Month: January 2020

濃尾断層帯 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年7月) 濃尾断層帯(のうびだんそうたい)は、両白山地から濃尾平野北方にかけて位置する活断層帯である。 濃尾断層帯は、温見断層、濃尾断層帯主部、揖斐川断層帯、武儀川断層からなる。これらの断層帯はいずれも概ね北西−南東方向に延びている。 温見断層[編集] 温見断層は、福井県今立郡池田町から大野市南部を経て岐阜県本巣市北部に至る、長さ約36kmの断層である。本断層は過去の活動時期の違いから、池田町から大野市南部に至る北西部と、大野市南部から本巣市北部に至る南東部に区分される。本断層は左横ずれを主体とし、北西部では北東側隆起成分、南東部では南西側隆起成分を伴う。 濃尾断層帯主部[編集] 濃尾断層帯主部は、福井県大野市南部から、岐阜県本巣市、岐阜市北部、山県市南部、関市を経て、美濃加茂市と加茂郡坂祝町の境界付近に至る、長さ約55kmの断層帯である。本断層帯は、過去の活動時期の違いにより、大野市南部から岐阜市北西部に至る根尾谷断層帯、本巣市から美濃加茂市、坂祝町境界に至る梅原断層帯、岐阜市北部に分布する三田洞断層帯に区分される。根尾谷断層帯は、左横ずれを主体とする断層からなる。梅原断層帯は左横ずれを主体とする断層からなり、北西部の一部では北東側隆起成分、南東部では南西側隆起成分を伴う。また、三田洞断層帯は左横ずれを主体とする断層からなり、南西側隆起成分を伴う。 揖斐川断層帯[編集] 揖斐川断層帯は、岐阜県揖斐郡藤橋村(現・揖斐川町)から本巣市に至る、長さ約24kmの断層帯である。本断層帯は左横ずれを主体とする断層からなり、南東部では南西側隆起成分を伴う。 武儀川断層[編集] 武儀川断層は、岐阜県本巣市から山県市を経て武儀郡武芸川町(現・関市武芸川町)に至る、長さ約29kmの断層である。本断層は左横ずれを主体とし、南東部では北東側隆起成分を伴う。 過去の活動[編集] 濃尾地震発生当時の根尾谷断層 温見断層北西部は、1891年の濃尾地震の際に、濃尾断層帯主部の根尾谷断層帯、梅原断層帯とともに長さ約76kmの地震断層の一部として活動した。その際、本断層北西部に沿っては、最大で3mの左横ずれと1.8mの北西側隆起が生じた。本断層北西部の平均活動間隔は、約2千2百−2千4百年と推定される。 温見断層南東部では、過去の活動に関する詳細な資料は得られていないが、少なくとも濃尾地震の際に活動したとする報告はない。 根尾谷断層帯と梅原断層帯は、濃尾地震の際に温見断層北西部とともに長さ約76kmの地震断層の一部として活動した。その際、根尾谷断層に沿っては最大7.4mの左横ずれが生じた。 根尾谷断層帯の平均的な左横ずれの速度は2m/千年程度と考えられ、平均活動間隔は約2千1百−3千6百年であった可能性がある。また、梅原断層帯の平均活動間隔は約1万4千−1万5千年であった可能性がある。三田洞断層帯では、過去の活動に関する詳細な資料は得られていないが、少なくとも濃尾地震の際には活動していないと判断される。 揖斐川断層帯の最新活動時期は、1世紀以後、10世紀以前と考えられる。 武儀川断層では、過去の活動に関する詳細な資料は得られていないが、少なくとも濃尾地震の際に活動したとする報告はない。 将来の活動[編集]

