Month: November 2017

野口忠直 – Wikipedia

日本の政治家 野口忠直 のぐち ただなお 生年月日 (1935-02-19) 1935年2月19日 出生地 東京都府中市 没年月日 (2017-03-27) 2017年3月27日(82歳没) 出身校 学習院大学政治経済学部 前職 府中市収入役・市長 現職 合名会社野口酒造店六代目当主 所属政党 無所属

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ウィリアム・スペアズ・ブルース – Wikipedia

ウィリアム・スペアズ・ブルース(-・スピアーズ・-、英: William Speirs Bruce、1867年8月1日 – 1921年10月28日、エディンバラ王立協会員)は、スコットランドの博物学者、極圏科学者、海洋学者であり、スコットランド国営南極遠征隊を組織して指導し、サウス・オークニー諸島からウェッデル海を探検した(1902年-1904年)。数ある業績の中でも、南極圏で初の恒久的気象観測所を設立したことがある。ブルースは後にスコットランド海洋学研究所を設立したが、南極点を通って南極大陸を横断するという計画は、公的支援や財政的支援が無かったので放棄された。 1892年、ブルースはエディンバラ大学での医学の勉強を放棄し、南極海へのダンディ捕鯨遠征に科学助手として参加した。その後には北極海でノヴァヤゼムリャ、スピッツベルゲン島、フランツ・ジョゼフ・ランドに航海した。1899年、当時イギリスでは最も経験を積んだ極圏科学者であり、ロバート・スコットが隊長を務めるディスカバリー遠征に応募したが、その指名が遅れたこと、ならびに王立地理学会長クレメンツ・マーカム卿と衝突したことによって、ブルースが自ら遠征隊を組織することになり、イギリスの地理関連団体とは永遠に続く敵対関係になった。ブルースは極圏での働きで様々な表彰を受けた。例えばアバディーン大学からの名誉博士号であるが、ブルースもスコットランド国営南極遠征隊隊員も、権威ある極地メダルについて王立地理学会からの推薦を得られなかった。 1907年から1920年、科学と商業の両方の目的で、ブルースは北極圏に何度も旅した。スコットランド国営南極遠征の後には大きな探検事業を仕掛けることができなかったことは、宣伝技術の無さ、強力な敵の存在、さらにブルース自身の熱烈なスコットランド国粋主義の性とされている。1919年までに健康が衰え、1921年に死するまでに何度か病院に入院した。死後はほとんど忘れられた存在となった。近年、スコットランド国営南極遠征から1世紀が経って、科学的極圏探検の歴史におけるその役割に十分な認識を与える動きが行われている。 初期の経歴[編集] 生い立ちと学校教育[編集] ウィリアム・スペアズ・ブルースは1867年8月1日に、ロンドンで生まれた。父はスコットランド人の医師サミュエル・ノーブル・ブルース、母はウェールズ出身のメアリー(旧姓ロイド)であり、その4番目の子供だった。ブルースのミドルネームであるスペアズは一族の別の系列から来ていた。その綴りは通常の”Spiers”とは異なって特徴があり、記者、批評家、伝記作者には問題を引き起こしていた。ブルースの子供時代は、ロンドンのホランドパーク、ロイヤル・クレセント18にあった家族の家で過ごし、祖父のウィリアム・ブルース牧師の後見を受けた。近くにあるケンジントン・ガーデンズを定期的に訪れ、時にはロンドン自然史博物館に行った。父のサミュエル・ノーブル・ブルースに拠れば、このような外出行動が幼いウィリアム・ブルースの生命と自然に対する興味に火をつけた。 1879年、ブルースが12歳のときに、ノーフォークのノースエルマンの村にある進歩的な寄宿制学校であるノーフォーク郡学校(後のワッツ海兵学校)に送られた。1885年までそこに留まり、その後にハムステッドのユニバーシティ・カレッジ・スクールで2年間を過ごし、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの医学校に入るための入学試験の準備をした。