Month: December 2017

調査報告 STAP細胞 不正の深層 – Wikipedia

『調査報告 STAP細胞 不正の深層』(ちょうさほうこく スタップさいぼう ふせいのしんそう)は、2014年7月27日に日本放送協会(NHK)が『NHKスペシャル』で放送した報道番組で、後に、「名誉毀損の人権侵害が認められる」「放送倫理上の問題があった」として放送倫理・番組向上機構により勧告を受けた番組である [1][2][3]。 番組内容[編集] 2014年1月科学誌『ネイチャー』に掲載された小保方晴子、若山照彦、チャールズ・バカンティらによるSTAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)に関する論文の発表から撤回に至るまでの一連の騒動について、なぜこのような論文を発表したのか、また実験内容に問題はなかったのかを検証した番組である[4]。 放送では論文には多数の画像やグラフが掲載されているが、その背景には小保方の上司であった笹井芳樹の指示があったことを述べた上で、その画像等に多数の不審点があることを複数の専門家が指摘。その数は掲載数140点の7割に当たるとのこと[4]。そのほか若山へのインタビューや小保方と笹井の私的なメールのやり取りについてなどが放送されていた[5]。 7月23日、小保方は神戸市内で取材に来たNHKの取材スタッフから追跡取材を受け、そこから逃げる際に負傷、全治2週間の診断を受けた。代理人弁護士の三木秀夫がNHKに抗議、その後NHKから謝罪があったとのこと[7]。 NHKは番組HP等で「史上空前と言われる論文の捏造」などといった強い文面を含む告知を出していた。ネット上ではこうした不正を前提にした内容に注目が集まっていたという[8]。 放送後、小保方側は同番組について「偏った内容だ」「集団リンチの先頭を切っている」と批判した。また負傷したことについても刑事告訴も検討していることも明かした[9]。 そのほか、笹井の自殺についてこの番組が引き金になったのではないかという報道や[10]、通常番組の最後に出る制作スタッフのクレジットが出なかったことに疑問を唱えた上で、小保方氏の実験ノートのコピーが写し出された事について法令違反に当たる可能性があること、などといった指摘も出た[5]。 NHKが公表している視聴者対応報告には2014年7月分には1288件、8月分には586件の反響が寄せられた[11][12]。週別では2014年7月21日から2014年7月27日の間で596件[13]、2014年7月28日から2014年8月3日の間で628件[14]、2014年8月4日から2014年8月17日の間で508件となっていて[15]となっていて、いずれも視聴者への意見の内容は「番組自体への意見と取材方法についての意見等」となっている。 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会は2015年8月19日、STAP細胞の論文不正問題を特集したNHKのドキュメンタリー番組「調査報告 STAP細胞 不正の深層」について、審理入りしたことを明らかにした[16]。2017年2月10日、BPOは、「STAP細胞とされるES細胞は若山研究室の元留学生が作製し、 申立人の研究室で使われる冷凍庫に保管されていたものであって、これを申立人が何らかの不正行為により入手し混入してSTAP細胞を作製した疑惑があるとする事実摘示については、名誉毀損の人権侵害が認められる」とする勧告を出し、NHKに対し再発防止に努めるよう求めた[17][18][19]。 関連項目[編集]

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宮崎県立延岡工業高等学校 – Wikipedia

宮崎県立延岡工業高等学校(みやざきけんりつ のべおかこうぎょうこうとうがっこう)は、宮崎県延岡市緑ヶ丘一丁目に所在する公立の工業高等学校。通称は「延工」(のべこう)。 歴史 1944年(昭和19年)創立の実業学校「宮崎県立延岡工業学校」を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革により「宮崎県立延岡恒富高等学校」の工業課程となる。1950年(昭和25年)に商業課程とともに「宮崎県立延岡向洋高等学校」として分離・独立。1958年(昭和33年)には商業科が宮崎県立延岡商業高等学校として分離・独立。その後1965年(昭和40年)「宮崎県立延岡工業高等学校」となった。2014年(平成26年)に創立70周年を迎えた。宮崎県内の県立高校の中では最大の敷地面積を有する。資格取得に熱心な高校であり、ジュニアマイスターを常に目指している。 設置課程・学科 全日制課程 6学科 機械科 – 機械を利用した物造りについて学ぶ 電気電子科 – 電力・電子通信関連を学ぶ 情報技術科 – コンピュータの構造やプログラミング技術を学ぶ 土木科 – 人々が裕福で安全な生活をするための社会基盤づくりを学ぶ 環境化学システム科

