の1921年(大正10年)6月末の段階では、知多電気の受電は名古屋電灯からが500キロワット、岡崎電灯からが600キロワットとなっている[20]。また供給面では、1920年末に武豊町の帝国火薬工業(現・日油武豊工場)と300キロワットの供給契約を締結し、1921年4月より送電を開始した[4]

経営面では、1913年11月に奥田正香が取締役社長を辞任した[21]。以後は中埜半助が代表者であり[15]、1918年の役員録には社長中埜半助・常務穂積寅九郎[22]、1920年の役員録には社長中埜半助・常務中埜俊三とある[23]。また1921年7月2日、知多電気は「電気漂白」を目的とする知多電気漂白(同年3月20日設立、資本金70万円)を合併した[24][25]。合併に伴う増資は70万円で[25]、合併後の資本金は120万円(払込67万5000円)となった[26]

関西電気への合併[編集]

名古屋市の名古屋電灯は1920年(大正9年)より周辺事業者の合併を積極化し、翌年8月にかけて愛知・岐阜両県下の一宮電気・岐阜電気・豊橋電気・板取川電気ほか2社を相次いで合併した[27]。さらに1921年3月末、奈良県の関西水力電気と合併契約を締結し、同年10月に同社と合併し関西電気へと改称した(形式上存続会社は関西水力電気だが実質的には名古屋電灯による関西水力電気の吸収)[28]

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こうした再編が進む最中の1921年5月16日、知多電気(社長:中埜半助)は関西水力電気との間で合併契約を締結した[26]。その合併条件は、存続会社の関西水力電気が223万9950円を増資し、解散する知多電気の株主に対してその持株15株につき関西水力電気新株を28株の割合(1株につき1.867株)で交付する、というものであった[26]。同年6月25日に知多電気側、27日関西水力電気側でそれぞれ株主総会が開かれ合併の決議がなされる[29]。11月15日に逓信省から合併が認可され[30]、関西電気成立後の12月23日に合併確認総会が開かれて合併手続きが完了[31]、同日をもって知多電気は解散した[3]

知多電気を吸収した関西電気は、翌1922年(大正11年)にも九州の九州電灯鉄道などを合併し、中京・関西・九州にまたがる大電力会社東邦電力へと発展した[32]。また名古屋瓦斯をも合併し、同社の事業を元に子会社東邦瓦斯(東邦ガス)を設立している[32]。さらに翌1923年(大正12年)4月1日、知多電気が経営していた半田町・成岩町のガス事業が東邦電力から東邦ガスへと譲渡された[33]

年表[編集]

  • 1910年(明治43年)
    • 2月14日 – 知多瓦斯株式会社設立。資本金50万円、本店知多郡半田町字西勘内71番地[2]
    • 3月30日 – 知多電灯株式会社に対し電気事業許可[10]
    • 6月 – 知多瓦斯、ガス事業を開業[8]
  • 1911年(明治44年)
    • 5月 – 知多瓦斯が知多電灯から電気事業の権利を譲り受ける[10]
  • 1914年(大正3年)
  • 1915年(大正4年)
  • 1917年(大正6年)
    • 12月16日 – 知多瓦斯から知多電気株式会社へ社名変更。本店を半田町字南浜1番地の3へ移転[19]
  • 1921年(大正10年)
  • 1923年(大正12年)

供給区域[編集]

関西電気との合併直前、1921年(大正10年)6月末時点における電灯・電力供給区域は、知多郡のうち半田町・成岩町・亀崎町(現・半田市)と武豊町、阿久比村(現・阿久比町)の4町1村である[20]。同年5月末時点において、電灯2万1785灯(需要家数1万761戸)、電動機236台・計1471.5馬力(1,097キロワット)を取り付け、帝国火薬工業に300キロワットの電力を供給していた[4]

ガス供給区域は知多郡半田町・成岩町(ガス工場は半田町設置)[34]。1921年5月末時点において674戸の需要家に供給し、灯火孔口2692個・熱用孔口701個を取り付け、他にガスエンジン9台(計41馬力)を設置していた[4]

なお、半田町内にあるが東洋紡績(旧・三重紡績)知多工場は名古屋電灯の需要家であり、1919年末時点では同社から1,000キロワットを受電していた[35]。名古屋電灯が同工場へ供給を始めたのは知多瓦斯への送電開始から半年後の1916年(大正5年)4月のことである[36]

参考文献[編集]

  • 企業史
    • 『知多半島に明り灯りて70年』中部電力半田営業所、1982年。
    • 中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』上巻・下巻、中部電力、1995年。
    • 東邦瓦斯(編)『社史 東邦瓦斯株式会社』東邦瓦斯、1957年。
    • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。
  • 官庁・自治体資料
    • 帝国瓦斯協会(編)『瓦斯事業要覧』大正9年版、帝国瓦斯協会、1922年。NDLJP:946301
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』第7回、逓信協会、1915年。NDLJP:975000
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』第13回、逓信協会、1922年。NDLJP:975006
    • 『管内電気事業要覧』第2回、名古屋逓信局電気課、1922年。NDLJP:975996
    • 名古屋市会事務局(編)『名古屋市会史』第4巻、名古屋市会事務局、1941年。NDLJP:1451189
    • 半田市誌編さん委員会(編)『新修半田市史』本文篇中巻、半田市、1989年。
  • その他書籍
    • 竹内文平『三州電界統制史』昭文閣書房、1930年。
    • 商業興信所『日本全国諸会社役員録』
      • 『日本全国諸会社役員録』第18回、商業興信所、1910年。NDLJP:780122
      • 『日本全国諸会社役員録』第26回、商業興信所、1918年。NDLJP:936468
      • 『日本全国諸会社役員録』第28回、商業興信所、1920年。NDLJP:936472
    • 人事興信所(編)『人事興信録』第5版、人事興信所、1918年。NDLJP:1704046

関連項目[編集]

  • 尾州電気 – 同様に東邦電力・東邦ガスへ統合された電気・ガス兼営事業者。
  • おぢいさんのランプ – 新美南吉の童話。明治末期に半田町岩滑新田に電灯が来てランプが不要となった時代を話の中心とする。


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