Month: September 2017

トライアングル・サービス – Wikipedia

トライアングル・サービス(TRIANGLE SERVICE)は、主に業務用・家庭用ゲーム機用のコンピュータゲームを製作している会社である。ユーザーからの略称はトラサビなど。 商業向けでゲーム製作には数十人〜数百人規模とかかっている作品が多い中において、僅か3名の製作スタッフによってゲームを製作している。そのうち、サウンド・キャラクターデザインを除く全てを藤野社長一人が担当している。 会社設立までの経緯[編集] 藤野俊昭はヒューマンクリエイティブスクール卒業後、いくつかのゲームメーカーを転々としていた。その中でG-STREAM G2020の開発に関わった際、発注元であるオリエンタルソフトから給与未払いのうえゲームデータも未完成のまま奪われてしまう、という詐欺まがいの仕打ちを受けてしまう。 藤野は「G-STREAM」を自分の思ったとおりのゲームに完成させて売る、という目的の新たな会社を設立した。それがトライアングル・サービスである。 ちなみに会社名は「ナイアガラ・トライアングル」と「サニーデイ・サービス」が由来であり、ビジネス用語の「サービストライアングル」からではない。 開発したゲーム作品[編集] 発売タイトル[編集] イベント用タイトル[編集] いずれも商業製品としては未発売。 アーケード向けの作品。基板は『シューティングラブ。2007』と同じくNAOMI(ROM)。内容及びタイトルは『シュウォッチ』のオマージュと「ウルトラマン」のパロディ。正義の味方「射ルトラマン」に10秒間の連射でパワーを与えるという設定。射ルトラマンの声優は藤野社長本人。BGMは『シューティングラブ。2007』でも一部楽曲を手がけたWASi303によるもので、アーケードゲームとして初めて[1]主題歌には『初音ミク』の音声が使用されている。 シューティングラブ。8 プラットフォームはWindows。その名の通り、『シューティング技能検定(業務用)』を8人同時対戦できる作品。8人対戦に適したように、アーケード版とは若干ミニゲームの内容も変更されている。 トライアングルサービスの作品としては、シューティングゲーム以外のジャンル作。ゲームショーに出展はしていたが、諸事情で発売未定となっている。2009年2月12日にシューティングラブ。200Xの公式ブログで情報が公開された。 トライアングル・サービスがピンチです![編集] トライジールのドリームキャスト版を販売するに当たって注文予約数の少なさに困惑した藤野社長が、自社サイトに上記タイトルのサイトを開設し購入の呼びかけを行った[2]。内容は「借金をして会社を立ち上げたが売り上げが芳しくない」ということをかなり率直に書いた完全な自虐ネタで、企業自らがこの様な形での呼びかけを行うことはテレビゲーム業界においては前代未聞であり、賛否両論ながらネット上において注目を集めた。その結果多数の個人およびゲーム店などから応援のメッセージや問い合わせが殺到し、ソフトは2006年末頃までに生産分のほとんどを売りきり、2007年初頭にDCソフトとしては異例の再生産を行うまでになった。結果としてこの呼びかけは大成功だったと言える。 また、2006年11月に銚子電鉄がウェブサイト上で自社の窮状を訴えた際に、ゲーム系のサイトでしばしばこの件が引き合いに出されたが、とくに関連性はない。 シューティングラブ。[編集]

