Month: March 2020

北海道・本州間連系設備 – Wikipedia

北海道・本州間連系設備(ほっかいどう・ほんしゅうかんれんけいせつび)は、北海道と本州の間を結ぶ一連の直流電力供給設備で、電源開発送変電ネットワークが運用している。北本連系(きたほんれんけい)と略されており、こちらのほうが一般的な名称となっている。北海道・本州間電力連系設備とも呼ばれる[1]。帰路電流は大地を流さない帰路常時導体方式が採用されている[1]。併せて北海道電力ネットワークが運用する青函トンネルを利用した新北本連系設備(北斗今別直流幹線)についても記述する。 日本全国には、連系線という電力会社相互の高電圧の送電線網が通じており、気温変動や予期せぬ発電所の停止などによる電力事情の逼迫を、電力の融通によって補う仕組み(会社間連系)ができ上がっている。 会社間連系は、発電所の建設が抑えられてコスト削減になる。特に北海道は冬に電力消費が多くなる傾向があるのに対し本州は夏に電力消費が多くなる傾向があり電力消費のピークとなる季節が一致しないため、この設備を利用する意味が生じる。一方、送電距離が長くなることや、交流と直流を変換(後述)するサイリスタによる電力ロスが発生するが交流送電よりも効率の良い直流送電が採用されている[2]。 北海道・本州間の連系設備の構想は、戦後、北海道産石炭の有効活用を図るため、北海道の火力発電所で発電させた電力を本州へ送電する目的で構想が生まれたが、当時は交直変換技術が未熟であった上、石炭を本州へ運んで発電した方が安上がりとなる試算が出て立ち消えとなった。1960年代後半になると交直変換技術の目途が立ち、現代の目的に沿った本州と北海道間の連系構想が1971年に具体化[3]。設備は、1972年に建設が開始され、1979年12月に運用が開始された。 ケーブルを敷設することとなった北海道側海域は、コンブやホッケの好漁場であり、漁具により破損しないよう海岸から水深50mの間は、ケーブルを海底下1.5mに埋設する必要が生じたこと。また、函館交直変換所の敷地において縄文時代晩期の遺跡が発掘されたことにより、工事完成には時間を要した[4]。 2019年3月 (2019-03)には、北海道電力初となる直流連系設備により新たな経路で建設した北本連系設備が運転を開始し、送電能力が60万キロワットから90万キロワットに増加した[5][6]。 交直変換所   250kV直流   北海道電力ネットワークの供給区域   東北電力ネットワークの供給区域   500kV交流   275-187kV交流 北海道電力ネットワークでは、一次変電所である西当別変電所を起点に、西野変電所・西双葉開閉所を経由し大野変電所へと至る「道央北幹線・道央西幹線・道南幹線」を連系線としており、主に泊発電所(原子力発電所)や知内発電所(火力発電所)で発電された余剰電力を東北電力ネットワークに供給できる態勢がとられている。なお、北海道電力ネットワークから供給された電力を東北電力ネットワークの送電網を通じて東京電力パワーグリッドなど他社へ供給する場合もあり、これを「振替供給」という[7]。 津軽海峡をまたぐ区間については、条件が厳しい海底への敷設ということや、効率良く送電することが求められることから、直流送電を行っている。この直流送電を行うための一連の施設群が「北海道・本州間連系設備」であり、1979年(昭和54年)から運用が始まった。これにより、北海道のみ連系線から取り残されていたことによる電力供給の不安[注 1]が緩和されたほか、北海道の余剰電力を道外に供給できるようになったことで、本州側から見た場合は連系線の強化につながることになった。 第1期連係 150MW , 125kV ,

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スペードの女王 (プロコフィエフ) – Wikipedia

