Month: March 2020

ジャクソン・ハグナル・フォウマン – Wikipedia

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はハグナル、第二姓(父方の姓)はフォウマンです。 ジャクソン・フォウマン 名前 本名 ジャクソン・ハグナル・フォウマン ラテン文字 Jakson Ragnar Follmann 基本情報 国籍 ブラジル 生年月日 (1992-03-14) 1992年3月14日(30歳) 出身地 リオグランデ・ド・スル州アレクリム 身長 186cm 体重

Continue reading

ゴー☆ジャス – Wikipedia

ゴー☆ジャス(ゴージャス、1978年11月10日[3] – )は、日本のピン芸人。ネットタレント。福島県いわき市出身[4]。サンミュージックプロダクション所属。身長165cm(靴を含めた場合175cm)。かつてはデンナーシステムズに所属していた[5]。 経歴等[編集] 元教師で校長も経験している厳格な両親のもとに生を受ける[4]。福島県立磐城高等学校出身で理系クラスに在籍[6]。吹奏楽部にてトロンボーンを担当、2年時には全国大会に出場、3年時は副部長を任せられる[7]。ただ、本人は吹奏楽部での活動は快く思っていなかったといい、卒業時には辛い思い出を捨てるように自分の楽器に唾を多量に付着させ学校へ寄付してしまっている[7]。進学校に通っていたが大学に進学せず、代々木アニメーション学院声優タレントコースへ入学、卒業[8][9]。いきなり東京に行くことに怖気づいたため、埼玉県の大宮校に通っていた[10]。 その後は俳優として上京し、その際に所属していた事務所の社長がお笑い好きだったために開催された、事務所内でのお笑いライブに出場して優勝。「劇団で誰がとったか判らない笑いよりも、ピンでやって、良いのも悪いのも自分だし、滑ったら自分が悪い。それが気持ちよかった。性癖になった。」という想いからお笑い芸人としてやっていくことを決めた[4]。ただ、親が元教師であったため、がっかりされることを嫌い、お笑い芸人でやっていくことを話さずに活動[4]。活動開始から9年後、爆笑レッドカーペットのコーナーにて親へお笑い芸人をやっていることを報告することとなった[4]。 サマーソニック2006、2007エアギター選手権出場。 都内を中心にお笑いライブを主に活動を続け、2007年からは本格的にキー局のバラエティ番組へも出演。 2010年6月、地球の歩き方大使に就任し、7月にはダイヤモンド社より自身初の著書「ゴー☆ジャスの地球の学び方」を発売することが、公式に発表された[3]。 2010年10月、テレビ愛知で初の冠レギュラー番組、ゴー☆ジャスdeナイトの放送が開始される[11]。 2011年3月いっぱいでデンナーシステムズを退社、同年4月にサンミュージックプロダクションへ移籍[12]。 2012年11月10日、自身の誕生日に一般人女性と結婚[13][14]。 AppBankの動画出演などゲーム関連の仕事も多く、2014年にはYouTubeにてゲーム実況動画を専門としたチャンネル「ゴー☆ジャス動画」を開設した。またガンダムブレイカーモバイルというアプリゲームでなおすけ(高見奈央)と対決するときは負ける事が多く、そのたび拗ねたりごねたり脱糞したりと大騒ぎしたりする大人げない一面がある[15]。 キャラクター設定等[編集] 『ゴー☆ジャス』という名前はロックバンドTHE YELLOW MONKEYの『ゴージャス』という楽曲が由来である[16][17][18]。『ゴージャス』のままではネット検索に引っ掛からないため『☆』を入れている[16]。 キャッチコピーは「泣く子も黙る宇宙海賊」。髑髏のマークが入った黒い帽子と、左目に黒い星型のメイクを施し、白塗りをした顔が特徴。キャラクターの設定として、正式名は「キャプテン・ヘヴィー・ゴー☆ジャス」、出身は「アンドロメダ3丁目」であるという。また、ゴー☆ジャスは7人居るということになっていて、キャプテン・ヘヴィー・ゴー☆ジャスはその中の1人であるという。 ゴー☆ジャスとしての活動とは別に、ロイヤル☆セレブリティというフリーのコンビとしての活動も行っていた。ここでは青い髪が特徴の独梨子(ドリス)として、ゴスロリピン芸人紅梨子(クリス)と共にゴスロリ風の衣装で出演している。また、エアギターのパフォーマンスを行う事でも知られ、SUMMER SONIC2006および2007のエアギター選手権へ出場したり、エアギタージャパン2006の日本決勝大会では第10位を記録している。

