Month: September 2018

頭塔 – Wikipedia

改修後の外観(北西側より) 頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている。奈良時代の建造で、東西南北の各面に石仏を配置する。1922年(大正11年)3月8日、国の史跡に指定された[1]。 創建時新薬師寺伽藍と頭塔の模型(奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部)東側から見る。頭塔は写真右上にある 頭塔は盛土の表面を石で覆い、44体の石仏を配した日本では稀有の仏塔である。 『東大寺要録』の記録では、神護景雲元年(767年)に、奈良時代の僧、実忠によって造営されたという[3]。そこでは「土塔」(どとう)と表記されている。 実忠が造った土塔であるということは平安時代末には忘れ去られた。その後、興福寺の寺域拡張で取り込まれ、玄昉の菩提を弔う興福寺菩提院[4]により玄昉首塚伝承が生まれ、平安時代の大江親通『七大寺巡礼私記』(保延6年1140年刊)にその伝承が書かれ、やがて玄昉の首塚である、という伝承が広範囲に広まった。そして、「どとう」が転訛して「ずとう」と称されるようになり、玄昉首塚説との関連で、「頭塔」という漢字が当てられたものと考えられる。 昭和になってからの研究では、石田茂作が「奈良時代末期においてインドの新様式を取り入れた最先端な仏塔」と結論づけた[6]。 頭塔の各段には、浮彫(一部線彫)の石仏が配置されている。石仏のうち当初から露出していた13基が1977年(昭和52年)、重要文化財に指定され、2002年(平成14年)にはその後の発掘調査で見出された石仏14基のうち9基が追加指定されている[7]。石仏は当初は東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されているが、南面の石仏は土の上に直接置かれている。 奈良文化財研究所による1986年(昭和61年)からの発掘調査終了後、北半部は復元保存、南半部は発掘前の現状保存の形で残されている。塔は版築による方形の土壇で、基壇は一辺32メートル、高さ1.2メートル。上壇になるにしたがって3メートルずつ縮小して、最上壇は一辺6.2メートルである。高さは奇数壇で1.1メートル、偶数壇で0.6メートル、基壇裾から最上壇までは約10メートルの高さである。 その形態に類似性が認められる日本国内の遺址として、堺市の大野寺跡に見られる「土塔」がある[8]。 発掘調査[編集] 現在の頭塔は、実忠が指揮して建造したものだが、奈良国立文化財研究所の発掘調査で、その下層にさらに一時期古い三重の土塔が発見され、正倉院文書「造南寺所解」から、天平宝字4年(760年)に別の人物により造営されたものと判定した。その際6世紀の古墳を破壊してその上に築造したものであった。実忠の建造はそれを引き継いで改修して塔身自体はほとんど解体して造りなおしたうえ完成させたものとみられる。実忠の改修は、その前から天平神護元年(765年)に良弁の命で東大寺の南の春日谷に堤・池を造っていて、元の東大寺領の境から、さらにその南の丘陵全体の開発をして、東大寺の南方への寺域の拡張を目指したものと指摘している。 指定文化財[編集] 石仏のうち「浮彫如来及両脇侍二侍者像」(東面第一段) 以下の石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、一括して重要文化財に指定されている[13]。(*)は2002年追加指定。 浮彫如来及一侍者像(北面第一段右)(*) 浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第一段中央) 線彫如来立像(北面第一段左から2番目)(*) 浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第三段中央) 浮彫如来坐像(北面第五段右)(*)

