Month: March 2020

男衾三郎絵詞 – Wikipedia

「男衾三郎絵詞」第2段の笠懸の場面。笠懸は本作と『伊勢新名所絵合』の異本1本にのみしか描かれず貴重である。 『男衾三郎絵詞』(おぶすまさぶろうえことば)は、鎌倉時代に描かれた絵巻物。1巻、東京国立博物館蔵、重要文化財。『男衾三郎絵巻』( – えまき)ともいう。兄・吉見二郎と弟・男衾三郎という対称的な武士の兄弟とその家族の境遇を描く継子いじめ譚である。 現存する1巻は物話の途中で終わってしまうが、本来は2巻構成で、続きの話を描いた後巻が散逸したと考えられる。ただし、物語後半に該当しうる部分は模写などを含めて全く見つかっていない。また、第6段の絵が欠落しているが、その断簡[2]や模写が同じ東京国立博物館に所蔵されている。 特に第2段には鎌倉時代の武士の様子が生き生きと描かれ、よく教科書などの図版として使われる。一方で、「馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ」、「屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしてしまえ(犬追物の的の代わりにせよ)」といった非人道的な描写があり、これに鎌倉武士の残虐性を指摘する意見もあるが、あくまでも物語上の悪役である三郎の人物描写としての脚色であり、これらは鎌倉武士一般の習慣ではない。 武蔵大介という有力武士の子に吉見二郎と男衾三郎という兄弟がいた。兄二郎は都風の優雅な生活をおくる「色好み」の男で、都から上臈を迎えて妻とし、観音菩薩に祈願して美しい姫・慈悲を授かる。慈悲の美貌は関八州で評判となり、数ある求婚者の中で上野国の大名の子息・難波の太郎が選ばれた。陰陽師に吉日を占わせると3年後の8月11日と出て、両者ともこれを承諾した(第1段)。一方、無骨一辺倒な弟三郎は、美人を妻とするのは短命だとして、坂東一の心身とも醜悪で身長が七尺もある醜女を妻とし、醜い男子3人娘2人をもうける(第2段)。たまたま兄弟が大番役で上京の途中、遠江国の高師山(現在の静岡県湖西市から愛知県豊橋市にかけての丘陵地)で山賊に襲われ、二郎は落命する(第3段)。郎党家綱はその頚と形見を吉見邸に届ける途中、休憩した駿河国清見関で観音の示現にあい(第4段)、残った母子に主人の死を知らせる(第5段)。ところが、三郎は遺言に反して兄二郎の館や所領を横領し、その妻子を下働きに酷使する。難波の太郎には、慈悲母子は悲しみのあまり死んだと偽って告げ、自分の娘を妻合わせようとするが、太郎は母子の後世を祈るため出家し旅に出る(第6段)。たまたま男衾の館を訪れた新任の国司は、端女の慈悲を見て恋い慕う。しかし、三郎夫婦は再び謀って自分の娘を出すが、国司は相手にしなかった(第7段)。 現存する話はここで終わるが、先述の通り後巻が失われたとみられる。かつて存在していた後半には、おそらく中世物語に通有の、観音菩薩の導きによって慈悲が救済される結末が描かれていたと推測される。 制作について[編集] 『男衾三郎絵詞』の画風は、永仁3年(1295年)頃に制作された『伊勢新名所絵歌合』(神宮徴古館蔵、重要文化財)と強い共通性があり、本作のほうが表現が手馴れていることから、同じ工房により少し後の時期に制作されたと推測される。吉見・男衾は実際に武蔵国にある地名で、前者は吉見氏、後者は畠山重忠一族が領していた。両者は文治元年(1187年)に伊勢国沼田御厨をめぐって争論となっており、本絵巻のモデルになっているとも考えられる。 日本軍事史学者の藤本正行は、『蒙古襲来絵詞』と『男衾三郎絵詞』の比較を行って後者の兵器描写が杜撰であることを指摘し(大鎧の部品である栴檀板と鳩尾板が左右の位置を誤って描かれる点など)、これは制作した絵師と絵巻の注文者の双方とも甲冑についての知識や考証へのこだわりを欠いていたためで、絵巻の制作地は京都や鎌倉でなく伊勢であり、注文者は同地の女性ではなかったかと、先行研究も踏まえた上で推察している。 ギャラリー[編集] 第2,3紙。吉見二郎邸の門から釣殿まで。画像では丁度切れているが、館の中では歌合が行われている。 第4,5紙。釣殿から遣水の上にかかる透渡廊を通り、寝殿・対屋まで。池には鳥が遊び、屋形船が浮かぶ。車宿廊では身分が異なる2人が囲碁をうち、周囲に観戦している者たちがいる。画面左、簾を開いて桜を見ているのが娘の慈悲。 第6,7紙。北の対の吉見夫妻の生活。6紙目は屋根の下で管弦の楽が演奏されている。7紙目は語らう吉見二郎夫妻。二郎は貴族的な優男、妻は典型的な平安美人として描かれている。傍らに琵琶や琴が立て掛けられているが、武具は障子の向こうに隔てられており、武芸から遠ざかっているのを暗示する。 第8紙の絵と詞書。 第9,10紙。第2段に移り、男衾三郎の郎党達が武芸に励む様子。 第11,12紙。右側では屋敷の門外を通る修行者を捕まえ、弓で射ろうとしている。右下のこんもりした黒髪をもった異風な修行者は、「一遍上人絵伝」や「法然上人絵伝」にも描かれている。家の中では弓を張り、手入れをするなど、武具の準備に余念がない。 第13紙。男衾三郎夫妻とその子どもたち。三郎は鏑矢を作りながら妻に語りかけ、すぐ近くに武具が置かれている。坂東一の醜女の妻は、出張った頬、金壺眼、天狗鼻、縮れ髪を持ち、これらは当時の醜い女性を表す記号的表現である。縮れ毛は左側にいる子供にも遺伝し、娘も母親譲りの天狗鼻である。 京都に向かう吉見次郎が遠江の山賊に襲われる場面において、その山賊の中に武士と同じ物具をつけ、金髪で鼻の高い異形の武者が見られるが、北方系の人物とみられている。

