Month: August 2020

聖ペトロ司祭兄弟会 – Wikipedia

聖ペトロ司祭兄弟会(せいペトロしさいきょうだいかい、英語:Priestly Fraternity of Saint Peter、ラテン語:Fraternitas Sacerdotalis Sancti Petri; FSSP)は,聖座とのコミュニオンにある、カトリックの伝統主義的使徒的生活の会である。同会は、1988年に聖ピオ十世会のメンバーだったが、マルセル・ルフェーブル大司教の司教聖別は離教的行為であり自動破門となるという聖座の宣言を受けて、聖ピオ十世会を去った12人の司祭によって創立された。 本部はスイスにあり、ドイツのバイエルン州とアメリカ合衆国のネブラスカ州に神学校を有している。同会は聖座によって正式に認められ、同会の司祭は世界中の124の教区でトリエント・ミサを捧げている。 教会法上の身分[編集] 教会法によれば、聖ペトロ司祭兄弟会は「教皇権の使徒的生活の会」である[2]。従って奉献生活の会ではないため、同会の会員は修道誓願を立てない。その代わりに、教区司祭と同様に独身と従順の規定に縛られている。同会の「教皇権の」身分は、教皇によって設立されたことを意味する。またその活動に関しては、その土地の司教というよりも、(奉献・使徒的生活会省を通じて [3])教皇にのみ釈明義務を負う[4]。なお、各々の司教は教区内で行われる同会の働きを管理しており、その意味ではイエズス会やドミニコ会に似た位置づけである。 聖ペトロ司祭兄弟会は特定のカリスマに従ってキリスト教的完徳を目指す司祭と神学生で成り立っている。それは、第二バチカン公会議後の典礼改革以前に存在したローマ典礼にしたがってミサと他の秘跡を提供することである[5] 。従って、同会は1962年版のミサ典書や聖務日課書を使用している。 2020年11月現在、聖ペトロ司祭兄弟会は504人の会員を有している。内訳は330人の司祭、12人の助祭、162人の助祭ではない神学生である[6]。同会はオーストラリア、オーストリア、ベニン、カナダ、コロンビア、チェコ、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランド、イタリア、メキシコ、ナイジェリア、ポーランド、スイス、アメリカで活動している。 ^ https://www.fssp.org/en/presentation-2/figures/ ^ “Presentation”.

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ちらし寿司 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ちらし寿司” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月) ちらし寿司(ちらしずし)は、酢飯に多種類の具材を合わせて作る寿司の一種である。 語源は文字通り寿司飯の中、あるいは上に様々な具を「散らす」という意味で、単に「ちらし」と呼ばれる事もある。 江戸前寿司においては、白い酢飯の上に、にぎり寿司に用いる寿司種を並べたものを指すが、関東周辺以外の地域では一般に、酢飯に調味した具材を混ぜ込み、錦糸卵や海苔などで飾り付けを施したものをちらし寿司と称する。 酢飯の中に何も混ざっていないのが「ちらし寿司」、酢飯に様々な具材を混ぜたものが「五目寿司」と説明されることもあるが[1]、地域や世代によって呼び分けは異なり正式な定義ではない。 発祥は鎌倉時代に起源を持つとされる「五目ちらし寿司」のほうが古く、「江戸前のちらし寿司」は江戸時代後期に寿司職人の賄い飯として誕生したと言われている。 本稿では、生魚を用いる江戸前のちらし寿司と、寿司飯に具を混ぜ込んで作るちらし寿司の両方について扱う。 江戸前ちらし・生ちらし・吹き寄せちらし[編集] 江戸前にぎり寿司からの派生として明治以降に普及した料理である。生ちらし、吹き寄せちらしとも呼ばれる。酢飯ではない飯を使用したものは一般に海鮮丼と呼ぶ。 使用するタネは、マグロ、白身、光り物、アカガイ、イカ、エビ、タコ、イクラ、ウニ、アナゴなどの魚介類と、卵焼き、干瓢、シイタケ、オボロ、ガリなど寿司の素材に用いられるものが一般的で、ワサビを添えることが多い。 醤油を使う場合は全体にかけず、手塩皿に取って食べるのが作法とされる。これは用いられる種の多くが酢締めや煮しめなど江戸前寿司の仕事を施されたものであるため、素材によって適切な味付けが異なるためである。 ばらちらし[編集]