『スペードの女王』(ロシア語: Пиковая Дама) 作品70 は、セルゲイ・プロコフィエフが1936年に作曲した映画音楽。映画はミハイル・ロンムによる構想であったが実現しなかった。映画はアレクサンドル・プーシキンの1834年の短編小説『スペードの女王』に基づいており、プーシキンの没後100年にあたる1937年の公開を目指していた[1]。本作はプロコフィエフの作品中でもとりわけ知られることのない楽曲である[2]。 本作は元々プーシキンの死後100年での公開を目標にしていた。しかし、ソ連当局による検閲の強化によりついに映画が完成することはなかった[3][4]。1936年5月29日に契約へ署名していたプロコフィエフは7月12日にピアノ譜を完成させ、助手のパーヴェル・ラム(ロシア語版)に送付している。プロコフィエフがラムにピアノ編曲版を弾いて聴かせた際、ラムはこの作品が抒情的でも劇的でもないが、「絶え間なく繰り返される3度、続く7度音程」が映画に「味気無さ」を与えると同時に強迫観念的、統合失調症的な感覚をもたらしていると言及している[5]。 14ページからなるピアノ編曲版の草稿はモスクワにあるロシア国立文学芸術アーカイヴ(英語版)に保管されて いる[6]。 プロコフィエフは本作の音楽を交響曲第5番の第3楽章[7]、及びピアノソナタ第8番に用いている[8]。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーやマイケル・バークリーは曲にさらに更なる改訂を加えた版を制作している[1]。 楽器編成[編集] フルート2、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、スネアドラム、シンバル、ピアノ、弦五部。 楽曲構成[編集] 演奏時間は約43分。 序曲 彷徨い 伯爵の邸宅前のゲルマン リーザ 自宅に居るゲルマン リーザを見出すゲルマン ゲルマンがリーザに手紙を届ける

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オン・ジ・エアー – Wikipedia

『オン・ジ・エアー』(On the Air)は、マーク・フロストとデヴィッド・リンチによって企画されABCで放送されたアメリカ合衆国のシットコム。7エピソード撮影されたが、アメリカでは3エピソードのみ放送された[1]。生放送バラエティ番組『レスター・ガイ・ショー』を放送しようとする1950年代の架空のテレビネットワークZBC(Zoblotnick Broadcasting Company)の製作スタッフの滑稽さとその惨憺たる結果を描く。 イアン・ブキャナン、マーラ・ルビネフ、ナンシー・ファーガソン、ミゲル・フェラー、ゲイリー・グロスマン(英語版)、メル・ジョンソン・Jr(英語版)出演。デヴィッド・リンチ、レスリー・リンカ・グラッター、ジャック・フィスク、ジョナサン・サンガー(英語版)、ベティ・トーマスが監督を務めた。 キャスト[編集] レスター・ガイ 演 – イアン・ブキャナン、日本語吹替 – 江原正士 第二次世界大戦の間アメリカに留まっていた落ち目の映画スターだったが、ハリウッドの当時の看板スターたちが戦争に行ったため売り込まれた。そのときに出演したB級ミュージカル映画『ピカデリー・サーカス』は自信作で、自らの代表作だと言っている。『レスター・ガイ・ショー』の主演俳優。売れない時代にオレンジジュースの缶にウォッカを入れてすすっているところをZBCネットワークの社長バディ・バドウォーラーが見つけ、表舞台にカムバックするチャンスとして今回のテレビショーの話を持かけられた。『レスター・ガイ・ショー』の主役だが、レスター・ガイがエンターテイナーになりきるよりも自身の人気ばかりに気を取られていたため、助演女優のベティ・ハドソンの方が視聴者の人気を得ることになる。エピソード第6回目でレスターは『ベティ・ハドソン・ショーwithレスター・ガイ』というロゴのスケッチを発見し打ちのめされる。 ベティ・ハドソン 演 – マーラ・ルビネフ、日本語吹替 – 伊藤美紀

