Month: January 2019

夏目漱石 – Wikipedia

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 – 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の文豪の一人。 代表作は『吾輩は猫である』『坊つちやん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。 講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。 帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。 帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。 幼少期[編集] 夏目漱石誕生之地碑 夏目漱石の母・千枝 夏目 金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった[6]。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれている。 名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。 金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[6]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[7]。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。

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豊岡鞄 – Wikipedia

豊岡鞄(とよおかかばん、Toyooka Kaban)は、兵庫県豊岡市で生産されている鞄。奈良時代より続く柳行李(豊岡杞柳細工)をルーツとしている。2006年(平成18年)11月に特許庁の地域ブランドに認定された。 円山川下流域に広がる豊岡盆地では、奈良時代より円山川に自生するコリヤナギを編んだ柳行李(豊岡杞柳細工)が作られており、江戸時代後期には豊岡藩の奨励により杞柳産業として確立した。 豊岡鞄の源流は1881年(明治14年)に八木長右衛門が第2回内国勧業博覧会(東京・上野)に出品した3本革バンド締めの行李鞄とされている[1]。豊岡鞄として初めて販売されたものは、1917年(大正6年)に柳行李に漆を塗り錠前を取り付けた「新型鞄」を奥田平治が創案して販売したものが最初とされている[2]。 同市で製造された鞄は「豊岡産」「豊岡製」「日本製」などと呼ばれ、そのうち兵庫県鞄工業組合が定めた基準を満たす企業の優れた製品を、商標登録している地域ブランド「豊岡鞄」として認定している。 1881年(明治14年) – 八木長右衛門が第2回内国勧業博覧会に行李鞄を出品する 1917年(大正6年) – 奥田平治が「新型鞄」を売りに出す 1928年 – 1931年頃 – 新素材を使用した繊維鞄が商品化される 1936年(昭和11年) – ベルリンオリンピックの選手団のかばんに豊岡鞄(ファイバー鞄)が採用される 1938年(昭和13年)

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岐阜地方気象台 – Wikipedia

岐阜地方気象台(ぎふちほうきしょうだい)は、岐阜県岐阜市にある地方気象台。東京管区気象台の管轄である。 岐阜県の地上気象、生物季節の観測、地震の震度観測などを行い、天気予報・週間天気予報、気象注意報・警報・情報、地震情報・緊急地震速報、噴火警報・噴火予報の情報を行う。 管轄していた測候所が高山市に存在していたが、2005年(平成17年)に無人化されて高山特別地域気象観測所となっている。 アメダス[編集] 岐阜地方気象台が管轄するアメダスは、岐阜地方気象台と高山特別地域気象観測所以外に31か所ある。 河合 (飛騨市河合町角川) 神岡 (飛騨市神岡町殿) 白川 (大野郡白川村鳩谷) 御母衣 (大野郡白川村牧) 栃尾 (高山市奥飛騨温泉郷) 清見 (高山市清見町大谷) 丹生川 (高山市丹生川町瓜田) 六厩