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蒼の彼方のフォーリズム – Wikipedia

『蒼の彼方のフォーリズム』(あおのかなたのフォーリズム)は、spriteより2014年11月28日に発売されたアダルトゲーム。略称は『あおかな』[s 2]。萌えゲーアワード2014で萌えゲーアワード大賞・ユーザー支持賞・11月間賞[4] の3部門を受賞している[5]。 spriteの第2作であり、第1作『恋と選挙とチョコレート』(2010年10月発売)以来の新作である[1]。大空を舞台としたフライングサーカス (Flying Circus, FC) と呼ばれる架空のスポーツを題材とした美少女ゲームである[1][2]。 作品の企画は、プロデューサーのサカモトアキラが木緒なちに話を持ちこんだ2013年1月頃から始まった[1][6]。サカモトから見せられたイメージイラストとキーワード「空」を元に木緒が大まかな企画を立て、その時点で「空を飛べる靴」「海と空と島でスポ根」など本作の原型が生まれていた[6]。当初の企画はSF色が強いものだったが、ブランド前作『恋と選挙とチョコレート』が純粋な学園ものだったため、ファンが入りやすくするために「学園ものをベースにしたSF要素のある作品」として現在の形となったとサカモトは述べている[7][8]。作中のスポーツ「フライングサーカス」は、球技が好きな木緒と格闘技系が好きな渡辺僚一とで話し合い、球技系のポイント加算型で1対1のバトルも楽しめるスポーツ、というアイデアから作られた[1]。作品舞台の島々は五島列島をモデルにしている[1]。 タイトル中の「フォーリズム」は、ポップス音楽における4つの楽器パート(ギター、ベース、ドラム、キーボード)のことで、「みんなで力を合わせて一つのことを作り上げる」という意味で付けられている[6]。sprite公式サイトにおけるディレクトリ名は”4rhythm”となっている[s 3]。 タイトルロゴには Beyond the sky, into the firmament.(空を越えて、大空の中へ。) という英文が併記されている。また作品タイトル『蒼の彼方のフォーリズム』の英訳は、”Four Rhythm

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アエロフロート902便撃墜事件 – Wikipedia

座標: 北緯57度58分17秒 東経56度12分54秒 / 北緯57.97139度 東経56.21500度 / 57.97139; 56.21500 アエロフロート902便撃墜事件(ロシア語:Катастрофа Ту-104 под Красноярском)とは、1962年6月にソビエト連邦(現在のロシア連邦)で発生した航空事故である。 運行路線[編集] アエロフロート902便は、ハバロフスク空港よりオムスク、イルクーツクを経由し、首都モスクワのヴヌーコヴォ国際空港へと向かう便であった。 使用機材[編集] 902便の使用機材はツポレフ製のTu-104型機で、エンジンを改良して胴体を延長することで定員70名を確保した改良型のTu-104A型であった。製造番号86601301番のこのTu-104Aは、1958年12月22日にオムスクにて製造された。事故当日の航空機の総飛行時間は3726時間で、機齢はおよそ3年半ほどであった[1][2]。 運航乗務員[編集] 運航乗務員は以下の通りであった。 機長