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赤穂藩 – Wikipedia

赤穂城 高麗門二層櫓 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 「元禄赤穂事件」(忠臣蔵)の浅野家が治めた藩として有名だが、最も長く在封したのはその後に移封されてきた森家である。なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった[1]。 前史(赤穂藩以前)[編集] 戦国時代は赤松(播磨守護)・浦上(備前守護代)・宇喜多氏らが赤穂郡も領したが、いずれも他郡からの間接統治であった。赤穂(加里屋)に入部して直接統治したのは生駒親正が初であり、石高は桃山・江戸期を通じ最大の6万石であった[2]。 文禄4年(1595年)に生駒氏は讃岐国12万6千200石に転封となり[3]、赤穂は再び宇喜多秀家による間接統治に戻る[4]。宇喜多氏は関ヶ原での実質的な西軍の現地指揮官となり、戦後に改易のうえ流罪となった。 池田家の時代[編集] 関ヶ原で東軍に属した池田輝政は大幅な加増を受け、播磨一国の国守となる。輝政の五男・政綱は元和元年(1615年)、兄である忠継の死により岡山藩を相続した忠雄より、母・良正院の遺領分のうち3万5000石を分知され、ここに赤穂藩が立藩した。寛永8年(1631年)、政綱は嗣子なく没し、同国佐用郡平福藩で2万5000石を領していた弟の輝興に相続が認められた。しかし、輝興は正保2年(1645年)、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し、本家である岡山藩主池田光政の預かりとなり、改易となった(「正保赤穂事件」)[5]。 浅野家の時代[編集] 同年、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。長直は石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、さらに城下町も造営した。転封と工事により財政は悪化した。池田家の代より始まっていた塩田開発を奨励し整備を行い、塩を赤穂の特産品とした。以後、塩は赤穂の特産として藩財政を支えて行くこととなる(当時は通称「赤穂塩」と呼ばれていた。現在の現地遺跡の発掘により、その起源は、弥生時代にまで遡るとする研究結果もある)。 第2代藩主・長友は寛文11年(1671年)、義兄・義弟に分知し、石高は5万石となった。 元禄14年(1701年)、第3代藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こし、長矩は切腹、浅野家は改易となった。この際、藩札の残額が九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老の大石良雄らが、債権者による混乱の対処に奮闘した(取り潰される藩のものとしては、額面の6割[6]という高い率の銀正貨で回収している)[7]。 広島藩の「浅野家文書」では赤穂藩の藩札回収に広島本家と三好藩からの多額の援助が記され[8]、赤穂藩の断絶後に浅野本家は鴻池家からの借財が桁違いに増加している[9]。一方、岡山藩の記録では赤穂の「札之高都合三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩札を持つ備前商人が(赤穂藩としては、基本的には他領での流通を制限した事になっているが、実際には藩外にも流出した)「四分六分」の換金率(額面の4割)だと言われて赤穂城下で喧嘩同然の騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に、仕方なく池田家で肩代わりしたと記される[10]。 そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。連座した長矩の弟・浅野長広は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられたが、宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広の跡は嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野家は、安房国で続くことになる。 永井家および森家の時代[編集] 刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている。 同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家赤穂藩士の格式(席)は、藩主に御目見が許される士分(給人格)と徒士、御目見が出来ない下代(足軽・中間など)の大きく3つに分けられた。下代の多くは苗字を名乗れなかった。森家赤穂藩には大石氏(広島藩・浅野本家の大三郎系が絶家ののち、大石信清系が大石宗家の扱いで花岳寺にて大石氏の祭祀を継承している[12])など旧浅野家臣もみられる[13]。 幕末の安政4年(1857年)に森主税が家老になったが、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた中下級武士の反感を買って暗殺される事件があった[14](「文久赤穂事件」)。 1869年(明治2年)の版籍奉還で藩主森忠儀が知藩事に就任。1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となり、その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。森家は1869年(明治2年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)には華族令の施行とともに子爵を授爵した。