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織田信包 – Wikipedia

織田 信包(おだ のぶかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国柏原藩初代藩主。信包系織田家初代。織田信秀の4男(異説あり)で、織田信長の弟。通称は三十郎[1]。なお、一時長野工藤家に養子に入り17代当主となっている。 出生[編集] 天文12年(1543年)7月17日[1]あるいは天文17年(1548年)[2]に、尾張の戦国大名・織田信秀の子として生まれた[1]。 信長の時代[編集] 永禄11年(1568年)2月、兄・信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが[1]、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。永禄12年(1569年)10月、伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された[1]。 その後は信長に従って各地を転戦する。北近江小谷城で信長が義弟の浅井長政を滅亡させたとき、その正室であった妹の市とその娘たちである茶々・初・江を信包が保護したとされてきた[3]。しかし近年の研究によると、当初お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市たちの叔父である織田信次であることが明らかとなっている(『溪心院文』)[4]。天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧、天正5年(1577年)の雑賀党攻め(紀州征伐)にも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。後に信長の長男・信忠の補佐を任されている。長男・信重の正室に元尾張守護・斯波義銀の娘を定め、織田家と斯波家の橋渡し役も果たした。 豊臣秀吉の時代[編集] 天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長と信忠が殺害された後は、豊臣秀吉に従い、伊勢津城15万石を領して「津侍従」と称された。天正11年(1583年)には甥・織田信孝らと対立し、柴田勝家や滝川一益を攻略している。 天正18年(1590年)、小田原征伐のときに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したために秀吉の怒りをかい、文禄3年(1594年)9月に至って改易された。改易の理由として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたためとされる。改易後は剃髪して老犬斎と号し[1]、京都の慈雲院に隠棲したという。 その後、近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598年)6月には丹波国氷上郡柏原(兵庫県丹波市柏原)3万6000石を与えられる。 徳川家康の時代[編集] 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に属して丹後田辺城攻撃などに参戦したものの、戦後に徳川家康は信包の罪を問わず、所領を安堵された。その後、信包は大坂城にあって姪孫である豊臣秀頼を補佐したが、慶長19年(1614年)7月17日、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72。片桐且元による毒殺の噂が流れたが、定かではない。家督は三男の信則が継承した。 父母・兄弟[編集] 父は前述の通り信秀であるが、母は不明である。しかし信長の生前時の織田一門内における地位の高さは、信包が信長の同母弟である可能性を示している。 また、信秀の四男と言われることもあるが、信包よりも確実に年長の信広、信長、信勝(信行)に加えて、弘治元年(1555年)に死去した際に数え年で15、6歳と伝わる秀孝や、信長よりも年長とされることもある信時もおり、正確なところは不明である。 織田一門の中での立場[編集] 天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、織田信忠80騎、織田信雄30騎に続いて、信包が10騎を率いている(次いで織田信孝の10騎)[1]。また、「信長公記」において織田一門の名が連なる場合、信包は必ず信雄と信孝の間に入っており、実質的に一門の序列3番目の地位に位置していたものと推測されている[1]。信包以外で早世していなかった信長の弟には長益、長利、信照がいるが、彼らは信孝に続く津田信澄(信長の同母弟である信行の遺子)よりさらに下の地位に過ぎず、信包は信長の兄弟の中でも別格の地位であったことが窺える。 演じた人物[編集]

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仮説検定 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “仮説検定” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年5月) 仮説検定(かせつけんてい、英: hypothesis testing)あるいは統計的仮説検定(statistical hypothesis testing)[補 1]とは、母集団分布の母数に関する仮説を標本から検証する統計学的方法のひとつ。日本工業規格では、仮説(statistical hypothesis)を「母数又は確率分布についての宣言。帰無仮説と対立仮説がある。」と定義している。検定(statistical test)を「帰無仮説を棄却し対立仮説を支持するか,又は帰無仮説を棄却しないかを観測値に基づいて決めるための統計的手続き。その手続きは,帰無仮説が成立しているにもかかわらず棄却する確率がα以下になるように決められる。このαを有意水準という。」と定義している。 統計的仮説検定の方法論は、ネイマン=ピアソン流の頻度主義統計学に基づくもの[補 2]と、ベイズ主義統計学に基づくものとの二つに大きく分けられる[3]。ただし「仮説検定」という場合、前者だけを指すことがある。本項では前者及び日本工業規格での定義を説明する。 統計的仮説検定の手順[編集]