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片野春男 – Wikipedia

片野 春男(かたの はるお、1927年〈昭和2年〉2月25日 – 2020年〈令和2年〉9月16日)は、日本の政治家。勲等は旭日双光章[1]。位階は正六位[2]。扶桑町議会議員(7期)。扶桑町議会議長(3期)[3]。元・警察官(最終階級:警視)[4]。 警察官時代[編集] 1948年(昭和23年)11月4日、警察学校入学。1949年(昭和24年)11月4日、山名駐在所に赴任[5]。その後は一宮警察署捜査係主任、瑞穂警察署交通2係係長、港警察署外勤課長、警察庁(中部管区警察局)、中川警察署刑務調査官を経て、1981年(昭和56年)4月1日、常滑警察署次長[4]。1982年(昭和57年)11月3日、警務部付退職。最終階級は警視。 町議時代[編集] 退職後、1984年(昭和59年)の扶桑町議会議員選挙に出馬し初当選[6]。以降7期連続当選を果たし、2012年(平成24年)5月12日まで28年間在職した[7]。在職中は扶桑町議会議長[3][8]、江南丹羽環境管理組合議会副議長、尾張北部水道企業団議会議長、丹羽広域事務組合議会議長、愛北広域事務組合議会副議長などを歴任した。 引退後[編集] 2012年(平成24年)5月12日の任期満了をもって7期28年務めた扶桑町議を引退。2013年(平成25年)4月29日、地方自治功労により旭日双光章受賞[1]。2020年(令和2年)3月、当時の扶桑町長・千田勝隆と方針の違いを覚え、扶桑町役場を早期退職していた鯖瀬武を自宅に招き、当初出馬するつもりのなかった鯖瀬を数人の町議とともに「一緒に町を考えていかんか」と説得した[9]。選挙の結果、鯖瀬は扶桑町長に初当選。それを見届けた片野は、同年9月16日、死去。93歳没。叙正六位[2]。 人物・エピソード[編集] 業績[編集] 2013年(平成25年)4月29日、地方自治功労により旭日双光章受賞[1]。「地域の皆さんの支援があってこその受章。ありがたい。地域と町とのパイプ役として本当に一生懸命働いてきた」と述べた[7]。「暗いので防犯灯が必要だ」「道路が傷んでいる」。地域住民からこうした声を聞けばすぐに役場に伝え、地域の悲願だった羽根公民館の建設では、先頭に立って資金確保に奔走した[7]。「企業誘致で町財政をよくしてほしい」と語り、東洋水産の中部物流センターの誘致などに尽力した[7]。 江崎家との関係[編集] 一宮警察署に勤務していた頃、衆議院議員江崎真澄の警備を担当したが、江崎の秘書とトラブルになり、腹を立てた片野は警備を放棄し帰ってしまった。ところがその夜、片野の自宅に江崎本人から電話があり、直接謝罪を受けた。この江崎の器の広さに心を打たれた片野は、以降江崎の熱心な支持者となり、真澄とその後を継いだ三男の鐵磨を扶桑町で支え続けた。また、岳父の鯖瀬優は江崎の1度目の当選を支えた町議の一人であることから、第49回衆議院議員総選挙に8選を目指して出馬した鐵磨は出陣式の挨拶の中で会場に応援に訪れた鯖瀬武に触れ、「鯖瀬町長は3代に渡る江崎の支持者でありました。」と発言した[11]。 表彰[編集] 勲章[編集] 位階[編集] 出典[編集]

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ロックアイランド群と南ラグーン – Wikipedia

ロックアイランド群と南ラグーン(ロックアイランドぐんとみなみラグーン)は、パラオのコロール州に点在する445の島々で構成されるロックアイランド(群)[注釈 1]、およびそれらが位置するパラオ諸島を囲むラグーンの南部海域を対象とするUNESCOの世界遺産リスト登録物件である。マッシュルーム状の緑の島々や紺碧の海が織りなす自然美、さらにマリンレイクと呼ばれる汽水湖の一種を世界で最も多く擁する固有種の多い生態系や、絶滅危惧種を含む生物多様性などが評価された。また、気候変動や人口増加による資源の枯渇に直面した人類の足跡をとどめる考古遺跡なども評価され、パラオ初の世界遺産(複合遺産)となった。 登録経緯[編集] Rock Islands Southern Lagoon パラオの世界遺産条約締約は2002年6月11日のことで[1]、この物件が世界遺産の暫定リストに記載されたのは2007年11月6日のことであった[2]。 パラオ当局は2010年に世界遺産センターを通じて、推薦準備などのために30,000ドル (USD) の援助を受け[3]、正式な推薦書を2011年2月1日に世界遺産センターに提出し、受理された[2]。なお、その年の第35回世界遺産委員会ではパラオがミクロネシア連邦と共同推薦していた別の候補「パラオとヤップのヤップ石貨遺跡群」が審議されたものの、登録延期となり、パラオ初の世界遺産登録には至らなかった。 ロックアイランド群と南ラグーンに対しては、翌年の審議に先立ち、諮問機関の勧告が出された。文化遺産要素について、国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は顕著な普遍的価値を認めたものの、構成資産の調査の推進や管理計画の補完などの課題を指摘し、「情報照会」を勧告した[4]。他方、自然遺産要素について、国際自然保護連合 (IUCN) は「登録」を勧告した[5]。これらの勧告を踏まえて行われた第36回世界遺産委員会での審議では、自然遺産要素のみでなく、文化遺産要素についても逆転で認められ、複合遺産としての登録となった[6][7]。パラオ初の世界遺産であるとともに、複合遺産の登録は、オセアニアではオーストラリア(4件)、ニュージーランド(1件)に次いで6件目、トンガリロ国立公園(複合遺産としての拡大登録は1993年)以来、約20年ぶりとなった。 登録名[編集] 世界遺産としての正式登録名は、Rock Islands Southern