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テクノプロ・ホールディングス – Wikipedia

テクノプロ・ホールディングス株式会社(英称:TechnoPro Holdings,Inc.)は、日本の人材派遣会社「テクノプロ」等を統括する持株会社。本社は、東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー。 本稿では、暫定的に同社の前身であるプロンプトホールディングス(旧 アドバンテージ・リソーシング・ジャパン←ラディアホールディングス←グッドウィル・グループ)の内容も併記する。 2016年現在はテクノプロが手がける技術者派遣が事業の中心であるが、かつては日雇い派遣や軽作業派遣を中心とした人材派遣の「グッドウィル」(持株会社から分離)、訪問介護などの介護ビジネスを担っていた「コムスン」、かつて事実上の業界最大手であった「クリスタル」(後の「ラディアホールディングス・プレミア」)の3社を中心として、人材派遣事業や介護事業を手広く手がけていた。しかし、コムスンの介護報酬不正請求やグッドウィルの違法派遣などの不祥事をきっかけとした両社の廃業、それに2008年秋以降の景気悪化による労働者派遣需要の急激な落ち込みが重なって経営が悪化し、外資の支援の下で経営を立て直すこととなった。 その後技術者派遣に事業領域を集中させたことが奏功し、2014年には外資の支援の手を離れ東証に再上場。メイテックと並ぶ業界大手となっている。 グッドウィル・グループ成立まで[編集] 1995年、「株式会社グッドウィル」を、佐藤修(現・マスターピース・グループ株式会社代表取締役会長)、川上真一郎(前グッドウィル・グループ株式会社代表取締役社長兼COO)、神野彰史(前グッドウィル・グループ株式会社常務執行役員、前グッドウィル社長)の3名が、中心となって設立する。 グループ・会社の中心人物であった折口雅博は、総合商社「日商岩井」(現・「双日株式会社」)所属時に、日商岩井とイギリス・レジャー企業との共同出資で、バブル景気後期の1990年代初めに営業をしていた大型ディスコジュリアナ東京、六本木ヴェルファーレなどの立ち上げ経験があるのみであったが、軽作業請負で、日払いのスタッフへの給与を払う資金が尽きたところへ折口が自己資金を投入し、外部の資金も導いたことがきっかけで役員となった後、代表となったのであり、創業者の一員ではない。 その後「グッドウィル・グループ株式会社」に商号変更するが、副会長だった佐藤が株式会社マスターピース(現・マスターピース・グループ株式会社)を分社独立して去ったことにより、折口によるワンマン経営となった。 2004年8月に「グッドウィル・グループ」は持株会社に移行(これに伴い、同年4月に新たに設立したグッドウィルがほぼ全事業を譲受)。 前社名の「グッドウィル」は、アメリカ合衆国で創立された社会的弱者の職業訓練・自立支援のために、寄付された古着・古本・家電などの再生販売をして多額の収益金と雇用機会を生み出している非営利団体の名前から取ったもので、「善意」「商売上の信用」の意。アメリカのグッドウィル・インダストリーズは、コミュニティ・ビジネスを行う慈善団体として広く知れ渡った名称であり、日本とは無関係である。 本社などの移転[編集] 2007年5月の東京ミッドタウン開業時に、本社および関連会社のほとんどを旧防衛庁跡地に建設された東京ミッドタウン・タワーに移転する予定であったが、同年に発覚したコムスン問題などがあり、実際に移転したのは、以下の10部門である(全てグループ子会社)。 グッドウィル(日雇い派遣、モバイト・ドット・コム、総合受付などを担当。総合人材派遣部門。29F/30F) テクノプロ・エンジニアリング(TPEG、総合エンジニアリングサービス部門。31F) ソア(SORE、イベント・セールスプロモーション、イベントコンパニオン、MC、ナレーター部門。29F) 以下、旧クリスタル系 しかし、ラディアホールディングスの事業再建計画を達成するため、ミッドタウン・タワーから全て撤退し、2008年11月1日・4日にほぼ全ての企業を六本木ヒルズ森タワーに移転させた。なお、一部企業は、東京都中央区日本橋室町の古河ビルに移転させたが、2009年7月1日をもってラディアホールディングスが、技術派遣事業特化する事によりプレミア・スタッフ及びプレミア・ラインが事業譲渡、またラディアホールディングスの特例子会社のラディアスマイルとプレミア・スマイルが、合併された為、2009年7月1日現在事実上グループ子会社のすべての企業が、六本木ヒルズ森タワーに入居している。

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自然災害休業休校措置法 – Wikipedia

自然災害休業休校措置法 台湾で頻発する台風被害。天災休業休校措置法は主に台風に対応すべく制定された。 各種表記 繁体字: 天然災害停止辦公及上課作業辦法 簡体字: 天然災害停止办公及上课作业办法 拼音: Tiānrá Zāihài Tíngzhĭ Bàngōng Jí Shàngkè Zuòyè Bànfă 注音符号: ㄊ|ㄢ ㄖㄢˊ ㄗㄞ

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義仲寺 – Wikipedia

義仲寺(ぎちゅうじ)は、滋賀県大津市にある天台宗系単立の寺院。山号は朝日山。本尊は聖観音菩薩。境内全域が1967年(昭和42年)に国の史跡に指定されている。 この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。戦国時代に荒廃したが、天文22年(1553年)頃、近江守護の六角義賢によって再興された。また、この頃は石山寺の配下となっていた。 江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684年 – 1688年)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692年)には寺名を義仲寺に改めている。 俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人びとを愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉だが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により元禄7年(1694年)10月、義仲の墓の横に葬られた。又玄(ゆうげん)の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名である。 元禄10年(1697年)、園城寺は源義仲が禅宗の信徒であったことから、義仲寺の住持に禅僧の泰宗を任じたが、園城寺内で、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)の園城寺がその配下の寺院の住持に禅僧を任じるのはおかしいとの話が上がり、泰宗は住持から外された。しかし、留守居としてそのまま管理が委ねられた。以降、当寺は蕉門俳諧の人々によって護持されていくようになる。 その後またも当寺は荒廃してしまった。また、宝暦年間(1751年 – 1764年)には本寺の光浄院が困窮したために、本寺が園城寺子院・法明院に変更されたりしている。 そんな中の明和6年(1769年)、京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけてようやく中興した。後に本寺も光浄院に戻されている。寛政5年(1793年)には盛大に芭蕉百回忌が行われた。 1896年(明治29年)に琵琶湖大水害で被害を受けるが、1900年(明治33年)以降に復興する。また、この頃には本寺が園城寺の三門跡の一つである円満院となっている。 昭和期、太平洋戦争後に再び荒廃壊滅の危機に瀕する。しかし、一個人の篤志家による寄進によって1965年(昭和40年)、円満院から境内地を買い取り、ついで独立・再興し、単立の寺院となった。その後の境内の整備費もその篤志家の寄進による。再建に尽力したフィクサー三浦義一と文芸評論家保田與重郎の墓所もある。 国指定史跡[編集] 大津市指定有形文化財[編集] 紙本著色芭蕉翁絵詞伝 3巻 大津市指定史跡[編集] その他[編集] 衣冠束帯姿で矢を持つ義仲の木像が安置されている。

