Month: June 2019

三浦謹一郎 – Wikipedia

三浦 謹一郎(みうら きんいちろう) 生誕 1931年3月25日 日本 東京府 死没 (2009-09-21) 2009年9月21日(78歳没) 居住 日本 アメリカ合衆国 国籍 日本 研究分野 分子生物学 研究機関 学習院大学東京大学コロンビア大学京都大学名古屋大学国立遺伝学研究所千葉工業大学 出身校

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アルバート・ゴンザレス – Wikipedia

アルバート・レイナルド・ゴンザレス(英語: Alberto Reynaldo Gonzales、1955年8月4日 – )は、アメリカ合衆国の政治家。ジョージ・W・ブッシュ政権にて第30代大統領法律顧問、第80代アメリカ合衆国司法長官を務めた。ヒスパニック系初の司法長官である。 1955年8月4日にテキサス州サンアントニオに誕生する。メキシコからの移民労働者の子として誕生し、極貧生活の中で高校を卒業してアメリカ空軍での勤務を経てヒューストンのライス大学に入学した。そこで政治学を修め、ハーヴァードロースクールにて法務博士を取得した。1995年に当時テキサス州知事だったジョージ・W・ブッシュの法律顧問に着任した。 2005年にジョージ・W・ブッシュ大統領より任命され、ジョン・アシュクロフト前司法長官の後任として就任した。その後CIAによる無許可盗聴問題や連邦検事正9人の不当解任問題で責任論が浮上し、そこへ中間選挙での共和党の敗北が重なって民主党からの追及が激化し、アメリカ合衆国司法長官職を辞任した。これはドナルド・ラムズフェルド前国防長官の退任に続き、ジョージ・W・ブッシュ政権2期目の閣僚としては2人目となる。 2008年11月18日にディック・チェイニーらと共にテキサス州ウィラシー郡の勾留所内での虐待事件調査を妨害したとして、同郡大陪審から起訴されたことが報じられた[1]。ただ調査の結果、12月には不起訴処分となった[2]。 辞任後はテキサス工科大学の教授職に内定する意向と報じられているが、同大学の学生や教授らがこれに対する反対運動を起こしている[1]。 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、アルバート・ゴンザレスに関連するメディアおよびカテゴリがあります。 Official biography from whitehouse.gov Announcement of his nomination

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ヒョウ – Wikipedia

この項目では、動物のヒョウ(豹)について説明しています。その他の「ひょう」「ヒョウ」については「ひょう (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ヒョウ(豹、Panthera pardus)は、哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類。 アフリカ大陸からアラビア半島・東南アジア・ロシア極東にかけて[5] ネコ科の構成種では、最も広域に分布する[4][5]。 頭胴長(体長)100 – 150センチメートル[5]。尾長50 – 101センチメートル[4]。体重オス20 – 90キログラム、メス17 – 42キログラム[4]。アフリカ南部・東部や中央アジアの個体群は大型で、中央アジアや南アフリカ共和国沿岸部の山地の個体群は小型とされる[4]。全身は柔らかい体毛で密に被われる。背面の毛衣は淡黄褐色や淡褐色で[6]、腹面の毛衣は白い[7]。頭部や頸部、腹面には黒い斑点が入り、背面や体側面には黒い斑点が花のように並ぶ斑紋が入る[6][7]。 四肢はやや短い[7]。 出産直後の幼獣は、体重0.4 – 0.6キログラム[6]。乳頭の数は4個[5]。 毛衣が黒い突然変異(クロヒョウ)がいて、この変異は劣性遺伝[6][7]。黒化個体(メラニズム)は湿度の高い熱帯林や亜熱帯林・山地林でみられるが、乾燥林でみられることもある[4]。地域別ではアジア南部、特にマレーシアやジャワ島の個体群では黒化個体が多いとされる[4]。黒化個体にも斑紋があり、赤外線照射を用いれば個体識別が可能とされる[4]。

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桂竹千代 – Wikipedia

桂(かつら)竹(たけ)千代(ちよ) 本名 横田(よこた)隆宏(たかひろ) 生年月日 (1987-03-17) 1987年3月17日(35歳) 出身地 日本・千葉県旭市 師匠 桂竹丸 名跡 1. 桂竹のこ(2011年 – 2015年)2. 桂竹千代(2015年 – ) 出囃子 猩々

