Month: July 2020

セビリャーナ (エルガー) – Wikipedia

『セビリャーナ』(Sevillana作曲者自身の表記ではSevillaña (Scène Espagnole)[注 1])作品7は、エドワード・エルガーが1884年に作曲した管弦楽曲。 この曲の作曲当時エルガーは26歳の青年で、ヘレン・ウィーヴァーとの婚約が破談になったばかりであった。エルガーにヴァイオリンを教えていたアドルフ・ポリッツァーが指揮者のアウグスト・マンスに楽譜を見せると、マンスは1884年5月12日に水晶宮で行われたコンサートでこの曲を演奏した[2]。これは同年5月1日にウスター大聖堂(英語版)の聖堂オルガニストだったウィリアム・ダンの指揮により、ウスター・フィルハーモニック協会で曲が初演されたすぐ後のことであった。エルガーにとって、この曲がロンドンで紹介された自作の管弦楽曲第1号となった[3]。 初版譜はTuckwoodから、1889年の作曲者自身による改訂譜は1895年にAscherbergから出版された[4]。曲はバーミンガム音楽祭で指揮者を務めていたW.C.ストックリーへと献呈されている。 演奏時間[編集] 約5分 楽器編成[編集] フルート2(ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、コルネット2、トロンボーン2、バストロンボーン、チューバ、打楽器(小太鼓、タンバリン、大太鼓、シンバル、トライアングル)、弦五部[5]。 楽曲構成[編集] アレグロ・モデラート 3/8拍子 ト短調 スペインのセビジャーナスの舞踏のリズムで始まる。簡潔な導入の後、譜例1の主題がヴァイオリンに出される。 譜例1 ff cis-> d-> cis->

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花茂 – Wikipedia

花 茂(か も、生年不詳 – 1397年)は、元末明初の軍人。本貫は無為州巣県。 元末の乱のときに陳埜先に従い、朱元璋に帰順した。江東の平定や陳友諒の討滅に従軍した。洪武初年、河南・山西・陝西の平定に従った。功績を重ねて武昌衛副千戸に任じられた。1371年(洪武4年)、夏を討ち、瞿塘関を攻略し、重慶に入った。広西に転戦し、左江・右江および田州を下した。神策衛指揮僉事に進み、広州左衛を監督した[1]。陽春・清遠・英徳・翁源・博羅の諸山寨の少数民族や東莞・龍川諸県の民衆反乱を平定し、指揮同知に進んだ[2]。電白・帰善の反乱を平定し[3]、都指揮同知に転じ、世襲指揮使とされた[4]。連州や広西・湖広の瑤族の反乱軍をたびたび殲滅した。東莞・筍岡諸県の逃戸が海上の島に居住して海賊行為を繰り返していたことから、かれらを帰順させて兵籍に編入するのを許可するよう上奏した。また山に隣接する沿海の地に広海・碣石・神電など24衛所を設置するよう請願した[5]。花茂は城を築き池を浚渫して衛所の防備を固め[6]、海島に隠れた無戸籍の人々を集めて軍に編入した[7]。山海の要害の地に堡を立てて軍を駐屯させ、それらを報告して許可を得た。都指揮使に進んだ。1397年(洪武30年)、死去した[8]。安徳門に葬られた。 花栄(長男、指揮使の職を嗣いだ) 花英(次男、父に似て剛毅果断な人物で、軍功により広東都指揮使となり、永楽年間に名声があった) ^ 郝玉麟『広東通志』巻41によると、「洪武庚申調廣州左衛」とする。洪武庚申は1380年(洪武13年)。 ^ 『広東通志』巻41によると、「丙寅東莞香山龍川翁源民作亂討平之進指揮同知」とする。洪武丙寅は1386年(洪武19年)。 ^ 『広東通志』巻41によると、「戊辰破歸善諸賊」とする。洪武戊辰は1388年(洪武21年)。 ^ 『広東通志』巻41によると、「己巳連擢廣東都指揮同知子孫世襲廣州左衛指揮使」とする。洪武己巳は1389年(洪武22年)。 ^ 『広東通志』巻41によると、「甲戌疏請徙東莞香山諸縣逋逃蛋戸為兵復奏增廣海碣石等二十四衛所議於山海要害立營置戍詔従之」とする。洪武甲戌は1394年(洪武27年)。 ^ 『広東通志』巻14によると、「明洪武二十七年都指揮花茂奏築神電衛城委惠州指揮王虎」とする。