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犬山祭 – Wikipedia

犬山の町を巡行する車山、写真は梅梢戯 犬山祭(いぬやままつり)とは、愛知県犬山市にて、毎年4月の第1週の土曜日、日曜日に行われる、針綱神社の春季祭礼である。祭礼は国の重要無形民俗文化財に指定されている。犬山祭保存会によって組織化して運営されている。 祭の概要[編集] 1日目を「試楽(しんがく)」、2日目を「本楽(ほんがく)」と呼ぶ。城下町であった13の(縦横の通りの1ブロック毎に下本町、中本町、魚屋町、寺内町などの名称がある)各町より、犬山では「車山」と書いて「やま」と呼ばれる13輌の山車が曳き回される。「試楽」では、車山が針綱神社へ向かい、からくりを奉納する。その後1年分を表す365個の提灯に載せ変え、早い町内では18時30分から21時30分ごろまで提灯に火を点して町内を巡る。夜の部については「夜車山(よやま)」と呼び分けている。「本楽」は針綱神社で神事が行われ、13町の車山と共に3町(内田、坂下大本町、鵜飼町)の練り物も同神社へ集結する。また、曳き手(手古衆)達が力を合わせ車山の一方を持ち上げ一気に半回転することは「どんでん」と呼ばれる。 2006年(平成18年)3月15日には「犬山祭の車山行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。また車山(山車)13輌は、1964年(昭和39年)に愛知県の有形民俗文化財に指定されている。 2016年(平成28年)12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された。 車山(やま)の構造[編集] 「車山」とは他地域の祭における山車や曳山のことで、他では2層が多いが、犬山では3層の構造となっている。これは「犬山型」とも呼ばれ、下層がお囃子所、最上層にはからくりが置かれ、中層は「中山」と呼ばれて最上層のからくりを動かす層となっている。1964年(昭和39年)に愛知県の有形民俗文化財に指定され、犬山駅東口のロータリーにはこの車山をイメージしたオブジェが置かれている。 各町の車山の名称は、枝町(愛娜街):遊漁神、魚屋町:眞先、下本町:應合子、中本町:西王母、熊野町:住吉臺、新町:浦嶌、本町(第一街):咸英、練屋町:國香欄、鍛冶屋町:壽老臺、名栗町:綘英、寺内町:老松、余坂町:寳袋、蘇登町:梅梢戯 である。なお、蘇登町→外町、壽老臺→寿老台のように、簡略化されて表現することもある。 愛知県の資料によると、同市北部に所在する針綱神社の祭礼に対して、1635年(寛永12年)より下本町、魚屋町からの練り物が出されたことに始まったとされている。1641年(寛永18年)には、同・下本町により「車山」が出され、からくりが奉納された。車山は、1644年(寛永20年)より魚屋町、後には1649年(慶安2年)の頃、犬山城主成瀬正虎によって奨励されたこともあり[1]、他の城下各町村においても出されるようになった。 犬山お城まつりと犬山祭[編集] 「犬山祭」は当初、針綱神社が移転した旧暦の8月27日(試楽)・28日(本楽)に開催されていたが、1898年(明治31年)に新暦4月27日・28日へ変更され、1907年(明治40年)に同17日・18日、1908年(明治41年)に4月7日・8日へ変更された。 「犬山お城まつり」は、財政的かつ人的により多くの支援を求める形で、1996年(平成8年)より3月下旬に開催されるようになった。これは犬山祭保存会、犬山観光協会、犬山商工会議所、(社)犬山青年会議所が主催四団体となり発足された。犬山祭はその一環事業という位置づけ(最終2日)となる。この組織が立ち上がったことにより、針綱神社祭礼としての犬山祭の運行計画も変更された。たとえば、試楽祭(土曜日)では、「駅前組」「神社組」に分かれることにより、毎年土曜日に挙行されていた神社前広場での夜車山総ぞろえが姿を消すことになった。2004年(平成16年)の例では、「春の犬山お城まつり」が3月20日にオープニングセレモニー、犬山祭試楽祭が4月3日、本楽祭が4月4日に開催された。 1998年(平成10年)からは10月にも「秋の犬山お城まつり」が開催されるようになり、数輌の車山巡行と「からくり夢競演」と題して13町内のからくりと有志によるからくり披露が針綱神社前広場で実施されていた。2003年(平成15年)の初日(10月25日)には車山13両、2004年(平成16年)にも車山を12両が針綱神社に集結するなどの豪華な祭が行われた(博覧会協会からも補助金が出された)。しかし2005年(平成17年)には財政難で秋の方は中止の危機に瀕し、市からの補助金に出来る限り依存しない「城下町秋まつり」へ変更された。車山の巡行は再び春のみに行われることとなっている。2007年(平成19年)、春の「犬山お城まつり」の一環として実施されていた犬山祭「宵まつり」を廃止し、その予算を原資として「城下町秋まつり」の一環事業のような形で秋季の車山揃えが実現した(10町内のみ参加)。 どんでん館[編集] 市内にあるどんでん館には4輌の車山が常設展示されており、祭礼以外でも間近で車山を見ることができ、祭りの雰囲気を味わえる。 車山の遠征[編集] 犬山市の友好姉妹都市である富山県中新川郡立山町にて、1987年(昭和62年)7月26日に行なわれた立山まつりで、2輌の車山を犬山以外では初めて練り回した。午後3時から天満宮での開会式のあと、途中で人形の逆立ちや、早変わりのからくりを披露しながら、曳き手の勇ましい掛け声、囃し手の子供達の笛、太鼓の音に合わせ、80人ほどによってゆっくりと電線を外した町中を練り回した[2]。 参加した車山 –