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太陽銀行 – Wikipedia

宮崎県を拠点とする第二地方銀行については「宮崎太陽銀行」をご覧ください。 太陽銀行(たいようぎんこう)とは現在の三井住友銀行の前身のひとつで、相互銀行を前身とする都市銀行である。本店は東京都中央区の呉服橋交差点際に立地していた[注釈 1]。 1940年、川崎財閥の相生無尽を中心に東京市内の無尽会社5社が合併し、大日本無尽が成立。 その後同社は、政府の勧奨に基づき相互無尽1社を除く東京府内の無尽会社を統合。終戦までに神奈川県・埼玉県・山梨県の無尽会社を統合した[注釈 2]。また、1946年(昭和21年)信州無尽を合併した[2]。 1948年、日本無尽と改称、その後相互銀行法の制定により相互銀行に転換し日本相互銀行と改称。この時点で相銀界のリーディングカンパニーとなり、ときわ相互銀行[注釈 3]や第一相互銀行[注釈 4]が経営危機に陥った際には、率先してこれを支援した。 無尽会社→相互銀行という業態のため、当初の取引先は中小企業がほとんどであったが高度経済成長期において、当初は中小企業であった取引先の成長と共に日本相銀も急成長し、その一方で相銀特有の零細融資である相互掛金の取扱高は減少する事態となり、大蔵省から河野一之社長を迎えた頃はもはや地銀上位行をしのぐ内容となっていた。 そのきっかけは、1963年に坂口芳久が急逝し、旧友の池田勇人総理大臣が日本長期信用銀行副頭取に天下りしていた河野に後任社長就任を要請したことに端を発す[3]。長銀の副頭取から日本相互銀行社長に転職では役不足だったが、池田が河野に「普通銀行に転換すれば預金量からいっても即日、都市銀行になる。すぐに法律を作らせる」と口説き、当時の大蔵事務次官・石野信一に「合転法」を作らせた[3]。1967年(昭和42年)に太陽生命保険と業務提携。先の法律によって1968年(昭和43年)普通銀行に移行し「太陽銀行」と改称[3][注釈 5]、同時に都市銀行の一角に加わった。この際には当時大蔵省銀行局長であった澄田智が骨を折った。 河野一之は太陽銀行になってからも引き続き同行の頭取を務めた。時を同じくして、都市銀行は、三井銀行と東都銀行の合併(1968年)、第一銀行と三菱銀行の合併発表(1969年、のちに破談)、日本勧業銀行と第一銀行の合併による第一勧業銀行の誕生(1971年)といった再編の動きを見せていた。当時、都市銀行の中で、神戸銀行が山陽特殊製鋼倒産事件などを機にやはり大蔵省から石野信一を頭取として迎えていた。石野は河野の後輩で、ともに大蔵省時代に大蔵次官を経験しかつて先輩後輩の仲であった河野と石野との“トップ会談”により、一連の金融再編の動きの末に都市銀行下位どうしになっていた太陽銀行と神戸銀行は合併、1973年(昭和48年)10月1日に太陽神戸銀行となった。 神戸銀行を存続会社とし本店も金融機関コードも神戸銀行のものをそのまま引き継いだが、本部機能は東京と神戸の2本部制とし、太陽銀行時代の本店は東京本部(店舗としては東京営業部)[注釈 6]となった。 合併に際し、太陽銀行はリテール・関東地方、神戸銀行は大企業・関西+国際取引に強みがあり相互補完できるとの期待もあったが、言い換えれば水と油のように異なっていた両行でもあり、合併がトップで決まったこと、合併発表から合併までが短期間であったことなどで合併後も長くこの色彩が続くことになった。また頭取については、1990年に三井銀行と合併するまで、内部人事を行うことがないまま大蔵省出身者が歴代就任した。 日本相互銀行末期の営業エリアは関東地方一円、甲信越・静岡一円、愛知県一円、大阪府のうち大阪市等一部の地域であった。金融機関コードは、日本相互銀行時代は0523、普通銀行に転換後の太陽銀行は0021であった。 1940年12月 – 大日本無尽株式会社が設立される。

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白崎彩子 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “白崎彩子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年12月) 白崎 彩子しらさき あやこ 生誕 (1969-09-16) 1969年9月16日[要出典] 出身地 日本・東京都世田谷区 死没 (2021-11-29) 2021年11月29日(52歳没)

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後免駅 – Wikipedia

JR四国の駅名標当駅に限り平仮名主体で表記されている。 土佐くろしお鉄道の駅名標 後免駅(ごめんえき)は、高知県南国市駅前町二丁目にある、四国旅客鉄道(JR四国)・土佐くろしお鉄道(TKT)の駅。南国市の代表駅である。 南国市の代表駅で、JR四国と土佐くろしお鉄道が構内を共用する共同使用駅であるが、駅の管轄はJR四国が全面的に行なっている。 JR四国の土讃線と、土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線が乗り入れる。ごめん・なはり線は当駅が起点であるが、一部列車は土讃線に直通運転を実施しており高知駅まで乗り入れている。駅番号は、JR四国が「D40」、土佐くろしお鉄道が「GN40」である。 1926年から1974年までは、当駅には土佐電気鉄道の安芸線が発着していた。同線は国鉄阿佐線(牟岐駅 – 後免駅)の建設促進を名目とし、日本鉄道建設公団への用地売却による赤字解消を目的として1974年に廃線となった。 その後、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行によって阿佐線の工事は凍結されたが、第三セクター鉄道の土佐くろしお鉄道が西部側の工事を継承し、2002年に同社のごめん・なはり線として開業した。 駅名は駅設置当時、駅周辺が長岡郡後免町に属していたことに因んでいるが、1959年に後免町その他の合併により南国市が発足した後も改称されていない。 年表[編集] 1925年(大正14年)12月5日 – 鉄道省土讃線(当時・高知線)が土佐山田まで延伸されると同時に開業[2]。 1926年(大正15年)4月11日 – 高知鉄道(後の土佐電気鉄道)後免駅開業。安芸方面への連絡駅となる。 1941年(昭和16年)7月12日 – 社名変更により高知鉄道の駅が土佐交通の駅となる。

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ステイ・ウィズ・ミー (サム・スミスの曲) – Wikipedia