ブルースは3度目の挑戦で試験に合格し、1887年夏には医学の勉強を始める準備ができた。 エディンバラ[編集] 1887年夏、ブルースは北のエディンバラに旅し、博物学の一組の余暇コースに出席した。その6週間のコースはフォース湾のグラントンに設立されたばかりのスコットランド海洋ステーションで開催され、パトリック・ゲデスとジョン・アーサー・トムソンが指導し、植物学や実践的動物学が含まれていた。このグラントンでの経験と、当時最前線の博物学者と接したことで、ブルースはスコットランドに留まる決心をした。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの籍は放棄し、エディンバラ大学の医学校に入学した。このことでゲデスやトムソンのような庇護者との接触を維持でき、自由な時間はエディンバラ研究所で働く機会も得られた。そこでは、チャレンジャー号探検航海(1872年-1876年)から持ち帰られた標本が検査され、分類されていた。ブルースはここでジョン・マレー博士とその助手であるジョン・ヤング・ブキャナンの下で働き、海洋学について深い知識を取得し、科学的調査の原則については貴重な体験をした。 最初の航海[編集] ダンディ捕鯨遠征[編集] 典型的セミクジラの大きさを示すイラスト、人の大きさと対比させてある 1892年から1893年のダンディ捕鯨遠征は、南極海でのセミクジラの生息域を突き止めて、その商業捕鯨の可能性を調査する試みだった。科学的観測と海洋学の研究も、バリーナ、アクティブ、ダイアナ、ポーラースターという4隻の捕鯨船で行われた。ブルースはヒュー・ロバート・ミルからこの遠征に推薦された。ミルはグラントンの時から知り合いであり、当時はロンドンの王立地理学会の司書をしていた。それに参加することは、医学の勉強ができなくなることだったが[A]、ブルースは躊躇せず、助手のウィリアム・ゴードン・バーン・マードックと共に、アレクサンダー・フェアウェザー船長の下にバリーナで任務に就いた。4隻の船は1892年9月6日にダンディを出港した。 ブルースは、比較的短い遠征後の1893年5月にスコットランドに戻った。この遠征は主目的からいうと失敗であり、科学的作業については限られた機会しか得られなかった。セミクジラは見つからず、遠征の損失を少なくするために大量のアザラシの殺戮が命ぜられ、皮、油、脂肪が確保された。ブルースはその殺戮に加わると期待されたので、特に不快だった。この航海から得られた科学的成果は、ブルースの言い方で「惨めなショー」だった[9]。ブルースが王立地理学会に宛てて書いた手紙では、「マスター(フェアウェザー船長)の総体的態度は科学的な仕事にとって好ましい状態とははるかに遠いものだった」と記していた[10]。ブルースは海図に接することも拒否され、現象の起こっている正確な場所も特定できなかった。気象学など観測を行う場合には「ボートで」行うことを求められ、標本を作るために如何なる設備も宛がわれず、標本の多くは乗組員の不注意な取り扱いによって失われた。それでも、王立地理学会に宛てた手紙の最後には「これら全ての挫折にも拘わらず、有益で喜ばしい経験となったものに私を助けてくれたことで、学会に感謝しなければならない」と締め括っていた[10]。ミルに宛てた手紙では、南極に再度行きたいことを説明し、「今回味わったことが私を貪欲にした」と付け加えていた[11]。 ブルースは数か月の内にサウスジョージアに向けた科学的遠征の提案を行ったが、王立地理学会はその計画を支持しなかった。1896年初期、ノルウェーのヘンリク・ブルとカルステン・ボルクグレヴィンクと協力して、南磁極に到達する試みを検討した。これも実現には至らなかった。

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ジャーナルサイテーションレポート – Wikipedia

