Month: January 2019

オルシュティン – Wikipedia

オルシュティン、オルシチン(ポーランド語: Olsztyn)、アレンシュタイン(ドイツ語: Allenstein)は、ポーランドヴァルミア=マズールィ県の県都で一番大きい都市である。主な文化・文教・経済活動の中心や一般官庁ばかりでなく、重要な鉄道連絡駅及び交通の要所でもある。 ヴァルミア=マズールィ大学、プラネタリウム、天体観測館、コンサートホールなどがある。また、オルシュティンにはミシュランの大規模タイヤ工場がある。 町の建設は、14世紀にドイツ騎士団の手で始まった。町のドイツ語名アレンシュタインは、ドイツ語で「アレ川の石(城)」を意味する言葉に由来する。オルシュティンはアレンシュタインをポーランド語読みしたものである。 1454年、市民はドイツ騎士団による支配を嫌い1440年には自治領連合であるプロイセン同盟に加盟、1463年以降、ポーランド王の庇護下に入った。ドイツ騎士団に対するポーランド王国とプロイセン同盟の決戦を経て第二次トルンの和約が結ばれ1466年以降、町はポーランド王の直轄領であるポーランド王領プロイセンに属する。1516年から21年にかけて、コペルニクス(ポーランド語名:ミコワイ・コペルニク)がドイツ騎士団の侵略から町を防衛の任にあたる役人として、この町で勤務した。 1655年から1708年にかけて断続的にスウェーデンの占領を受けたあと、1710年には、ペストの流行により人口が激減した。1772年、第一次ポーランド分割に伴い、町はプロイセン王国に併合され、2世紀半にわたるポーランド時代は終わった。当時の人口は1,770人であった。 第一次世界大戦後の1920年、ポーランドの復活に伴い、町の帰属を決定する住民投票が行われ、東プロイセンの一部としてドイツ領に留まることが決定した。オルシュティンでは、マズール人(15世紀以降に移住してきたポーランド系住民)の多くがすでにドイツ系住民と同じ新教徒(プロテスタント)となっていたため、カトリックのポーランドを避け、ドイツ残留に投票した者が多かった。 第二次世界大戦では、1945年1月、ソビエト軍が町に迫る中、ドイツ系住民はドイツ本国方面への逃亡を開始した。同22日、町にソビエト軍が進入し、報復的な町の破壊を行った。 1945年8月2日、ポツダム会談の結果に従い、町はポーランド領となり、オルシュティンが正式名称となった。町にとどまっていた残りのドイツ系住民は追放の対象となり、新国境(カーゾン線)以東の旧ポーランド領から、新たな移住者を迎えた。これらの住民の移動に加え、冷戦下にあって、共産主義体制下で住民の生活が困窮したことから、マズール人など戦前からの住民の一部には、これらの人々を移住の有資格者とした西ドイツへの移住を選択する現象が見られた。その後、大規模な自動車用タイヤ工場が建設され、これを中心として町の産業の発展が図られた。現在このタイヤ工場はフランスのタイヤメーカー「ミシュラン」の傘下にあり、東西両ヨーロッパ市場向けの各種「ミシュラン」ブランド自動車タイヤを生産している。 戦争中に破壊された街の歴史地区および歴史的な建造物はその後、残された資料をもとにポーランドの市民によってもとの姿に再建・修復された。街並みや街周辺の湖水地方や運河や森林などは夏場の一大観光地および別荘地として人気があり、ヨーロッパ各地から避暑客が訪れる。 オルシュティン (1991–2020)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月

