Month: June 2019

磯部氏 (宇多源氏) – Wikipedia

磯部氏(いそべし)は、日本の氏族。宇多源氏流佐々木盛綱を祖とする佐々木党であり、加地氏の庶流。 盛綱が上野国碓氷郡磯部(現・群馬県安中市)に住んだことが、建仁元年(1201年)五月十四日の「吾妻鏡」の条にみえる。 尊卑分脈は、宇多源氏佐々木氏の分かれ、加地信実の子秀忠を礒部とする。 安芸国礒部家[編集] 芸藩通志、賀茂郡の条に「礒部氏、寺家村、先祖礒部左近秀実、佐々木盛綱七世の孫にして建武年中上野国磯部より此に来りて里社の奉祀となる。」「また、この氏人ならむと思はるる礒部氏がこと、太平記巻の二十七に見ゆ。いはく。かかりし後はいよいよ師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉をひそむ。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆におはしけるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討ち奉れと申し遣はしたりければ、同九月十三日、杉原又四郎二百余騎にて押寄たり。にわかの事なれば防ぐべき兵も少なくて、直冬朝臣すでに誅せられ給ひぬべかりしを、礒部左近将監が若党散々に防ぎけるが、いづれも屈強の手だれにて志ざす矢坪を違へず射ける矢に、十六騎に手負て、十三騎馬よりさかさまに射て落としたり。」とある。 この芸藩通誌にある礒部家は現在も続いており、「いそべ」の字を「礒部」としているので、ここではそれに従った。 また、この礒部家では、分家を出すと必ずその分家は滅ぶと言い伝えており、継嗣以外の兄弟は他家へ養子へ出されてきた経緯が有り、安芸国近郊には分家は存在しない。 ただし、例外として、下記の江戸幕臣磯部家のように、遠方への同家支流は存在するようである。 系図       ┃     佐々木盛綱       ┃      加地信実(佐々木信実)   ┏━━━╋━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓  実秀  礒部秀忠    時秀    信重   倉田義綱 (加地氏へ) ┃     (新発田氏へ)(竹俣氏へ)        

