Month: February 2019

新北市 – Wikipedia

新北市(しんほくし[2]/シンペイし、英語:New Taipei City、台湾語:Sin-pak-tshī)は、台湾北部に位置する中華民国の直轄市。2010年12月25日、台湾省管轄下の台北県から直轄市に昇格し、新北市(新しい台北市の略)と改称された。 台湾地区最大の人口を有する都市で、中華民国の政治的中枢を為す台北市の衛星都市として発展した。そのため、市域は台北市と台北市の外港である基隆市(省轄市)の近郊を取り囲む形となっている。 新北市は台湾西北部に位置しており、中心地点は石碇区石碇である。東側は宜蘭県、南は桃園市に接しており、市域の中に台北市及び基隆市が位置している。 市内の地勢は起伏に富んでおり、蘭陽渓の支流が市内を流れている外、河川系は淡水河流域に限定されている。淡水河の支流には基隆河、新店渓、景美渓、北勢渓、南勢渓、塭子渓、三峽渓、大漢渓などがあり、豊かな流域土壌を形成している。 気候[編集] ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候 (Cfa) に属し、平均最低気温は1月には13.9℃まで下がる。なお7月の平均最高気温34.3℃である。 New Taipei City (1981–2010)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月

Continue reading

松坂直美 – Wikipedia

松坂 直美(まつざか なおみ、1910年-2002年)は、戦前から戦後にかけて国内で活躍した作詞家である[1]。舟木一夫や美空ひばりに作詞を提供したこともあり、日本詩人連盟会長、日本訳詩家協会理事長、長崎県人会常任理事、雪州会(在京壱岐人会)会長などを務めた。 明治43年(1910年)長崎県壱岐市芦辺町生まれ。深江にて青少年期を送る。昭和7年(1932年)に流行歌「山のあけくれ」「時雨する頃」の作詞を手がけ、いずれも古関裕而(こせきゆうじ)作曲[2]のレコードでデビュー。1933年(昭和8年)以降はペン一筋の生活に徹した。2002年(平成14年)に92歳で亡くなった。 長崎県壱岐市内の小中学校の校歌として、三島小学校、沼津小学校、芦辺小学校、田河小学校、那賀中学校、田河中学校などがある。主な作品として玄海ワルツ、緑の牧場、夕陽の古戦場、ふるさとはネムの花咲く、玄海慕情、花ごよみふるさとの四季、淡雪の賦、芦辺町民歌、郷ノ浦町町歌、勝本小唄、アカシアの花など2000余曲の作詞を行った。 校歌・作詞[編集] 流行歌・作詞[編集] 時雨する頃(関種子)1932年(昭和7年) 山のあけくれ(米倉俊英)1932年(昭和7年) 波浮の夜船(きみ榮) 砂丘を越えて(青葉笙子) 黒龍千里(北廉太郎) 男の行く道(北廉太郎) 浮世の旅路(山中みゆき) 虹よ消ゆるな(東海林太郎) 旅姿峠の唄(上原敏) 沓掛街道(上原敏) 國境千里(田端義夫) 石狩の春(田端義夫) 朝の街角(近江志郎)