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ビバリー・クリアリー – Wikipedia

ビバリー・クリアリー(Beverly Cleary、1916年4月12日 – 2021年3月25日)は、アメリカ合衆国の児童文学作家、小説家。 オレゴン州出身。カリフォルニア州とワシントン州にある大学で学ぶ。児童文学作家としてデビューする以前は司書として働いていた。著作は30作を超え、主に子供向けの作品である。作品中には、ヘンリーとそのペットの犬・リブシー、ヘンリーの友人のベアトリスとその妹のラモーナ及びそのペットのネズミ・ラルフといった有名なキャラクターが登場する。1984年に著作『ヘンショーさんへの手紙、原題:Dear Mr. Henshaw』でニューベリー賞を受賞した。 なお、名前の表記は「ヘンリーくんシリーズ」では「ベバリイ・クリアリー」、その他では「ベバリー・クリアリー」や「B・クリアリー」など様々であるが、本項では「Beverly」の最も一般的な表記「ビバリー」で統一している。 幼少期[編集] 1916年4月12日に、オレゴン州ヤムヒル郡マクミンビルに生まれた。旧姓アトリー・ブン。5歳の頃、家族はオレゴン州ポートランドに移り住み、そこで小学校から高校までを過ごす。クリアリーはいわゆる「スロー・ラーナー」(学習発達の遅れた子供)であった。必修である読書への不満や1年生の時の担任に対する不信がその理由の一つである。3年生になって初めて読書に楽しみを見い出した。そのときに読んでいた作品はルーシー・フィッチ・パーキンスの『ほら穴のふたごの冒険、原題:The Dutch Twins』である。その後、自分が望む本を見つけることは滅多になかったものの、ビバリーは図書館に通い詰めになる。―まさに彼女らしい子供時代と言えよう。 作家として[編集] 19歳(1934年)のとき、チャフィー大学に通うためにカリフォルニア州オンタリオに移り住み、大学で準学士号(A.A.)を取得する。同時期にオンタリオ市立図書館で臨時図書館員として働く。1938年にカリフォルニア大学バークレー校で国文学(英文学)学士号を取得した後、シアトルにあるワシントン大学で図書館学を学び、1939年には司書の資格を得る。 正規職員の司書として最初に勤めたのはワシントン州ヤキマの図書館であり、そこで多くの子供たちに出会う。そこで出会った子供たちは、ビバリー自身が幼少期に探し求めていたような本を、同じように求めていた。それに応えるように、1950年にビバリーは処女作である『がんばれヘンリーくん』(原題:Henry Huggins)を出版する。1955年には、クインビー姉妹を初めて物語の中心に据えた小説『ビーザスといたずらラモーナ』(原題:Beezus and Ramona)を出版する。なお、ビーザス(ベアトリス)とラモーナは『ヘンリーくんシリーズ』に脇役としてしばしば登場し、シリーズ後半になると主人公はラモーナに移行した[1]。 プライベート[編集] 1940年、クラレンス・T・クリアリーと結婚する。その後一家はカリフォルニア州オークランドに移り住む。1955年、マリアンヌ・エリザベスとマルコム・ジェームスの双子の親となる。夫のクラレンスは2004年に亡くなり、その後はカリフォルニア州カーメルに居住していた。2021年3月25日、同地の高齢者養護施設にて死去した。104歳と驚異的な長寿であった[2]。

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ブルームバーグ ビジネスウィーク – Wikipedia

『ブルームバーグ・ビジネスウィーク』(Bloomberg Businessweek、旧称 ビジネスウィーク (BusinessWeek))は、アメリカ合衆国で発行されている週刊の経済雑誌である[2]。1929年9月にニューヨークで創刊され[3]、2009年よりニューヨークを拠点とするブルームバーグ社により発行されている[4]。 ビジネスを中心に政治、経済、金融、テクノロジー、ライフスタイルなど幅広い分野を扱う。 世界の企業のブランド価値をランキングするトップブランド・ベスト100(英語名The 100 Top Brands)を毎年発表し海外では非常に有名である。他にも、世界の革新的な企業をランキングするビジネスウィーク・革新的な企業ランキングを発表している。ビジネススクールのランキング付けなどでも有名であり、特にMBA (経営管理学修士) プログラムのランキングは企業、学生の間で重要視されている。 日経ビジネスの海外情勢を取り上げるコーナー「世界鳥瞰」では同誌の記事が定期的に掲載される。 ライバル誌は『フォーチュン』、『フォーブス』等である。 創刊から最盛期まで[編集] 『ビジネスウィーク』は、ウォール街大暴落の数週間前の1929年9月にニューヨークで創刊された[5]。この雑誌には、その当時の経済界で何が起こっていたかについての情報や意見が掲載されていた。初期の雑誌のコーナーには、マーケティング、労働、財務、経営、ワシントン・アウトルックなどがあり、経済界に直接影響を与える政治問題を取り上げた最初の出版物の一つとなった[6]。 元々『ビジネスウィーク』は経営者を対象として発行されていたが、1970年代に戦略を転換し、経済界以外の消費者も対象とするようになった[3]。1975年の時点で、この雑誌はアメリカの他のどの雑誌よりも年間の広告ページ数が多かった[7]。『ビジネスウィーク』は、1988年に全米のビジネススクールのMBAプログラムの年間ランキングの発表を開始した[8]。 スティーブン・B・シェパード(英語版)は1984年から2005年まで編集主管(editor-in-chief)を務め、ニューヨーク市立大学クレイグ・ニューマーク・ジャーナリズム大学院(英語版)の創設時の学長に選ばれた。シェパードの下で、『ビジネスウィーク』の読者数は1980年代後半には600万人を超えるまでに成長した[9]。シェパードの後を継いだのは、『ウォール・ストリート・ジャーナル』元編集長のスティーブン・J・アドラー(英語版)である[10]。2006年、『ビジネスウィーク』はMBAプログラムのランキングに加えて、学部のビジネスプログラムの年間ランキングの発表を開始した[11]。 不況とブルームバーグ社による買収[編集] 『ビジネスウィーク』は2000年代後半の不況下で発行部数が減少し、2009年に入ると広告収入が3分の1に減少し、発行部数は93.6万部にまで減少した。2009年7月には、マグロウヒル社が『ビジネスウィーク』誌の売却を検討し、そのためにエバーコア・パートナーズ(英語版)社と契約したと報じられた[12]。同誌は負債を抱えていることから、同誌を黒字化するために損失を被ることを厭わない投資家に対し名目上1ドルで売却することが提案されていた[13]。 2009年後半、ブルームバーグ社が同誌を買収し、『ブルームバーグ・ビジネスウィーク』(Bloomberg