ジャーナルサイテーションレポート(英: Journal Citation Reports (JCR))は、クラリベイト・アナリティクス(以前はトムソン・ロイター)によって発行される雑誌のこと。Web of Scienceと提携しておりそこからアクセスができる。自然科学と社会科学の学術雑誌のインパクトファクターなどの情報を提供している。もともとサイテーションインデックスとして公開されたが、近年はScience Citation IndexとSocial Sciences Citation Index(英語版)の引用を行っている[1]。 雑誌の基本情報[編集] 各ジャーナルに対して以下の情報が提供される 出版社の基本的な書誌情報、タイトルの略語、言語、ISSN 主題のカテゴリー(自然科学には171のカテゴリーがあり、社会科学には54のカテゴリーがある) 引用情報[編集] 基本的な引用情報: その年に発行された記事数 雑誌内の記事が、他の雑誌の記事に引用された年内の回数

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ヒルズデール・カウンティ (戦車揚陸艦) – Wikipedia

ヒルズデール・カウンティ(USS Hillsdale County, LST-835)は、アメリカ海軍向けに建造されたLST-542級戦車揚陸艦の1隻。艦名はミシガン州ヒルズデール郡にちなみ、現在までにこの名を与えられた唯一の米軍艦である。当初の艦名はLST-835だった。 1944年9月6日、ペンシルバニア州アンブリッジ(英語版)のアメリカン・ブリッジにて起工され、1944年9月25日にはI・ラファエル夫人 (Mrs. I. Raphael) をスポンサーに迎えて進水式が行われた。1944年11月20日、ウィリアム・H・マクヘンリー中尉 (William H. McHenry) を艦長に迎えて就役する。 第二次世界大戦(1944年 – 1945年)[編集] フロリダ沖での習熟航行の後、LST-835はニューオーリンズにて弾薬を積載し、12月28日に出発した。西海岸および真珠湾に寄港した後、1945年3月18日にグアムに到着した。以後の6週間、LST-835はマリアナから硫黄島に対する兵員や車両、各種物資などの輸送任務に従事した。4月25日、サイパン島から激戦が続く沖縄へと各種弾薬の輸送を行なった。以後は終戦まで太平洋のアメリカ軍駐留地域で兵員および物資の輸送に従事した。 1945年 – 1989年[編集]

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沈黙のパレード – Wikipedia

『沈黙のパレード』(ちんもくのパレード)は、2018年10月11日に文藝春秋から刊行された東野圭吾の推理小説。ガリレオシリーズ第9弾にして、6年ぶりとなるシリーズ4作目の長編でもある[1]。 シリーズ前作『禁断の魔術 ガリレオ8』に続く書き下ろし作品[1]。「週刊文春」2018年12月13日号ではこの作品の最大の読みどころは「謎に対して、湯川が科学的なアプローチで取り組む見せ場はもちろんのこと、佐織を大切に想っていたはずの人々がどのように犯罪に関わっていくのか」とあり、それを踏まえた上で、原作者の東野は「被害者を愛した善良の人々が力を合わせたら、湯川でさえも手こずるような謎が生まれるのではと考えたのですが、いざそれを書こうとした時にかなりの壁の高さを感じました」とインタビューで語っている[2]。 2022年に映画版が公開予定。 登場人物[編集] レギュラー[編集] 湯川学(ゆかわ まなぶ) 帝都大学理工学部物理学科教授。本作の前年にアメリカから帰国、東京都菊野(きくの)市に新設された金属材料研究所磁気物理学研究部門に研究拠点を移し、研究所内の宿泊設備に寝泊りすることもあった。草薙の悔しい思いを晴らす手がかりを求めて「なみきや」に顔を出すようになり、常連客になる。 草薙俊平 警視庁捜査一課の警部・係長。 内海薫(うつみ かおる) 警視庁捜査一課の刑事。草薙の部下。 並木家[編集] 並木祐太郎(なみき ゆうたろう) 菊野商店街にある料理店「なみきや」店主。常連客に支えられている店で、野菜の炊き合わせが絶品。 並木真智子(なみき まちこ)