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神宮道 – Wikipedia

平安神宮大鳥居前(2010年) 平安神宮より二条通・大鳥居方向。車道時代(2010年) 二条通より北側。歩行者専用の園路に(2017年3月5日) 神宮道(じんぐうみち)は、京都市の南北の通りの一つ(京都市道)。平安神宮應天門から南へ大鳥居を潜り、琵琶湖疏水を慶流橋で渡り、三条通と交差して知恩院三門、円山公園まで続く。東山の観光地を結ぶ道路のため観光客が多い。 平安神宮應天門から南へ延びる道路だが、冷泉通〜二条通間は市道としては廃止されており、「岡崎プロムナード」内の遊歩道となっている[1]。二条通から粟田緯10号線(三条通の1本南の道路)までの区間は2車線となっているが、そこから華頂通までの区間は南向き一方通行の1車線道路となる。華頂通から南は2車線に戻り、終点の知恩院南門へ至る。 路線データ[編集] 下記は京都市認定路線としての起点・終点である[2]。 起点:京都市左京区岡崎最勝寺町94番地地先(二条通交点) 終点:京都市東山区林下町400番地の2地先(知恩院南門) 歴史[編集] 明治維新前、愛宕郡岡崎村(現在の京都市岡崎地域)には加州屋敷(加賀藩)、阿波屋敷(徳島藩)、越前屋敷(福井藩)、彦根屋敷(彦根藩)等の大規模な藩邸が建てられていたが、現在の神宮道に相当する道路(「粟田門前通」)は、白川(現在の左京区・東山区境界)以南から三条通までしか通っていなかった[3]。三条通から南側は青蓮院の境内であり[4]、参道が西門(四脚門)付近までしか通じていなかったが、明治5年11月1日(1872年12月1日)に青蓮院境内に粟田口仮療病院(京都府立医科大学の前身)が開設されると、同年11月11日(1872年12月11日)に療病院の西門より良正院の境内空地を経て知恩院山内へ通じる新道が開かれ、往還可能となった[5]。 1895年(明治28年)、岡崎地域で第四回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀念祭が実施され、平安遷都千百年紀念祭の紀念殿として平安神宮が創建された。1899年(明治32年)12月、平安神宮應天門前の冷泉通から慶流橋までの間の市有地が風致保存のために官有地となり、平安神宮の参道として、應天門と慶流橋を結ぶ「應天門通(応天門通)」が整備された。また、慶流橋以南の道路も「粟田門前通」から「應天門通」に改称した。 当初、紀念殿(平安神宮)は粟田門前通の軸に合わせて計画されたが、建設予定地にあった撤去予定の古塚が後三条天皇の御荼毘所(火葬塚:現在の天王塚陵墓参考地)だったことが判明し、この塚を保護するために西に10間(約18.2m)移動して建設された。そのため、慶流橋以北の神宮道は南北軸から西にずれて建設されている[6]。 1928年(昭和3年)5月24日、京都市告示第252号により「應天門通」から「神宮道」に改称された[7]。当時の起点は冷泉通岡崎最勝寺町神宮社地、終点は粟田口三條坊町二二[8]。その後、円山公園の北側入口となる知恩院南門までの区間も神宮道に指定されている。 2014年(平成26年)3月に「左京区岡崎における神宮道(冷泉通~二条通)と公園の再整備基本計画」が策定され[9]、2015年(平成27年)1月16日の京都市告示第516号・517号により、神宮道の一部(冷泉通~二条通間)については、道路法に基づく市道路線の廃止[10]、及び道路の供用が廃止され[11]、認定道路の「神宮道」としては廃止された。同区間121mは歩行者専用の石畳風園路として整備を行い、2015年(平成27年)9月1日に岡崎公園に編入され[12]、「岡崎プロムナード」の園路として供用開始された[13]。 景観保全[編集] 岡崎地域は「京都岡崎の文化的景観」として重要文化的景観に選定されており[14]、「神宮道及びマツ並木」、「慶流橋」が重要な構成要素の一つとして指定されている[15]。 また、同地域を含む東山一帯は京都市風致地区条例(昭和45年4月9日条例第7号)[16]に基づき東山風致地区に指定されており[17][18]、特にきめ細かな制限が必要な地域は「特別修景地域」に指定され、岡崎地域の神宮道は「岡崎公園地区特別修景地域」[19]、粟田緯10号線以南の神宮道は「青蓮院・知恩院特別修景地域」により[20]、風致・景観を維持するための様々な規制が行われている。 この他に、京都市眺望景観創生条例(平成19年3月23日条例第30号)[21]及び京都市眺望景観創生条例に基づく眺望空間保全区域等の指定等[22]により、平安神宮から慶流橋までの神宮道(視点場)及び「視点場(参道等)の境界線からの水平距離が30m以内の範囲」が近景デザイン保全区域(参道等)に、平安神宮を視点場(境内)とする「視点場(境内)の範囲の境界線からの水平距離が500m以内の範囲」に含まれる神宮道が近景デザイン保全区域(境内)に[23]、粟田緯10号線以南の神宮道(視点場)及び「視点場(参道等)の境界線からの水平距離が30m以内の範囲」が近景デザイン保全区域(参道等)に、知恩院を視点場(境内)とする「視点場(境内)の範囲の境界線からの水平距離が500m以内の範囲」に含まれる神宮道が近景デザイン保全区域(境内)に[24]、それぞれ指定されている。 また、慶流橋付近は「川端通から疎水記念館までの琵琶湖疎水の疎水界又は当該疎水沿いの道路の境界線からの水平距離が20m又は30m以内の範囲」として別途、近景デザイン保全区域に指定されている[25]。これらにより、神宮道の起点から終点まで近景デザイン保全区域に指定されている。