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防災 – Wikipedia

波による災害を防ぐために設置される[1] 防波堤。 防災(ぼうさい)とは、狭義には災害予防及び災害応急対策をまとめた概念である[2]。これに災害復旧(被災前の状態に戻す意味)を含める場合もある[2]。つまり「防災」には災害を未然に防ぐ被害抑止のみを指す場合もあれば、被害の拡大を防ぐ被害軽減や、被災からの復旧まで含める場合もある[3][4]。さらに地域防災計画などでは被災地に新たにより良い社会を創出する復興まで含める場合もある[2]。 災害の概念は広いので、自然災害のみならず、人為的災害への対応も含めることがある。類義語として、防災が被害抑止のみを指す場合に区別される減災、防災よりやや広い概念である危機管理などがある。 防災と危機管理[編集] 防災上の危機管理の要素[編集] 防災上の危機管理の要素は時系列でみると準備、緊急対応、収束の3つの局面からなる[2]。 準備 防災上の準備は、予測、備え、点検訓練の3つの要素からなる[2]。予測は自然災害や事件・事故などの危機の予測である[2]。予測された危機に対する人、物、金、情報、仕組みなどの用意が備えであり、災害時に支援する側に回ることができるかや二次災害が発生するかといった分岐点にもなる[2]。点検訓練は準備している備えに実効性があるか確認することである[2]。 緊急対応 緊急対応は、発生した危機による被害をいかに少なくするかをいう[2]。 収束 収束は平常時に戻るための段階であり、原因の究明、緊急対応の不備の点検、対策の検討実施などからなる[2]。 災害は人口減少、財政悪化、感染症のまん延、企業の転出、犯罪の発生など複次的な多様な危機とも関連がある[2]。 防災の種類とマネジメント[編集] 災害管理・緊急事態管理のサイクルにおける4つのフェーズ 災害の防止策は大きく2つに分けられる[5]。 被害抑止 被害が生じないように講じる対策。土地利用の管理、河川の改修、建物の耐震化、災害の予報・警報など。 被害軽減

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異常分散レンズ – Wikipedia

異常分散レンズ(英:Extra-low dispersion lens 、Extraordinary low dispersion lens )は異常部分分散性を持ったガラスを使ったレンズのこと。特殊低分散レンズなどとも呼ばれる。 色収差の少ないアポクロマートを実現するために用いられ、レンズメーカーによりEDレンズ・UDレンズ・LDレンズ・SDレンズなどと呼称される。異常分散ガラスによって作られたレンズを適切に使用すると非常に色収差の少ない像を得ることができ、高性能を要求する光学機器、特にカメラ用レンズ・顕微鏡・望遠鏡などに用いられる。 異常部分分散性とは[編集] ある波長範囲における屈折率差を部分分散と呼ぶ。通常のガラスでは部分分散は可視光線近傍領域では波長にあまり依存しない。波長によって部分分散が特異に変化するものを異常部分分散・特殊分散と呼ぶ。青(500 nm程度)の領域の分散性が特異に低いものを低分散・高いものを高分散と呼ぶ。 組成など[編集] 異常部分分散性・低分散性を持つレンズである蛍石レンズはフッ化カルシウムの人造単結晶を削りだしたもので、ガラスではない。このフッ化カルシウムの単結晶の製造は、技術的にかなり困難で、素材が軟らかく割れやすいため切削・研磨が困難である等欠点が多い。そのため代替品が求められてきた。この要望を背景に、開発されたのが異常分散ガラスである。製品としてはオハラの「S-FPL51」や「S-FPL53」、ドイツ・ショットの「FK51」などがある。 原料には酸化リン・フッ化アルミニウム・フッ化カルシウムなどが使用され[1]、通常の酸化物ガラスと異なり陰イオン成分として酸素イオンとフッ素イオンが共存する組成を持つ。異常分散ガラスは通常の光学ガラスと同様に原料を溶融後急冷して作られる非晶質の透明材料であるが、製造の難易度は人造蛍石よりは低いとはいえ、通常の光学ガラスよりは高い[1]。異常分散ガラスの光学特性は酸素とフッ素の陰イオンのモル濃度比率によってほぼ決まり、フッ素が多く酸素が少なくなるほど低屈折率低分散(大アッベ数)の特性となる[1]。このため異常分散ガラスは屈折率とアッベ数の組み合わせの多様性に乏しく、アッベ図上にプロットするとほぼ一直線の系列上に並ぶ[1]。 多くは既存のガラス(ケイ素酸化物系)に無機フッ素化合物や無機リン酸化物・ホウ素化合物などを加えて特性を改良したものであるが、リン酸クラウンガラス(PK)などケイ素成分を含まないものも存在する。 色収差をさらに低減させたレンズを「SDレンズ」と呼ぶこともあるが、EDレンズとの境界は不明瞭で、場合によってはほぼ同様の意味で用いられる。一般的に世界各国では、両者を概括してEDと呼び、SDの呼称は一般的ではない。しかし、日本ではこれらを区別しており、蛍石に非常に近い特性を持つものをSDガラス、近い特性を持つものをEDガラス、としている。 1969年に蛍石を写真用レンズに世界で初めて使用したキヤノンは、カタログなどにおいて、UDレンズと蛍石レンズの性質に関して「UDレンズは2枚で蛍石レンズ1枚に相当する」と謳っている[2]。 多様な光学機器の設計及び製造に関して重要な光学的性質である、異常部分分散性は蛍石に劣るものの、コストと耐候性では有利である。 ヨゼフ・フォン・フラウンホーファーが試作したものの極端に腐食に弱く実用化に失敗、実用化は天然の結晶を利用した蛍石レンズが先行した。実例としては1837年のビュースターによる顕微鏡レンズ、1888年のエルンスト・アッベによる顕微鏡用対物レンズなどが挙げられる。