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小栗満重の乱 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “小栗満重の乱” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年2月) 小栗満重の乱(おぐりみつしげのらん)とは、応永29年(1422年)から応永30年(1423年)にわたって北関東で起こった反乱である。小栗氏の乱(おぐりしのらん)とも呼ばれ、また当時の元号から「応永の乱」と呼ばれることもあるが、大内義弘の起こした同名の反乱と区別するために前者で呼ばれることが多い。 室町時代中期に常陸真壁郡小栗御厨を支配していた領主に小栗満重という武将がいた。小栗氏の所領は関東にありながら室町幕府の御料所となっていた中郡荘と近接しており、早くから幕府中央と関係を結んでいた。この満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後に鎌倉公方の足利持氏から所領の一部を没収されていた。これを恨んだ満重は、応永25年(1418年)・応永28年(1421年)に鎌倉府に反抗的な動きを見せている。応永29年(1422年)に宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が応永30年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てた。この乱には山入氏や大掾氏なども加わっていた可能性があること、桃井宣義は中郡荘の幕府代官であった可能性が指摘されており、小栗満重の挙兵の裏には室町幕府の働きかけがあり、それ故に鎌倉公方である持氏自身が出陣したと考えられている(持氏自ら出陣した戦いは、上杉禅秀の乱・小栗氏の乱・永享の乱しかない)[1]。 小栗判官伝説[編集] 満重は歴史上の人物より、伝説上の人物として有名である。江戸時代には人形浄瑠璃や芝居などで有名になった。 小栗落城後、満重は実は死なず、脱出して落ち延びたという。そのとき、相模の旧知である横山大膳という人物を頼った。このとき、横山の娘・照手姫と恋仲になった。ところが横山は小栗の首を差し出して褒美を得ることを目論んでいた。そのため、宴会を開いて酒を勧めたのだが、これが毒酒だった。小栗とその部下は何の疑いも無く飲んでしまい、そして命を落とし、持っていた金品も略奪された。 ところが満重だけは虫の息ながら生きており、部下と共に遺棄された場所で僧侶に助けられて手厚い看病を受けた。特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったという。恋仲になっていた照手姫は父の所業に悲嘆して家を出たが、追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた上で追放された。そして下女として働くことになる。 本復を果たした満重は常陸に戻って再起を果たし、裏切った横山を討ち、下女になっていた照手姫を見つけ出して約束どおり夫婦になった。そして幸せに暮らしたという。 戦後の動向[編集] 常陸小栗氏は常陸国(すなわち関東地方)の武士であるが、鎌倉府(鎌倉公方)の管轄国内の武士でありながら室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆となり、たびたび反鎌倉公方活動を行っていた一族であった。前述の通り、満重も終始一貫して鎌倉公方(足利持氏)への対抗姿勢を見せたが、この行為の裏では扶持衆の直接の主君である4代将軍・足利義持自身が持氏の勢力弱体化のために秘かに認めていたものであるとされ、持氏による親征(小栗満重の討伐)は、これを知った持氏が京都扶持衆に対する見せしめとして行ったものとされる。また、この時に小栗御厨・真壁荘の大部分だけでなく、幕府の御料所である中郡荘も没収して自らの所領に加えたとみられている。義持はこれを、関東から親幕府勢力の一掃を図った「私戦」として激しく非難して三管領や山名時熙・赤松満祐に持氏討伐の是非を諮問する騒ぎとなっている。結局、持氏の謝罪で一旦は納まったものの、以後も京都扶持衆を介在させて持氏の勢力拡大を阻もうとする幕府と彼らの討伐の機会を狙う持氏の対立は続き、永享の乱の原因の1つとなった。やがて永享の乱で持氏が自害して滅んだ後、その遺児(足利春王丸・足利安王丸の兄弟)を擁して結城氏朝が挙兵し(結城合戦)、この戦いで武功を立てた満重の子(一説に弟とも)とされる小栗助重が旧領への復帰を許されたが、康正元年(1455年)、享徳の乱の最中で持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨を失ってしまった(ただし、小栗御厨は小栗満重の乱で関東管領山内上杉氏の所領となったため、成氏の攻撃を受けたとする説もある[2])。その後の助重は出家して宗湛と号し、8代将軍・足利義政の絵師として活躍した。 ^ 杉山、2014年、P288-300