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プラカシーオイル – Wikipedia

プラカシーオイル(Pracaxi oil) プラカシーオイル(英語: pracaxi oil)、またはプラカシー油(ぷらかしーゆ)とは、アマゾンに自生する高さ35mほどのペンタクトレラ(Pentaclethra)属マメ科の木の種子から得られる植物油である。[1][2][3] アマゾン地域のベネズエラから南米北東部の湿潤熱帯地域に自生するペンタクトレ(Pentaclethra)属マメ科のペンタクトレラマクロロバ(P.macroloba)の木の種子からコールドプレス製法(低温圧搾法)によって抽出されている。[1][2][3] 成分・用途[編集] 特に酸化されにくいオレイン酸や、リノール酸、及びベヘン酸が豊富に含まれる植物油である。[4][5] また、アンチエイジング成分であるレチノール(ビタミンA)やビタミンE等をはじめ、美白やヘアケア、エイジングケアに効果を発揮する成分も豊富に含んでいる。[4][5] アマゾンが生み出した奇跡のオイルとも呼ばれ、現地住民に古くから肌荒れや切り傷を修復する薬として、傷口の治療に用いており医薬にも利用されている。 ヘアコンディショナーの代替品としての化粧品も販売されている。[6] ^ a b The Legume Phylogeny Working Group (LPWG).

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ジョニー・ダンフリーズ – Wikipedia

第7代ビュート侯爵ジョン・コラム・クライトン=ステュアート(John Colum Crichton-Stuart, 7th Marquess of Bute, 1958年4月26日 – 2021年3月21日)は、イギリスの貴族、元レーシングドライバー。1984年イギリスF3チャンピオン、1988年ル・マン24時間レース優勝者。 1993年に爵位を継承するまでダンフリーズ伯爵(英語版)の儀礼称号で称されていたため、ジョニー・ダンフリーズ(Johnny Dumfries)とも呼ばれる。 F1以前[編集] イギリスの貴族の第6代ビュート侯爵ジョン・クライトン=ステュアート(英語版)とその妻ベアトリス(旧姓ウィルド=フォレスター)の間の長男として生まれる[1][2]。ビュート侯爵ステュアート家はステュアート朝の最初のスコットランド王ロバート2世の私生児ジョン・ステュアート (John Stewart) を祖とするスコットランド貴族の家系であり、先祖の当主の一人に18世紀中期に英国首相を務めた第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートがいる[3]。 高等教育ではなくレースに興味を持ち、1980年に100ccカートでキャリアをスタートさせ、1981年からはフォーミュラ・フォードに参戦。1982年まで2年間参戦した。 1983年にはイギリスF3にステップアップを果たし、最高3位。2年目の1984年には10勝を挙げシリーズ・チャンピオンを獲得した。また同年にはヨーロッパF3にも参戦し4勝を挙げ、チャンピオンとなったイヴァン・カペリに次ぐランキング2位となっている。なおランキング3位はゲルハルト・ベルガーであった。 F3での活躍によりF1チームからも注目され始め、1985年にスクーデリア・フェラーリからオファーがあり156/85をフィオラノでテストしている。一方で参戦カテゴリーはF3から国際F3000選手権にステップアップし、全11戦中6戦のスポット参戦となったが第4戦バレルンガで6位入賞を記録している。