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健和会病院 (長野県) – Wikipedia

健和会病院 情報 正式名称 社会医療法人健和会 健和会病院 英語名称 Kenwakai Hospital 前身 和田病院 標榜診療科 内科,外科,小児科,泌尿器科,消化器内科(胃腸内科),循環器内科,脳神経内科,腎臓内科,精神科,心療内科,脳神経外科,形成外科,呼吸器外科,乳腺外科,消化器外科(胃腸外科),リハビリテーション科,肛門外科,病理診断科,麻酔科,眼科,放射線科,糖尿病内科 許可病床数 199床一般病床:120床療養病床:79床 機能評価 一般病院1(100床以上)(主たる機能)、リハビリテーション病院(副機能):3rdG:Ver.1.1 開設者 社会医療法人健和会 管理者 和田

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呂祖謙 – Wikipedia

呂 祖謙(りょ そけん、紹興7年3月17日(1137年4月9日) – 淳熙8年7月29日(1181年9月9日))は、中国南宋時代の儒学者で、朱子学の源流に位置する。字は伯恭。諡を成といい、のち忠亮と改めた。東萊先生と称される。婺州金華県の出身。 祖父の呂弸中は呂本中の弟。父の呂大器は右朝散郎であった(陸游『渭南文集』巻32「曽文清公墓志銘」)。弟は呂祖倹。子は呂延年(中国語版)(末子)ら。孫に呂似之・呂守之ら。 学者の家に生まれ林之奇・汪応辰・胡憲などに学ぶ。隆興元年(1163年)に進士となり、同時に博学宏詞科にも合格する。 太常博士に国史院編修官・実録院検討官となり、領土の回復を孝宗に説き聖学について論じ、『徽宗実録』では政治についても述べている。 当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い官書が出回り、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたが、側近の周必大はその事業が困難であると説いた。だが呂祖謙は仕事を完成させ『皇朝文鑑』の名を賜った。 淳熙5年(1178年)に官著作郎に任命され、国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。 同時代の張栻・朱子を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。朱熹と対立する学説を主張する陸象山とを仲介し、対論させた(鵝湖の会)。 呂祖謙の家(河南呂氏)は名族として知られる。呂蒙正は宋王朝の科挙合格者で最初の宰相となり、その従兄弟の子である呂夷簡は仁宗朝で、その子呂公著は哲宗朝で宰相に至り、北宋で3名の宰相を輩出した。呂公著の孫呂好問は南宋成立期に尚書右丞に至ったが政争で失脚し、その子呂本中は秦檜に憎まれて官僚としては不遇であったが学者として名高かった。呂好問は呂祖謙の曾祖父、呂本中は大伯父(祖父の兄)にあたる。呂公著は旧法党の中心人物であり、その子孫は秦檜や韓侂冑に反対したことから政争に巻き込まれてたびたび失脚の憂き目をみた。呂祖謙も進士となったが、学者としての地位を歴任したために失脚こそはしなかったものの正七品の地位に留まっている。その結果、河南呂氏は政治家・官僚の家系としては衰退したものの、学者・文人の一族として名声を得るようになった[1]。 『古周易』 『大事記』 『春秋左氏伝説』 『東莱左氏博議』 『少儀外伝』 『歴代制度詳説』 『呂氏家塾読詩記』 『書説』