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東洋大学陸上競技部 – Wikipedia

東洋大学陸上競技部(とうようだいがくりくじょうきょうぎぶ)は、東洋大学の陸上競技チームである。東洋大学体育会並びに関東学生陸上競技連盟に所属する。チームカラーは『鉄紺』と呼ばれる紺色。1927年に創部され、元世界記録保持者である池中康雄をはじめとする多くの名ランナーを輩出してきた。関東インカレおよび箱根駅伝の常連校[1]。関東インカレでは1部(2018年現在は16校)。練習拠点は川越キャンパス陸上競技場。 1927年創部。1933年には箱根駅伝に初出場、1935年の第16回箱根駅伝では5区で池中康雄が大学史上初となる区間賞を獲得した。同年池中は1936年ベルリンオリンピックマラソン代表の選考レースにおいて2時間26分44秒の世界記録を達成するなど、戦前における同部代表選手となり、第二次世界大戦後には日本陸上界の重鎮として別府大分毎日マラソンの創設に尽力している。また、この時代、短距離部門には植木等が所属しており、関東インカレにも出場している。 1960年代には箱根駅伝では安定した成績を残し、またトラック部門でも1964年東京オリンピック男子3000mSC日本代表の奥沢善二やメキシコオリンピック男子3000mSC日本代表の松田(三浦)信由を輩出するなど、最初のピークを迎える。 1980年代後半以降は箱根駅伝・関東インカレともに振るわず、何度か箱根駅伝出場を逃すなど最も低迷した時期を迎える。そうした中で気を吐いていたのは競歩部門で、今村文男や藤野原稔人、松崎彰徳が活躍したのはこのころである。 2002年にはシドニーオリンピックマラソン代表の川嶋伸次が長距離部門の監督に就任。2008年に通学途中の部員が強制わいせつ行為で現行犯逮捕されたのを受けて辞任するも第85回箱根駅伝では柏原竜二の活躍もあり大学史上初の総合優勝を達成した。2009年4月からは長距離部門の監督にOBの酒井俊幸が就任している。 現在の長距離部門監督は酒井俊幸、短距離・フィールド部門監督は梶原道明、2012年4月に東洋大学板倉キャンパスに設置された女子長距離部門の監督は永井聡。1981年までは総監督制をとっていたが、1982年より部門監督のみの選任となっている。 2014年からは男子短距離部門に法学部准教授の土江寛裕が指導者として加わった。 箱根駅伝[編集] 2021年まで79回出場。優勝回数は4回。 チームの黎明期にはマラソン元世界記録保持者の池中康雄が活躍。東洋大学史上初の区間賞を第16回大会5区で獲得するなど気を吐いたが、チーム自体は下位争いの常連で低迷していた。第二次世界大戦終結後も下位に低迷し続けたが、1956年から箱根駅伝にシード制度が導入されるとシード校の常連となり、1960年の第36回大会では過去最高の3位に入るなど1960年代には最初のピークを迎える。 1970年代にはシード権争いの常連となり、ロードの東洋大や復路の東洋大という異名がつけられる。1986年の第62回大会以降はシード権争いにも絡むことなく下位に低迷し、1992年の第68回大会では予選落ちを喫し連続出場が44回で途切れてしまう。予選会の常連とも揶揄され、2001年の第77回大会・2002年の第78回大会では2年続けて予選落ちとなる。(後にリオデジャネイロオリンピック男子マラソン代表となる石川末廣はこの2大会の予選会でチームトップの成績を収めている。) 2002年に川嶋伸次が長距離部門の監督に就任すると復調の気配を見せ始め、北岡幸浩や北島寿典ら後に世界に羽ばたく選手を輩出、再びシード校の常連となった。しかし、2008年の12月に通学途中の部員が強制わいせつ行為で現行犯逮捕で逮捕され、出場すらも危ぶまれる事態となってしまう。この不祥事を受けて川嶋が監督辞任、前監督でコーチの佐藤尚が監督代行として再び指揮することとなった。最終的に関東学生陸上競技連盟による「箱根駅伝への出場を制限しない」という決定を受け、第85回大会に出場。柏原竜二の活躍もあって初の往路優勝を果たし、さらに復路でも優勝し初の総合優勝を達成した。出場回数60回を超える大学の中で唯一優勝に縁がなかったが、2009年の総合優勝によって初出場以来76年目、67回目で箱根駅伝史上最も遅い総合優勝を達成した。これを記念して、同学OGによる優勝の裏側を描いた本が発行されている。 2009年4月からはOBの酒井俊幸が長距離部門の監督に就任することが決まり、佐藤はコーチに戻った。翌年2010年の第86回大会でも総合優勝し2連覇を達成[2]。2011年の第87回大会では早稲田大学に箱根駅伝史上最小となる21秒差の2位で敗れるも、2012年の第88回大会では史上5校目となる往路・復路・総合の全記録を更新する完全新記録優勝を成し遂げた。 チームスローガンは「その1秒をけずりだせ」であり、駅伝では選手同士で腕にスローガンを書きあうのが慣例である。 植木等は生前、毎年箱根駅伝終了直後に選手を激励しに来ており、「(東洋大学を)箱根駅伝で優勝させる会」の発起呼びかけ人・初代会長を務めるなど陸上競技部、特に箱根駅伝出場選手たちの有力な後援者として知られていた。しかし植木は2007年3月に死去、存命中に母校の総合優勝を見届けることはできなかった。 マラソン[編集] 2019年9月15日に開催された東京オリンピック代表選考会であるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)には卒業生5名(大学別では最多)が出場し、服部勇馬が2位となり代表に内定した[3]。 12年ロンドン大会50km競歩の西塔拓己、16年20km競歩の松永大介に続き、川野将虎が2019年10月27日に行われた「第58回 全日本50km競歩高畠大会 兼