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道の駅保田小学校 – Wikipedia

保田小学校 所在地 〒299-1902 千葉県安房郡鋸南町 保田724 座標 北緯35度08分37秒 東経139度50分38秒 / 北緯35.14358度 東経139.84394度 / 35.14358; 139.84394座標: 北緯35度08分37秒 東経139度50分38秒 / 北緯35.14358度 東経139.84394度 /

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空海の風景 – Wikipedia

『空海の風景』(くうかいのふうけい)は、司馬遼太郎の歴史小説。平安時代初期に密教を独自に体系化し、真言宗の開祖となった空海を扱った作品である。第三十二回(昭和50年度)芸術院恩賜賞文芸部門受賞作。 『中央公論』1973年(昭和48年)1月号から1975年(昭和50年)9月号に連載され、連載時のタイトルは『「空海」の風景』。 司馬は本作で空海を「日本史上初めての普遍的天才」と評する。ここでいう「普遍的」とは国境・民族の垣根を超えて通用する人物という意味であり、土俗の呪術として多分に雑多な状態にあった密教を破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場のインドや中国にもなかった鮮やかな思想体系を築き上げたこの空海の出現によって、日本は歴史上初めてそうした「人類的存在」を得ることができたと評している。 タイトルの『空海の風景』とは、空海の生きた時代がはるかに遠い古代であるため現存する史料が乏しく空海の人物に肉薄することが甚だ困難であり、せめて彼が存在した時代の彼にまつわる風景を想像することによって、朧げながらもそこに空海の人物像が浮かぶことを期待して執筆されたことにちなむものである。司馬夫人の福田みどりによると本作は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬したという[1]。 あらすじ[編集] ※本作は空海の行動について逐一論評を加えながら進行する構成になっており、司馬作品の特徴である随筆的な作風が一層強くなっている。 讃岐国多度郡の郡司・佐伯氏の家に生まれた空海は、幼少の頃から飛び抜けた利発さを見せ、さながら神童のように扱われて成長した。長じて後、中央の官吏としての栄達を望む父母の期待を受けた空海は、都に出て大学寮の明経科に入学する。儒学を始めとする唐の学問を学ぶについて空海は際立った理解力を示して周囲を驚かせるが、しかしその道で安住するには世界の有り様や自己の生命そのものについての関心が強すぎた。儒学は浮世の処世を説く学問としか思えず、空海の渇望する宇宙と生命の真実について何ら解答を与えてはくれない。翻って仏法の世界を見れば、せせこましい世俗の理などを超越して抽象的思考の中でこの世の普遍的真理を追求しようとしている。たぎるような想像力を蔵するこの若者は、経書を暗誦するのみの学科に飽きたらず程なく大学を飛び出し、仏門に入る決意をする。この若者の出家の動機は平安後期に流行する世を儚んで山奥の草庵に引き籠もるといった遁世じみたものではさらさらなく、この世を動かす大宇宙の原理を知りたいという沸き立つような好奇心に突き動かされてのことだった。 私度僧となった空海は、ふとしたきっかけから虚空蔵菩薩の秘術を知る。これらの秘術はインドにおいて仏教とは別の精神風土から生まれたものであり、仏教思想の中で止揚されて「密教」として習合されたものであり、同様のものが数多く唐を経て断片的に日本にもたらされていた。