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ミラノサローネ – Wikipedia

ミラノサローネでの展示 ミラノサローネ(ミラノサローネ国際家具見本市、サローネ・デル・モービレ・ミラノ、イタリア語: Salone Internazionale del Mobile di Milano、英語: Milan Furniture Fair)は毎年4月にイタリアのミラノ市で開催される見本市。ミラノ大都市圏のロー市にある見本市会場フィエラ・ミラノ(Fiera Milano)を会場として[1]、イタリア家具工業連盟イベント会社(Federlegno Arredo Eventi spa)が100%所有する COSMIT (イタリア家具見本市組織委員会)の主催により開催されている[1]。 世界各国の最新の家具、インダストリアルデザイン、インテリアデザイン、テキスタイルデザインなどの展示が行われる。家具・デザイン関係の見本市としては世界最大のもので、なおかつ世界のデザインの最新トレンドが展示されるイベントでもある。 ミラノサローネが開催される4月には、ミラノ市内で様々なデザイン関係の見本市が同時に開催される。家具見本市と同時に、サローネ国際インテリア小物見本市が毎回開催される。さらに、奇数年には照明器具の見本市エウロルーチェ(Euroluce, サローネ国際照明見本市)とオフィス家具の見本市

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リュステム・パシャ – Wikipedia

リュステム・パシャ・オプコヴィッチ (トルコ語発音: [ɾysˈtem paˈʃa]; オスマントルコ語: رستم پاشا‎; クロアチア語: Rustem-Paša Opuković (約1500年 – 1561年7月10日) は、オスマン帝国のクロアチア人政治家。スレイマン1世の大宰相を務めた。リュステム・パシャはダマト・リュステム・パシャと呼ばれることもある。「ダマト」という形容辞は「義理の息子」を意味する。リュステム・パシャがスレイマンの娘の1人と結婚し、オスマン家の入り婿となっていたことによる。 リュステム・パシャは、現クロアチアのスクラディンの、クロアチア人家系に生まれた。子ども時代にイスタンブールに連れてこられて、軍人・官僚としての経歴を残している。1539年11月26日、スレイマン1世とロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)皇后との間に生まれた一人娘ミフリマーフ・スルタン(英語版)と結婚した。 リュステム・パシャは大宰相の地位に二度就いた。一度目は1544年から1553年で、二度目は1555年から1561年の死までの期間である。大宰相としての任期期間に、彼は莫大な資産を得た。そして公共の建物、モスク、慈善財団にかなりの財を費やした。1561年7月10日にコンスタンティノープルで死去した時点で、彼の個人資産には、ルメリアとアナトリアに815の土地、476の工場、1,700人の奴隷、2,900頭の軍馬、1,106頭のラクダ、800のクルアーンなどが含まれていた。 リュステム・パシャ・モスク (トルコ語: Rüstem Paşa Camii)