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リスク (ボードゲーム) – Wikipedia

リスク(Risk)とは、戦略ボードゲームである。パーカー・ブラザーズによって発売された(現在はハズブロの傘下にある)。フランスの映画監督、アルベール・ラモリス(Albert Lamorisse)が考案したもので、最初の版は1957年に、「世界征服」(La Conquête du Monde)という名前で、フランスで発売された。 リスクは、2人から6人のプレイヤーで遊ぶターン制のゲームで、ナポレオン時代の政治区分を模して表現された世界地図上でプレイする。この地図は42の領土に分かれており、それぞれは6つの大陸に所属している。プレイヤーは軍隊を指揮し、他のプレイヤーから領地を奪うようにする。目的は全ての領土を奪い取る、つまり”世界征服”であり、他のプレイヤーのコマを盤上からなくすことである。リスクでは軍隊の移動の際、現実にありそうな制限、例えば世界の大きさや、戦役に伴う補給の必要性などは無視する。 内容品とそのデザインの変遷[編集] このゲームには6セットの軍隊が入っており、それぞれ別の色となっている。それぞれの軍隊は3種類のコマで構成される。歩兵コマは軍隊1単位を意味し、騎兵コマは5単位を意味し、砲兵コマは10単位を意味する。これらのコマは、それぞれの形状に特別な意味が込められているわけではなく、単純に軍の大きさを表したものである。従って、プレイ中にあるプレイヤーのコマが不足した場合、間違えにくい範囲で他の色のコマを使ってもいいし、もしくは何か他の小物などを用いて軍隊数を示してもかまわない。コマの他に、通常のリスクには5つのサイコロが入っている。このうち2つは防御側が、残り3つは攻撃側が使うよう、それぞれ違う色で構成されている。 その他に、全部で72枚(最近の版では56枚)のリスクカードが入っている。通常のゲームに使われるのはこのうち44枚で、そのうち42枚には各領土が描かれており、それに加えて歩兵、騎兵、砲兵のシンボルが描かれている。各プレイヤーのターン終了後、もし1つでも新しく領土征服に成功したら、リスクカードを1枚手に入れる。2つ以上の領土を征服できても、もらえるカードは1枚を越えることはない。1つの同じシンボルを3枚手に入れるか、それぞれのシンボルを1枚ずつ手に入れれば、プレイヤーはそれらを自分のターンの始めに交換し、軍隊の増援を行うことができる。これらのカードはゲーム開始時にも用いられる(後述)。他にリスクカードにはワイルドカードが2枚入っており、これには歩兵、騎兵、砲兵の全てのシンボルが描かれている。これは増援の際にどのシンボルのカードとしても用いることができる。さらに28枚(最近の版では12枚)の指令カードが含まれているが、これらは”秘密指令リスク”においてのみ使われる。 最初の版では、コマは木製で、立方体が1単位の軍隊を意味し、星形に組み合わされた三角柱が10単位の軍隊を意味していたが、後の版ではコスト削減のためにこれらはプラスティック製となった。1980年代に、それらはローマ数字の1,3,5,10(Ⅰ,Ⅲ,Ⅴ,Ⅹ)の形状のコマとなった。1993年版では歩兵、騎兵、砲兵を表すコマとなったが、これはプラスティック製だった。40周年記念コレクターズ版は同様の構成だが、コマは金属製となった。加えて、盤から東アフリカと中東を結ぶ線が削除されたが、これは後に製造ミスであることがわかった。その後の版ではコマはプラスティック製に戻り、なくなった線も復活した。[1]ヨーロッパ版にはたびたび”秘密指令リスク”のためのカードが同梱されることがあったが、アメリカ版では1993年になるまで同梱されなかった。[2] ゲームの準備[編集] リスクを遊ぶ際の準備は他のゲームと比べて若干多い。各プレイヤーはまず軍隊のコマを初期展開のために用意する。