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アラジン (1992年の映画) – Wikipedia

『アラジン』(原題:Aladdin)は、1992年にディズニーが製作したアニメーション映画。続編としてOVA作品2本、テレビアニメシリーズ『アラジンの大冒険』、リメイクとして実写映画版が製作された。 概要 『千夜一夜物語』の『アラジンと魔法のランプ』を原案としている。また、魔法の絨毯で世界中を旅するシーンで流れる曲『ホール・ニュー・ワールド』(A Whole New World)はアカデミー歌曲賞を受賞した。 アメリカでは1993年の年間ビデオ販売数で2400万本を出荷して年間1位の売上となり[3]、日本ではセルビデオで220万本を出荷[4]して歴代1位の売り上げとなった[5]。ディズニー・ルネサンスと呼ばれる時期に作られた、ディズニーの成功作のひとつである。 ストーリー オープニングで行商人が、この映画の視聴者に物語を語り掛けるところから映画が始まる。 夜の砂漠でジャファーと名乗る男は手下の泥棒がある物を持ってくるのを待っていた。そして、それを利用してランプのある魔法の洞窟を呼び出した。洞窟が言うには「入れるのはダイヤの原石(内側に清らかな心を持つ者)のみ」だが、「ダイヤの原石」でなかった泥棒は閉じ込められてしまった。前述の話を聞いたジャファーは「ダイヤの原石」を探そうと企んだ。 砂漠の王国アグラバーに暮らす、貧しくも清らかな心を持った青年アラジンはいつか宮殿で豪華な暮らしをすることを夢見ていた。一方、婚約に嫌気がさして王宮を抜け出そうとしたジャスミン王女は一番の親友・ラジャーの制止を無視してまで家出を決意する。そんなある日、市場でジャスミンは泥棒の濡れ衣を着せられたところをアラジンに助けられたことで心を通わせる。だが、アラジンは王女をさらおうとした盗賊と間違えられて捕まり、牢屋に入れられてしまう。それは王国の支配を企む国務大臣のジャファーが、入る者を厳しく選ぶ魔法の洞窟から「ダイヤの原石」として選ばれたアラジンに、洞窟の奥にある不思議な魔法のランプを取って来させるための策略だった。 ジャファーはみすぼらしい老人の姿に扮装して牢屋に現れると、ランプを取って来ることを約束させるのと引き換えに、アラジンを脱獄させる。魔法の洞窟の中で出会った魔法の絨毯の協力でランプを手に入れたものの、アブーがうっかり「ランプ以外の物を触れてはいけない」という掟を破ってしまったため、洞窟は暴走し、さらにジャファーに裏切られたアラジンは洞窟の中に閉じ込められてしまう。だが、相棒の猿アブーのおかげでランプがジャファーの手に渡ることは阻止できた。さらにアラジンはひょんなことから自らランプを擦ったところ、ランプの魔人ジーニーの主人となる。ジーニーの力でなんとか脱出し、「どんな願いも3つだけ叶えてあげよう」とジーニーに言われたアラジンは、自由を求めるジーニーに対し「最後の願いで君を自由にする」と約束しつつ、1つ目の願いとして、王子としか結婚が許されていないジャスミンとの恋を叶えるためアリ・アバブア王子に変身することを願い、王宮へと向かう。頑固なジャスミンは、アリ王子も今までの求婚者達と同じだと思い、まったく相手にしなかったのだが、「一緒に広い世界を見に行こう」という誘いに乗って魔法の絨毯で世界中を旅するうちに惹かれていく。途中で口を滑らせた不注意からアラジンの正体がバレそうになるものの、アラジンがとっさに「自分もお城の生活が嫌で、時々平民に変装して抜け出している」と誤魔化したことでジャスミンは共感を抱き、両想いとなる。 その頃、ランプを手に入れ損なったジャファーは自らの魔力でサルタンを操り、ジャスミンと結婚して王位に就こうとしていた。