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浄土真宗親鸞会 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2008年7月) 正確性に疑問が呈されています。(2008年7月) 浄土真宗親鸞会(じょうどしんしゅうしんらんかい)は、1958年(昭和33年)に発足した仏教系の集団。親鸞会は自らを新宗教と呼ばれるのを好まず、浄土真宗の宗派の一つであると主張し、今日の浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など、他の浄土真宗各派は全て親鸞の教えから逸脱していると非難している。一方、伝統的な浄土真宗系各宗派は教義の解釈の違いから、親鸞会を異端とみている。主として、組織的に偽装した布教方法を批判されることがあり、カルト教団であると批判的に議論されることがある。 元浄土真宗本願寺派僧侶である高森顕徹が設立し、代表を務める。本部を富山県射水市(旧射水郡小杉町)に置く。関連会社・団体として1万年堂出版、チューリップ企画、日本仏教アソシエーション、一般社団法人全国仏教カウンセリング協会、オンライン仏教アカデミー、浄土真宗学院などがある。 機関紙は「顕正新聞」。なお、日蓮系団体冨士大石寺顕正会の発行する同名の新聞とは無関係。親鸞会は日蓮及び日蓮宗系諸団体を激しく非難している。 各種報道によると、同会の会員数は1980年(昭和55年)時点で約5万人[1]、1997年(平成9年)時点で約10万人[2]とされる。 浄土真宗各派で主流となっている清沢満之による近代教学を否定[3]、「宗祖親鸞聖人の正しい教えを広めることを唯一の目的として、親鸞、覚如、蓮如の文を根拠にして、それを忠実に解説する」という趣旨の法話会を各地で行っている。会では他の真宗宗派、とりわけ浄土真宗本願寺派(西本願寺)や真宗大谷派(東本願寺)との教義上の差異を主張しており、本願寺の教えは善の勧めがない教え、後生の一大事を否定した教えだと批判している。 伝統的な浄土真宗各派は親鸞会の教義を異端としている。 弥陀の本願について[編集] 阿弥陀仏の本願 親鸞 「如来世に興出したもう所以は唯弥陀の本願海を説かんとなり」(正信偈) 釈迦や親鸞が教えたのは「阿弥陀仏の本願」ただ一つであるとし、阿弥陀仏の本願を説く法話を聞くことを親鸞会では最重要視している。 特に本願文を「すべての人を絶対の幸福に救い摂る」ことと現代語で説明していることが大きな特徴である。 十劫安心は異義であることの指摘(何もしなくても誰でも極楽に往生できるという考えは間違いであると説く) 蓮如 「この信心を獲得せずば、極楽には往生せず」(御文章2帖目2通) 称名正因は異義であることの指摘(念仏さえ称えたら誰でも死んだら極楽という考えは間違いであると説く) 蓮如 「世間にいま流布して、むねと勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく、南無阿弥陀仏とばかり称うれば、皆助かるべ きように思えり。それはおおきに覚束なきことなり。」(御文章3帖目5通) 信心正因・称名報恩(信心が往生極楽の正しい因であり、念仏はそのお礼であると説く)

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生きてゆく – Wikipedia

「生きてゆく」 KANA-BOON の シングル 初出アルバム『TIME(#1)』 B面 日は落ち、また繰り返すロックンロールスター リリース 2014年8月27日 規格 シングル ジャンル J-POP 時間 11分43秒 レーベル Ki/oon Music 作詞・作曲 谷口鮪

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国鉄タキ8300形貨車 – Wikipedia

国鉄タキ8300形貨車(こくてつタキ8300がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)及び1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化後は日本貨物鉄道(JR貨物)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 本形式と同一の専用種別であるタキ8350形についても本項目で解説する。 タキ8300形[編集] タキ8300形は、ラテックス専用の30t 積タンク車として1960年(昭和35年)4月13日から1965年(昭和40年)12月20日にかけて5両(タキ8300 – タキ8304)が日本車輌製造、東急車輛製造の2社で製作された。 本形式の他にラテックスを専用種別とする形式は、タキ7100形 (3代)(3両)、タキ7900形(60両)、タキ8350形(15両、後述)、タキ8850形(21両)、タキ20600形(1両)、タキ20800形(1両)、タキ23800形(34両)、タキ26100形(6両)の8形式がある。 落成時の所有者は、野村貿易、ダウ・ケミカル・インターナショナル・リミテッド(その後社名は「旭ダウ」、「旭化成工業」と変遷を重ねた)の2社であった。 1977年(昭和52年)12月9日に野村貿易所有車1両(タキ8300)が日本合成ゴムへ名義変更された。 タンク体材質は普通鋼(一般構造用圧延鋼材)製であり、内部に塗装又はコーティング処理を施して使用された。断熱材を巻き鋼板製の外板(キセ)を装備している。 荷役方式は、タンク上部のマンホールからの上入れ、吐出管を用いた下出し方式である。 車体色は黒色、寸法関係は全長は12,800mm、全幅は2,400mm、全高は3,880mm、台車中心間距離は8,000mm-8,700mm、実容積は31.9m3、自重は20.0t、換算両数は積車5.0、空車2.0であり、台車はベッテンドルフ式のTR41Cであった。 1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には全車がJR貨物に継承され、1995年(平成7年)度末時点では全車健在であったが、2002年(平成14年)3月に最後まで在籍した1両(タキ8300)が廃車となり同時に形式消滅となった。 年度別製造数[編集] 各年度による製造会社と両数、所有者は次のとおりである。(区分けはロット別、所有者は落成時の社名) 昭和35年度 – 1両