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リアル・ゴーン – Wikipedia

リアル・ゴーン(Real Gone)は、トム・ウェイツが2004年に発表したアルバム。 トムのアルバムとしては初めて、ピアノが全く使用されず、鍵盤楽器も「サーカス」でトム自身がチェンバレンを弾いているのみ。トムの息子のケイシーが、「トップ・オブ・ザ・ヒル」「メトロポリタン・グライド」でターンテーブルを担当している他、ドラムス等も演奏している。 「デイ・アフター・トゥモロウ」は、1人の兵士の視点で歌われた反戦歌で、ジョン・フランズバーグ(ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ)が「moveon.org」「music for america」といった非営利政治団体と共同企画したチャリティ・アルバム『Future Soundtrack for America』(2004年8月、日本未発売)で先行発表されていた。2006年にはドキュメンタリー映画『The Ground Truth』でも使用される[17]。同曲は、allmusic.comにおいて「ここ十年では最も洞察力と思慮深さに満ちた反戦歌」と評された[18]。 「デッド・アンド・ラヴリー」は、トムが俳優として出演した2006年の映画『Wristcutters: A Love Story』で使用された[19]。 全曲トム・ウェイツとキャスリーン・ブレナンの共作。 トップ・オブ・ザ・ヒル – “Top of

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黒塚 – Wikipedia

この項目では、鬼婆にまつわる伝説について説明しています。伝説を題材とした能については「黒塚 (能)」を、夢枕獏による小説作品については「黒塚 KUROZUKA」をご覧ください。 『奥州安達が原ひとつ家の図』(月岡芳年画)この錦絵は「風俗壊乱」として政府により発禁処分となった[1]。 黒塚(くろづか)は、福島県二本松市(旧安達郡大平村)にある鬼婆の墓、及びその鬼婆にまつわる伝説。安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている。 黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている[2]。能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』もこの黒塚の鬼婆伝説に基づく。 黒塚の近隣にある観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっている。 神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した。 しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた。 鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きにより成仏した。祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたという[3]。 なお、伝説にある神亀年間(奈良時代前期)とは時代が異なるものの、祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』などに「東光坊阿闍梨宥慶」の名で記載されており、1163年(長寛元年)に遷化したとされる[3]。 鬼婆の顛末については、以下のような別説もある。 観音像の力で雷鳴が轟き、鬼婆は稲妻に打たれて絶命した[4]。 鬼婆は殺されたのではなく、改心させられて仏教へ帰依し、高僧となった[5]。 祐慶は追いかけてくる鬼婆から必死に逃げ、夜が明けたのでそのまま逃げ切り、命が助かった[1]。 また以下のように、祐慶は鬼婆に偶然出遭ったのではなく、鬼婆を討つ目的で安達ヶ原へ向かったという伝説もある。 祐慶は安達ヶ原で旅人たちを襲う鬼婆の調伏の命を受け、ただちに安達ヶ原へ向かった。しかし一足遅く、鬼婆は北方へ逃走していた。後を追って尾山(現・宮城県角田市)で鬼婆に追いついた祐慶は、鬼婆に斬りつけた。しかし惜しくも鬼婆はわずかに傷を負ったのみで逃げ去ってしまい、祐慶はその地に一堂を建立した。 その約3年後。ある旅人が鬼婆を目撃し、報せを受けた祐慶はすぐさま退治に向かい、逃走する鬼婆を追い詰めた末、見事に退治した。鬼婆の頭部は祐慶の建てた堂に保管され、胴体は尾山のとある丘に埋められ、供養のために桜が植えられた[6]。 鬼婆の頭部があった東光寺は後に廃寺となり、祐慶の子孫とされる安達家に頭蓋骨が伝えられている。この安達家の名も安達ヶ原に由来しており、尾山には他に安達という名は確認されていない。また、胴体を埋めた跡に植えられた桜は、後に見事な大木に育ち、毎年美しい花を咲かせているという[6]。

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