そこへアリ王子として現れたアラジンがジャスミンやサルタンに瞬く間に気に入られていくのを邪魔に思ったジャファーは、アリ王子を暗殺しようと目論んで、部下を使いアラジンを捕まえる。捕まったアラジンは声が出せないように顔に白い手拭いを巻かれて口を塞がれ、手足を重り付きの鎖で縛りあげられ、海の底に沈められてしまう。重りの重さで海底に沈むアラジンは呼吸ができなくなり気を失うが、偶然にもランプが手に触れたことで入浴中のジーニーが現れる。ジーニーは気絶しかけるアラジンに2つ目の願いごとをするように言うと、アラジンは無事命を救われた。それと同時にアラジンとジーニーは固い友情で結ばれた。アリ王子の暗殺に失敗した上に暗躍がバレたジャファーは失脚し、その犯行を暴いたアリ王子はジャスミンの結婚相手として大々的に告知される。順風満帆な未来が待つかに見えるアラジンだったが、ジーニーの魔法が解けて王子でないことがばれたらジャスミンに嫌われてしまうと不安を感じ、ジーニーに「君を自由にはできない」と言い出す。それを聞いたジーニーは怒ってランプの中に引き籠ってしまう。ジーニーに「本当のことを告げろ」と教えられたアラジンは遠慮なく本当のことをジャスミンに告げるため彼女の元へ向かうが、その隙を突かれてジャファーの手下のイアーゴにランプを奪われてしまう。イアーゴからランプを渡されてジーニーの新たな主人となったジャファーが、1つ目の願いでアグラバーの支配者になり、ジャスミンが相手が支配者であろうがどうしても逆らうことから2つ目の願いで自分を世界一の魔法使いにする。さらにジャファーは魔法でジャスミン達をいいようにする上にアラジンを元の姿に戻して冬山へ追放してしまう。 絨毯の助けを借りてアグラバーに戻ったアラジンは、アグラバーの危機を救うべくジャファーに戦いを挑むが、手強い魔法を操り、遂には大蛇に変身したジャファーに巻き付かれて絞め殺されそうになる。ジャファーの手強い魔法に圧倒されて追い詰められるアラジンはジーニーを見つめて策を閃き、「世界一の魔法使いとして我は世界で一番強い」と主張するジャファーに対して「ジーニーこそが本当に世界で一番強い」と煽り返す。それを聞いて今の自分は実質的には世界で二番目であるという事に気づいたジャファーは、最後の願いで真の世界最強の存在=ジーニーになることを願う。赤いジーニーとなって最強の力を得たジャファーだったが、それはジーニーから教えられていたランプの魔人の制約である「脅威の力を持つ代わりに自由がない」ことを逆手にとったアラジンの作戦であった。アラジンの罠に嵌った結果、ジャファーはイアーゴを巻き添えにして専用のランプの中に閉じ込められ、ジーニーに砂漠の彼方へ投げ飛ばされ追放された。 ジャファーとの戦いを終えてアグラバーの平和を取り戻した後、アラジンはジャスミンに嘘をついたことを謝罪して反省し、最後の願いでジーニーをランプから解放させて自由の身にする。アラジンのアグラバーを救った勇気に感動したサルタンはジャスミンとの婚約を認め、自由になったジーニーはアラジンと別れて旅立ち、最後に幸せにアラジンとジャスミンは結ばれた。話のラストでジーニーが視聴者に「どうだった?」と質問して映画は幕を閉じる。 登場人物 主要人物 アラジン(Aladdin) 本作の主人公。天涯孤独の身で、アグラバーの街で相棒の猿のアブーとコソ泥をして糊口をしのいでいる貧しい青年。赤いトルコ帽に黒髪がトレードマークである。特別腕っぷしが強いわけではないが、身軽なフットワークと、頭の回転が速く、機転を利かせる事が得意で、ジーニーの願いを行使する事なく魔法の洞窟から脱出できる様に仕向けたり、ジャファーをわざと挑発する事で自滅させる方向に運ぶなど、言葉を駆使した駆け引きにも秀でている。一人称は「俺」あるいは「僕」。 貧相な生活と身なりをしていることから、主に上層階級の人間などからドブネズミ(street

