フローラン・ダバディ – Wikipedia

フローラン・ダバディ[1]
(Florent Dabadie, 1974年11月1日 – )は、フランス・パリ出身のキャスター、ジャーナリスト。

サッカー日本代表監督フィリップ・トルシエのアシスタントを務めたことでも知られている。母語のフランス語に加えて日本語や英語が達者で、さらにイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、韓国語の会話もでき、計7か国語を操る[注釈 1]

作家・作詞家のジャン=ルー・ダバディ(トリュフォーの『私のように美しい娘』などの映画の脚本家や、ミッシェル・ポルナレフの数々のヒット曲の作詞家としてフランスでは広く知られている人物)を父として、またフランスの貴族(かつての貴族)とアルメニアからの移民が結ばれて誕生した女性(後にゴンクール賞の事務局長となる人物)を母として、フランス、パリで誕生。パリの16区で育つ。両親とも感受性が豊かで、言葉の品格、振る舞いの品格、人の心の「気高さ」などに敏感で、フローランも、精神的に美しいもの(=目に見えない美しさ)、たとえば「偽らない心」「友愛(思いやり)の心」「正義」などに心動かされる子として育った[2][注釈 2]

St Croix de Neuilly高校卒業後、UCLAに短期留学。その後、パリの国立東洋語文化学院(INALCO)の「日本・韓国学科」に入学し日本語を集中的に学び、静岡大学にも短期留学。1997年にINALCOを卒業後、1998年に来日し、映画雑誌「プレミア日本版」(角川書店)の編集に携わる。

1998年から2002年のワールドカップ日韓大会終了まで、サッカー日本代表監督のフィリップ・トルシエのパーソナル・アシスタントを務めた。

その後は、テレビのスポーツキャスター、ラジオ番組のナビゲーターや企画・制作、雑誌のコラムニストなどとして活動している。

仕事で関与するスポーツ[編集]

サッカーやテニスや自転車のロードレースなどを愛し、それら関連の仕事を行っている。

1998年から2002年まで、フィリップ・トルシエのパーソナル・アシスタント(フランス語話者の監督の意思を正しく選手たちに伝える重要な役割)を果たし、日本の勝利に大貢献した
[注釈 3]

テニスに関してはWOWOWのテニスナビゲーターを務めている。自転車ロードレースに関しては、J SPORTS cycle road race(特にツール・ド・フランス中継時)に不定期にゲスト出演している。

なお、スポーツの勝敗に関する予想は、他のジャーナリストと同様に、(大胆な予測も織り交ぜ)ハズレることがある[注釈 4][注釈 5]

出演番組[編集]

パーソナルデータ[編集]

身長は190.5cm。

注釈[編集]

  1. ^ (英語-日本語の通訳は世に溢れているが)フランス語と日本語を使いこなし、自由自在に通訳までこなせる人間は数が非常に不足しており、フローラン・ダバディはその数少ない人間のひとりであり、貴重な人材である。
  2. ^ たとえばサン=テグジュペリの『星の王子様』でも、王子はキツネから『大切なものは目に見えないんだよ』という重要な秘密(重要な鍵)を教えられる。これは多くのフランス人が(また世界中の フランス文学を学んだ者が)共有している価値観でもある。たとえばフランスは「人権の母国」とも言われ、フランス人は人権を大切にする人々であるが、フランス人が大切にする「人権」も とても大切なものであり、やはり目に見えない。友愛(おもいやり)も とても大切なものであり、やはり目に見えない。「眼に見えるものよりも、眼に見えない精神性のほうがはるかに大切だ」という考え方は、ある意味、フランス人の精神の基本となっており、フランスから学んだ世界中の人々が共有している価値観でもある。
  3. ^ フランスではサッカーは労働者のスポーツであり話題にすべきではないという見方が今も根強く残っており、スポーツの話をするならば自転車やラグビーなどが無難であるという。比較的上流の家庭に育ったフローレンスは、家族にはしばらくサッカー監督の通訳をしているということをなかなか切り出せなかったという。また日本人女性に自分の仕事を話した時に大して嫌悪感を見せないどころかおぼろげながら知識を持っていることに驚いたという
  4. ^ 2006 FIFAワールドカップ終了後、レギュラー出演していたすぽると!番組内で「FIFAワールドカップの開催は次の2010年が最後になると思う」と発言した。
  5. ^ 2010 FIFAワールドカップ開幕の3ヶ月前、母国だからではなくサッカーフランス代表の優勝を予想し、「グループリーグでは比較的組み合わせに恵まれた」「チーム内の団結力も無視できない」「とくに弱点もない」とその理由を挙げた[3]。しかしフランスはグループリーグで敗退、ダバディが「アンリとのツートップはフランス代表の歴史のなかで最高の組み合わせ」と話していたアネルカは大会期間中にチームを追放されるなど内紛が大きく報道される事となった[4]

出典[編集]

外部リンク[編集]