多分に巫人的体質を持ち超自然的な怪異の存在を信じる空海は、我が身に電撃的感応を与えてくれるこれらの秘術に強い関心を抱く。そして秘術の実践に相応しい場所を探して山林を遊行する中、室戸岬の洞穴で得た神秘体験が儒教的教養を完全に打ち砕き肉体を地上に残したままその精神を抽象的世界に没入させる決定的な契機となる。見えるものといえば空と海のみの洞穴の中で夜明けの明星が衝撃とともに口中に入るという体験をしたことこそが「空海」の名を名乗るきっかけとなり、彼をして後の弘法大師たらしめる最初の一歩となった。以後、空海は畿内や四国の山林を徘徊して修養に励む一方で諸寺を巡って万巻の経典を読み漁った末に『大日経』に巡りあう。この世のすべての現象は大宇宙の真理である大日如来の一表現であり、諸現象の大本であるこの普遍的原理の中に入り込み、原理そのものと一体化する即身成仏こそを究極の目的と説くその思想に空海は激しく魅了される。欲望を否定してともすれば死へと傾斜しがちな釈迦の仏教に違和感を感じていた空海は、これにより生の謳歌を肯定し後にはその当然の属性である愛欲すらも宇宙の真理の一表現と考えることとなる。やがて空海は大日如来を中心に雑多な状態にある密教を体系立てる発想に辿り着く。折しもこの時期インドでは大日如来を本尊に据える新たな密教体系が成立していたが、空海はそれを知らずに独力で酷似した密教体系を着想した。 密教こそが仏教の完成形態であると確信した空海は、密教思想の追求に生涯を捧げる決意をし、教義についての疑義を正すべく遣唐使船に乗って唐へ渡る。同じ船団には宮廷の侍僧を努め、稀に見る俊才僧として都で名高い最澄もいた。最澄の目的は天台宗の体系を日本に移入することにあったが、空海はすでに天台の教義を古色蒼然としたものと考えていた。八方を走り廻って渡海の費用を工面せねばならなかった自身と対照的に宮廷の寵愛を一身に受けるその境遇に対する鬱屈もあり、空海は後半生に折にふれて対峙することとなる最澄に対して最初から良い印象を持たなかった。難儀な航海の果てに唐に辿り着いた空海は、長安の都で金剛頂系と大日経系の二つの密教体系を受け継ぐ大唐でも唯一の僧である青竜寺の恵果和尚に師事し、恵果の法統の正嫡の伝承者・真言密教第八世法王として灌頂を受けて帰国の途につくこととなる。ところが日本へ帰ってみるといち早く帰国していた最澄が断片的な密教をすでにもたらしており、密教の評判を聞いてその到来を待ち望んでいた宮廷によってもてはやされていた。最澄の本来の目的は天台の体系の導入であったが、ついでに拾って帰った断片的な密教が密教を求める時勢の中で注目を集めてしまい、不本意ながら密教の専門家として振る舞わざるを得なくなった。やがて密一乗の伝法を受けた空海の帰国によってその密教が粗漏なものにすぎないことが明らかになり盛名を落とすことになるが、最澄は抗弁せずに己の落ち度を率直に認めて密教を一から学び直そうと考え、空海の門を叩く。弟子の礼をとってまで教えを請うその実直な人柄に触れたことにより、空海はそれまで最澄に持っていた悪印象を多少なりとも改め、以後両者の親交が始まることとなる。しかし伝法には時間がかかると知ると、最澄は自身の代わりに高弟たちを送って空海の不興を買った。さらに密教の伝承は師資相承によるもので書物によってはならないという伝統があるにも関わらずに借経を願い続け、空海の鬱壊を次第に募らせてゆく。所詮、最澄にとっては天台の教義を体系立てることこそが宿願であり、密教とはあくまでそれを補完するものとしか考えておらず、そうした姿勢を変えるつもりは元よりなかった。やがて密教の真髄といわれる『理趣経』を説いた『理趣釈経』の借用を願い出るに及んでついに空海を憤激させ、さらに最澄の愛弟子の泰範が空海に魅せられて最澄の下を出奔する事件も重なり、ことここに至って両者は絶縁することとなる。