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五島市立奥浦小学校 – Wikipedia

五島市立奥浦小学校(ごとうしりつ おくうらしょうがっこう)は、長崎県五島市奥浦町にある公立小学校。 歴史 1874年(明治7年)創立の「奥浦尋常小学校」と1880年(明治13年)創立の「平蔵尋常小学校」が1910年(明治43年)に統合され「前田尋常小学校」となった。数回の改称を経て2004年(平成16年)に現校名となった。2014年(平成26年)に創立140周年(統合104周年)を迎えた。 校章 左右の稲穂の根元をリボンで結んだ絵を背景にして、中央に校名の「奥」の文字を置いている。 校歌 1956年(昭和31年)に制定。作詞は中島英治、作曲は松尾政彦による。歌詞は3番まであり、1番に校名の「奥浦」が登場する。 校区 住所表記で五島市の後に「平蔵町、奥浦町、戸岐町」が続く地区。中学校区は五島市立奥浦中学校[1]。 前史(奥浦小学校) 1874年(明治7年)10月 – 「第五大学区 第五中学区 奥浦小学校」が開校。 1880年(明治13年)7月 – 教育令の施行により、「公立中等奥浦小学校」に改称。 1886年(明治19年)9月

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ビッグ・タイム – Wikipedia

ビッグ・タイム(Big Time)は、トム・ウェイツが1988年に発表したライブ・アルバム。 『フランクス・ワイルド・イヤーズ』(1987年)に伴うアメリカ・ツアーとヨーロッパ・ツアーからのライブ音源を収録。同名のドキュメンタリー映画も公開された。 収録曲のうち、「フォーリン・ダウン」のみロサンゼルスでスタジオ・レコーディングされた新曲で、リトル・フィートのメンバーが参加している。ツアー中の1987年、トムが1970年代に暮らしていたモーテル「トロピカーナ」が取り壊されたため、惜別の意味で本作に収録された[3]。「ストレンジ・ウェザー」は、マリアンヌ・フェイスフルのアルバム『ストレンジ・ウェザー』(1987年)のために書き下ろした楽曲のセルフカヴァーで、トムのスタジオ・アルバムには未収録だった。 特記なき楽曲はトム・ウェイツ作。 シックスティーン・シェルズ – “16 Shells from a 30.06” – 4:17 レッド・シューズ – “Red Shoes” – 4:20

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マリーナの夏 – Wikipedia

表 話 編 歴 オリコン週間シングルチャート第1位(1987年4月20日付) 1月 12日(合算週: 2週分) ホワイトラビットからのメッセージ(渡辺満里奈) 19日 楽園のDoor(南野陽子) 26日 TOO ADULT(渡辺美奈代) 2月 2日 NO MORE 恋愛ごっこ(おニャン子クラブ) 9日

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笠䅣稲荷神社 – Wikipedia

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