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ブレイディン・ヘーゲンズ – Wikipedia

ブレイディン・カール・ヘーゲンズ(Bradin Carl Hagens、1989年5月12日 – )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州モデスト出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。現在は、CPBLの楽天モンキーズに所属。登録名は「豪勁」。 ダイヤモンドバックス時代[ソースを編集] 2009年はルーキー級でプレー。15試合に登板し1勝1敗4セーブ、232⁄3回を投げ防御率3.42だった。 2010年、A級サウスベンド・シルバーホークスでプレー。39試合に登板し3勝6敗4セーブ、601⁄3回を投げ防御率6.56だった。 2011年、前年に引き続きA級サウスベンド・シルバーホークスでプレー。この年は先発を務め、24試合に登板し8勝7敗、1242⁄3回を投げ防御率4.11だった。 2012年、A+級バイセイリア・ローハイドとAA級モービル・ベイベアーズでプレー。A+級では35試合に登板し3勝4敗、95回を投げ防御率3.88、AA級では2試合に先発し0勝0敗、111⁄3回を投げ防御率3.97だった。 2013年、AA級モービル・ベイベアーズでプレー。26試合に先発し11勝8敗、148回を投げ防御率3.47だった。 2014年、AA級モービル・ベイベアーズでは24試合に登板して8勝6敗、1102⁄3回を投げ防御率4.15、AAA級リノ・エーシズでは4試合に先発して1勝1敗、242⁄3回を投げ防御率2.55、8月14日にメジャーデビューを果たし、2試合に登板し0勝1敗、2.2回を投げ防御率3.38だった。8月18日にAAA級リノに降格した。 2015年4月4日に自由契約となった。 レイズ傘下時代[ソースを編集] 2015年、レイズとマイナー契約を結び、AA級モンゴメリー・ビスケッツとAAA級ダーラム・ブルズでプレー。AA級では16試合に登板して4勝5敗、63回を投げ防御率3.86、AAA級では14試合に登板して5勝5敗、702⁄3回を投げ防御率2.67だった。 広島時代[ソースを編集] 2015年12月14日に、広島東洋カープとの契約が合意に達したことが球団から発表された[1]。推定年俸47万5,000ドル(約5,700万円)に出来高の条件を加えた1年契約で、背番号は66。 2016年4月23日に入団後初の出場選手登録を果たすと、公式戦の開幕から一軍に定着していたジャクソンと共に、セットアッパーとして活躍。救援投手としては45試合の登板で、5勝2敗19ホールド、防御率2.38という成績を残した。また、一軍の先発陣に故障者が相次いだ8月中旬からは、経験のある先発へ転向[2]。転向後6試合の登板成績は2勝3敗で、チーム事情から9月17日に登録を抹消されたが、中継ぎ・先発の双方でチームの25年振りセントラル・リーグ優勝に貢献した。11月18日、翌シーズンの選手契約に合意したことが球団から発表された[3][4]。 2017年は、4月に3試合登板したものの防御率12.00と極度の不振のため登録抹消され、7月に一軍に復帰したが、最終的に11試合登板、防御率6.60という結果に終わり、12月2日に自由契約となった[5]。 広島退団後[ソースを編集]

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シャープ・スターアクション! – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “シャープ・スターアクション!” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年1月) テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。 『シャープ・スターアクション!』は、1973年10月2日から1979年12月18日まで日本テレビ系列局で放送されていた日本テレビ製作のクイズ番組である。その後も1979年12月25日から1980年9月23日まで『シャープ・新スターアクション!』と題して放送されていた。いずれもシャープの一社提供。放送時間は毎週火曜 19:00 – 19:30(日本標準時)。 前々番組『ファイヤーマン』が1973年7月に打ち切りになったため、一旦『いじわるじいさん大追跡(英語: Here Comes the Grump)』でつないだ後、同年10月に放送開始した。 身振り手振りを見て答えるクイズ番組であった。合言葉は「アクショ〜ン!Q!」で、ゲームスタート時にも司会の金原二郎がコールしていた。収録は日本各地の公会堂で行われていた。

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千ヶ瀬町 – Wikipedia

日本 > 東京都 > 青梅市 > 千ヶ瀬町 この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 千ヶ瀬町 千ケ瀬町 千ヶ瀬町 町丁 調布橋 千ヶ瀬町 千ヶ瀬町の位置[1] 北緯35度46分59.04秒 東経139度16分4.59秒 / 北緯35.7830667度 東経139.2679417度 / 35.7830667; 139.2679417

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熱血!ビーチバレーだよ くにおくん – Wikipedia

『熱血!ビーチバレーだよ くにおくん』(ねっけつビーチバレーだよ くにおくん)は、1994年7月29日に日本のテクノスジャパンから発売されたゲームボーイ用ビーチバレーゲーム。 同社の『くにおくんシリーズ』の1作であり、テクノスジャパンが製作したシリーズ最後の作品である。2人1組でビーチバレー対戦を行う。他のスポーツゲームの例に漏れず、必殺技が繰り出される破天荒な展開ではあるが、殴りあうことはできない。 開発はテクノスジャパンが行い、音楽は同シリーズの作品を数多く手掛けている澤和雄が担当している。 2008年に携帯電話ゲームとして各種キャリアにて配信された他、2012年にニンテンドー3DS用のバーチャルコンソール対応ソフトとして配信された。 ゲーム内容[編集] 対戦形式は、1人でCOMと対決する「1Pモード」と2人で対人戦を行う「VSモード」の2種類がある。 登場ステージはビーチのみならず、サッカー場やコロシアム、果ては空手道場や寺の境内などがある。 本作はスーパーゲームボーイ対応作品で、スーパーゲームボーイを使うと画面がカラーで表示され、BGMはSFC音源になり、「VSモード」は通信ケーブルを使わずにプレイ可能になる。 登場チーム[編集] 全部で8チームあり、全てメンバーは固定されている。中にはビーチバレーとかけ離れたユニークなキャラクターもいる。 熱血チーム シリーズの顔である、くにお&りきのコンビ。 女子バレーボールチーム シリーズでおなじみの桃園里美(ももぞの さとみ)&『ダウンタウン熱血行進曲』にて登場した森沢博子(もりさわ ひろこ)のコンビ。森沢は桃園の中学時代の友人である。 サッカーチーム サッカー部部長の隼健治&サッカー部顧問のリベロ・C・山下のコンビ。彼らは私立溝口外語学校に在籍している。