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ラー・カイラム – Wikipedia

「ラーカイラム」はこの項目へ転送されています。「らーかいらむ」のペンネームを持つ漫画家については「川津健二朗」をご覧ください。 ラー・カイラム(Ra Cailum[1])は、アニメ作品群『ガンダムシリーズ』のうち、宇宙世紀を舞台にした作品に登場する架空の兵器。地球連邦軍所属のラー・カイラム級(一部の資料ではカイラム級とするものもある)機動戦艦1番艦である。艦長はブライト・ノア。 設定解説[編集] 十分なモビルスーツ運用能力と高い砲戦能力(連装メガ粒子砲4基搭載)を両立させた高性能艦。 地球連邦軍外郭部隊ロンド・ベル隊の旗艦であり、砲撃戦能力とモビルスーツ運用能力[9]を重視した、新たな連邦軍の主力艦艇である。対モビルスーツ戦闘における対空戦闘能力も高く、劇中ではネオ・ジオン軍のモビルスーツの接近をほとんど許さなかった。そのため、前線においても単艦で充分に戦線を構築することができる。通常ブリッジと戦闘ブリッジ[10]の2つの艦橋を持っており、戦闘ブリッジは脱出ポッドとしても機能する。艦の両舷に1基ずつ発進用カタパルトを持ち、後部には着艦専用甲板を持つ。また、船体左右のエンジンブロック下部に艦の全長の半分ほどの長さを持つ大型放熱板を1基ずつ、計2基装備している。 その設計や武装・エンジン配置などの随所には、サラミス級やマゼラン級、アレキサンドリア級など歴代の連邦軍宇宙艦艇の面影が見られ、それらの集大成ともいうべき艦となっている。 また、同時期に就役したクラップ級とは、艦橋構造物、エンジンおよびその配置、二枚の放熱板や各種武装などの基本設計が共通しており、連携した運用が行われていた。 なお、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』と『機動戦士ガンダムUC』ではデザインに若干の差異があり、各種砲塔が近代化改修後のネェル・アーガマと同型のものに換装されていること、後部着艦専用甲板裏面に連装メガ粒子砲が増設されていることに加え、各所のカラーリングが変更されている。[11] 後述のように、開発から50年以上が経過しても同型艦が運用され続けている。 劇中での活躍[編集] 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』 宇宙世紀0093年を舞台とする本作では、ロンド・ベル隊旗艦として登場し、本艦艦長を兼任する同隊司令ブライト・ノア大佐による指揮のもと、新生ネオ・ジオンによる小惑星アクシズの地球への落下作戦を阻止すべく行動する。物語冒頭、本艦とロンド・ベル隊所属のクラップ級五隻からなる艦隊によって新生ネオ・ジオン艦隊による5thルナ落としの阻止に当たるがこれは失敗、5thルナはラサに落下した。それを受けスペースコロニーの一つロンデニオンで地球連邦政府と新生ネオ・ジオン間の極秘の和平交渉が行われた際、その陽動として襲撃してきた新生ネオ・ジオンの部隊とロンド・ベル隊は交戦、ラー・カイラムは艦首を破損している。その後ロンデニオンにて修理、補給、及びアクシズに関する情報の入手と極秘での核弾頭の受け取りを行いアクシズ追撃作戦を開始。アクシズを艦首ミサイルに搭載した核弾頭で破壊しようとするも新生ネオ・ジオンのモビルスーツ隊に阻まれる。ブライト以下数名がアクシズを爆破すべく内部に侵入している間は副長メランが本艦に残って戦闘指揮を執り、ブライトの帰艦まで艦を守り切った。爆破後もなお落下軌道にあるアクシズの破片に対し、ブライトは本艦を接触させて押し返そうとするもクルーに制止され、最終的にサイコフレームの共鳴による破片の落下軌道離脱を見守ることとなった。 『機動戦士ガンダムUC』 宇宙世紀0096年を舞台とする本作でも引き続きロンド・ベル隊旗艦であり、『逆襲のシャア』と同じく本艦艦長と同隊司令を兼任するブライトが指揮する。ジオン軍残党によるオーストラリア・トリントン基地襲撃から基地設備を防衛するために、初めて登場。リディ・マーセナスが駆るデルタプラス、そしてトライスターのジェスタ隊らの母艦として、「ラプラス事変」に参戦している。その後、ガランシェールを追跡して一度は宇宙へ上がるものの、同貨物船は囮として放棄された後であり、これによって「ラプラスの箱」の所在情報を失ってしまう。しかし、地球連邦政府上層部が独断でコロニーレーザーによる「箱」の隠滅を図っていることを知ると、そのコントロールセンター「カフカスの森」を強襲するため、再度地球へ降下している。これら劇中の活躍より、大気圏飛行能力および大気圏突入能力を持つことが明示された。 小説版ではミノフスキー・クラフト・エンジン搭載実験艦として登場し、同エンジンおよび新型MSの重力下試験のために地球へ降下している[12]が、トリントン基地へ寄航した際にはジオン公国残党のMSに奇襲され、上部砲塔3基と右舷機関部に甚大な被害を受けた[13]。 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