コマ数はプレイヤー人数によって異なっており、2人ゲームでは40単位ずつ、3人ゲームでは35単位ずつ、4人ゲームでは30単位ずつ、5人ゲームでは25単位ずつ、6人ゲームでは20単位ずつとなる。サイコロを振って、最初にコマを置くプレイヤーを決める。次に、プレイヤーは時計回りに1単位ずつ、まだ占領されていない領土にコマを置いていき、全ての領土が誰かに占領されるまでこれを続ける。その後、残りのコマを、時計回りに各プレイヤー1つずつ、自分の領土が戦略的に強くなるよう置いていき、全てのコマが置かれるまで続ける。全てのコマが置かれたらゲーム本編の開始であり、もう一度サイコロを振って、プレイ順を決める。 もしくは、簡単にゲームを始めるために、ワイルドカードを除いたリスクカードを配って、そこに描いてある領土に各自コマを置く方法もある。この場合は、配られた各領土には各自必ず1つコマを置き、残りのコマは軍備増強として各自好きなように置く。こちらのルールは、当初リスクが発売された時に同梱されたルールでもある。 プレイヤーのターン[編集] 増援[編集] 各プレイヤーのターン始めに、プレイヤーは自分の領土の増援を行う。プレイヤーは自分の支配している領土の数に応じて、自分の支配している大陸の価値に応じて、自分が持っているリスクカードのセットの価値に応じて、援軍を受け取る。領土数に応じた分は、支配している領土数の1/3(端数切り捨て)となっているが、少なくとも3単位の軍隊は受け取れる。アジア全域を支配していれば、これに加えて7単位の軍隊をもらえる。同様に北アメリカとヨーロッパでは5単位、アフリカでは3単位、オーストラリアと南アメリカでは2単位がもらえる。 支配している領土に応じた増援の他に、プレイヤーはリスクカードのセットを用いて増援が行える。攻撃フェイズでもしプレイヤーが1つでも新たに占領を行った場合、リスクカードを1枚もらえる。このリスクカードには42の地区のうち1つと、歩兵、騎兵、砲兵のどれかの絵が描かれている。他にワイルドカードが2枚あり、歩兵、騎兵、砲兵全ての絵が描かれているが、領土の図は書かれていない。ワイルドカードは歩兵、騎兵、砲兵の好きなどれかのカードとして扱い、セットを完成することに使える。セットとは、同じ兵のカード3枚(例えば、砲兵が3枚)、もしくはそれぞれのカード1枚ずつ3枚である。リスクカードによって増援される単位は、最初の増援では4単位、次は6単位、その次は8単位、次が10単位、以降15単位、20単位、25単位と、セットをプレイするごとに増加する。さらに、カードをプレイした際にそのカードに描かれている領土を支配していた場合、2単位の増援がその領土に行われる。 攻撃[編集] 増援を配置したら、プレイヤーは領土を手に入れ、リスクカードをもらうために攻撃することができる。攻撃は隣接している領土にのみ行うことができる。攻撃の結果はダイスを振ることで行う。各ロールは個々の攻撃として扱われる。攻撃するプレイヤーは好きな領土を何度でも攻撃することができる(攻撃する領土を変えることも含む)。攻撃する側が相手の持っている最後の領土を占領した場合、それは相手プレイヤーの降伏を意味し、攻撃した側は相手の持っている全てのリスクカードを手に入れる。この際にカードが5枚以上になった場合、4枚以下になるようにその時点で増援を行う。 攻撃が成功して守備側の全ての軍隊を倒した場合、攻撃側は攻撃した領土から占領する領土へ軍隊を移動する必要がある。移動する最低の数はサイコロを振った数で、元の領土に1単位でもコマが残っていればいくつでも移動して構わない。そのため、もしある領土に3単位のコマがあった場合、ここから攻撃に出られる数は最大2となる。守備側のプレイヤーはその領土にあるコマの数の範囲で、最大2個までのサイコロを振る。そのため、1つしかコマがない領土は、それ以上コマがある領土より防御において弱いことになる。

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