空海のしたためた絶縁の手紙は、密教に対する無理解への憤り、天台宗への嘲り、さらには入唐前の最澄の恵まれた境遇に対しての嫉みなど、最澄に抱いていた悪感情に鉄塔追尾貫かれ、一読すれば空海という人物に興ざめするような内容であり、事物に対する好悪の情が激しく過去の恩讐を容易に忘れない空海の性格のあくの強さがまざまざと現れた激越なものであった。 帰国後の空海は真言密教の体系化に力を尽くす一方で、大唐に比べればいまだ未開の段階にある日本に文明を定着させようと、質量ともに膨大な仕事をこなした。医療施薬から土木灌漑、果ては文芸・美術・思想哲学の涵養に至るまで、その後の日本文化の礎となる部分をほとんど独力で整備した。その超人的な多能ぶりは空海の最も得意とする書芸によく現れており、書くたびに書体も書風も変える変幻自在なその筆技は絢爛という他なく、あらゆる書体を使いこなすその書のどこに空海その人が存在するのか不可思議なほどである。しかし、自然そのものに無限の神性を見出す空海の教義に照らし合わせれば、即身において大日如来の境遇が成立しているのであるから形態にとらわれることは理に合わぬことであり、その場に応じて応変してもそこに一条の霊気が立ち昇って空海を感じさせるとすれば、融通無碍のその書は彼自身の思想に相応しくまったく空海らしいものというべきかもしれない。また、そのかたわら空海は紀伊国南部の高野山に密教思想を体現したインドにも唐にもない寺院を造ろうと考え、高野山寺の建設に着手した。官寺ではなく私寺であるため空海の在世中には普請は捗らなかったが、中世末期に宗教都市として殷賑を極めて現代まで残る高野山の威容は、どこか大唐の長安を思わせるものがある。あるいはその建設は、己の知的欲求を満たしてくれる人文の皆無に等しい鄙びた小国における空海が、大文明国に存分に身を浸した去りし日を偲んだものではなかったか。しかし遺稿から窺える造営に臨む空海の構想たるや、その端々まで精妙な論理によって構築されており、そうした推測によって空海その人の生き身の片鱗を感じ取ろうとする空想を差し挟む余地も許さぬほど堅牢確固としたものである。 空海は早くから自身の死期を察し、弟子たちにもそのことを予告し、予告することによって弟子たちの気を引き締めさせた。やり残したことを為すべく病を得た身体を押して精力的に活動し、そして死病に抗って醜態を晒すことなく荘厳な死を遂げることを願い、五穀を断って肉体を衰えさせた末に静かに死を迎えた。空海の死は長安の青竜寺にも伝えられ、報に接した青竜寺では一山粛然とし、ことごとく素服を着けてこれを弔したといわれる。 主な登場人物[編集] 空海 本作の主人公。真言宗の開祖。讃岐国多度郡の郡司を務める佐伯氏の出身で、俗名は「佐伯真魚」(さえきのまお)。幼い頃より利発さを謳われ、官界で栄達することを期待した両親に望まれて桓武天皇の皇子伊予親王の侍講であった叔父の阿刀大足の薫陶を受けて大学寮に入学するが、己の生と世界の成り立ちへの探求心の強さから学業を放り出して私度僧となり、遊行を始めてほどなく密教を知る。超自然現象に感応する呪術者的な体質とともに、それとは相反する高度な理論を構築する論理的才能を併せ持つ。既存の仏教を宇宙の本質を穿っていない「顕教」と断じ、宇宙の胎内に入って真理との一体化を目指す密教こそが真の仏教と考え、仏教の呪術分野として多分に雑多な状態にあった密教を教義の矛盾を解消して狂いのない結晶体にまとめ上げ、インドにおいてそれぞれ個別に成立した智(精神の原理)を説く金剛頂系と理(物質の原理)を説く大日経系という二つの体系を融合させ、本家のインドや中国にもなかった独自の思想体系を作り上げた。 万巻の経典から果ては好色な雑書まで古今のあらゆる書物に目を通し、博覧強記ともいうべき膨大な知識をその頭脳に詰め込んでいる。