野上照代 – Wikipedia

野上 照代(のがみ てるよ、1927年5月24日 – )は、日本の映画スクリプター。黒沢プロダクション・マネージャー。

ドイツ文学者、社会思想研究家で戦後神戸大学教授を務めた野上巌(筆名・新島繁)の娘として東京に生まれる。

1943年、都立家政女学校卒業。図書館講習所入学。1944年、図書館講習所を卒業、山口県山口高等学校図書室に着任。終戦後、東京へ戻る。1946年、人民新聞社に入社。1947年、八雲書店に入社。同僚に草柳大蔵、仕事で井伏鱒二と知り合い親交を深める。

女学生時代に伊丹万作監督の『赤西蠣太』を観て、ファンレターを書いたのがきっかけで、伊丹家と親しくなり、約1年間、万作の長男伊丹十三と同居し、面倒を見る。1949年の監督の没後、大映京都撮影所で記録係(スクリプター)の見習いとなる。

1950年、黒澤明監督の『羅生門』にスクリプターとして参加。1951年、東宝へ移り『生きる』以降の全黒澤映画に記録・編集・制作助手として参加した。その間、1966年よりサン・アドにも在籍し、CM制作なども手がけた。1979年、同社を退社。

1984年、自らの少女時代を描いた“父へのレクィエム”が読売ヒューマンドキュメンタリーの優秀賞を受賞。2008年これを『母べえ』として山田洋次監督が映画化した。

映画作品[編集]

記録[編集]

  • 羅生門(1950年)
  • 生きる(1952年)
  • 七人の侍(1954年)
  • 蜘蛛巣城(1957年)
  • 用心棒(1961年)
  • 天国と地獄(1963年)
  • 赤ひげ(1965年)

その他[編集]

  • デルス・ウザーラ(1975年) – 協力監督[1]
  • 影武者(1980年) – アシスタント・プロデューサー
  • 乱(1985年) – プロダクション・マネージャー
  • 夢(1990年) – プロダクション・コーディネーター
  • 八月の狂詩曲 – プロダクション・マネージャー
  • まあだだよ(1993年) – プロダクション・マネージャー
  • 雨あがる(2000年) – 監督補
  • 阿弥陀堂だより(2002年) – 監督協力
  • 『天気待ち 監督・黒澤明とともに』(文藝春秋、2001年、文春文庫、2004年)
  • 『蜥蜴の尻っぽ とっておき映画の話』(文藝春秋、2007年/草思社文庫、2021年)
  • 『母べえ』(中央公論新社、2007年、中公文庫、2010年) – 映画『母べえ』の原作
  • 『黒澤明 「七人の侍」創作ノート』(2巻組、編・解説:文藝春秋、2010年) 
  • 『もう一度天気待ち 監督・黒澤明とともに』(草思社、2014年/草思社文庫、2016年)、完本版
  • 第5回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞・優秀賞(『父へのレクイエム』にて、1984年)
  • 山路ふみ子功労賞
  • 第3回文化庁映画賞・映画功労表彰部門(2005年)
  • 第28回(2010年度)川喜多賞[2]
  • 第34回日本アカデミー賞・協会特別賞(2011年)
  • 第69回毎日映画コンクール特別賞(2014年)[3]
  • 第2回京都国際映画祭・牧野省三賞(2015年)
  • 第94回キネマ旬報ベスト・テン 特別賞[4]

テレビ番組[編集]

  • 野上照代が記録した19本の黒澤映画(NHK BS、2008年)
  • 監督 黒澤明と歩んだ時代~世界は今も夢をみる~(日本映画専門チャンネル、2015年・全5回)
  • 1993年公開の伊丹十三監督の映画「大病人」のテレビ版メイキングの監督を中尾彬とともに務めた。
  1. ^ 撮影日誌を元にした共編著『黒澤明 樹海の迷宮』(小学館、2015年)がある
  2. ^ 第28回川喜多賞 野上照代氏”. 公益財団法人川喜多記念映画文化財団. 2021年7月14日閲覧。
  3. ^ 69th(2014年)”. 毎日映画コンクール. 毎日新聞社. 2021年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月1日閲覧。
  4. ^ キネマ旬報 ベスト・テン、KINENOTE、2021年2月27日閲覧。

外部リンク[編集]