Continue reading

李恒 (元) – Wikipedia

李恒(り こう、1236年 – 1285年)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。西夏国の王族の末裔で、崖山の戦いを始めとする南宋との戦いで活躍したことで知られる。 李恒の先祖は西夏国の王族であり、李恒の曾祖父が西夏国の神宗李遵頊であった。チンギス・カンが西夏国に侵攻した際、李遵頊の子である廃太子李徳任は兀剌海城の守将として抗戦し、遂にモンゴル軍に屈することなく討ち死にした。李徳任の子の李惟忠はこの時僅か7歳で、モンゴル軍に捕らえられてチンギス・カンの弟のジョチ・カサルに献上された。ジョチ・カサルは李惟忠をむしろ側近とすべく養育し、これ以後李惟忠の家系は代々カサル家(カサル・ウルス)に仕えるようになる。ジョチ・カサルが亡くなり息子のイェスンゲが跡を継ぐと、オゴデイの金朝遠征に加わリ山東地方の淄萊(後の般陽路)を投下領として与えられた。イェスンゲは李惟忠を投下領のダルガチに任じ、以後李惟忠の一族は般陽路を根拠地とするようになった[1][2]。 李惟忠の子の李恒は幼い頃から聡明で、カサル家の王妃自らが我が子のように育てたという。1262年(中統3年)には早くも尚書省のジャルグチに住じられたが、兄にその地位を譲ったという。李璮が反乱を起こした時には父とともに真っ先にクビライに報告を行い、怒った李璮によって獄中に繋がれることになった。李璮の反乱が鎮圧されると李恒も釈放され、その功績を嘉したクビライによって淄萊路アウルク総管に任じられた[3]。李璮の乱後、李璮の率いていた軍団の多くは李恒が接収し、李恒の指揮下で南宋への侵攻に役立てられることになった[4]。 1270年(至元7年)に入ると宣武将軍・益都淄萊新軍万戸に任じられて襄陽の包囲戦に加わった。モンゴル軍はそれまでの失敗を教訓に持久戦で襄陽を攻略する方針を取っており、李恒は城の西側に敵軍の救援を阻むための防塁を築いた。また、南宋の水軍が漢水を渡って襄陽を救援しようとした際には伏兵を設けてこれを撃退したため、水陸両面において襄陽城は外部との連絡を絶たれることになった。1273年(至元10年)に入ると遂に本格的な襄陽城の攻防が始まり、李恒は精鋭を率いて漢水を渡り、まず樊城を攻略した。樊城の陥落によって士気を失った襄陽もほどなく陥落し、クビライは李恒の功績をたたえて明威将軍に任じた。1274年(至元11年)にはバヤンを総司令とする南宋への全面侵攻が始まり、李恒もこれに従軍して東進した。陽羅保では南宋の将軍夏貴の子の夏松が率いる南宋軍がモンゴル軍を迎え撃ち、李恒がこれと戦った。李恒は戦いの最中に流れ矢を額に受けるという重傷を負い、バヤンから退却を勧められるも戦いを続け、遂に南宋軍を打ち破ることに成功した[5]。 1275年(至元12年)には南宋の将軍高世傑らがモンゴル軍が占領した漢州・沔州を狙い、これを撃退するため李恒が鄂州に派遣された。この時、現地の豪民に率いられた盗賊の招撫も行い、数十万人を投降させている。続いて江陵・常徳などの地を守り、今度は湖南地方の平定に従事するようになった。湖南への進出はモンゴル軍伝統の左翼・右翼・中軍の3軍編成で行われ、李恒は「左副都元帥」としてソルドゥタイとともに江西に進出することになった。江西方面では南宋の将文天祥が頑強に抵抗を続けており、李恒と文天祥は現在の江西と福建の境界線あたりで一進一退の攻防を繰り広げた。ある時、文天祥の先祖代々は吉州にあるので、兵を派遣してこれを暴くと脅せば投降するだろうと進言する者がいたが、李恒は「どうして人の墓を暴くのに理があろうか」と一蹴したという逸話が残されている[6]。李恒は贛州を包囲する文天祥を精鋭を率いて撃破し、20万あまりの兵隊を出す大勝利を挙げた。敗走して福建方面に逃れる文天祥に対し、諸将はこれを追撃することを主張したが、李恒はこのまま追撃しても文天祥は今度は海沿いに広東まで逃れるであろうことを指摘し、先に広東方面を抑えて逃げ道を絶つ方策をとった。李恒の策によって逃げ道を失った文天祥ら南宋残党は崖山に逃れたが、李恒と張弘範らの攻撃によって遂に壊滅した(崖山の戦い)[7]。 1280年(至元17年)には中書左丞となったが、2年後の1282年(至元19年)には軍職を退くことを請い、長男を後継者として万人隊長の地位を継承させた。ただし、これ以後も完全に引退したわけではなく、占城(チャンパ王国)出兵の際には命を受けて補給を担当した。さらにその後、李恒は鎮南王トガンを総司令とする交趾(陳朝)遠征に従軍するよう命じられ、遠征先で李恒は王宮を占領し交趾の世子を捕虜とする功績を挙げた。ところが交趾の酷暑によってモンゴル軍に疫病が広がり、交趾の反撃を受けたモンゴル軍は遂に敗走してしまった。その道中、李恒は膝に毒矢を受けてしまい、兵卒に運ばれて思明州まで逃れることはできたものの、その地で50歳にして亡くなった[8]。 ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「李恒、字徳卿、其先姓於弥氏、唐末賜姓李、世為西夏国主。太祖経略河西、有守兀剌海城者、夏主之子也、城陥不屈而死。子惟忠、方七歳、求従父死、主将異之、執以献宗王合撒児、王留養之。及嗣王移相哥立、惟忠従経略中原、有功。淄川王分地、以惟忠為達魯花赤、佩金符」 ^ 杉山2004,217頁 ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「惟忠生恒、恒生有異質、王妃撫之猶己子。中統三年、命恒為尚書断事官、恒以譲其兄。李璮反漣海、恒従其父棄家入告変、璮怒、繋恒闔門獄中。璮誅、得出。世祖嘉其功、授淄萊路奥魯総管、佩金符、並償其所失家資」 ^ 杉山2004,218頁 ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「至元七年、改宣武将軍・益都淄萊新軍万戸、従伐宋。襄陽守将呂文煥時出拒敵、殿帥范文虎復援之。恒率本軍築堡万山扼城西、絶其陸路。文煥等又以漁舟渡漢水窺伺軍形、恒設伏敗之、水路亦絶、遂進攻樊城。十年春、恒以精兵渡漢、自南面先登、樊城破、襄陽亦降。捷聞、帝賜以宝刀、遷明威将軍、佩金虎符。十一年、丞相伯顔大会師襄陽、進至郢州。宋以舟師截漢水、伯顔由唐港入漢、捨郢而進攻沙洋・新城、留恒為後拒、敗其追兵。至陽羅堡、宋制置夏貴遣其子松来逆戦、恒先陥陣、額中流矢、伯顔止之、恒戦益力、卒射松殺之。諸軍渡江、恒与宋兵戦、自寅至申、夏貴敗走、鄂州・漢陽倶下。以功遷宣威将軍、賜白金五百両。遂従伯顔東下」 ^