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山田利彦 – Wikipedia

山田 利彦(やまだ としひこ、1970年4月16日 – )は日本の柔道家。95kg超級の選手。現役時代は身長183cm。体重125kg[1]。了徳寺大学教授[2]。また、了徳寺学園の柔道部監督も務めている[3]。 目次 1 来歴 2 戦績 3 脚注 4 外部リンク 岡山県出身。東海大相模高校時代には団体戦で活躍して、1年と2年の時に全国高校選手権で3位、金鷲旗では2年と3年の時に2位、インターハイは1年と3年の時に3位、2年の時に2位となったものの、全国優勝までには至らなかった。しかし、インターハイ個人戦の重量級では3年の時に優勝している[4]。さらに、新人体重別でも優勝を果たした[5]。 東海大学に進学すると、1年と2年の時に優勝大会で優勝した[6]。また、1年の時には早くも全日本選手権に出場を果たすものの、初戦で綜合警備保障の金野潤に敗れた。3年の時には優勝大会で2位にとどまるが、ドイツ国際では3位となった[6]。4年の時には全日本選手権の準々決勝でJRAの小川直也に内股で敗れて5位だった。選抜体重別では決勝まで進むも、天理大学の養父直人に払腰で敗れた。優勝大会では前年に続いて2位だった[7]。 1993年にはフジ&トライオーシャン所属となると、講道館杯では決勝で東洋水産の関根英之に敗れた[8]。1994年の講道館杯では3位だった[8]。 その後引退すると、1997年にはトルコのナショナルチームにコーチとして出向き、シドニーオリンピック66kg級金メダリストのヒュセイン・オズカンや、ミュンヘン世界選手権100kg超級銀メダリストのセリム・タタログルなどの指導にあたった[3]。続いてサンノゼ州立大学の柔道部コーチも務めた。2002年からは了徳寺学園の柔道部監督に就任した[3]。2015年3月には全柔連の強化委員会において、2月のグランプリ・デュッセルドルフに出場する予定だったものの、市販の風邪薬を服用したことでドーピング違反に抵触する可能性が出たために大会を欠場した了徳寺学園職員の緒方亜香里の件に関連して、注意処分が科された[9]。2016年9月には新たに全日本の強化副委員長に就任した。任期は2020年の東京オリンピックまでとなる[10]。なお、東京オリンピックでは日本選手団の副団長を務めた[11]。2022年4月からは了徳寺大学柔道部の部長兼総監督になった[12]。 (階級表記のない大会は全て95kg超級での成績) 1986年 - インターハイ 団体戦 3位 1987年

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恋の手ほどき – Wikipedia

この項目では、1958年の映画について説明しています。1951年の映画については「恋の手ほどき (1951年の映画)」をご覧ください。 恋の手ほどき Gigi ポスター(1958) 監督 ヴィンセント・ミネリ 脚本 アラン・ジェイ・ラーナー 製作 アーサー・フリード 出演者 レスリー・キャロンモーリス・シュヴァリエ 音楽 アンドレ・プレヴィン 撮影 ジョセフ・ルッテンバーグ 編集 アドリアン・フェイザン 配給

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側防塔 – Wikipedia

後面開放型のD形側防塔 側防塔(英語: fortified tower, defensive tower, castle tower)は、古代から中世にかけてのヨーロッパや中近東で城や城壁の一部として建てられた軍事建築物。日本語で側防塔[1]、側壁塔、防衛塔[2][3]、城壁塔または単に塔と表記される。側防塔の中でも城壁の角に建てられるものはcorner tower、それ以外をflanking towerと英語で使い分けられていることもある。 幕壁(カーテンウォール)から外側に突出した側防塔を設置することで、壁面に取り付く敵に対して側射を行えたり、より高い塔上で監視を行うことが出来るようになった。中世においては、11世紀〜12世紀頃から側防塔が広く用いられるようになったとされる。その形状は、四角形(角柱)、多角形(多角形柱)、円形(円柱)、D形(半円形または馬蹄形)などがある。当初は四角形(角柱形)の塔が多用され、12世紀後半には十字軍が中東から学んだカタパルト (投石機)が使われるようになると、この投石機より飛来する石弾の衝撃を逸し吸収するため、直方体の塔は多角形を経て円筒形になり、また壁の厚みも増していった[1]。側防塔の中には城内側の壁面を省略した後面開放型のものもあった。 側防塔の上部(屋上)には、幕壁上部の通路部と同じく狭間付き胸壁が設けられており、塔の側面にも狭間窓(射眼、銃眼)があり射手の視界を十分確保する構造になっていた[2]。 城を防御する側が隣接する壁に対して援護射撃するための突き出た場所を提供するのに使われたものには、より小型のタレットや張り出し櫓(バルティザン)もあった。これらは大型の側防塔に比して比較的安価に建てられるため、戦術上有利な地点に簡便に設置するために採用された。また、これらの中には土台が無いものもあり、掘削されるおそれがないという軍事的利点[2]もあった。 防衛の工夫[編集] 螺旋階段になっており、上に登ってくる敵の右手に持った武器が壁にぶつかり、味方の振るう武器は干渉しないようになっている。 バリエーション[編集] Mauerturm – 城壁や市壁と接続してるタイプの塔の総称