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二条藤子 – Wikipedia

二条 藤子(にじょう とうし/ふじこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての高級官僚・歌人。歌聖藤原定家嫡系子孫で、二条派当主の二条為定の妹。後醍醐天皇中宮西園寺禧子の中宮宣旨(筆頭女房)。また、後醍醐の側室ともなり、南朝征西大将軍の懐良親王をもうけた。懐良は明から日本国王に冊封されたため、藤子は明史における日本の国母でもある。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集。 二条藤子は13世紀末、貴族・歌人の二条為道の娘として誕生したが、父は夭折した。長じて、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)ごろまで、関白二条道平に女房(上級女性使用人)として仕えた。元応元年(1319年)、中宮に冊立された西園寺禧子の宣旨に抜擢された。中宮宣旨とは、中宮仕えの「宮の女房」を率いる最高職で、いわば中宮の第一秘書とも言える腹心であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍(女官長)にほぼ相当する職責を持ち、家格・知性・実務・教養いずれも傑出した女性から選ばれた。この頃、藤子は女性の官僚として最高位の一つに登っただけではなく、元応2年(1320年)に奏覧された『続千載和歌集』に1首が入集し、勅撰歌人となった。 藤子は、二条派の大歌人にして後醍醐の親王時代の正妃である二条為子からは姪に当たる。早逝した為子の縁者ということもあってか、後醍醐からは中宮禧子および同僚で中宮内侍の阿野廉子に次ぐ寵愛を受けた。元徳元年(1329年)ごろ、藤子は後醍醐との間に、懐良親王をもうけた。また、中宮お抱えの官僚である宣旨ながら、正規の妃である女御(中宮の次位)相当の位階である従三位に叙された。後醍醐と鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331年 – 1333年)が始まり、元弘2年/正慶元年(1332年)に後醍醐が隠岐に流されると、主君の禧子同様、落飾(出家)して仏門に入った。南北朝の内乱(1336年 – 1392年)が始まると、延元3年/暦応元年(1338年)に、皇子の懐良は推定数え10歳で征西大将軍に任じられ、九州へ出征した。これが母子の今生の別れとなった。室町幕府の内紛である観応の擾乱の最中、正平6年/観応2年(1351年)春に、藤子は病により数え52歳以上で薨去した。 慈愛に溢れ心優しい人物で、死の床で詠んだ辞世の歌でまで、九州で戦う息子の身を案じ続けた。子の懐良もまた幼くして別れた父母を思慕し続け、冥福を祈ってたびたび写経などの奉納を行った。懐良の生存が確認できる現存最後の史料は、懐良が藤子の三十一回忌のために奉納した宝篋印塔である。藤子と後醍醐の霊牌は、懐良の菩提寺である熊本県八代市悟真寺に設置され、親子三人揃って供養を受けている。 