Month: September 2017

潮風放送局〜みなとらじお! – Wikipedia

潮風放送局〜みなとらじお! インターネットラジオ:潮風放送局〜みなとらじお! 配信期間 2007年8月3日 – 2008年1月18日 配信サイト 公式ホームページ 配信日 隔週金曜日 配信回数 全13回 配信形式 ストリーミング パーソナリティ 後藤邑子(久遠寺未有 役)水森志寿香(久遠寺夢 役) インターネットラジオ:潮風放送局〜みなとSTATIONらじお!〜君が主で執事が俺で編〜 配信期間

Continue reading

産交バス大津営業所 – Wikipedia

産交バス大津営業所(さんこうバスおおづえいぎょうしょ)は、九州産交バスの子会社である産交バスの営業所の一つである。 熊本県菊池郡大津町吹田1108 併設バス停:大津産交 併設施設 当営業所とは別に、菊池営業所の廃止に伴い、跡地を当営業所の菊池車庫として使用開始したため、数台の駐在車両を置いている。 かつて九州産交バス時代、大津営業所管轄では熊本市北区武蔵ヶ丘2丁目に武蔵ヶ丘車庫を設け、武蔵ヶ丘団地始発着便などに用いる車両数台を駐在させ、乗務員は現地出退勤としていた。光の森営業所に移転後、同営業所管轄になった際に駐在は廃止されたが、待機場所としては現存、機能している。 九州産交バスの営業所として廃止[編集] かつては九州産交バス直轄の営業所の一つでもあったが、熊本都市圏路線バス網の再編により、2015年に菊陽町菊陽西小学校近くの民有地に新たに土地を取得した上で同年12月1日を以って光の森営業所として移転した事により、九州産交バスの営業所としては廃止された[1][2]。また、同時にダイヤ改正により当営業所が管轄していた路線のほとんどが大幅に再編され、その中で菊陽町東部及び大津町の路線は短縮あるいは廃止されている[1][2][3]。ただし、熊本都市圏外の路線を担当する産交バスの営業所としては存続している[4][5]。 九州産交バス営業所として廃止された翌日以降、敷地は産交バス大津営業所であると同時に九州産交バス光の森営業所大津車庫となっている。一部車両と乗務員は引き続き駐在しているほか、バス停としては「大津産交」として現在もある。 現在の担当路線[編集] 現在は産交バス(旧:産交観光バス)大津営業所として、大津町内から発着する路線のうち唯一熊本都市圏に乗り入れている1路線[6]を除いた以下5路線を運行している。 このほか、コミュニティバス路線として菊陽町から町内巡回バス「キャロッピー号」の運行を受託している(熊本電鉄バスと共同運行)。 九州産交バス大津営業所時代の担当路線[編集] 主に熊本市中心部と市北部(坪井・子飼・黒髪・龍田)、市東部(大江・渡鹿・新南部・下南部・上南部・石原・平山町)および熊本市北側の熊本都市圏(菊池郡菊陽町・大津町)ならびに楠・武蔵ヶ丘団地方面の路線を担当していた。このほか、一時期は阿蘇くまもと空港とJR光の森駅とを結ぶ快速バス「光の森号」の運行をおこなっていたが、2014年3月31日をもって運行終了している。 かつての運行系統[編集] 太字は系統記号(当時のもの)。当営業所の路線は全て往路・復路ともに同一の系統記号。なお、この項においては2015年11月30日をもって運行終了した系統のみ記す。(交通センター=熊本交通センター 現:熊本桜町バスターミナル) 大津町内発着 子11 大津産交-交通センター(大津中央・大津高校前・陣内・東熊本第二病院・県民総合運動公園・供合農協前・東海学園前・渡鹿・大江川鶴・子飼橋・藤崎宮前経由) 子20

Continue reading

屋根付橋 – Wikipedia

府内城の廊下橋(大分県) ローズマン・ブリッジは映画マディソン郡の橋の舞台となった。 屋根付橋(やねつきばし)は、屋根の付けられた橋のことである。橋の構造材の劣化速度を遅くする目的で覆いをかけたものや雨風を防ぐため、景観のためなどさまざまな理由から橋が覆いで囲まれている橋。世界的に広く存在し、あるいは「幌付き橋」、「廊下橋」、「鞘橋」、「有蓋橋」ともいう。 目次 1 構造 2 世界各地の屋根付橋 2.1 アジア 2.1.1 日本 2.1.1.1 日本書紀に残る記述 2.1.1.2 愛媛県南部における屋根付橋 2.2 ヨーロッパ 2.3 北アメリカ