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田辺真人 (奈良時代) – Wikipedia

この項目では、奈良時代の写経所の経師および造東大寺司判官について説明しています。日本の歴史学者については「田辺眞人」をご覧ください。 田辺 真人(たなべ の まひと、生没年不詳)は、奈良時代の官人。氏姓は田辺史のち上毛野君(公)。官位は外従五位下・造東大寺司判官。 天平7年(735年)12月、写経所の経師とあるのが初見。その事績は『正倉院文書』に細かく記されているが、おおまかに記すと、同14年(742年)6月、福寿寺一切経所解に自署しており[1][2]、天平14年(742年)・同16年(744年)・同17年には史生、同18年(746年)には金光明寺造物所の舎人で大初位上、同年閏9月から12月にかけて「史生」とあり、さらに造東大寺司判官と見え、金光明寺より二等給として、絁2匹、綿4屯、布1匹を与えられている[3]。 同19年(747年)にも判官と見え、6月には正八位上、12月には史生とある。同20年(748年)7月、判官、正八位上とあり、同21年(749年)までには従七位上に昇叙したらしい。天平勝宝改元後の7月には私経弥勒経を書写させ[4]、同年8月には薬師経を書写させた[5]。9月には正七位上に昇叙されており[6]、救護経を書写せしめた[7]。この頃に上毛野公、あるいは上毛野公となっている。ただし、同3年までは「田辺史」とも記されている。おそらく、天平勝宝2年(750年)一族の田辺難波・田辺広浜らとともに田辺史から上毛野君に改姓したものと思われる[8]。 同2年3月から5月のうちに正六位下に昇叙している。8月には知事・判官とあり、この時に私願経を書写せしめた[9]。以後も引き続き造東大寺司判官であり、同6年(754年)閏10月には外嶋院牒に署している[10]・同7年(755年)正月も同様[11]、同7歳(755年)3月、正六位上、下野員外掾を兼任している。 同9歳(757年)5月、食三田次・川原凡・益田縄手・大蔵家主・土師犬養・土師弟勝とともに外従五位下に昇叙している[12]。天平宝字2年(758年)8月、大般若経料紙20枚をすすめている[13]。同3年(759年)6月、造東大寺司鋳所解に署し[14]、同年11月、検田使として越中国東大寺田を検し、同年12月、同じく検田使として越前国足羽郡糞置村の東大寺田を検している。 同4年(760年)6月、光明皇太后の葬の養民使となっている[15]。同5年(761年)9月には美濃介と見え、同6年(762年)4月、判官で、鋳所別当を兼任し、同7年(763年)、美作介に任じられた[16]。 その後、藤原仲麻呂の乱に関係したらしく、官位を剥奪されているが、天平神護3年(767年)正月、無位より本位の外従五位下に復し[17]、神護景雲2年(768年)2月、造東大寺司大判官に就任している[18]。 以上が主要な経歴であるが、このほかに、年月は不詳ではあるが、親族である大舎人の田辺両麻呂を写経所校生に推挙し[19][20]、判官の時、机2台を進上し[21]、553文を進め[22]、啓状がある[23]。このほかにも、正倉院文書の各所に多数、名前が散見している。 注記のないものは『続日本紀』による。 ^ 『寧楽遺文』下巻544頁 ^ 『大日本古文書』巻八 – 63頁 ^

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キャロルの祭典 – Wikipedia

キャロルの祭典(キャロルのさいてん、英語: A Ceremony of Carols)作品28は英国の作曲家、ベンジャミン・ブリテンが1943年に発表した11曲からなる合唱曲である。 ベンジャミン・ブリテンは1942年にカナダからイギリスへ帰る船旅の途中で「聖セシリアへの賛歌」と同様な形式の「7つのクリスマス・キャロル」を作曲した。後者は同年12月にノリッジ城図書室で初演されている。 [1] その後、ブリテンはいくつかの曲を変更・追加して、1943年に「キャロルの祭典」を完成・出版し、初演は1943年12月4日、ロンドンのウィグモア・ホールで行なっている。 [2] 全曲は 1. 入堂 Procession 2. 主の降誕を歓迎! Wolcum Yole! 3. そのようなバラはない There