系譜[編集] 二条藤子は、鎌倉時代末期、貴族である左中将二条為道の娘として生まれた(出自の詳細な議論は#懐良母=二条藤子の比定を参照)。御子左流二条家は、歌聖藤原定家の嫡系子孫で、為道の父(藤子の祖父)の二条為世も当時の歌壇の大御所だった(のち『新後撰和歌集』『続千載和歌集』の撰者)。為道は為世の嫡男であり、その和歌の実力も高かった。しかし、家督を継ぐ前に、正安元年(1299年)5月5日に数え29歳で夭折した。したがって、藤子の生年の下限は、正安2年(1300年)である。また、生年の上限については、『増鏡』「久米のさら山」では、夭逝した父に代わって為世の後を継いだ二条為定が、藤子の兄とされているため、為定が出生した永仁元年(1293年)[3]である。姉妹間での長幼の順序については、『尊卑分脈』(14世紀末)は、大納言局(藤子)を三姉妹の長女としている。 藤子の実母は不明だが、『新千載和歌集』に、「後宇多院宰相典侍」つまり為道の正室である飛鳥井経子(飛鳥井雅有女)との贈答歌が残る(『新千載和歌集』雑下・2049[6]および2050[7])。親しさからすれば実母の可能性もある。 藤子の兄弟には、先述の為定や、土御門雅長室(土御門顕実母)らがいる。 前半生[編集] 藤子は、『尊卑分脈』では、はじめ二条関白女房(女官)を務めていたと記載される。紛らわしいがこの摂関家の九条流二条家は、藤子の属する御子左流二条家とは同名別家である。この二条関白を二条道平とすれば、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)のことである[9]。 その後、藤子は、後醍醐天皇の中宮(正妃)である西園寺禧子(元応元年8月7日(1319年9月21日)中宮冊立)に、宣旨として仕え始めた。 宣旨というのは、公家社会の上級女性使用人である女房の最上位で、主の第一秘書とも言うべき腹心である。宣旨の中でも、中宮宣旨は家格・知性・実務・教養の全てがその時代で最高峰の女性から選ばれた。天皇付きの女房を「上の女房」(公的な官職である後宮十二司を含む)と言うのに対し、中宮付きの女房を「宮の女房」と言い、「宮の女房」の筆頭が中宮宣旨である。中宮宣旨は、「上の女房」の筆頭である典侍と協調して行動することも多かった。ただし、日本史研究者の鈴木織恵によれば、平安時代後期の11世紀後半には、中宮御匣殿という実務を司る官職の方が、中宮宣旨よりも地位が上になったという説もある。鎌倉時代での宣旨と御匣殿の序列は不明だが、いずれにせよ中宮の一、二を争う重臣だった。 中宮宣旨は、父の公卿が薨去した女性が補任されることが多く、前述した通り、藤子もまた幼いころに父の為道を亡くしていた。また、朝廷の公的な女官が多い「上の女房」と違い、「宮の女房」は厳密には私的な役職であり、中宮の実家が選ぶことが多かった。当時の西園寺家次期当主で中宮大夫でもあった西園寺実衡は、二条為世の娘(藤子の叔母)である昭訓門院春日を妻としていたため[18]、藤子が選ばれたのはその縁からの可能性もある。 なお、中宮宣旨と共に中宮の最高幹部とされるのが、中宮御匣殿と中宮内侍である。藤子の同期で入った幹部は、それぞれ西園寺公顕女の御匣殿(のち後醍醐第一皇子尊良親王の妃)と、阿野廉子(のち後醍醐側室で後村上天皇の母)だった。