“ステイ・ウィズ・ミー“(Stay with me)はイギリスの男性歌手・サム・スミスの1枚目のスタジオアルバム、『イン・ザ・ロンリー・アワー』からの3枚目のシングル。2014年5月18日にイギリスで音楽配信された。この楽曲はサム・スミス本人とジミー・ネーピアによって書かれた[1]。 この曲は彼の一番のヒット作となった。イギリスでは1位を記録し、彼の2作目の1位獲得作となった(客演を含めると3作目)。また、カナダやニュージーランドでも1位を獲得した。アメリカではMagic!のヒット作、「ルード(英語版)」に阻まれ、惜しくも2位となった。 2014年3月25日7時30分、この楽曲はBBCラジオ1で初めて発表された[2][3][4]。 同年3月29日、彼はこの楽曲を『サタデー・ナイト・ライブ』(アメリカの長寿番組)でパフォーマンスした。 また同年5月16日には『ザ・グラハム・ノートン・ショー』でパフォーマンス、7月には『グッド・モーニング・アメリカ』に出演、ニューヨークのアポロシアターでメアリー・J. ブライジとパフォーマンスした。 評論家の反応[編集] この曲は多くの肯定的な感想を音楽評論家たちから受けた。 デジタル・スパイのエイミー・デヴィッドソンはこの曲を「感情的なクレッシェンド」と評し、コーラスは「少し感傷的すぎる」と評している。また、彼女はこの曲に5個中4個の星を与えた[5]。 ローリング・ストーン誌のジョー・グロスはこの曲に肯定的な評価も否定的な評価も与えており、この曲に5個中3個の星を与えた[6]。 ノウスのイザベル・ピアソンは、彼女のディスクレビュー内でこの曲に肯定的な評価を与えた[7]。 ジ・アップカミングのサラ・ニルトンはこの曲を賞賛し、「感情の高まりを引き起こす鋭いほどの正直さと、とても美しいゴスペルの影響を感じる」と評した”[8]。 2014年7月、米ビルボード誌はこの曲を”2014年のこれまでのベスト10ソング”に選び、「切ないコーラスでの聖歌隊のバックボーカルが、この曲のバックボーンを感じさせる、脆いバラードである。」と評し[9]、ビルボード・ミュージック・アワード2015の最優秀楽曲賞にノミネートされる[10]。 第57回グラミー賞では、年間最優秀レコード賞、年間最優秀楽曲賞の2部門受賞。 バリアランス・マガジンはこの曲を「2014年の夏を代表する曲」とした[11]。 ミュージックビデオ[編集] この曲のミュージックビデオは2014年3月27日にYouTubeで初めて公開された[12]。 このビデオには彼が家を出てロンドンの街路を歩いていく様子や聖歌隊とともに教会で歌う様子などが映っている。

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ヴァーティゴ – Wikipedia

この項目では、イギリスのレコード・レーベルについて説明しています。U2の楽曲については「ヴァーティゴ (曲)」をご覧ください。 「Vertigo」はこの項目へ転送されています。タッキー&翼の楽曲については「TRIP & TREASURE TWO」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヴァーティゴ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年1月) ヴァーティゴVertigo 親会社 ユニバーサル ミュージック グループ

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イザベル・ファン・クーレン – Wikipedia

ポータル クラシック音楽 イザベル・ファン・クーレン(Isabelle van Keulen, 1966年 マイドレヒト(またはメイドレヒト) – )は、オランダを代表する女性ヴァイオリニスト、またヴィオラ奏者。 6歳でヴァイオリンを始める。アムステルダム・スウェーリンク音楽院に学んだ後、ザルツブルク・モーツァルテウムにてシャンドール・ヴェーグに師事。 室内楽や現代音楽の演奏を中心とした活動を繰り広げており、1996年にはデルフト国際室内楽フェスティバルを創立した。これには演奏家としてだけでなく、2006年までは指揮者としても出演した。主な共演者に、レイフ・オヴェ・アンスネスやホーカン・ハーデンベルガー、ギドン・クレーメル、ハインリヒ・シフ、トマス・アデスらがいる。 これまで演奏会では、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やバイエルン放送交響楽団、ウィーン交響楽団、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、バーゼル室内管弦楽団など世界の主要なオーケストラや、マーク・エルダーやヴァレリー・ゲルギエフ、ネーメ・ヤルヴィ、ネヴィル・マリナー、ロジャー・ノリントン、デイヴィッド・ジンマン、ヒュー・ウルフ、オスモ・ヴァンスカら著名な指揮者と共演してきた。 メンデルスゾーンの《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》を初版によって録音した。アラン・ペッテションやエリッキ=スヴェン・トゥールの協奏曲も録音している。 外部リンク[編集] http://www.isabellevankeulen.com/ http://www.kdschmid.de/deutsch/06kdsuk/1kuenstler.php3?ch=2&k_id=178&tix=0 http://www.prnewswire.co.uk/cgi/news/release?id=104820 典拠管理 BNE: XX1548982