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黒い花びら – Wikipedia

1959年に発表された水原弘のシングル。本項を参照。 1960年に公開された映画。上記水原弘のシングルが元になっている。本項を参照。 村松友視によって書かれた書。水原弘の生涯を追った内容になっている。2001年発表。 「黒い花びら」(くろいはなびら)は、水原弘のシングル。1959年7月に東京芝浦電気(現・東芝)の音楽事業部、東芝レコードから発売された。 水原弘のデビューシングルにして代表曲のひとつであり、また第1回日本レコード大賞の受賞作品としても知られる。作詞は永六輔、作曲は中村八大による。 ポール・アンカの「君は我が運命」をヒントに作曲された[1]。 それまで洋楽を手がけてきた東芝レコード(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)が手がけた邦楽レコードの第一号でもあった。 この曲で水原弘は1959年から始まった第1回日本レコード大賞を受賞した。また水原弘はこの曲で1959年の第10回NHK紅白歌合戦にも出場した。 間奏部分のサクソフォーンを演奏しているのは西村昭夫である[2]。曲が大ヒットした事もあって、この曲をモチーフに映画化もされ、同名の映画が東宝から1960年に公開された。主演は水原弘である。 レコードB面は、東宝映画『青春を賭けろ』の主題歌である。『黒い花びら』もこの『青春を賭けろ』の挿入歌であった(レコードでの表記は主題歌となっている)。 この曲にはシングルで発売されたバージョンの他にも昭和40年代に入りステレオ録音で収録されたバージョンが存在する。イントロが男性によるバックコーラスのものがシングル版であり、バックコーラスではなくストリングスの音が聞こえる方が新録音版である。ベストアルバムに収録されているものは特に記述などはないため、再生するまでどちらが入っているかは判別できない。また青春歌年鑑シリーズにおいては複数で重複されて収録されているが、青春歌年鑑’60では新録音版が、青春歌年鑑戦後編4ではシングル版と異なるバージョンで収録されている。 経緯[編集] 本曲は、永と中村の最初期の共作の1作である。1959年6月、新作のロカビリー映画『青春を賭けろ』のためのオリジナル楽曲を必要としていた東宝は、渡辺晋を経由して売り込みに来ていた中村に、「明日までにロカビリーを10曲仕上げてくる」というとんでもないオーディションの課題を突き付けられる。中村が困り果てていると、放送作家として面識があった永と往来でばったり出会った。永はそれまで作詞の経験はなかったが、中村は永の了解をとるとそのまま自分のマンションに連れ込み、オーケストラ用の記譜担当者3名を待機させて徹夜で10曲作り上げた。10曲の中には本作のほかに、B面の『青春を賭けろ』や、ずっと後世になって再評価されることになる『黄昏のビギン』などがあった。 歌唱歌手をオーディションで選考し、キャバレーの流しで人気が急騰していた水原が当選する。当時新人歌手の楽曲は先輩歌手のB面に場を借りるのが一般的で、水原のデビュー曲は『ネリカン・ブルース』(山下敬二郎)のB面として発売されるはずであった。ところが、山下のA面曲の歌詞が公序良俗に反すると問題視され、レコード製作基準管理委員会から発売禁止の処分を受けてしまい、水原のデビューもあおりを受けてボツになってしまった。 しかし程なく中村は、長田幸治(ビクターのディレクター)から「没にするのは惜しい。フランク永井なら10万枚は行く」というコメントを得、勇んで東芝の責任者と直談判をした。説得が実り、黒い花びらをA面、青春を賭けろをB面にした上で発売された。当時水原は無名の新人で、しかも自粛騒動で映画とのタイアップの時期を逃したことから東芝サイドもヒットを想定せず、初盤プレスはわずか2000枚程度であった。ところが楽曲は周囲の予想に反してヒットを記録、増産を重ねる。 同年末、第1回日本レコード大賞の審査にノミネートされる。同賞の趣旨は、音楽のジャンルの垣根を超えた”日本人の手による本当の日本の音楽を作り出すこと”を目標に掲げていた。服部良一は後年、「『黒い花びら』のような曲に大賞をとってもらいたかった」と漏らしており、審査員の間では、単なる王道の流行歌ではなく、『黒い花びら』に将来を見据えた音楽性を見出していたことがわかる。当初のノミネート基準は日本作曲家協会所属の作曲家によるものでなくてはならず、中村はフリーランスであったため基準を満たしていなかった。12月14日の最終選考の最中にそれが発覚し、急遽中村を協会に加盟させることにより、体裁をとりつくろった。同日、本曲の大賞受賞が発表される[3]。 「黒い花びら」の累計売上は100万枚[4]に達した。1959年の東芝レコードの流行歌レコード売上で年間1位を記録した[5]。同社の年間2位も同じく水原の「黒い落葉」であった[5]。 (全作詞:永六輔、作曲・編曲:中村八大) 黒い花びら(JP-1070)