Continue reading

広島建設 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “広島建設” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) この項目では、千葉県の企業について説明しています。東証二部上場企業、旧社名が広島建設については「ソルコム」を、北海道北広島市本社の土木建築業については「広島建設 (北広島市)」をご覧ください。 広島建設株式会社Hiroshima Kensetsu Co.,Ltd. 種類 株式会社 市場情報 非上場 略称 広島建設

Continue reading

三八式十五糎榴弾砲 – Wikipedia

三八式十五糎榴弾砲(さんはちしきじゅうごせんちりゅうだんほう)は、日本陸軍が1911年(明治44年)に制式制定した榴弾砲。 1904年(明治37年)、日露戦争の開戦に伴い、日本陸軍がドイツのクルップ社に砲身後座式の近代火砲を数種発注した[4]うちの一つ。駐退機を持たない克式十五珊榴弾砲を補完〜更新する目的の、野戦重砲兵向け榴弾砲である。 クルップでは、日本陸軍の要望に合わせて若干の修正を加えたものの既存モデルの設計を流用して直ちに製造に取り掛かり、翌明治38年(1905年)には発注数を揃えて出荷したものの、日本に到着したのは奉天会戦よりも後であり、日露戦争の戦場には間に合わなかった。 その後、改めて日本国内で審査を行い、若干の改正を施して1911年(明治44年)12月をもって三八式十五珊榴弾砲として制式制定[5]され、昭和に入って三八式十五糎榴弾砲と改称された。 閉鎖機は段隔螺式で、装薬可変式の分離薬筒。装薬は一号方形薬だが、照準器が旧式なため同一表尺で異なる弾量の砲弾を発射するのに、弾種別に専用の薬嚢を用いるという、このクラスの重砲としてはあまり用いられない方式[6]をとっている。 移動は8馬輓曳を前提としたが、体格に劣る国産馬での輓曳は事実上不可能であった。このため、陣地変換に際しては分解して荷車に積載せねばならなかったが、元々分解搬送を前提としていない設計であったため、これには多大の時間を要した。もちろん、移動した先での組立て〜再設置にも時間がかかり、野戦重砲といいながらも実質的には攻城砲並みの機動力しか持たなかった。これは本砲最大の欠点となった。[7] 採用以降、陸軍は野戦重砲兵の主火器として本砲を整備し、大阪砲兵工廠で国産化もされたが、上記理由により生産期間はそれほど長くはなかった。1918年(大正7年)に野戦重砲兵連隊が独立編制になる頃から四年式十五糎榴弾砲との置換えが始まり、1935年(昭和10年)頃にはいったん予備保管兵器となった。しかし、日中戦争の勃発により動員され、その後は限定的ながらも第二次世界大戦の終結まで運用され続けた。 本砲の機動力不足を解消する試みは対米開戦後の重砲不足の中で開始され、四年式十五糎榴弾砲に準じた分解式への改造は不調に終わったものの、1944年(昭和19年)には決定版として自走化が検討され、四式十五糎自走砲(ホロ)として実用化された。 本砲の初陣は1914年(大正3年)の青島攻略戦にまで遡るが、野戦重砲として本格的に使用されたのは1937年(昭和12年)、日中戦争に伴い動員下令となった野戦重砲兵第五旅団隷下の野戦重砲兵第十一連隊および野戦重砲兵第十二連隊に配備されて出征した。両連隊とも1939年(昭和14年)にいったん復員したが、野戦重砲兵第十二連隊は1942年(昭和17年)に再動員となりフィリピンに派遣され、1944年(昭和19年)〜1945年(昭和20年)にかけてルソン島で米軍と戦い、全滅した。野戦重砲兵第十一連隊も1944年(昭和19年)に再動員となったが、本土決戦の準備中に終戦となった。 四式十五糎自走砲の主砲として搭載された。軽量な三八式は九七式戦車車体に無理なく搭載でき、直射を含む機動射撃では短射程はあまり問題にならなかった。大きな炸薬量により、米軍戦車を正面から撃破できる貴重な対戦車戦力として重宝された。 ^ a b 佐山二郎「日本陸軍の火砲 野戦重砲 騎砲 他」188頁、189頁。  ^ 一号装薬使用時。二号装薬では200 m/s、三号装薬では150

