ティレル・018 – Wikipedia

ティレル・018は、ハーベイ・ポスルスウェイトを責任者として設計されたF1マシンで、1989年シーズンから1990年シーズンにかけてティレルチームが使用した。

1988年シーズンに使用した017の後継モデルとして開発された。

018にはフロントサスペンションにモノショックが採用され、左右のフロントサスペンションで1セットのダンパーとスプリングを共有した。ダンパーとスプリングはコクピットの前方の、モノコック中央上面に沿うように配置され、ダンパーはリンクを用いて左右のプッシュロッドと接続された。モノショックのフロントサスペンションは、1990年以後、ジョーダン、レイトンハウス・マーチなど複数のチームがコピーして採用した。マクラーレンやフェラーリなどのトップチームも、左右のダンパーを接続してモノショックと同様の効果を持たせたフロントサスペンションを使用した。

018ではフロントウイングとノーズ底面が若干持ち上げられていた。翌年の019では更に大きくノーズが持ち上げられ、アンヘドラルウイングが導入された。

エンジンはコスワース・DFRを使用した。

第2戦サンマリノGPでミケーレ・アルボレート用の1台が初めて実戦投入。シェイクダウン直後であることが影響しミケーレ・アルボレートが予選落ちしたため、決勝レースでは、ジョナサン・パーマーが使用した。続くモナコGPで2台目のマシンが持ち込まれ、パーマーとアルボレートの両ドライバーが018を使用することができるようになった。同年のフランスGPからは大口スポンサーとしてキャメル(R.J.レイノルズ社)が付き、ライバル社であるマールボロの支援を受けていたアルボレートが離脱し、後釜にキャメルがスポンサーするF3000チームEJRでランキングトップとなっていた新人ジャン・アレジが起用された。アレジはフランスGPとスペインGPで4位に入賞し、イタリアGPでも5位でポイントを獲得するなどパーマーを上回る好成績を挙げた。なお、アレジがタイトルのかかっていた国際F3000参戦を優先したため欠場したベルギーGPとポルトガルGPではアレジの代役としてジョニー・ハーバートが018をドライブした[2]。018によりティレルはコンストラクターズ・ランキング5位でシーズンを終了し、チームの1980年代最高順位を記録した。

1990年シーズンは、第2戦ブラジルGPまで018が出走し、ロータスから移籍した中嶋悟とチームに残留したアレジがドライブした。第3戦サンマリノGPには後継モデルの019が3台持ち込まれたが、このレースのスタート直後に中嶋がクラッシュして019の1台が大破したため、次戦モナコGPには018がスペアカーとして持ち込まれた。

1989年シーズンはグッドイヤータイヤを使用したが、1990年シーズンは開幕直前になってピレリタイヤに変更した。

シャーシ履歴[編集]

018は5台が製造された[3]

F1における全成績[編集]

ティレル・018は1989年シーズン、メキシコGPで3位(アルボレート)を最上位に、カナダGPではパーマーがウェットレースの中ファステスト・ラップを記録[4]。1989年のコンストラクターズランキングで5位を獲得した。非ワークスエンジンを使用するチームの中では最上位だった。

1990年シーズンは、開幕戦のアメリカGPでアレジがスタート直後からトップを走り、アイルトン・セナと首位争いを繰り広げる好走を見せ、018のベストリザルトとなる2位に入賞した。このレースではもう1台の018に乗る中嶋悟も6位に入賞した。

(key) (太字はポールポジション)

* 1990年の9ポイントはティレル・019による。

  1. ^ STATS F1 – Tyrrell 018”. Statsf1.com. 2010年8月23日閲覧。
  2. ^ ハーバートの一時復帰でまる儲けのベネトン GPX 1989ベルギーGP 28頁 山海堂 1989年9月16日発行
  3. ^ 『AUTOCOURSE F1グランプリ年鑑 1989-90』アラン・ヘンリー、バベル・インターナショナル・訳、CBSソニー出版、1990年、p.44。ISBN 4-7897-0502-1。
  4. ^ Molson Grand Prix of Canada – FASTEST LAPS Formula1.com 18 Jun 1989