Continue reading

ビュールシュタット – Wikipedia

ビュールシュタット (ドイツ語: Bürstadt, ドイツ語発音: [ˈbyː̯ɐʃtat][2]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ベルクシュトラーセ郡に属す市。 位置[編集] ビュールシュタットはライン川とオーデンヴァルトの間のオーバーライン地溝帯内ヘシシェン・リートに位置する。 隣接する市町村[編集] ビュールシュタットは、北をビブリス、北東をアインハウゼン、東をロルシュ、南と西をラムペルトハイムに境を接している。 市の構成[編集] ビュールシュタットは3つの市区からなる。ボブシュタット区、ビュールシュタット区、リートローデ区である。ボブシュタットとリートローデはビュールシュタットから約1kmの距離にある。また、ボックスハイマーホーフもこの都市に含まれる。 「Bürstadt」の名前は「Bisos Stätte」に由来する。Bisoはこの地域を所領としたフランク人の領主である。(「Stätte」=「場所」) ビュールシュタットは文化的、歴史的にドイツで最も古い可能性がある土地に位置する。オーバーライン地溝帯の肥沃な土地と鳥獣の種類が多いことでライン河畔には大変に古くから定住者があった。 ビュールシュタット市内のザックシュタインと呼ばれる高さ1.35mのモノリスは、おそらく新石器時代後期のメンヒルである。ビュールシュタットの森にある墳丘からは、ハルシュタット期に分類される出土品が発見されている。ラ・テーヌ期初期の出土品の量も注目すべきで、中にはたとえば紀元前500年頃に創られた指の模様がついた手作りの杯などがある。この他、ビュールシュタットの森の辺縁部には広大なローマ人入植地の跡がある。ケルト人が造った町にまで遡るニーベルンゲンの街ヴォルムスと帝国修道院ロルシュの中間に位置するビュールシュタットにはカロリング朝の王領が設けられた。ロルシュ修道院は764年にカンコール伯によって設けられた修道院で、9世紀から12世紀にかけてドイツ最大で最も有力なベネディクト会修道院となった。ビュールシュタットは、767年11月1日付の寄贈証明書に初めて記録されている。カンコール伯の子息ハイメリヒは、782年にその所領であるボブシュタットをロルシュ修道院に寄進した。これがボブシュタットの文献上最初の記録である。789年には、帝国修道院ロルシュ修道院の所領としてボックスハイマーホーフが初めて記録されている。最初この農場は、「Villa wizzilin」あるいは「Wizzelai」と表記されていたが、1275年には「Boxheim」と記述されている。 873年の4月末、ドイツ人王ルートヴィヒは、ビュールシュタットで帝国会議を催した。この会議は、デンマーク王ジークフリートの派遣した公使と大モラヴィア王国のスヴァトプルクの使者を受け容れるかどうかを話し合うものであった。また、ルートヴィヒとその息子達との和解もなされた。 1232年、ビュールシュタットはロルシュ修道院とともにマインツ大司教領となった。ボブシュタットは1427年にヴァッテンハイム家のレーエンとなったが、1440年にペーター・フォン・ヴァッテンハムが亡くなると、ヴォルムス司教領になった。ヴォルムス司教ヨハンはボブシュタットの村とその裁判権を1443年にコンラート・フォン・フランケンシュタインに与えた。コンラートは、フランケンシュタイン一門でレーエン領主となった初めての人物である。フランケンシュタイン家の統治は1780年まで続いた。 1461年にビュールシュタットはプファルツ選帝侯に質入れされた。1556年、プファルツ選帝侯はビュールシュタットにも宗教改革をもたらした。1618年から1648年の三十年戦争ではビュールシュタットのすべての家屋が焼き払われ、その後ほぼ10年間、この村は無人となった。1618年には約700人だった人口は、1648年にはわずか154人になっていた。この間の1623年にビュールシュタットは再びマインツ大司教領になり、カトリックに改宗された。1723年にはバロック様式の聖ミヒャエル教会の建設が始まった。1780年、ボブシュタットはフランケンシュタイン家の統治から、ヴォルムスの役所であるアムト・ラムペルトハイムの管理下に移された。 1803年にマインツ大司教領が解体され、ビュールシュタットはヘッセン大公領となった。1824年11月3日にノルトハイム付近(現ビブリス)の開墾地の堤防が決壊し、ライン川が氾濫した。これによりボブシュタットは深刻な被害を受けた。1882年にカトリックの聖ミヒャエル教会の司祭ペーター・イッツェルが日雇い労働者に刺殺された。これによりビュールシュタットに悪い評判がつき、「メッサーシュテッヒャー」(すぐに刃物騒ぎを起こす喧嘩屋)というあだ名がつけられた。1936年7月10日、ヘッセンの世襲農地の村リートローデが初めて完成し、28家族に与えられた。