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チューチューパーク – Wikipedia

チューチューパーク(choochoopark)は韓国・江原道三陟市道溪邑深浦里にある観光地である。 チューチューパークの2人乗りレールバイク チューチューパークの4人乗りレールバイク このリゾートは、江原道三陟道溪邑深浦南道99(深浦里)にある。深浦里一帯の旧嶺東線廃線を利用して造成された、鉄道のテーマと地域の文化資源を中心としたリゾートで、国内初の鉄道体験型リゾートでもある。当初の名称はハイワンスイッチバックリゾートであったが、発音が難しく用語が難解であることから、列車を指す児童語である「チクチクポクポク(choo-choo)」に着眼してチューチューパークに変えた [1]。チューチューパークを運営する(株)ハイワンチューチューパークは、江原ランドと韓国鉄道施設公団が出資して設立された。 桶里峠の傾斜を克服するために造られたスイッチバック、インクライン、山里トンネルなどの鉄道施設を活用して建設された。スイッチバック区間には蒸気機関車の形の観光列車が運行されるスイッチバックトレインが、旧深浦里信号場から続いていたインクライン区間には約1kmのインクライントレインが、山里トンネル区間には、国内で最も速い時速25kmのレールバイク(レールコースター)が造成された。このほか宿泊施設、キャンプ場などの施設を備えている。また、2億年前の古生代に形成された深浦峡谷には、トレッキングコースが作られる。 歴史[編集] 付帯施設[編集] 列車体験施設 :レールバイク[レールコースター]、観光列車[スイッチバックトレイン]、ミニ列車[ミニトレイン]、インクライン鉄道[インクライントレイン] 客室 :プライベート個別型客室(キューブビル、ネイチャービル、トレインビル)、オートキャンプ場 飲食 :アワーホーム専門食堂街 その他の施設 :プール、CU(コンビニ)、カフェグラン(コーヒー)、テラスギャラリー、その他の店舗 スイッチバックトレイン[編集] スイッチバックトレインは2014年10月24日のチューチューパークの開場とともに運行を開始した。この列車は廃線となった嶺東線の一部区間を活用した観光列車でチューチューステーションと道渓駅間のスイッチバック区間を運行する。当初は羅漢亭駅まで運行したが、 2015年の鉄道安全法に基づく総合試験運行をして、 2016年1月9日から道渓駅まで延長された

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北木島町 – Wikipedia

北木島町(きたぎしまちょう)は、岡山県笠岡市の大字である。人口は1,222人(男性519人、女性703人)で、世帯数は660世帯[1]。郵便番号は714-0301(北木島郵便局管区)。本項では当地の前身である小田郡北木島町(きたぎしまちょう)および北木島村(きたぎしまそん)についても述べる。 笠岡諸島で人口・面積が最大である北木島と、その周辺の島嶼で構成される。笠岡諸島の中央部にあたり、北に白石島、南東に真鍋島、南西に飛島がある。古い時代から、地場産業として採石業・石材加工業で栄え、現在も同産業従事者が多く存在する。 島嶼[編集] 山岳 小字[編集] それぞれの字が港を構えている。 大浦 豊浦 金風呂 楠 1889年(明治22年)6月1日 – 町村制施行により、近世以来の北木島村が単独で自治体を形成。 1914年(大正3年)4月18日 – 小学生が一斉に同盟休校。学校がシロアリに侵食され倒壊の危険があることに対する抗議運動の一環[2]。 1952年(昭和27年)4月1日 – 北木島村が町制施行して北木島町となる。 1955年(昭和30年)4月1日