Continue reading

ディゾット – Wikipedia

DiesOtto(ディゾット[1])エンジンは、「ディーゼルエンジンの利点を取り入れつつ、ガソリンで走ると言われている」[2]実験的自動車エンジンである。 名称は、「Diesel」と「Otto」のかばん語で、ドイツのエンジニア、ルドルフ・ディーゼルが最初に発表したディーゼルエンジンと、ニコラウス・オットーにちなんだオットーサイクル(ガソリンエンジンの発明者は、ニコラウス・オットーとアルフォンス・ボー・ド・ロシャの両名と様々に言われているが)を意味している。 目次 1 エンジンの特性と動作原理 1.1 試験と実物説明 2 脚注 3 関連項目 エンジンの特性と動作原理[編集] メルセデス・ベンツによるコンセプトエンジンは、直列4気筒で排気量は1.8リットル。ピーク出力は175 kW (235 hp)以上、比出力は97 kW/L (130 hp/L)、ピークトルクは400 N·m、比トルクは220 N·m/Lとなっている。メルセデス・ベンツでは、これらの規定の最大値に到達する回転数を明示していない[3]。 DiesOttoの特徴は以下の通りである。 均一予混合圧縮着火(HCCI) 可変バルブタイミング

Continue reading

頭文字D ARCADE STAGE – Wikipedia

頭文字D > 頭文字D ARCADE STAGE 頭文字[イニシャル]D ジャンル カーバトル ゲーム:Arcade Stage Ver.1~ZeroTHE ARCADE ゲームジャンル レーシング 対応機種 アーケードゲーム 開発元 セガAM3研(旧:セガ・ロッソ →ヒットメーカー) 発売元 セガセガ・インタラクティブ(Zeroシリーズ時代) プレイ人数

Continue reading

ジン (ガンダムシリーズ) – Wikipedia

ジン (GINN) は、テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED』シリーズに登場する、モビルスーツ (MS) に分類される架空の有人式人型ロボット兵器のひとつ。「プラント」の軍事組織「ザフト」の主力量産型MSであり、物語冒頭から多数の機体が登場するほか、続編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の序盤でもザクウォーリアなどの新型機とともに配備されている。 メカニックデザインは大河原邦男が担当した。『機動戦士ガンダム』に登場するザクIIなどのジオン公国軍系MSに似た単眼(モノアイ)式の頭部メインカメラを持つほか、後頭部のトサカ型アンテナや背部の翼型スラスターといった独自の特徴も併せ持つ。これらの特徴は、作中に登場するザフト軍MSの多くに見られる。 本項では、関連作品に登場する派生機についても解説する。 デザイン[編集] デザインは大河原邦男によって複数のアイデアラフが提出されたあと、『機動戦士ガンダムSEED』の監督である福田己津央のオーダーを通して完成した。原案となったラフの段階で肩部装甲とされていたパーツは翼状のバックパックに差し替えられており、指示書きにおいて頭部のトサカ状パーツは烏帽子がモチーフであることが言及されている。 設定解説[編集] ザフトの初代制式主力機にして世界初の汎用量産型MS。その源流となるのはファーストコーディネイターであるジョージ・グレンの木星探査船「ツィオルコフスキー」に搭載された外骨格・補助動力装備型の宇宙服である。その後、不整地でも移動可能な二足の脚部と、運搬用のアームを持つ作業用機械としてフォークリフトに類似した「パワーローダー」が開発される。プラントの技術陣では、これを前身として、多種多様な武器を持つ手と様々な足場に対応できる足を有しつつ、「戦艦に匹敵する火力」「戦車に匹敵する装甲」「戦闘機に匹敵する機動性」を両立した機動兵器としてモビルスーツの開発をスタートさせる[注 2]。 CE65年にMS試作1号機「ザフト」がロールアウトした後、CE67年に実用量産モデルとしてジンの初期型であるYMF-01Bプロトジンが完成[注 3]。その後、プラント・マイウス市の一部を極秘裏に改造し、MSの生産体制を構築。ジンはより戦闘力を高めた制式量産機として完成する。 CE69年に存在が明かされたZGMF-1017ジンはハインライン局によって開発された機体であり、地球に比べてプラントの人的資源は少ないため、サバイバリティを考慮して一人乗りの機体としている[注 4]。初期のMSであるゆえに主な仮想敵はMAであり、戦力比にして地球連合軍の主力MAであるメビウスと1:3、または1:5という優位性を誇る。 一方で、モビルスーツの構造は既存技術を固めたものであり、機械的に解析や構造を模倣する事はさほど困難ではない。これは制式機であるジンにおいても同様で、オーブ連合首長国ではそのままコピー機を作ることすら可能であった。また、ただし、その操縦系統は高度な反射神経・運動能力・判断力・認識力が必要とされ、難易度の高いOSによってコーディネイターにしか操作が行えないという図式を形成する事で、戦争序盤においては優位性を勝ち得ていた[注 5]。 機体構造[編集]