Continue reading

山田くんとLv999の恋をする – Wikipedia

『山田くんとLv999の恋をする』(やまだくんとレベルきゅうひゃくきゅうじゅうきゅうのこいをする)は、ましろによる日本の漫画作品。『GANMA!』(コミックスマート)にて2019年3月7日から連載されている[2]。単行本はKADOKAWAより刊行[3]。本作はましろの初連載作品である[4][単 1]。 あらすじ[編集] 女子大生の茜は、彼氏からほかに好きな子ができたと突然フラれる[2][単 2]。ストレス解消のために元彼・たくまに勧められて始めたゲームにログインするが、同じギルドの仲間の山田のせいでますますストレスをためる[2][3][単 2]。元彼を見返すために足を運んだゲームのイベントで転倒した茜はイケメンと出会ったが[2][3]、そのイケメンの正体は山田なのであった[9]。山田をヤケ酒につき合わせ[3]、酔いつぶれた茜は山田に介抱される[単 3]。それを機に山田と関わるようになった茜は、山田とギルドマスターの瑠璃姫のふたりの仲の良さが気になり始める[単 4]。ゲームのコラボカフェがオープンすることになり[単 5]、瑠璃姫に誘われたオフ会で瑠璃姫が男性・瑛太であると知り茜は衝撃を受けるが[単 5][単 6]、山田に彼女がいないと知り安心する[単 6]。オフ会で知り合った瑛太の妹・瑠奈から遊びに誘われ喜ぶ茜だが[単 6][単 7]、約束をすっぽかされる[単 8]。茜を嫌い困らせたかったために取った行動だと瑠奈から聞いた茜だが、それでも瑠奈と話をし彼女に謝罪をされ[単 9]、和解するのであった。茜と山田の仲を進展させようと考える瑠奈だが空回りで終わる[単 10]。 茜は山田の高校の学園祭に瑛太、瑠奈、鴨田と一緒に行く[単 11]。そこで瑛太に冗談で山田との交際を提案された茜は赤面し逃走するが[単 12]、後を追った山田にフォローされ、初めて彼から名前を呼ばれる[単

Continue reading

ギルランディーナ – Wikipedia

トッレザニの部屋の柱頭 工事中のギルランディーナ(2008年2月) ギルランディーナないしギルランディーナの塔(Torre della Ghirlandina)は、イタリアのモデナ大聖堂に隣接する鐘楼である。高さ 86.12 mの塔の上からは市の周囲を一望でき、古くからモデナの主要なランドマークになっている。「市民の塔」(トッレ・チヴィカ、Torre Civica)の名前でモデナ大聖堂などとともに世界遺産に登録されている。 大聖堂に隣接する大理石製の鐘楼が完成したのは1179年のことで、モデナ大聖堂とともにランフランコの設計だった[1]。五階建ての塔は主に「サン・ジミニャーノの塔」(Torre di San Geminiano)と呼ばれていた。その後、モデナの市当局はボローニャの塔と張り合おうとして、八角形の六階部分と尖塔を付け加えた。それは、13世紀から15世紀に大聖堂の修復のためにカンピオーネから来た多くの親方の一人、アッリゴ・ダ・カンピオーネ(Arrigo da Campione)によって設計されたものである。 結果として、塔の下部はロマネスク様式、上部はゴシック様式となっている[1]。塔についた風向計は青銅製の花冠(ghirlanda)で飾られており、ギルランディーナという現在の愛称はそれに由来している[2]。 内部では、15世紀のフレスコ画が残る「手桶の部屋」(Sala della Secchia)に、「セッキア・ラピタ」(Secchia rapita)の描画の複製が保存されている。それは、かつてこの塔がモデナ市当局の金庫だったときの記憶を伝えるものである。五階の「トッレザニの部屋」(Sala dei