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破産手続開始の決定 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 破産手続開始の決定(はさんてつづきかいしのけってい)とは、破産手続を開始する旨の裁判所の裁判のこと。 2004年(平成16年)の破産法(新破産法)の制定により、従来の「破産宣告」から破産手続開始の決定に改められた。 破産手続開始の決定[編集] 破産法は、以下で条数のみ記載する。 (破産手続開始の決定) 裁判所は、破産手続開始の申立てがあった場合において、破産手続開始の原因となる事実があると認めるときは、次の各号のいずれかに該当する場合を除き、破産手続開始の決定をする(30条第1項)。 破産手続の費用の予納がないとき(第23条第1項前段の規定によりその費用を仮に国庫から支弁する場合を除く。)。 不当な目的で破産手続開始の申立てがされたとき、その他申立てが誠実にされたものでないとき。 前項の決定は、その決定の時から、効力を生ずる(30条第2項)。 (破産手続開始の決定と同時に定めるべき事項等) 裁判所は、破産手続開始の決定と同時に、一人又は数人の破産管財人を選任し、かつ、次に掲げる事項を定めなければならない(31条第1項)。 破産債権の届出をすべき期間(31条1項1号)。 破産者の財産状況を報告するために招集する債権者集会(「財産状況報告集会」という。)の期日(31条1項2号)。 破産債権の調査をするための期間又は期日 この規定にかかわらず、裁判所は、破産財団をもって破産手続の費用を支弁するのに不足するおそれがあると認めるときは、破産債権の調査をするための期間及び期日を定めないことができる(31条2項)。 この場合において、裁判所は、破産財団をもって破産手続の費用を支弁するのに不足するおそれがなくなったと認めるときは、速やかに、破産債権の届出をすべき期間及び破産債権の調査をするための期間又は期日を定めなければならない(31条3項)。 破産法第31条第1項第2号の規定にかかわらず、裁判所は、知れている破産債権者の数その他の事情を考慮して財産状況報告集会を招集することを相当でないと認めるときは、財産状況報告集会の期日を定めないことができる(31条4項)。 知れている破産債権者の数が千人以上であり、かつ、相当と認めるときは、裁判所は、破産法第32条第4項本文及び第5項本文において準用する同条第3項第1号、第33条第3項本文並びに第139条第3項本文の規定による破産債権者(同項本文の場合にあっては、同項本文に規定する議決権者。次条第2項において同じ。)に対する通知をせず、かつ、第111条、第112条又は第114条の規定により破産債権の届出をした破産債権者(以下「届出をした破産債権者」という。)を債権者集会の期日に呼び出さない旨の決定をすることができる(31条5項)。 (破産手続開始の公告等)

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加藤茶 – Wikipedia

加藤 茶(かとう ちゃ、1943年(昭和18年)3月1日 – )は、日本のコメディアン、ミュージシャン、司会者、(ドラマー)、俳優。 ザ・ドリフターズのメンバーとしてテレビ・映画に多数出演。1960年代後半から70年代前半にかけて子供達の間で人気者となる。ドリフの活動縮小後は、加トケンやこぶ茶バンドでも活躍した。 本名は加藤 英文(かとう ひでゆき)[1][2]。身長163cm。 愛称は「カトちゃん(加トちゃん)」「ヒデ坊」「チャー坊」など。父はギタリストの平八郎(たいら はちろう)。 ドリフターズ加入まで[編集] 1943年、東京府[3]東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)生まれ[4]。5歳の夏の1か月間だけ、母親・寿磨子(1916〜1980)の実家・愛媛県新居浜市に住む。ギタリストの父親・平八郎(1915〜1955)が癌を患ったため、母親、妹と共に父親の郷里・福島県福島市へ転居し福島で育った。 少年時代には平泳ぎが得意で、中学生の時の全校水泳大会の自由形では他の選手が全員クロールの中、加藤だけが平泳ぎだったのにもかかわらず1着になったというエピソードがある[5]。その後、無線に興味があったことから電気学園福島工業高等学校に入学。 1960年の正月に叔母に会いに上京した際、滞在中に高校中退を決断し、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズのバンドボーイに就く。しかしトロンボーンは高額で、容易に入手出来ないことが分かると、捨てておいてと頼まれたドラムスティックを削って再生し、ドラマーのチコ菊池からドラムを1日8時間教えてもらう。その半年後に横浜にいる菊池の兄のバンドのドラマーとして加入[6]。 スターダスターズを辞めたのはある日手当ての100円をマネージャーに催促したところマネージャーに100円を投げつけられ、この態度に怒った加藤はそのマネージャーとの喧嘩に発展し、クビになったからである。その後、1961年にドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(後の仲本工事)と出会う[7]。 1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のメンバーに加入した[8]。 ドリフターズ加入後[編集] 1964年には、ドリフ初レギュラー番組『ホイホイ・ミュージック・スクール』での「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者になる。放送作家の田村隆によれば、『ホイホイ』の収録で90秒の音楽ギャグのオチが良くないとみんなで色々考えていたところに、ディレクターの白井荘也が「小野チン(小野ヤスシのニックネームであった)がヒゲ付けて、目玉を寄せてぶっ倒れるオチにしよう」と提案してきたが、小野がこれに拒否的な態度を見せたことで(当時ディレクターは反論など許されないような絶対的な存在だった)、周囲の穏やかな空気が止まったのを察知した加藤が「それ僕がやります」と自らその役を買って出て演じたことから生まれたギャグだった[9]。そして、付け髭の糊が剥がれやすかったために、たびたび2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと加藤本人が語っている。 1964年、ドリフが分裂し(詳細は当該項目を参照)、小野ヤスシらはドリフを脱退して「ドンキーカルテット」を結成するが、いかりやと共にドリフ残留した。新生ドリフ活動開始直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶になった。

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砥部町 – Wikipedia

砥部町(とべちょう)は、愛媛県の中予地方に位置する町である。 200年以上の歴史がある伝統工芸品「砥部焼」で有名。松山と高知とを結ぶ国道33号が縦貫する交通の便と、変化に富んだ緑豊かな自然により、松山市のベッドタウンとして宅地開発が進んでいる。「住んでも 訪ねても いきいき砥部」をキャッチフレーズとしていたが、新町になってから公募による「清流とほたる 砥部焼とみかんの町」をキャッチフレーズとしている。全国的に砥部と言えば「砥部焼の町」と知名度が高い。アートの里プラン21やホップ・ステップとべと言った町総合計画でまちづくりを進めている。 位置 愛媛県のほぼ中央、松山市の南に重信川をはさんで連接している。松山平野の南端に位置する。 地名の由来 古来良質の砥石「伊予砥」を産し、町内の一つ地区を砥山と称していたが、周辺の地域一帯を含めて砥部と呼ぶこととなった。 地形 南部は山が多く、北は松山平野の南端の一角を占めている。南北に流れる砥部川沿いに国道33号が走り、集落が開けている。砥部地域は全体がなだらかな丘陵地にある。松山市との北東の境の丘陵地には、とべ動物園、えひめこどもの城、県立総合運動公園などのレクリエーション施設が集中している。 広田地域は、上尾峠を越えた南側になる。 山 : 障子山(伊予市との境)、行道山(同)、権現山(広田) 河川 : 重信川、砥部川(重信川の支流の一つ) 気候 温暖であるが、松山に比べると1 – 2度低い。

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エリック・ラグナー・スヴェンソン – Wikipedia

カナリア・ビエラ・イ・クラビホ植物園のスヴェンソンの像 エリック・ラグナー・スヴェンソン(Eric Ragnar Svensson、ラテン語名: Erik Ragnar Sventenius、ファーストネームはEkik、Erich、 Enricoとも、1910年10月10日 – 1973年6月23日)は、スウェーデン生まれで、スペインで働いた植物学者である。カナリア諸島のグラン・カナリア島のカナリア・ビエラ・イ・クラビホ植物園の創立者である。 ヨンショーピング県、ベートランダのSkiröに生まれた。ヨーロッパのいろいろな大学で植物学を学び、スペインのカタロニア地方に最初に作られた植物園、マリムルトラ植物園(Jardí Botànic Marimurtra)で植物愛好家のMitrado de Montserrat師と知り合い1931年にカナリア諸島に渡った。カナリア諸島でに、各島の植生の多様性を研究し、新種の植物を探索した。カナリア諸島の植物を研究した過去の植物学者の研究も調べ上げた。当時、カナリア諸島のテネリフェにあった世界中から珍しい植物を集めたような植物園ではなく、カナリア諸島原生の植物の研究と保全を目的とする植物園をつくることが生涯の目標となった。1788年に設立されたJardín de aclimatación de La Orotavaで1943年から働いた。1952年から植物園の運営を農業省から委託をうけ、植物園の拡張を計画するが地元民の反対で失敗した。

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