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宮崎滔天 – Wikipedia

宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) – 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと[1]、大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた[2]。 肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真[3]とする郷士・宮崎政賢・佐喜夫妻の末子として生まれる。兄に社会運動家の宮崎八郎、宮崎民蔵、宮崎彌蔵がいた。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。 熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学び、閉鎖まで義塾で就学した。民権家には演説が付きものだが、このころの滔天は人前で話すのが苦手だったという[4]。 明治19年(1886年)に上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入ったが、大江義塾との学風の違いからすぐに中退した。教会に通い、牧師の妻から英語を習った[4]。その後自由民権運動を識り、またキリスト教に帰依(ほどなく棄教)、その後アジア革命(アジア主義運動)に関心を深めた。明治22年(1889年)に長崎のミッションスクール「加伯里(カプリ)英和学校」在学中、スウェーデン人のイサク・アブラハムと知り合い、彼の学校を作ろうと資金援助を頼みに行った前田下学(前田案山子の長男)のところで、下学の妹・槌を知り、婚約(学校計画はイサクがアメリカに強制送還されたため頓挫)[4]。 明治24年(1891年)、初めて上海に渡航した。翌年、槌と結婚し、長男の龍介誕生。おりしも朝鮮で東学党の乱があり、日本と清国との交渉はついに切迫し た。明治28年(1895年)4月に渡米して経済学を学ぶために神奈川県で旅券を取得したが、渡米は実現しなかった。同年7月頃神戸の岩本千綱と連絡し、同年9月末広島の海外渡航株式会社の在バンコク代理人に就職してタイに渡った。明治29年(1896年)6月にはタイより最終的に帰国した[5][6]。外務省の命によって中国秘密結社の実情観察におもむき、中国革命党員との往復があった。 明治30年(1897年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蔣介石を援助した。明治31年(1898年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同31年(1898年)のフィリピン独立革命においては参画するところがあった。 哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、明治33年(1900年)に恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ[7]、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、明治35年(1902年)8月20日に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。 中国同盟会、前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天(1890年) 一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる(なお東京・浅草の日本浪曲協会大広間には孫文筆になる「桃中軒雲右衛門君へ」という額が飾られている)。しかし革命の志を捨てたわけではなく、明治38年(1905年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。 明治39年(1906年)、板垣退助の秘書である和田三郎や、平山周、萱野長知らと革命評論社を設立。明治40年(1907年)9月5日、『革命評論』を創刊(~1907年3月25日、全10号)して、孫文らの辛亥革命を支援。 明治45年(1912年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。 大正11年(1922年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51。

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アンダルシア人 – Wikipedia

アンダルシア人 総人口 約1,750万人(推計) 居住地域  スペイン: アンダルシア州: 6,832,933人 (2006)[1]カタルーニャ州: 754,174人 (2006)[2]マドリード州: 285,164人 (2006)[3]バレンシア州: 218,440人 (2006)[3]バスク自治州: 46,441人 (1991)[4]バレアレス諸島: 71,940人 (1991)[5]ムルシア州: 36,278人 (1991)[5]残りのスペイン全土:

