柏原竜二 – Wikipedia
柏原 竜二(かしわばら りゅうじ、1989年7月13日 – )は日本の陸上競技元選手、スポーツ解説者・ナビゲーター。現役時代の陸上専門種目は主に長距離走・駅伝競走。福島県いわき市出身。愛称は「かっしー」、「新・山の神」、「2代目・山の神」「山の神童」。妻は、BS11アナウンサーの八木菜緒。 福島県立いわき総合高等学校、東洋大学経済学部卒業。身長174cm、体重55kg。 大学時代に世界ジュニア陸上競技選手権大会10000m7位、ユニバーシアード10000m8位など日本代表として活躍し、箱根駅伝では往路5区山上りで4年連続で区間賞を獲り3回区間記録を更新した。 高校時代まで[編集] 小学校時代はソフトボール部に所属。本人によれば、兄弟が皆ソフトボールをやっていたため、半ば強制的にやらされていただけで「全くうまくなかったし面白くなかった」が、チームの人数が常に不足気味だったため辞めさせてもらえず4年間続けることになった[1]。小学校時代も持久走は得意で、校内では負けなしだった。ただ両親には全く褒められなかったという。 2002年、中学校に進学したのを機に、本格的に陸上競技を始める。兄や知己に野球経験者が多く、自身もソフトボール経験者のため、周囲からは野球部に入部するだろうと思われていたが、兄と比較されるのを嫌って陸上競技の道を選択した[1]。また当時はスポーツ全般が嫌いで、本当は帰宅部になりたかったが、母親から「帰宅部だけはやめなさい」と言われ、同じ小学校の先輩からの誘いで陸上部に入ったという[1]。3年では全国中学校選手権に3000mで出場した。 2005年、福島県立いわき総合高等学校に進学。インターハイ、国体、全国高校駅伝のいずれにも出場経験がなかった。 貧血体質が原因で競技途中に失速することが多かったが、薬の服用と食生活の改善によりこれを克服しており、高校3年生の夏以降競技成績が躍進し始めた。7月の福島県総体5000mで2位、東北総体5000mでは3位に入賞。12月1日の日体大長距離記録会5000mでは、かつて今井正人が記録した福島県高校記録の14分07秒44を塗り替える14分01秒50をマークした。2008年の全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)では1区区間賞を獲得した。 大学時代[編集] 高校卒業後は就職するつもりであった。しかし柏原は当時高校2年時に第83回箱根駅伝で1区区間新記録を出した佐藤悠基に最初から果敢に挑んでいた大西智也の走りを見て東洋大学に興味を持った。現在の東洋大学監督でOBの酒井俊幸に相談し、貧血を治ししっかり走れと言われたので、嫌いな白身魚を食べ牛乳も飲んだ。結局柏原は就職せず東洋大学へ進学した。 1年次 1年次ながら2008年の関東インカレ10000mではメクボ・ジョブ・モグス、ギタウ・ダニエルについで日本人トップとなる3位入賞を果たした[2]。5000mでも5位入賞となった。その後アジアジュニア陸上競技選手権大会では5000m2位、世界ジュニア陸上競技選手権大会では10000m7位の成績を残した。 秋には東洋大学・鉄紺のタスキを掛け大学駅伝デビューを飾り、第20回出雲駅伝では1区(8.0km)を走り区間2位。第40回全日本大学駅伝では大西智也から先頭でタスキを受けると、2区(13.2km)を2007年竹澤健介が刻んだ区間記録に2秒差と迫るタイムで走り、木原真佐人と区間賞を分け合った。12月、入学以来指導を受けていた川嶋伸次が監督を辞任した。 2009年1月2日、第85回箱根駅伝では5区(23.4km)山登り区間の選手として箱根路を走った。2007年に今井正人が残した同5区区間記録を47秒更新する走りで8校をごぼう抜きし、4分58秒差を逆転し、東洋大学の往路逆転優勝そして初の総合優勝に貢献し、この年の「金栗四三杯」を受賞した[3][4]。 2009年3月、最後の開催となった京都シティハーフマラソンでは男子招待選手としてハーフマラソンに初出走、男子の部で優勝を果たした。 2年次
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