Continue reading

跳び箱 – Wikipedia

跳び箱(とびばこ、飛び箱、vaulting box)は、長方形の木枠を山形に積み重ね、最上部に布や革などを張った箱形の体操器具。簡易なものもあり遊具の一種でもある[1]。重ねる木枠の数を変えることで高さを段階的に加減することができる。手前に踏み切り板を置き、走ってきて手をつき跳びこす。初級者向けの跳び箱には、ウレタン製の跳び箱や、閉脚跳び用に中央部が手を付く部分より低くなっているものもある。 「跳び箱」に相当する英語は “Vaulting Horse” であるが、通常は体操競技の跳馬を指す言葉である。 跳び箱の原型は古代ローマに存在しており、兵士が馬に乗る技術を習得するために木馬に乗る練習を行っていたことに由来する[1]。 ドイツでは木馬を跳び越す跳馬運動と馬上での鞍馬運動の2つの流れに分かれて発達した[1]。現代の跳び箱はドイツの跳馬運動とスウェーデンのテーブル跳びなどの影響を受けてスウェーデンで考案されたものである[1]。跳び箱が考案されたのは19世紀初頭で、初期の跳び箱は、縦・横ともに1m50cmの正方形であり、北ヨーロッパでの普及とともに幅が細くなっていき、1920年代には安全性を考慮し現在のような台形へと改良されていった。日本では、1885年(明治18年)から学校教育に木馬が取り入れられており、開脚跳びなどの跳躍運動が行われていたが、1901年(明治34年)、木馬より利便性や安全性が高い器具として跳び箱が紹介され、1913年(大正2年)に制定された学校体育教授要目によって全国の学校に跳び箱が設置されるようになった。 踏み切り板には、弾性の少ない固定式踏み切り板が一般的に用いられてきたが、現在ではロイター板を用いる場合が多い。 跳び箱運動[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “跳び箱” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年2月) 跳びこえ方には様々な種類があり、代表的なものを下に挙げる。

Continue reading

アトリエ・ド・フロマージュ – Wikipedia

株式会社アトリエ・ド・フロマージュは、長野県東御市に所在するナチュラルチーズを中心とした食品の製造販売企業である。日本国内のナチュラルチーズ製造の先駆けであり、ナチュラルチーズを使用したピザやケーキ等の製造販売も手掛ける。 フランスや日本国内で学んだ技術をベースに、ナチュラルチーズの種類別に風土に合った独自の製法を確立し、個性的なチーズ作りをおこなっている。チーズ工房の規模に対して、製造販売するナチュラルチーズの種類が多く、プロセスチーズの製造販売はしていない。 地域との交流を大切にしており、地元ワイナリーの商品も積極的に取り扱う他、2年毎にフロマージュ祭り(現:フロマージュフェスティバル)を本店で開催している。また、直営のリストランテ フォルマッジオは、観光列車「ろくもん」のろくもん1号 軽井沢→長野コースのメイン料理を担当している。[1] 1980年(昭和55年) – 創業者である松岡 茂夫・容子夫妻が本格的にナチュラルチーズの研究を始める。都立立川短期大学の松岡博厚教授に師事し、チーズの理論と製法の実施を学ぶ。明治大学農学部の聴講生となり、応用微生物をはじめとする食品化学を学ぶ。 1981年(昭和56年) – 創業者夫妻がともにフランスの国立乳製品専門学校へ留学。 1982年(昭和57年) – 長野県小県郡東部町(現:長野県東御市)に小さなチーズ工房を建てる。フロマージュ・フレの製造を始め、「生チーズ」と名づけて販売する。同年、カマンベールの製造を開始する。 1983年(昭和58年) – 長野県小県郡東部町(現:長野県東御市)に新工房を建設し、移転。(現:リストランテ フォルマッジオ) 1984年(昭和59年)

Continue reading

西寺尾 – Wikipedia

西寺尾(にしてらお)は、神奈川県横浜市神奈川区の地名。現行行政地名は西寺尾一丁目から西寺尾四丁目。住居表示実施済み区域[5]。また、ここではかつて存在していた「西寺尾町」についても述べる。 神奈川区の北東部に位置し、南東に子安台、南に神之木台、南西に神之木町、西に松見町、北に鶴見区馬場、北東に鶴見区東寺尾と接している。 面積[編集] 面積は以下の通りである[1]。 丁目 面積(km2) 西寺尾一丁目 0.155 西寺尾二丁目 0.207 西寺尾三丁目 0.213 西寺尾四丁目 0.165 計 0.740 沿革[編集] かつて橘樹郡旭村があった場所。横浜市編入前は橘樹郡旭村大字西寺尾であった。 1927年(昭和2年)4月1日 –

Continue reading