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山形県県民会館 – Wikipedia

山形県県民会館(やまがたけんけんみんかいかん、Yamagata Prefectural Hall)は、山形県山形市で運営されていた県内では最大規模の多目的ホール。新会館「やまぎん県民ホール」(山形県総合文化芸術館)が同市双葉町に開館することに伴い、2019年11月30日で閉館した。 2009年4月から指定管理者制度の導入によってステージアンサンブル東北支社が管理・運営を行い[1]、2013年3月に山形銀行が命名権を取得[2]。4月から「やまぎんホール」の愛称が用いられていた[3]。 第二次世界大戦の終結による混乱が収まり、生活にゆとりが出てくると県民の間で、豊かな芸術文化の享受を求める声があがり、そのための施設の整備が喫緊の課題となった。また経済や自治さらには教育などの活発化に伴い、大規模な集会場を求める声も聞かれるようになった。こうした要望を踏まえ、県は1959年7月、「県民会館(図書館併設)建設計画(案)」を策定。県民会館建設は緒に就いた[4]。 山形県県民会館は、設計が山下寿郎設計事務所、施工を大成建設が手掛け、県庁(現:文翔館)正面に建設され、1960年11月3日に着工、1962年6月竣工し7月開館した[5]。 建物は鉄筋コンクリート製地下1階、地上4階建で、約2000名収容の大ホールのほか小講堂などが備えられた。また付属施設として県立図書館が併設され72,000冊が蔵書可能な三層積層の書架や閲覧室等が設けられた[5]。1990年7月、県民会館から至近の緑町一丁目の旧知事公舎跡に新築された複合施設である遊学館が開館した際には県立図書館も併設された。図書館跡には山形県こども館(現:やまぎんこども館)が開館している。 その後、県民会館の老朽化が顕著となったため、県は1992年から新文化施設の検討を開始し、2000年には基本設計を策定。翌年にはJR山形駅西口に新文化施設を建設するための用地を68億円で購入した。しかし、2005年1月に山形県知事に当選した斎藤弘は財政規律を重んじる方針を唱え[6]、県は平成17年度補正予算発表時に計画の凍結を表明。県民会館の継続運用を発表した。 継続運用の方針に則り、2005年11月下旬から2006年3月31日の期間に耐震補強、内装改修、アスベスト除去の工事が行われ、同年10月31日には外壁の耐震化工事も完了した。改修を経てホール内の雰囲気が明るくなり、音響面で多少の改善は見られたが、音楽向きのホールとは未だ言えないとの声も一部では聞かれた。 2009年1月、斎藤弘を破り知事に初当選した吉村美栄子は、新文化施設予定地を空き地のままにしておくことについて監査した専門家が「年間約1億5千万円の機会損失が生じている」と指摘したことを受け、計画再開を決断[6]。2012年には有識者懇談会を立ち上げ、県は2014年3月には施設の概要を策定し、2016年2月には実施設計概要も公表した。 新県民文化施設は山形駅西口の山形市双葉町一丁目に鉄骨鉄筋コンクリート造りなどで建設し、地上5階、地下1階(延べ床面積約1万6100平方メートル)で構成され、県が県土地開発基金から事業用地を買い戻す約67億5700万円を除き、整備事業費は約143億円を見込み[7]、2018年度の完成、2019年度中の開業を予定していた。しかし、建設業界の人手不足に加え、東日本大震災以降の復興需要の高まりなどに伴う労務費の高騰などから、3度目の入札でようやく建築主体業者が決したため[8]、工期が約半年ほど伸び、整備事業費も当初より5億円ほどの増加を見込んだ。2018年2月、新県民文化施設の名称について県は、内部検討の上で「県総合文化芸術館」としたと発表した[9]。 閉館[編集] 新会館「やまぎん県民ホール」(山形県総合文化芸術館)が2019年12月1日にプレオープンすることに伴い、11月30日を以て閉館した。最後のステージは前日から「ユニコーン100周年ツアー“百が如く”」で、山形公演をしていた「ユニコーン」が飾った[10][11]。2020年1月、ユニコーンのメンバーである山形県出身のABEDONこと阿部義晴を起用した特別番組「ABEDON from ユニコーン presents “ありがとう山形県県民会館”」が日テレプラスにて放送された。会館の歴史を刻むように長年大ホールのステージに設えられていたグランドピアノ「スタンウェイ」を演奏、大ホールに響かせる最期の音色とした[12][13]。 なお、併設の山形県こども館は、山形市のべにっこひろばなど屋内遊戯施設が各地に整備されたことなどから、閉館が決まり、2020年2月29日に幕を閉じた[14]。 大ホール 定員1,496名(立見70人、車椅子4席)。山形県県民会館のメイン施設である。プロセニアム型のホールで花道を備える。各種コンサート、大会、講演会、演劇、式典等幅広く利用されている。

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群の表現 – Wikipedia

数学において、群の表現(ぐんのひょうげん、英: group representation)とは、抽象的な群 G の元 g に対して具体的な線形空間 V の正則な線形変換としての実現を与える準同型写像 π: G → GL(V) のことである。線型空間 V の基底を取ることにより、π(g) をより具体的な正則行列として表すことができる。 群の表現[編集] 群 G

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