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ムーニー (おむつ) – Wikipedia

ムーニー(英: Moony)は、ユニ・チャームが製造・販売するベビー用品のブランド。1981年発売。主な商品は乳幼児用の紙おむつとおしりふき。 同社が製造販売を行う乳幼児用の紙おむつ、おしりふきや母乳パッドのブランドである。日本及び中国においては、同社が製造販売をする紙おむつのもう一つの主力ブランドである「マミー・ポコ」が価格重視であるのに対し、「ムーニー」ブランドは機能性・品質重視に設定されている。1992年以降はテープ止めタイプのおむつを「ムーニー」[1]、パンツタイプのおむつを「ムーニーマン」[2]としてブランドを使い分けている。2016年にはオーガニックコットンを採用し、「ムーニー」よりさらに高機能な「ナチュラルムーニー」及び「ナチュラルムーニーマン」が日本[3]、中国[4]、台湾[5][6]で投入された。 派生商品として1987年には就寝時の排泄に特化した「ウルトラムーニーナイト」(テープ止めタイプ)を発売、1990年には高月齢児の夜尿症対策に特化した使い捨てパンツの「ムーニーオヤスミマン」が試験販売された(正式発売は1991年)。前者は現在は「ムーニー」と統合され廃止、後者は発売後すぐに「オヤスミマン」となり「ムーニー」から独立し、現在に至る。 1981年 – ベビー用紙オムツ『ムーニー』を発売[7]。 1987年 – ギャザーを立体形状に改良した『ウルトラムーニー』、夜専用として高分子吸収体を増量した『ウルトラムーニーナイト』を発売。 1991年 – 夜尿症に特化した『ムーニー オヤスミマン』を発売。(札幌地区のみ前年に試験販売)[8] 1992年 – はかせるオムツ『ムーニーマン』を発売。 1993年 – 片手でとりだせるおしりふき『ムーニーちゃんラクラクおしりふき』を発売

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劇団Q⁺ – Wikipedia

劇団Q⁺(げきだんきゅー)は、東京、神奈川を中心に活動する劇団。2014年活動開始。 劇団Q+(げきだんきゅう)は、演出家の柳本順也が主宰する演劇集団。神奈川県横浜市で活動していた社会人劇団「横浜スタイル」を前身とし、元メンバーの公演を柳本がプロデュースする形で2014年より活動開始。現在は東京都を拠点に活動している。 メンバーは、20~50代までの幅広い世代で構成。劇団の活動以外にも、芸能事務所に所属しプロを目指す者や、仕事や家事、学業などの傍ら演劇を学ぶ者など多様なメンバーが集っている。 おもな活動には、座付き作家の吉村伸による脚本を柳本が演出し、プロの役者やダンサーも招いて行う本公演がある。そのほか、劇団内の有志メンバーによる企画公演や外部イベントへの参加など、合わせて年に1~3本ほどの作品を上演。また、所属メンバーたちの特技を生かした音楽や映像、朗読などの小作品を動画サイトYouTubeで積極的に公開している。 公演作品は、デザイナーおよびアートディレクターでもある柳本の美意識を強く反映しており、衣装や舞台美術、宣伝美術へのこだわりが特徴。さらに役者たちのエネルギッシュな芝居と融合する、ダンスパフォーマンスや楽器の生演奏、プロジェクターを使った映像投影、ライブペインティングなどの試みも魅力である。 本公演[編集] 劇団Q⁺第1回本公演『お茶屋の家族』(2014年6月21日~22日 @STスポット) 劇団Q⁺第2回本公演『絵筆師のコグレ』(2015年7月18日~19日 @STスポット) 劇団Q⁺第3回本公演『Outsider-A』(2016年7月2日~3日 @STスポット) 劇団Q⁺第4回本公演『アイノカタチ』(2017年8月5日~6日 @のげシャーレ) 劇団Q⁺第5回本公演『サンパティック★ブロンコ』(2018年9月15日~17日 @ラゾーナ川崎プラザソル) 劇団Q⁺第6回本公演『夢中/滑稽』(2019年9月14日~16日 @ラゾーナ川崎プラザソル) 劇団Q⁺第7回本公演『アニマと迷子の王子』(2021年6月18日~20日 @ラゾーナ川崎プラザソル)