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ペルーの首相 – Wikipedia

# 氏名 着任 離任 大統領 1 ファン・マヌエル・デルマール・ベルネド 1856年12月 1857年 ラモン・カスティリャ 2 ホセ・マリア・ライガダガロ (1回目) 1857年 1858年7月15日 3 ミゲル・デ・サン・ロマン 1858年7月15日 1858年10月 2

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グリエル – Wikipedia

グリエル (Guriel, Guri’el, ソマリ語: Guriceel, Guri ceel, Guri Ceel)はソマリア中南部ガルグドゥード州の町。グリエル空港(英語版)が所在する。 1991年の旧ソマリア政権崩壊後から現在まで混乱が続いている。2006年夏にイスラーム過激組織「イスラム法廷会議」がグリエルを支配するが、イスラーム過激組織の進出を嫌う隣国エチオピアがソマリア暫定連邦政府を支援する形で2006年末にイスラム法廷会議を撃退した。2007年になるとソマリア南部で生まれた別のイスラーム過激組織「アル・シャバブ」がグリエルにまで攻めてくるが、これに対抗して生まれた地元の軍閥アル・スンナ・ワル・ジャマー(アル・スンナ)が2010年にグリエルを支配する。しかしその後もアル・スンナとアル・シャバブの争いは収まらず、さらにはソマリア中部に作られた地方政府ガルムドゥグがソマリア政府軍の名で争いに加わった。 2019年以降はソマリア政府軍(ガルムドゥグ)が支配する形になっているが、現在でもアル・スンナやアル・シャバブとの戦闘は続いている。2021年10月の戦闘では、ほぼ全市民にあたる2万戸、10万人が避難する事態となった。 2008年、アル・スンナ・ワル・ジャマーがグリエルにモスクを設置[2]。 2008年6月、グリエルのエチオピア軍駐留基地が、正体不明の地元民兵に攻撃された。その後のエチオピア軍の砲撃により、妊婦を含む4人が死亡。住民の多くが都市部から郊外に逃亡した[3][4]。 2008年12月から[5]2009年1月にかけて、アル・シャバブと地元軍閥アル・スンナ・ワル・ジャマーの間で30人が死亡する戦闘があった[6][7]。 アル・スンナの支配[編集] 2009年10月、アル・スンナはグリエルに新政権の樹立を宣言。アイル(英語版)氏族の代表22人の投票でイスマン・イセ・ヌールが地区委員長に、バシル・アブドゥラヒ・ヌールが副委員長に選ばれた[8]。 2009年10月、グリエルで、自身が112歳であると主張する男性が17歳の少女と結婚したと報じられた。彼は過去に3人の妻を亡くしており、子供と孫は合わせて114人いる[9]。 2010年1月、アル・スンナがグリエルの支配権を握ったと報じられた[10]。 2010年2月、アル・スンナとソマリア暫定連邦政府の打ち合わせがエチオピアの首都アディスアベバで行われたと報じられたが、アル・スンナの幹部はグリエルで「虚偽報道である」とのコメントを発表[11]。 2010年3月、グリエルで国際連合世界食糧計画

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