ウデヘ(ロシア語: Удэгейцы 、英語: Udege)は、ツングース系民族の一つで、主にロシア国内の沿海州シホテアリン山脈周辺に居住する。かつてはTaz(ターズ)、Namunka(ナムンカ)、Kyakala(キャカラ)とも呼ばれていた。間宮林蔵が記した「キヤツカラ」という集団は、ウデヘ(キャカラ)に比定されている。 ウデヘ人はかつてシホテアリン山脈周辺に広く居住していたが、ロシア人の進出によって現在は以下の4村にかたまって居住している。一部がロシア人との混血が進んでいる。 サマルガ川沿いのアグズ村 ビキン川沿いのクラースヌイ・ヤール村 ホル川沿いのダヴァシュギ村 アニュイ川沿いのアルセーニエフ村 1989年の人口調査では約二千人がロシア国内に居住するが、その四分の一ほどのみがウデヘ語を母語とする。ウデヘ語は南部ツングース諸語に属しており、特にオロチ語との共通性が高い。 20世紀初頭に沿海州を探検したウラディミール・アルセーニエフの案内人、デルスウ・ウザーラはウデヘ人だったという説があり、現代ウデヘ人の中にもデルスウがウデヘ人だったという意識を持つ者が存在する[1]。 遼代以後、アムール川上流にはウェジ(weji)と呼ばれる集団が存在したことが記録されている。ウェジはまた「兀的改(ウディゲ)」とも呼称されており、この兀的改がウデヘの語源であると考えられている[2]。ウディゲは明朝からは「野人女直」として分類されていたが、「野人」の女真語訳/モンゴル語訳もまた、Udi-gen/Üdigänであった[3]。満州語では「野人」を「wejike」[要出典]と言い、当言語のアルチュカ方言では/udiɡə/または/udi’ə/と発音する。[4] 明朝より野人女真と呼称されていた集団は、建州女真(満洲人)より「東海三部」と呼称され、満洲王朝の清朝(ダイチン・グルン)が成立するとその支配下に入った。そのうち、康熙五十二年(1713年)に清帝国に従属したキヤカラ氏とバンジルガン氏が現代のウデヘの先祖であると考えられている[5]。兩氏族は清帝国 の辺民制度に組み込まれたが、急峻なシホテアリン山脈を越えるのが大変だったために、近隣のヘジェ(ナナイ)のようにニングダ(寧古塔)にまで貢納しに行くことはなかった。そのかわりに清帝国はウスリー川の支流の一つニマン川の河口に貢納地点を決め、二年に一度人員を派遣して二年分の貂皮を徴収する制度を定めた。 清帝国の後期には漢民族の流入が始まり、ウデヘ人もまた漢民族の影響を強く受けて多くの人が漢語を解するようになった。南部の一部の集団は完全に母語を捨てて漢民族の言語と文化を受け入れるようになったが、独自のアイデンティティを持ち続けて現代のターズとなった[6]。 1860年には北京条約によってウスリー川以東の沿海州が正式にロシア領となり、ウデヘ人はロシア帝国の支配下に入った。ロシア革命によってソ連が成立するとコルホーズへの移行が行われ、ウデヘ人は上記の四ヶ村に集中して居住するようになった。 主な生業は狩猟であり、食用としてアカシカ・ジャコウジカ・ヘラジカ・クマを、毛皮用としてクロテン・カワウソを狩猟する。ウデヘ人の猟師は主に弓・矢を用いて狩猟を行っていたが、19世紀後半からは満洲人から交易で手に入れた銃(当時は火縄銃)も用いるようになった。 クロテンなどの高価な換金商品は傷つけずに捕らえることが重要となるため、食用の狩猟とは別に独特の罠を用いた狩猟方法を残している[7]。 ドゥイ…小川に仕掛けを施した枝を渡し、そこを通ったクロテンを締め上げると同時に川に落とす罠。テンが川を渡る際に倒木などを伝い渡る習性を利用したもので、樺太アイヌなども使用している。 カファリ…村の近くで木のうろの中に餌をつけて獲物を誘い込み、餌に食いつくと仕掛けた木が獲物に落ちる罠。
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