龍田 (通報艦) – Wikipedia

龍田(たつた)は、日本海軍の通報艦。艦名は、奈良県を流れる竜田川から名づけられた。さらに艦名は「長浦丸」(潜水艇母船)、「長浦」(潜水艦母艇)と変遷した。

1893年(明治26年)、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社エルジック工場で起工、1894年(明治27年)に竣工し、当初は水雷砲艦と称した。7月31日、英国から出港し、日本に向かう途中に寄航した英領アデンで、日清戦争勃発のため8月28日に中立国であるイギリスによって抑留された。交渉の結果、翌1895年(明治28年)に解放され1月20日に出港し、3月19日に横須賀に到着したが、戦闘には間に合わなかった。

1898年(明治31年)3月21日、通報艦に類別。1900年(明治33年)、義和団の乱に参加した。1902年(明治35年)から翌年にかけて呉造船廠で主缶を円缶から水管缶に換装。

日露戦争に際しては第1艦隊第1戦隊所属艦として旅順攻略作戦、日本海海戦等に参加。1904年(明治37年)5月15日、触雷した戦艦「初瀬」「八島」の救援作業の帰途、濃霧により旅順港外の光禄島南東岸に座礁し、7月16日から8月31日にかけて横須賀工廠で修理を行った。このため8月10日の黄海海戦には参加していない(八重山が代理を務めている)。

1912年(大正元年)8月28日、一等砲艦に類別を変更。1916年(大正5年)4月1日に除籍、12月9日、雑役船に編入され潜水艇母船に指定、「長浦丸」と改名した。1920年(大正9年)7月1日、特務艇に編入され潜水艦母艇に類別、「長浦」と改名した。1926年(大正15年)3月12日に再除籍され、4月6日に売却された。

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 出羽重遠 少佐:1894年6月5日 –
  • 向山慎吉 少佐:1894年11月2日 – 1895年5月25日
  • 富岡定恭 少佐:1895年5月25日 – 1896年4月1日
  • 藤田幸右衛門 少佐:1896年4月1日 – 9月21日
  • 丹治寛雄 少佐:1896年9月21日 – 1897年2月4日
  • 小倉鋲一郎 少佐:1897年2月4日 – 6月1日
  • 大久保保喜造 少佐:1897年6月1日 – 1899年9月29日
  • 伊地知彦次郎 中佐:1899年9月29日 – 1900年5月20日
  • 志賀直蔵 中佐:1900年5月20日 – 12月6日
  • 中村貞邦 中佐:1901年2月18日 – 3月29日
  • 松居銓太郎 中佐:1901年3月29日 – 1902年4月22日
  • 釜屋忠道 中佐:1903年11月11日 – 1905年3月15日 *大佐昇進
  • 山縣文蔵 中佐:1905年3月15日 – 12月20日
  • 佐藤鉄太郎 中佐:1905年12月20日 – 1906年1月25日
  • 山本竹三郎 中佐:1906年1月25日 – 11月22日
  • 大沢喜七郎 中佐:1906年11月22日 – 1907年5月17日
  • 竹内次郎 中佐:1907年11月22日 – 1908年9月25日
  • 志津田定一郎 中佐:1908年9月25日 – 1909年3月4日
  • 兼子昱 中佐:1909年3月4日 – 1912年3月1日
  • 原篤慶 中佐:1912年3月1日 – 12月1日
  • 有馬純位 中佐:1912年12月1日 – 1913年12月1日
  • 井手篤行 中佐:1913年12月1日 – 1914年4月1日
  • 四元賢助 中佐:1914年9月9日 – 12月1日
  • 渡辺真吾 中佐:不詳 – 1915年8月16日
  1. ^ #信号符字点附 画像1『逓信省告示○逓信省告示第八十四號 軍艦龍田ヘ點附ノ信號符字ハ左ノ如シ 明治二十七年三月二十八日 逓信大臣伯爵黒田淸隆 信號符字 艦名 GQFS 龍田 Tatsuta』

参考資料[編集]

  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 『官報』
  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
    • 『公文類聚・第十八編・明治二十七年・第三十八巻・交通門四・河川港湾・道路橋梁・舩車、地理門・土地・森林:軍艦竜田ヘ信号符字点附』。Ref.A15112897400。

関連項目[編集]