安河内麻吉 – Wikipedia
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安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4月15日 –
1927年(昭和2年)7月15日)は、日本の内務官僚。
安河内甚平の次男として、福岡県糟屋郡須恵村に生まれる。号は稚杉(ちさん)。1891年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1894年第五高等中学校一部法科を首席で卒業し、1897年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同月、内務省に入省し、同年12月には高等文官試験行政科に合格している。五高では小泉八雲に英語を学んでおり、卒業後も親交を続けている。
1907年8月、1912年に開催予定であった「日本大博覧会」の事務官となり、渡米するなど準備に奔走したが、この博覧会は中止となった。その後、1911年7月、官営八幡製鉄所次長、1914年4月、内務省警保局長、1915年8月、静岡県知事、1918年5月、広島県知事を経て、1919年4月18日、福岡県知事に就任する。1922年10月16日に神奈川県知事に転じる。神奈川県知事在任中には、関東大震災に遭遇しており、自身や家庭の被害には目もくれず救援活動の指揮に勤め、ほとんど寝食を忘れるような仕事ぶりであったという。
1927年4月、鈴木喜三郎内相の下、内務次官に就任するが、内務次官在職中の同年7月15日に死去。葬儀には、友人総代として同郷の金子堅太郎、團琢磨が名を連ね、金子は安河内の墓碑銘を書いている。
- 1920年(大正9年)11月1日 – 勲二等瑞宝章[1]
- 1927年(昭和2年)7月15日 – 帝都復興記念章[2]
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
公職 | ||
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先代: 川崎卓吉 |
第30代:1927年 |
次代: 杉山四五郎 |
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