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ポリカルボフィルカルシウム – Wikipedia

ポリカルボフィルカルシウム(Polycarbophil calcium)は便通(下痢、便秘)の安定剤として使用される医薬品である。化学的には、ポリアクリル酸(英語版)をジビニルグリコールで架橋した合成ポリマーであり、カルシウムを対イオンとしている。 臨床用途[編集] 便秘、下痢、腹部の不快感などの治療に便安定剤として使用される。胃内の酸性条件下でカルシウムを脱離してポリカルボフィルとなり、薬効を発揮する[1]。嵩高の便秘薬として、腸内の液体を吸収して膨らみ、柔らかいかさかさした便を形成する。このかさかさした塊が腸の筋肉を刺激し、大腸内での便の通過時間を早める。通常、12~72時間以内に効果が現れる。ポリカルボフィルカルシウムは、水分摂取量を増やさないと効果が無い。 ポリカルボフィルカルシウムは、機能性腸疾患の治療薬とし、また、膨潤・ゲル化剤としても販売されている。日本では、コロネル(Colonel)の商品名で、過敏性腸症候群(IBS)治療剤として販売されている。 IBSの一般的な症状に対するポリカルボフィルカルシウムの効果を調べた研究がある。IBS-下痢の患者14名とIBS-便秘の患者12名にポリカルボフィルカルシウムを8週間投与し、大腸内のX線不透過マーカーを用いて大腸通過時間を測定した。下痢の患者は、排便回数が減り、より固形の便が出るようになり、腹痛も軽減された。便秘の患者は、排便回数が増え、便がゆるくなり、痛みが減ったと報告した[2]。 ヒトの胃は、塩酸の存在により弱酸性の環境を呈している。ポリカルボフィルは,酸性環境下では自重の約10倍の水を吸収するが,pH4.0以上では膨潤率が顕著に増加し、pH中性環境下では初期重量の70倍に達する。ポリカルボフィルの膨潤は、非イオン性の浸透圧には影響されないが、イオン強度には影響され、イオン強度の増加とともに減少を示す。消化管液中のナトリウムイオンやカリウムイオンなどの1価の金属イオンは、ポリカルボフィルの平衡膨潤を低下させないが、カルシウムイオンやマグネシウムイオンなどの2価の金属イオンは低下する。しかし、カルシウムイオンは、ナトリウムが豊富な条件下では、平衡膨潤をわずかに減少させるだけである[3]。 ポリアクリル酸の残基を赤、架橋剤のジビニルグリコール(3,4-ジヒドロキシ-1,5-ヘキサジエン)の残基を青で表示。 ^ 医療用医薬品 : コロネル KEGG ^ “Colonic transit, bowel movements, stool form, and

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下山順一郎 – Wikipedia

東京大学本郷キャンパス構内にある胸像 犬山城前にある胸像(愛知県犬山市) 下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(1853年3月27日) – 明治45年(1912年)2月12日)は、明治時代の日本の薬学者。薬学博士第1号であり、日本薬剤師会第2代会長、私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長。 嘉永6年2月18日(1853年3月27日)、尾張国犬山藩士、藩校「敬道館」助教下山健治・よしの長男として生まれる。諱忠興。「敬道館」で漢学と本草学を修める。明治3年(1870年)10月犬山藩の貢進生に選ばれ神田一ッ橋の大学南校に入学。獨二之部(獨逸語科)に学び、明治6年(1873年)9月第一大学区医学校(現:東京大学)製薬学科に進学。明治11年(1879年)3月第1回生として首席で卒業し、翌年製薬士の学位を受け、その後、陸軍薬剤官と大学助教授を兼任する。明治16年(1883年)に日本薬局方編纂御用掛となるが、シュトラスブルク大学に留学し、フルキーゲル(Flukiegel)の下で学ぶ。 明治20年(1887年)6月帰国後、陸軍1等薬剤官に任官。帝国大学医科大学の生薬学講座初代教授となり、生薬学の基礎を確立した[1]。明治21年(1888年)8月東京薬剤師会初代会頭。11月私立薬学校(後:東京薬学校、現:東京薬科大学)の初代校長に就任。医薬分業に関する決意と意義を示した。明治23年5月第1回薬剤師試験委員委嘱。明治25年ロシア政府より同国博物館名誉会員。明治26年(1893年)フィラデルフィア薬科大学名誉教授。明治31年4月叙正五位、6月叙勲六等瑞宝章。明治32年(1899年)3月27日薬学博士の第1号学位受領。6月叙勲五等瑞宝章。薬局方編集委員(明治21年(1888年)~24年(1891年))及び調査委員(明治33年(1900年)~39年(1906年))[2]、日本薬剤師会会長(明治42年(1909年)~45年(1912年)[3]などを歴任し、日本薬学界の発展に多大に寄与した。 1900年(明治33年)、台湾総督府の委嘱により台湾の薬業を視察。特産の樟脳油の研究開発に貢献した。明治36年欧州各国の薬学視察を命ぜられる。1907年(明治40年)3月学生の実習および研究に資するため、私財を投じ東京府北豊島郡王子町下十条(現:東京都北区中十条)に大規模な薬草園「是好薬園」を開設し、和洋多種の薬用植物栽培に力を注ぐ。 1912年(明治45年)2月12日に死去。58歳没。 没後、栽培植物は一部外来樹木を保存、四男下山忠廉により埼玉県粕壁町の薬草園に寄贈、移植された。同園は内務省東京衛生試験所粕壁薬用植物試験圃場から春日部薬用植物栽培試験場となり、現在は筑波研究学園都市の薬用植物資源研究センター筑波研究部に移管、発展している。「是好薬園」敷地は三男下山忠典が陸軍軍医少将を経て眼科医開業、その後現在に至る。墓所は東京都墨田区向島の菩提寺「常泉寺」、静岡県富士宮市の日蓮正宗総本山「大石寺」。大正2年(1913年)「常泉寺」に遺徳顕彰碑建立。胸像建立と地は、大正2年(1913年)東京帝国大学薬学科教室玄関脇(現:東京大学薬学部東側)、昭和5年(1930年)東京薬学専門学校(現:東京薬科大学正面玄関内)、昭和6年(1931年)愛知県犬山市北古券の国宝犬山城入口横。 丹波敬三との共著『無機化学 前後編』丸善書店、1878年 丹波敬三、柴田承桂との共著『有機化学 前後編』丸善書店、1879年 共著『化学真理』競英堂、英蘭堂 共同刊行、1880年 オスカル・コルシェルト著、下山順一郎訳『酒類防腐新説』田辺五兵衛、1880年 Neubauer原著、下山順一郎訳、柴田承桂との共著『検尿法』英蘭堂、1881年