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公正党 – Wikipedia

公正党(トルコ語:Adalet Partisi, AP)は、トルコ共和国の中道右派政党。 1960年の軍事クーデターにより解党された民主党(Demokrat Parti)の後継政党として1961年に設立され、1960-70年代のトルコ政局では、中道左派の共和人民党と共に二大政党として議会を支配した。1980年の軍事クーデターにより解党。 1960年代[編集] 公正党の前身の民主党は、1960年5月27日の軍事クーデターにより解散処分にされた。民主党の全議員は、軍部によりマルマラ海上のヤッス島に集められ、裁判を受けることになった。前首相のアドナン・メンデレス、前経済相のハサン・ポラトカン、前外相のファティン・リュシュテュ・ゾルルが処刑されたほか、多くの党幹部が有罪判決を受け、民政移管まで身柄を拘束され続けた。 公正党は、民政移管後の旧民主党支持者の受け皿として、1961年2月11日に軍の承認のもとで設立された。党首には前参謀総長のラグプ・ギュミュシュパラが就任した。公正党は、1961年10月15日の総選挙では34.8%の票を獲得し、議会第一党の共和人民党と連立政権を樹立して、第8次イノニュ政権を樹立した。しかし、旧民主党議員の特赦をめぐる対立から、翌1962年には公正党は連立政権を離脱することになった[1]。 党首ギュミュシュパラが1964年に死去すると、後任の党首には、民主党政権時代のダム建設事業での実績を買われた元国家水利庁長官のスュレイマン・デミレルが選出された。1965年に実施された総選挙では、公正党は52.9%の票を獲得。公正党は議会の単独過半数を制し、デミレルを首班とする政権を樹立した。公正党は1969年の総選挙にも勝利し、デミレルは、安定した政権基盤のもとで、1960年代後半に計3回の組閣を行った[2]。 デミレル政権は、原材料、部品の輸入による輸入代替工業化を政策として進め、優遇税制、補助金交付などにより、民間部門の育成を行った。こうした政策は、財閥を中心とする大企業に多くの富をもたらしたが、地域間の経済格差を拡大させ、都市の貧民層を増大させる結果を生んだ。 公正党政権は、1970年の予算審議にて、新規課税に反対する与党議員から造反者を出して崩壊した。造反者の一部は、フェッルフ・ボズベイリを党首に民主党(Demokratik Parti)を設立し、政局流動化の発端となった。 デミレル政権は、こうした政局の混乱や、高水準で推移するインフレを収拾できず、また、同時期に激化した学生運動や労働争議などの左派系の社会運動に対して有効な施策を取れなかった。1971年3月12日、軍部は、こうした国政の混乱の責任を問う書簡を、大統領、上下院議長宛に送り、デミレル内閣は退陣に追い込まれることになった(「書簡クーデター」)[3]。 1970年代[編集] 書簡クーデターの後、ニハト・エリムを首班とする超党派内閣が成立した。公正党は、求心力を失い、1973年の総選挙では、民主党や国民救済党などの右派政党に票を奪われ、得票率29.8%に凋落。議会第一党となった共和人民党と、イスラーム系政党の国民救済党による連立政権が成立し、公正党は政権政党から転落した。 しかし、キプロス危機後の政局混乱のため、共和人民党のエジェヴィト内閣が総辞職に追い込まれると、公正党は右派政党を糾合して、「民族主義者戦線(Milliyetçi Cephe)」を設立。公正党のほか、国民救済党、共和信頼党、民族主義者行動党が参加し、1975年に第4次デミレル内閣が成立した。 1977年の総選挙では、公正党は36.9%の票を獲得して、議会第二党となった。しかし、共和人民党、公正党のいずれも単独過半数を確保できず、少数与党政権となった共和人民党政権は僅か1ヶ月の短命に終わった。公正党は、右派政党による「第二次民族主義者戦線」を再結集し、議会多数派を確保。7月より、第5次デミレル政権が成立した。 しかし、公正党政権もまた造反者のため、僅か1年程度で退陣に追い込まれ、翌1978年1月には、再び共和人民党のエジェヴィトが政権を担当することになった。1979年11月には、中間選挙に敗北したエジェヴィトが辞職したため、デミレルが6回目の組閣を行うこととなった[4]。 こうした不安定な政局は、キャスティング・ボートを握る国民救済党、民族主義者行動党などの宗教政党、極右政党の発言権を増大させた。また、頻繁な政権交代により、慢性化したインフレへの対処も後手に回り、経済状況も悪化の一途を辿った。こうした国政の行き詰まりを、政党政治の限界として捉えた軍部は、「書簡クーデター」以来10年ぶりに政治介入を決断し、1980年9月12日に軍事クーデターが敢行された。

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