さらに文章や書画など学芸全般にわたって余人の及ばぬ才を備え、諸芸に臨んで八面六臂の力を見せつける怪人的な異能は大唐の一流文化人たちをも驚嘆させた。語学力にも秀で、大学の音博士から教授を受けて入唐前にすでに唐語の発音を完全に習得して澱みない言葉を披露して唐人を驚かせ、密教の原著に接するために恵果に入門する前にサンスクリット語をわずか五ヶ月で身につけた。また、短期間で留学を切り上げることによって長期の予定で集めた留学費用を潤沢に使おうと考え、二十年の留学予定をわずか二年で切り上げ、浮いた費用を使っておびただしい量の経典や法具を日本に持ち帰ることに成功した。 普遍的真理を探求する密教の教義に身を浸したこと、さらに当時の大文明国であった唐へ留学したことにより、国家や民族といった瑣々たる軛から脱して普遍的世界を肌身で感じたことから世俗の習慣や取り決めなどは面従腹背に応対して内心小馬鹿にし、たとえ天皇を前にしても畏れようという気持ちも起こさない。ただし現世権力と対立して大過を被るような真似はせず、宮廷に招かれれば従順に伺候し、旧態依然としているが大きな力を持つ奈良の守旧派仏教とも良好な関係を築き、時には思想的な妥協をすることもある。若年の頃に自身を主人公にした思想小説『三教指帰』をしたためただけあって、自身の真理への利益や真言密教の振興のためには時に演技や擬態をすることも厭わない。天才にありがちな才気を持て余して他者との調和に破綻をきたすといった所はまったくなく、むしろ不気味なほど他者の心の機微に敏感で政治感覚にも長けており、時に目をみはるようなしたたかさや狡さを見せることもある。 なお、空海は現在でも高野山の奥之院において定を続けているという伝説があるが、司馬は『続日本後紀』の空海の死に関する記述から空海は荼毘に付された(火葬された)と考え、「入定」の伝説は没後一〜二世紀後に広まったものと解釈している。 最澄 日本における天台宗の開祖。近江国の出身で、俗名は「三津首広野」(みつのおびとひろの)。若くして官僧となるが、既存の奈良仏教に不満を持ち、二十歳の時に官寺を去って後の比叡山延暦寺の元となる寺を起こす。ほどなくして桓武帝の平安遷都によって都が遷され、たまたま自身の寺が都の鬼門に位置していたために桓武帝から目をかけられ、宮中の侍僧である内供奉十禅師に任命されて手篤い庇護を受けることとなる。 奈良仏教は宗教的体系を持たない論でしかなく、釈迦の唱えた言葉である経を中心とした総合秩序の中でそれらを体系づけて多分に哲学的でしかない奈良仏教を乗り越えようと考え、やがて自身の信念を裏付けてくれる『法華経』と出会ったことでこの経を所依の経典とする天台宗の存在を知り、その教義を日本へ移入するために遣唐使船に乗って海を渡る。ところが帰国の際に断片的に持ち帰った密教が思わぬ注目を浴び、密教の評判を聞いてその招来を待ちわびていた宮廷の要請で専門外の密教を扱わざるを得なくなる。最澄自身には虚勢を張る意図など全く無かったが密教を求める時代の勢いに乗せられてしまった格好となり、ほどなく空海の帰国によってその密教が粗漏なものであることが露呈して盛名を落とした。が、最澄は一から密教を学び直そうと考え、弟子の礼をとって教えを請おうと空海を訪ねるが、天台宗の振興こそを宿願とする最澄は密教をそれを補填するものとしか考えず、数年の親交を持った後に結局決別することとなる。元来天台宗を低く評価していたことに加えて誤解や不幸な行き違いが重なったこともあるが、多分に人を能力の有る無しで見る癖もある空海は、最澄の純朴で実直な人柄の良さも知りつつ、密教こそ真の仏教であり写経だけでは学びきれないという考えから、それを説いても写経のみで安易に極めようとする姿勢を変えなかった最澄への批判は、ほとんど妥協しなかった。

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