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南海電鉄千代田工場 – Wikipedia

座標: 北緯34度27分46秒 東経135度34分12.9秒 / 北緯34.46278度 東経135.570250度 / 34.46278; 135.570250 南海電鉄千代田工場(なんかいでんてつちよだこうじょう)は、大阪府河内長野市にある南海電鉄の車両工場。南海高野線の千代田駅 – 河内長野駅間のほぼ中間に位置する。 本項目では当工場に隣接する小原田検車区千代田検車支区(おはらたけんしゃく ちよだけんしゃしく、旧称・千代田検車区)も取り上げる。なお、両者は南海高野線の線路を挟む形にあり、高野線の西側が千代田工場、東側が小原田検車区千代田検車支区となっている[1]。 千代田工場は南海電鉄の鋼索線車両を除く全車両の全般検査などを行っている。なお、一部業務は子会社の南海車両工業が受託している。 南海電鉄の車両工場としては1896年に開設された難波工場から歴史が始まる。その後、1903年に天下茶屋工場へ移転し、約80年間稼働してきた。しかし、南海本線の大阪市内連続立体化工事や天下茶屋駅周辺の整備事業に伴い車両工場が千代田へ移転することとなり、1980年11月に起工し、1982年3月1日に開設された[2][3]。 泉北高速鉄道の車両の検査も担当しており、2002年に光明池車庫内に定期検査工場が新設されたため千代田での検査は一旦終了した[4]が、2014年7月に泉北が南海グループの一員になったため、2016年5月からは泉北車の検査を再び担当するようになった。[5] 車両検査の他に車両の改造工事も行われ、特急サザンに使用される10000系の先頭車から中間車への改造や、2200系の観光列車「天空」への改造工事も行われた[2]。また、廃車された車両の解体作業も行われる。 構内の検修車両入換用として、アント工業製の軌陸両用車両牽引車が配置されている[6]。 千代田検車支区[編集]

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汪涵 – Wikipedia

汪 涵(おう かん、1974年4月7日 – )は、中国の司会者、作家。江蘇省蘇州市呉中区出身。湖南大衆伝媒職業技術学院卒業。欧漢声、銭楓、金恩聖、兪灝明、田源、矢野浩二等が出演する『天天向上』司会陣。 来歴・人物[編集] スタジオ風景(右が司会の李湘、左が汪涵) 1974年、江蘇省蘇州市呉中区に生まれる。湖南大衆伝媒職業技術学院卒業。 2009年11月4日、湖南省電視芸術家協会第四回代表大会開催、協会副主席当選。 2010年、電視節目司会30年年度風雲人物得賞[1]。 2011年12月、第十回湖南省政協委員当選。 2013年3月、『天天向上』製片人に就任した[2]。 2015年12月2日、湖南省博物館理事会第一回会議開催、湖南省博物館第一回理事会理事に就任した[3]。 2015年12月6日、中国民主促進会第十三回中央委員会第四期全体会議、中央委員当選[4]。 2019年9月19日、湖南省監察委員会特約監察員に就任[5]。 (中国語) 『有味』. 広西: 広西師範大学出版社. (2010年).

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