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貸本 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “貸本” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年7月) 貸本(かしほん)は、貸本屋(貸本店・レンタルブック店など)が貸し出す書籍および雑誌の総称である。また、そのような業種自体を指すこともある。本項では主に業種としての意味合いで「貸本」を解説する。 戦後にできた貸本屋はほとんどが廃業した。写真は東京・根津2丁目にあった「なかよし文庫」。 江戸時代、出版技術の発展による刊行物の増加や写本の流通量の増加によって、一般大衆にも読書の習慣が広まった。江戸時代の庶民にとっては、本を買い求めて読むよりも、貸本屋や行商人から見料を払って読むのが一般的であった。長友千代治は、『きのふはけふの物語』の「ものゝ本売に下」という記述から、貸本屋の誕生を寛永はじめ頃と推定し、元禄頃になると貸本中心の行商本屋が出現したと指摘している[1]。 貸本屋は、版元からの直接購入、貸本屋同士の売買、貸本類仕入所などからの購入、貸本屋自身による作成の4つの方法で商品を揃えた。江戸時代の貸本屋大野屋惣八の扱った蔵書を見ると、人情本・洒落本・滑稽本・草双紙をはじめ、井原西鶴や曲亭馬琴といった有名作家の作品、軍書や兵書、浄瑠璃本や実録本まで、そのジャンルは近世文学全般に及んでいる[2]。 20世紀初頭から、貸本屋は江戸川乱歩や手塚治虫を始めとする数多くの大衆小説家や漫画家の作品を刊行して読者層を増やし、怪奇漫画や貸本劇画などの新しい文化を生み出した。 戦後、小説や漫画単行本、月刊誌を安く貸し出す貸本の店が全国規模で急増した。のちに登場するレンタルビデオ店の先駆的な存在である。貸本の店は大衆娯楽小説や少年漫画などの単行本、成年・少年・婦人雑誌などを提供する場として1960年代初頭まで日本全国にあふれていた。1940年代末からは漫画を中心に貸本の店専用書籍も刊行され、『墓場鬼太郎』(『ゲゲゲの鬼太郎』の原型)などを生んだ。 つげ義春によれば、1955年頃から、急激に貸本漫画を主体とする貸本屋が増え始め、関西発祥で東京でも1960年頃に急成長を遂げるチェーン展開をする「ネオ書房」の看板が散見されるようになる。つげが住んでいた下町でも小さな貸本屋が女店員が3-4人を抱えるほどであった。当時はまだ下町には喫茶店がなく、しるこ屋や氷屋が若者の溜まり場であったが、若い女店員を擁する貸本屋もまた若者の溜まり場となっていた。つげもまたひそかに女店員目的に作者として出入りしていたが、女店員らは本を出版物ではなく玩具に等しいものくらいとしか見ておらず、作者に対する関心も尊厳もなく、全くもてなかったという。そのうちに下町にも喫茶店が普及し始めると、ウェイトレスが若い女性の花形産業となり、貸本屋から転職していった。と、同時につげもまた喫茶店に入り浸るようになった。貸本漫画家の妻に元ウェイトレスが多いのは、そういう事情であるとつげは語っている[3]。 1950年代後半からは図書館の充実、図書全般の発行部数の増加、出版社が販売する雑誌の主軸が月刊誌から児童や庶民でも安価に購入できる週刊誌へ移行した事などにより、一部の店舗が一般書店に転向したほかは急速に減少、1960年代半ばに店舗を持たずに各家を回る巡回式貸本業がいったんほぼ消滅し、貸本専用書籍も1960年代をほぼ最後に後を絶った[4]。 現在貸本の店は小規模で経営する店舗が少数存在するのみである。「貸本」自体は、無店舗経営で本を宅配する業者などの誕生や後述する大規模ビジネスへの移行の動きなど、新しい段階へと移行する兆候を見せ始めている。しかし、現在の貸本は、ほぼ通常の販売用の書籍・雑誌のみになっているため、著作権者側から目を付けられるようになった。2006年、貸本には著作権者が貸与権を行使して使用料を徴収するようになった。以後、漫画を中心に新しい動きが広がっている。 貸本業の成立と法律[編集] 20世紀の貸与権[編集]

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アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクス – Wikipedia

アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクス(Aulus Postumius Albinus Luscus 、生没年不明)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前180年に執政官(コンスル)、紀元前174年に監察官(ケンソル)を務めた。 アルビヌス・ルスクスはパトリキ(貴族)であるポストゥミウス氏族の出身である。ポストゥミウス氏族はローマで最も有力な氏族の一つで、共和政ローマ建国5年目の紀元前505年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが氏族最初の執政官に就任しており、その後も多くの執政官を出してきた。カピトリヌスのファスティによると、アルビヌスの父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はアウルスである[1]。おそらく、祖父は紀元前242年の執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスである。紀元前174年の執政官スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスと紀元前173年の執政官リキウス・ポストゥミウス・アルビヌスは弟、紀元前186年の執政官スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスはいとこである[2]。 コグノーメン(家族名)のアルビヌスに加えて、ルスクスのニックネームを持っているが、これに関してはティトゥス・リウィウスがそう記録しているのみである[3]。 アルビヌス・ルスクスが資料に登場するのは紀元前191年である。リウィウスの記述によると、ローマとアンティオコス3世・アエトリア同盟連合軍との間の戦争(ローマ・シリア戦争)が始まったとき、ケファロニア島を支配していたアウルス・ポストゥミウスという人物が、レガトゥス(軍団副司令官)グナエウス・オクタウィウスを支援するために、分遣隊と数席の軍船を派遣したという。歴史家はこの人物がアルビヌス・ルスクスであったと考えている[4][5]。また、アルビヌス・ルスクスはこの戦争自体に参加したと思われる[4]。戦争が終わった後の紀元前187年には、アルビヌス・ルスクスはプブリウス・コルネリウス・ケテグスと共にアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した[4][6]。この年の競技会の最中にキルクス・マクシムス(大戦車競技場)の柱の固定が十分でなく、ポレンティア女神の像の上に落ちて像が倒れてしまった。これは悪い前兆とみなされ、元老院は競技会を一日長くすべきであると決定した。また倒れた像の代わりに2つの像を建て、そのうちの1つは金メッキされるべきだと決定した[7]。 翌紀元前186年末、アルビヌス・ルスクスはプラエトル(法務官)選挙に立候補し、執政官であるいとこのスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスの支援もあって、当選した。同僚の一人はまたもプブリウス・コルネリウス・ケテグスで、いとこであるルキウス・ポストゥミウス・テンプサヌスも当選した[8]。紀元前185年の法務官の活動に関する資料はない[4]。 紀元前180年、アルビヌス・ルスクスは執政官に就任した。同僚のプレブス(平民)執政官はガイウス・カルプルニウス・ピソであったが任期途中で死去したため、クィントゥス・フルウィウス・フラックスが補充執政官となった[9]。翌年の執政官も同姓同名のクィントゥス・フルウィウス・フラックスであるが、別人である。アルビヌス・ルスクスの担当地域はリグリアであったが、彼は選挙のために現地への到着が遅れ、プロコンスル(前執政官)のプブリウス・コルネリウス・ケテグスとマルクス・バエビウス・タンピルスが、アルビヌス・ルスクスの到着前にリグリアを平定していた。とは言うものの、アルビヌス・ルスクスも山岳部や沿岸部の部族を服従させた[4]。 紀元前176年、ダルダノイ(トロイ)人がバスタリニ人とマケドニア王ペルセウスの脅威からの保護をローマに求めたためである。元老院はこの地域の状況を精査することを決定した[10]。アルビヌス・ルスクスを筆頭大使とする使節団がバルカン半島に派遣された[11]。紀元前175年の初めに帰国した大使たちは、ダルダニアで本格的な戦争が行われていることを確認した[12][13]。 紀元前174年は、アルビヌス・ルスクスの政治歴の頂点ともいえる年であった[14]。アルビヌス・ルスクスはケンソル(監察官)に就任し、同僚のクィントゥス・フルウィウス・フラックスと協力し、スキピオ・アフリカヌスの息子であるルキウス・コルネリウス・スキピオとマルクス・コルネリウス・スキピオを含む9人を元老院から除名した。マルクス・アエミリウス・レピドゥスが前回(紀元前174年)に続いて、二度目の元老院筆頭となった。両監察官はローマ市内の道路を黒灰色の石英で、市外の道路を砂利で敷き詰め、道路の脇に一段高くなった歩道を作り、各所に橋を架ける契約を最初に結んだ。フォルムス・ロマヌスから カピトリヌスの丘に続く坂を石畳で舗装し、トリゲミナ門の外にある市場も舗装し、いくつかのポルティコを建設した[15]。 ルキウス・コルネリウス・レントゥルスが紀元前173年に死去すると、アルビヌス・ルスクスは彼に代わって神祇官となった[16][17]。第三次マケドニア戦争が始まった紀元前171年にはアルビヌス・ルスクスはアウクシリア(補助兵力)を得るために クレタ島に使節として赴いたが、同じ目的のために二人の弟も小アジアとアフリカに派遣されていた[17]。マケドニアの降伏後、アルビヌス・ルスクスはルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスと共にマケドニアとギリシアの戦後秩序を整えた(紀元前167年)。当時、アルビヌス・ルスクスはその地位と影響力において、レピドゥスに次ぐ最も有力な政治家であった [18]。 紀元前151年の執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスはアルビヌス・ルスクスの息子である[2]。 ^ カピトリヌスのファスティ ^

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