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丹波竜の里公園 – Wikipedia

丹波竜の里公園(たんばりゅうのさとこうえん)は、兵庫県丹波市山南町上滝にある、市立の公園。篠山川沿いにあり元気村かみくげに隣接、丹波竜発見の地や 旧上久下村営上滝発電所記念館、 川代公園、川代渓谷が約500メートルと近い。 丹波竜の里公園は、丹波市の「丹波竜の里計画」に基づき、化石発掘現場周辺整備として完成している駐車場に隣接する形で、2015年(平成27年)3月29日に市立の公園として開園した。近くで発掘された丹波竜の実物大モニュメント(体長15m、体高7m)やアスレチック&スライダー などが整備されている。 「元気村かみくげ」[1]が隣接している。 地理[編集] 丹波市は、兵庫県のほぼ中央東部に位置し、田園風景が広がる多くの自然が残る地域で、2004年(平成16年)11月に6つの町が合併し誕生した。また山南地域は、丹波市の南部に位置し、南には妙見山、篠山川沿いの山間地の町で、上久下地区・久下地区・小川地区・和田地区の4つの地区で山南地域を形成している。丹波竜の里公園は上久下地区にあり、篠山川(川代渓谷)沿いで標高は、146メートルある。 丹波竜の里[編集] 2006年(平成18年)8月7日、足立洌・村上茂の両氏により篠山川沿いで草食恐竜の化石を発見。丹波竜は体長約 15 メート ルの国内最大級の植物食恐竜。山南町では恐竜化石の発見を契機に、丹波竜化石工房「ちーたんの館」や「元気村かみくげ」などの交流拠点が整備され、川代恐竜街道と名付けられた県道篠山山南線周辺では、地元住民による化石を活かした多彩なイベントが行われている。丹波竜の里は、丹波竜の里公園、広田の吊り橋、展望広場、化石産状モニュメント、遊歩道で形成されている[2]。 年表[編集] 2006年(平成18年)8月7日 – 足立洌・村上茂の両氏により篠山川沿いで草食恐竜の化石を発見[3] 2009年(平成21年)7月19日 – 「元気村かみくげ」が丹波竜の里駐車場に完成[1]

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若井友希のアニラジステーションやお! – Wikipedia

若井友希のアニラジ☆ステーションやお!(わかいゆうきのアニラジ☆ステーションやお!)は、2018年4月7日より岐阜放送ラジオ(ぎふチャン)にて放送中のラジオ番組(アニラジ)である。パーソナリティは声優アイドルグループi☆Risに所属している若井友希が担当する。 2014年7月4日から12月26日までは『ayami&友希のアニラジ☆ステーションやお!』として、アニソン歌手であるayamiと、声優でありアイドルユニットi☆Risのメンバーとして活躍する若井友希がパーソナリティ担当し、原則2人のトークで進行していた。また、2人はともに岐阜県出身である。 2015年1月2日から2018年3月31日まではパーソナリティーが若井友希と吉岡茉祐のペアに変わり、番組タイトルも『若井友希&吉岡茉祐のアニラジステーションやお!』に変更。コーナーはスキルアップチャレンジは継続し、リニューアル。 2018年4月7日からはパーソナリティが若井友希のみとなり、番組タイトルも現行に変更。 放送時間[編集] 岐阜放送(ぎふチャン)土曜 23:00 – 23:30 野球中継延長による放送時間の遅れあり 2016年3月25日までの放送は、毎週金曜 21:00 – 21:30 であった。 コーナー[編集] この節の加筆が望まれています。 レギュラーコーナー[編集] ラジドラドリーム以外のコーナーは週替わり。 ゆうきとまゆしぃの

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田邊伸明 – Wikipedia

田邊 伸明(たなべ のぶあき、1966年1月19日[1] – )は日本のサッカー選手代理人である。株式会社ジェブエンターテイメント代表取締役。 東京都世田谷区出身[1]。中学、高校時代はサッカー部に所属[2]。和光大学時代、ヨーロッパなどを放浪してサッカーを観戦するバックパッカー生活を送る[1][3]。大学卒業後、レコード会社への就職が内定していたが、それを断りスポーツイベント運営会社のジェブに就職[1][4]。入社当初はゴルフ運営の業務を担当したが、その後増加するサッカー絡みの仕事に携わるようになっていく[5]。 1991年、北澤豪のマネジメント業務を始める[1][6][7]。1998年にFIFAワールドカップ・フランス大会のサッカー日本代表メンバーから北澤が落選したことや、同年末に所属クラブのヴェルディ川崎が若返りを図る中で北澤に移籍話が持ち上がった経験を通して、より近い立場で選手をサポートできる代理人の資格を取ることを決断する[8]。1999年、第2回目のFIFA公認代理人試験を通過し、2000年にJFAより選手代理人ライセンスを受ける[1][9]。 代理人として稲本潤一のアーセナル移籍[10]、中田浩二のオリンピック・マルセイユ、バーゼル移籍[10]、中澤佑二と山瀬功治の横浜F・マリノス移籍などを担当[11]。また無名だった大学時代の鄭大世を発掘し、Jリーグ各クラブに売り込んだ[12]。 主なクライアント[編集] 選手[編集] 指導者[編集] ^ a b c d e f 増島 2008,

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