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アンソニー・アームストロング=ジョーンズ (初代スノードン伯爵) – Wikipedia

アンソニー・アームストロング=ジョーンズAntony Armstrong-Jones 1965年撮影 スノードン伯爵 在位 1961年 – 2017年 配偶者 マーガレット王女ルーシー・メアリー・リンゼイ=ホッグ 子女 デイヴィッドサラ(マーガレットとの子)フランシス(ルーシーとの子)ウィリアム(メラニーとの子、婚外子) 全名 一覧参照 Antony Charles Robert Armstrong-Jonesアンソニー・チャールズ・ロバート・アームストロング=ジョーンズ 父親 ロナルド・アームストロング=ジョーンズ

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アシュリー・ヤング – Wikipedia

アシュリー・ヤング マンチェスター・ユナイテッドFCでのヤング(2017年) 名前 本名 アシュリー・サイモン・ヤングAshley Simon Young[1] ラテン文字 Ashley YOUNG 基本情報 国籍 イギリス ( イングランド) ジャマイカ 生年月日 (1985-07-09) 1985年7月9日(36歳) 出身地

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ノヴォロシースク – Wikipedia

この項目では、ロシア・クラスノダール地方の都市について説明しています。その他の用法については「ノヴォロシースク (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ノヴォロシースク(ロシア語: Новороссийск ナヴァラスィーイスク)は、ロシア連邦南部の都市で、クラスノダール地方にある黒海沿岸の主要港である。人口26万人。ソビエト連邦の時代に英雄都市の称号を授けられた数少ない都市の一つである。名称は「新ロシアの町」という意味。 英雄都市ノヴォロシースクに捧げられた2ルーブルコイン 古くはギリシャ人の植民地があったことが確認されており、交易の拠点として農産物の積出し港が整備された。地中海・黒海交易路の最も東に位置するという地政学的重要性から、この都市の支配国は目まぐるしく変化した。ローマ帝国、モンゴル帝国、オスマン帝国、ロシア帝国が主な例である。 1838年に黒海艦隊の東部基地が建設され、1722年以来その地を支配してきたトルコの要塞Sujuk-QaleすなわちSoğucakに取って代わった。1918年8月26日からデニーキン将軍の白軍の重要拠点となったが、1920年3月27日にピョートル・ヴラーンゲリ将軍の指揮によって白軍はクリミアへ撤収した。1942年には、この町はドイツ軍によって占領されたが、1943年9月16日に赤軍によって解放されるまで、ソビエト水兵の小部隊が225日にわたって町の一部を死守した。のちに海軍総司令官となるセルゲイ・ゴルシコフの指揮の下、ソビエト水兵が英雄的な防衛を行い、市の湾入部を保持し続けた。そのためドイツ軍は、補給のために港を使用することができなかった。このことから、ノヴォロシースクは1973年に英雄都市の称号を授与された。 2007年以降、黒海艦隊の新しい母港の建設が進められている(従来の母港はクリミア半島先端のセヴァストポリにあるが、この地域はウクライナ領で、ロシアはウクライナに港の使用料を払っていた)。しかし、2014年のロシアによるクリミアの併合によりセヴァストポリが事実上のロシア領となったため、新母港の先行きは不透明となっている。 ノヴォロシースクは、ロシアの主要な農産物輸出港である。凍ることのないツェメス湾に位置する。ノヴォロシースク港は、アジア、中東、アフリカ、地中海、南アメリカといった地域と結ばれている。 産業都市でもあり、鋼鉄、食品そして金属製品その他の製造業が盛んである。この都市周辺には、多くの石灰岩の採石場があり、その結果、重要なセメント工場が立地している。このため「セメントバレー」と呼ばれることがある。 ノヴォロシースク地方は、ロシアの主要なワイン産地の一つである。近辺のアブラウにあるワイン醸造所では、ロシア国内で有名な、高品質のテーブルワインやスパークリングワインが造られている。 国立ノヴォロシースク海事大学とノヴォロシースク工科大学の所在地である。 ノヴォロシースクは、クラスノダールやソチと鉄道や道路で連絡している。2019年に完成したクリミア大橋でクリミア半島への移動も容易になった。市内の公共交通は、バス、トロリーバス、マルシュルートカから構成されている。 姉妹都市[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集] 座標: 北緯44度43分 東経37度46分

