ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前154年の執政官) – Wikipedia

ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス(ラテン語: Lucius Postumius Albinus、- 紀元前154年)は紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政治家。紀元前155年にコンスル(執政官)を務めた。

アルビヌスはパトリキであるポストゥミウス氏族の出身であるが、共和政ローマ建国5年目の紀元前505年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが執政官に就任するなど、古くから高官を出していた。カピトリヌスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はスプリウス、祖父はルキウスである[1]。父スプリウスは紀元前186年の執政官スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス、祖父は執政官に三度選出され、三度目の就任前にガリア人との戦いで戦死したルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスである[2][3]

現存する資料の中で、アルビヌスに対する最初の言及は紀元前168年のことで、この年に軍神マールスのフラーメン(司祭)となっている[4][5]。後年、彼の息子か孫がこれを記念したコインを鋳造している[2]

紀元前161年、アルビヌスはアエディリス・クルエル(上級按察官)に就任し、クルスス・ホノルム(名誉のコース)を歩みだした[6]。この権限を持って、アルビヌスは同僚のルキウス・コルネリウス・メルラと共にメガレシア祭とローマ競技会を開催した。劇作家テレンティウスの『宦官』がメガレシア祭で、『ポルミオ』がローマ競技会で初演されている。紀元前159年、ティブルに関する元老院令に、元執政官アウルス・マンリウス・トルクァトゥスと元プラエトル(法務官)セクストゥス・ユリウス・カエサルと共に署名している。この時点でアルビヌスは翌紀元前158年の法務官に選出されていた可能性がある。ウィッリウス法が法務官就任から執政官就任まで最低3年間としていることから、遅くとも紀元前157年にはプラエトルを務めたはずである[2][7]

紀元前154年、アルビヌスは執政官に就任する。同僚のプレブス(平民)執政官はクィントゥス・オピミウスであった[8]。アテナイオスがエピクロス主義(快楽主義)者が執政官によってローマから追放されたと述べているのは、おそらくアルビヌスのことである[2][9]。アルビヌスは執政官就任後まもなく死亡した。ユリウス・オブセクエンスは、占いで凶兆が出ていたにも関わらず任地に向けて出発し、途中で発病したとしている。ウァレリウス・マクシムスは、妻のプブリリアに毒殺されたとしている。プブリリアはその後生き埋め刑とされた。アルビヌスの死により、マニウス・アキリウス・グラブリオが補充執政官となった[2]

現代の研究者は、アルビヌスの死に関して二つの疑問点があるとしている。アルビヌスは終身職であるフラーメンに就任していたが、そもそもフラーメンは長期間ローマを離れることができない。ところが、オブセクエンスは任地に赴く途中に病死したとしている。またフラーメンはパトリキとしか結婚できない。しかしウァレリウス・マクシムスは、アルビヌスの妻をプレブスのプブリリウス氏族の出身としている。もちろん、これらの資料が間違っているかもしれず、また紀元前2世紀にはフラーメンに関する規定が緩和されていたのかもしれない[10]

アルビヌスには同名の息子がおり、父と同じくマールスのフラーメンで造幣官を務めた[3][11]

  1. ^ カピトリヌスのファスティ
  2. ^ a b c d e Postumius 42, 1953, s. 919.
  3. ^ a b Postumius, 1953, s. 915-916.
  4. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLV, 15, 10.
  5. ^ Broughton, 1951, p. 432.
  6. ^ Broughton, 1951 , p. 444.
  7. ^ Broughton, 1951 , p. 447.
  8. ^ Broughton, 1951, p. 449.
  9. ^ アテナイオス『食卓の賢人たち』、XII, 547a.
  10. ^ Postumius 42, 1953, s. 919-920.
  11. ^ Postumius 43, 1953.

参考資料[編集]

古代の資料[編集]

研究書[編集]

  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. – New York, 1951. – Vol. I. – P. 600.
  • Münzer F. Postumius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . – 1953. – Bd. XXII, 1. – Kol. 891-893.
  • Münzer F. Postumius 42 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . – 1953. – Bd. XXII, 1. – Kol. 918-920.
  • Münzer F. Postumius 43 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . – 1953. – Bd. XXII, 1. – Kol. 920-921.

関連項目[編集]