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アメリカ合衆国の救助隊 – Wikipedia

アメリカ合衆国における救助隊(英:)は消防・警察・救急機関によって組織されている[1]。 都市型捜索救助隊[編集] 緊急事態管理庁(FEMA)によって管理される救助隊であり、USARまたはUS&Rと略される。各州で組織されたタスクフォースがあり、ハリケーンなどの自然災害によって被災された地域で活動する。また、ガス爆発やテロ攻撃などの被災地でも活動する。 1989年ロマプリエータ地震の教訓から都市型捜索救助システムが運用された。また、東日本大震災にも出動し、被災地で捜索救助活動を行った。 役割 救急活動なども行うため、タスクフォースに所属するのはレスキュー隊員だけでなく救急隊員や指揮官などがいる。 瓦礫や倒壊した建物で捜索救助 閉じ込められた被災者への救急医療提供 救助犬を用いた捜索及び救助 被災地での危険物の管理 損傷した建築物の安定化(ショアリング・クリビング技術等を用いて崩壊のリスクを抑える) USARタスクフォース タスクフォースは消防だけでなく警察や医療機関によって組織される場合がある。災害出動は被災地に近い3つのタスクフォースによって行われ、日本の緊急消防援助隊と似ているが、消防車での移動は稀で大型トレーラーやバスなどを使用するケースが多い 全米で28チームがあり、そのほとんどが消防機関であるが、その内2チームは警察によって組織されている(ニューヨーク市警察とニュージャージー州警察)。 消防の救助隊[編集] 日本の消防救助隊と同様に多くの消防がレスキュー隊を保有している。日本のような各署に1隊ではなく、全体で1隊または2隊といった少数の救助小隊のみである場合が多い。理由として、アメリカの消防車(主にはしご車)には資機材収納部が多く油圧救助機材等を積載することによって、交通事故救助などはレスキュー隊がいない場合でも消防隊だけで対応できる消防局がほとんどだからである。ニューヨーク市では5隊、シカゴ市では4隊などと大都市でも専任の救助隊は少数である。小規模消防では、専任救助隊を保有せずポンプ車に救助資機材を積載して救助兼任消防隊であったり、危険物処理班や消防隊と兼務されていたりするなどしている。 警察の救助隊[編集] ニューヨーク市警察のESUなど、救助隊を保有している警察もある。多くの場合はSWAT隊員と兼務されている。 救助車両[編集] 多くの救助隊はレスキュー車(日本の救助工作車に相当)を使用しており、日本の救助工作車とは異なりクレーンを装備している車両は極少数である。多くの救助資機材を塔積載しているため、ローリングツールボックス(車輪付きの道具箱)と呼ばれることがある。ほとんどは、ポンプ付やウォークインと呼ばれる資機材積載部の後方にドアがありそこから車内にアクセスできるタイプ(日本ではバス型救助工作車と呼ばれる)か、ウォークアラウンドと呼ばれる全面が資機材積載部または後方に乗降用階段がある車両である。稀な例として、クレーンを装備していたり、作戦指揮室付、カスタムボディー(日本のキャブバス型救助工作車に相当)、トレーラータイプの車両なども存在する。消防車両の規定を定めるNFPA1901では特別サービス消防車と分類される(ただし、Rescue

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アルヴィン・カラン – Wikipedia

アルヴィン・カラン(Alvin Curran、1938年12月13日 – )は、アメリカの作曲家、パフォーマー、即興演奏家、サウンド・アーティスト、作家。ロードアイランド州プロビデンスで生まれ、イタリアのローマで暮らしながら仕事をしている。フレデリック・ジェフスキーとリチャード・タイテルバウムとともにムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァの共同創設者であり、かつてはエリオット・カーターの生徒であった。カランの音楽は、多くの場合、電子機器や環境で見つかった音を利用している。2006年までカリフォルニアのミルズ大学で音楽教授を務め、現在はローマで個人的に、そしてさまざまな機関で散発的に教えている。 彼の作品には、『Endangered Species』『TransDadaExpress』『Shofar』[1]などのソロ・パフォーマンス・ピース、『Crystal Psalms』『Un Altro Ferragosto』『I Dreamt John Cage Yodeling at the Zurich Hauptbahnhof』『Living Room Music』のようなラジオ作品、300人のアマチュア・ブラスバンド・ミュージシャンのための『Oh Brass

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