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徳島健康生活協同組合 – Wikipedia

徳島健康生活協同組合 画像をアップロード 種類 生活協同組合(医療生協) 本社所在地 日本〒770-0805徳島県徳島市下助任町4-9 設立 1961年3月26日 業種 医療業 法人番号 7480005000445 事業内容 医科診療、歯科診療、介護事業 他 代表者 児嶋誠一(理事長) 資本金 12億7787万7949円(出資金,2020年1月末現在) 決算期 3月31日

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浅丘ルリ子 – Wikipedia

浅丘 ルリ子(あさおか ルリこ、1940年7月2日[1] – )は、日本の女優。本名:浅井 信子。血液型はA型。前夫は石坂浩二。 満州国新京市(現・長春)に、4人姉妹の次女として生まれる[4]。父・浅井源治郎は満洲国経済部大臣秘書官を経て1943年にタイのバンコクへ軍属として転居。終戦後に一家はチャオプラヤー川の岸辺にあったバンバートン(バーンブァトーン Bang Bua Thong)抑留所へ強制収容されるが翌1946年には引き揚げが始まる。しかし軍属を最優先として先に出港したその船は沈没してしまい一家は命拾いした。やがて大洗港の近くに住む親戚を頼り、まもなく館山の引き揚げ寮へ入寮。信子が小学校3年生の時に父が代議士秘書の職を得て一家で東京神田鍛冶町の借家に落ち着く[5]。実妹のクラスメートに星由里子がいた。家庭は大変貧しかった。しかしながら、母が毛布を裁断し染めることに依ってコートに仕立ててくれたりと創意工夫に満ちた生活を送っていた。 『緑はるかに』(1955年) 読売新聞に連載されていた北条誠の小説(挿絵は中原淳一)『緑はるかに』[6]を水の江瀧子プロデュース・井上梅次監督で映画化するに当たって、ヒロインのルリコ役を募集しているのを千代田区立今川中学校在学中の1954年(昭和29年)夏に知り、両親賛成のもと応募、11月23日に面接が行われ約3,000人[1][7]の中から中原淳一が浅丘のメイクを見て「この子だ」と言い、強力な推薦によって選ばれ銀幕デビュー[8]、「ルリコカット」が当時の女性たちの間で大流行し[9]、瞳の大きな美少女として脚光を浴びる。しかし学校を長期欠席しての撮影だったため、PTAと生徒会が奉祝の花輪を出したことで一時物議を醸した。多忙のため、高校(旧・菊華高等学校、現・杉並学院高等学校)は中退している。映画『緑はるかに』は1955年に公開された。 私生活では、1960年頃に一時小林旭と事実婚の関係にあったが、1961年8月に別離[10]。この頃より生活が荒むものの石原裕次郎に励まされ持ち前の根性で再起する。 1961年、世界一周早回りと国際親善をかねた「美しい東洋親善使節団」日本代表[11]。 また1964年には「夕陽の丘」でレコードデビューした[12]。日活の看板女優として数多くの映画に出演し、人気を博した。現在までの映画出演本数は150本以上。 日本映画全盛期の日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや、石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。 仲の良い佐久間良子の初主演映画、1963年の東映『五番町夕霧楼』を観て大きなショックを受ける[4][13]。「正直いって女性映画の主人公がやれる佐久間さんがうらやましい。何も知らないまま、ただ夢中で10年間を過ごしてきたけど、100本も映画に出て代表作がないのは恥ずかしいワ。私は男性映画のサシミのツマのようなもの。もっと自分の仕事を大切にしたい。作品を選んでそろそろ賞の対象になるような仕事をしたい」などとマスメディアに訴え[13]、今まで何一つ文句もいわず、会社のいいなりになってきたが[13]、1964年1月の会社との契約更改で、他社出演を認めて欲しいと直談判した[4][13]。浅丘は東映の女優が毛嫌いするような緑魔子主演『ひも』のような”不良性感度映画”に「ああいう役ならぶつかって悔いはない」と発言するなど[14]、会社の準備した『肉体の門』『悲恋十年』『人生劇場』などを蹴り[4][15]、初めて女優として自己主張した。自身で企画を持ち込むようになり[14]、1964年から1966年にかけて出演ペースが落ちた[15]。他社出演の希望は『日本一の男の中の男』(東宝)まで3年かかった[4][16]。 蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(1962年)や、『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)の典子三部作により男性スターの彩り的存在から脱皮、100本出演記念映画となった蔵原惟繕監督の『執炎』では、愛する夫を戦争に奪われた女性の姿を演じ、同じ蔵原監督の映画『愛の渇き』(1967年)でも熱演を魅せた。映画『戦争と人間』にも出演した[17]。蔵原惟繕とは愛人関係にあった[18]。 1966年には日活との専属契約を解消し、石原プロへ入社。1972年、石原プロが劇場用映画製作から撤退したことにより石原プロ退社。また、映画の主題歌などを中心に歌手としても多くの曲を発表、1969年のシングル『愛の化石』はヒットした[19]。 その他にも、『太平洋ひとりぼっち』、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』、『博士の愛した数式』などの映画の話題作に出演した。特に、映画『男はつらいよシリーズ』で演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数えた[4]。渥美清の最後の作品となった『男はつらいよ