Continue reading

形而上詩人 – Wikipedia

形而上詩人(けいじじょうしじん、英語:metaphysical poets)とは、ジョン・ダンやジョージ・ハーバートなど、17世紀のイギリス抒情詩人の中で、形而上学的な仕掛けとその研究に関心のあった詩人たちを指す。「形而上詩人」という言葉を最初に使ったのは、後の時代のサミュエル・ジョンソンであり、形而上詩人と言われる詩人たちが自分たちで形而上派を名乗ったり、運動を起こしたりしたことはなく、さらに多くの詩人たちは他の詩人のことを知らず、本も読んだこともなかった。 20世紀初頭、T・S・エリオットらによって再評価され、脚光を浴びた。エリオットは『形而上詩人』(1921年)というエッセイを書いた。 形而上詩人のスタイルは、ウィット(機智)、巧妙な論法、「形而上的奇想(metaphysical conceits)」、および/または、アンドルー・マーヴェル(Andrew Marvell)の魂と一滴の雫を対比させるような、普通でない直喩またはメタファーが特徴的である。何人かの詩人(とくにジョン・ダン)はネオプラトニズムの影響を受けている。形而上詩人の中に見つかる初期のプラトニックな奇想の一つとして、最愛の人の中の理想の美が、永遠の王国の究極の美の記憶の役を果たす。 「形而上」の意味[編集] 『詩人伝(Lives of the Most Eminent English Poets)』(1779年 – 1781年)の『カウリー伝』の中で、サミュエル・ジョンソンは17世紀のはじめについて、「形而上詩人(metaphysical poets)とも呼ぶべき作家の一団が現れた」と言及した。しかしジョンソンは「形而上(metaphysics)」という言葉を本来の意味で使おうと意図したわけではないようで、おそらくジョン・ドライデンのジョン・ダンについての警句「彼は風刺詩だけでなく自然さのみが支配すべき恋愛詩の中でもmetaphysics(空論、抽象論)を好んで用いた。そして、恋の優しさで女性の心を引きつけ楽しませるべき時に、哲学の素晴らしい空論(speculations)で女性の心を困惑させた。この中で……カウリー氏は彼を真似て失敗した」について言及したのだと思われる。ドライデンが形而上派、つまり形而上詩人のグループについて語る前に「metaphysics」という言葉を使った作家はウィリアム・ドラモンド・オブ・ホーソーンデン(William Drummond of Hawthornden,

Continue reading

こめ油 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “こめ油” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) こめ油(こめゆ、こめあぶら、べいゆ、米油、rice bran oil) は、米糠から抽出される植物油である。米糠油(こめぬかゆ、こめぬかあぶら)とも。様々な呼び名や書き方があるが、日本農林規格 (JAS) では「こめ油」を使用している。 原材料と副産物[編集] こめ油の原材料は、玄米を搗精した際の副産物である米糠である[2]。日本では主食である米を原料にしているため、原料をほぼ国産で賄える唯一の植物油である。また、抽出工程のみを行う工場を含めれば、こめ油製造工場は北海道から沖縄県まで存在する。近年は東南アジアや米国からの輸入も行われているようだが、その量はごくわずかである。 日本においては、国産原料を使用していることから学校給食関係者には好評であるが[2]、大豆油などに比べると価格が高いので、使用は一部に留まっている。 また、米の消費量が年々減少しているため、こめ油は安定した出荷がありながら、製造会社は原料の手当てに苦慮している。1990年代にはエノキタケの培養床に米糠が使われたため、栽培業者と製油業者の間で原料の奪い合いが起きた。エノキダケの方が収益性が良く、栽培業者が米糠を高く買い取ったため、一時、こめ油業界は深刻な事態に陥った。その後、エノキダケの培養床は米糠からトウモロコシの芯(コーンコブ)に移行したため、危機を乗り越えることができた。しかし、長期的に見て原料供給が増える見込みが立たないことに変わりはない。 他の植物油原料と異なり、米糠には油脂分解酵素リパーゼが多量に含まれている。そのため、原油中の遊離脂肪酸量が多く、酸価

Continue reading