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ジャズ批評 – Wikipedia

『ジャズ批評』(ジャズひひょう)は、ジャズ批評社が刊行する、主にジャズを専門とした隔月刊の音楽雑誌。1967年6月に季刊誌として創刊され、2004年6月から隔月刊に移行した[1]。 1998年以降は、「ジャズ批評ブックス」と題するシリーズの単行本の出版も手がけている[1]。 銀座でジャズ喫茶「オレオ」を1965年6月に開業していた松坂妃呂子(1932年 – )が、店に集った人々の同人誌として1967年6月に『ジャズ批評』を創刊した[2][3][4][5][6][7]。創刊号の制作費は10万円で、48ページの冊子が、1500部印刷された[4][6][7]。2号からは活字印刷となり[4]、一般の雑誌として全国に流通した[6]。 「オレオ」は1970年に閉店したが、『ジャズ批評』は刊行が継続された[7]。64号からは[4]、和田誠が16年間にわたって表紙のイラストを手がけた[2][3]。 また、資生堂が広告出稿によって長らく支援しているが、これは山本吉兵衛の意向によるものとされる[2]。 長らく寄稿者として関わりのあったジャズ評論家の岩浪洋三は、「良い意味でジャーナリズムの伝統が生きている雑誌」と『ジャズ批評』を評価していた[4]。. 連載をもとに出版された単行本[編集] ^ a b “ジャズ批評について”. ジャズ批評社. 2020年6月28日閲覧。 ^ a b c 斎藤鑑三

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タウベ (航空機) – Wikipedia

エトリッヒ・タウベ(またはルンプラー・タウベ)は、オーストリアなどでつくられた初期の航空機である。第一次世界大戦初期の軍用機のひとつである。 1910年に初飛行した。ドイツのルンプラー社とライセンス契約して生産が始まったが、ルンプラー社がライセンス料を支払わないので、エトリッヒは特許を放棄し、ルンプラーをはじめ、アルバトロス、ゴータ、DFW、ハルバーシュタットなど多くの会社が製造し、約500機が生産された。極めて安定性の高い飛行機で、第一次世界大戦が始まると軍用機として用いられたが、運動性能は悪かったので1915年夏には前線から退いた。その後は練習機として用いられた。 日本でも1914年に帝国飛行協会が2機を輸入した。大正博覧会で展示された他、第1回民間飛行大会で磯部鉄吉の操縦で航続記録を出すなど好成績を収めた。第一次世界大戦では、青島要塞攻撃戦でドイツ軍がタウベを1機投入。その機動性に日本軍のモーリス・ファルマン機は翻弄され、急遽前述の民間機の内1機が徴用されて青島に送られたが、停戦により活躍の機会を逸している。 タウベは鳩のことで、主翼と尾翼の形態に由来するが、そもそもは南洋のウリ科の植物アルソミトラ・マクロカルパ(ザノニア・マクロカルパ)の種が10 – 15センチの翅で安定した滑空をすることを知ったオーストリアの設計者イゴ・エトリッヒ(Igo Etrich)博士が、その種子の断面や捩じ下げを取り入れた翼の形の無尾翼グライダーを作ったことにはじまる。動力化にともなって、通常の尾翼・胴体が追加されたが、主翼の特徴的な形はのこった。主翼は翼下面からトラス構造の鋼管で支えるという珍しい構造で、張線で支えた胴体と相まって安定性の高い機体となった。 出典:木村秀政・田中祥一『日本の名機100選』文春文庫ISBN 4-16-810203-3 1997年 乗員:2名 全長:8.20m 翼幅:13.80m 翼面積:32.0m² 空虚重量:600kg 総重量:910kg エンジン:アルグス発動機製4気筒またはメルセデス製E4F型6気筒 出力 アルグス製:74kW メルセデス製:100kW 最大速度:120km/h

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