Continue reading

菅野正美 – Wikipedia

菅野 正美(かんの まさみ、1955年 – )は、日本の合唱指揮者である。福島県須賀川市出身。 声楽を高橋啓三、中村卓郎、栗本正に、ピアノを高橋美沙子、細野其子に、指揮法を小塚類、田中信昭に師事。1979年に国立音楽大学音楽学部教育音楽科Ⅰ類卒業後、福島県の音楽科教諭として教壇に立つ。 1987年4月、福島県立安積女子高等学校(現・福島県立安積黎明高等学校)に赴任。同校女声合唱団を指揮し、全日本合唱コンクール全国大会において1998年までの12年間、連続して金賞を受賞、さらに1987年を除く11度で高等学校部門の最高賞たる文部大臣奨励賞を合わせて受賞、1995年には全部門を通しての最高賞であるコンクール大賞をも受賞。NHK全国学校音楽コンクール全国大会においても12年間のうち7回で金賞を受賞。 1999年4月、福島県立福島女子高等学校(現・福島県立橘高等学校)へと異動、2008年4月、福島県立郡山高等学校へと異動。両校においても全日本、NHKの両コンクールで全国大会に導く。2015年のNHK全国学校音楽コンクールでは郡山高が金賞を受賞し、菅野にとって安積女子高以来の全国の頂点に立った。 現在、全日本合唱連盟副理事長、福島県合唱連盟理事長。2008年から開催されている声楽アンサンブルコンテスト全国大会ではその立ち上げから関わり、実行委員長を務める。 作曲家鈴木輝昭との親交が深く、演奏会、コンクールでは鈴木作品を頻繁に取り上げる。 安積女子高では、前任の指揮者渡部康夫が三善晃作品を多く演奏していたことから、菅野も当初は三善作品を取り上げていた。1994年2月、福島県声楽アンサンブルコンテストの審査員として福島県に来た鈴木と菅野が初めて会い、その場で鈴木は当時未出版だった「森へ」の楽譜を菅野に手渡す[1]。この年「森へ」を全日本合唱コンクールで演奏し、金賞・文部大臣奨励賞を受賞。翌1995年も鈴木の「絵師よ」を演奏し金賞・文部大臣奨励賞・コンクール大賞を受賞。この出会いが安積女子高のレパートリーを変える契機となった(それまでの安積女子高は三善の「狐のうた」「のら犬ドジ」などに象徴される、子どもの声のために作られた作品が多かった)。自信を深めた菅野は、1996年、「高校生世代の声や感性が最大限に活かされる作品の制作を」との願いを込めて[2]鈴木にコンクール自由曲を委嘱。以後、菅野は現在に至るまで勤務校のコンクール出場に際して鈴木に自由曲を委嘱するスタイルを続けている。鈴木が安積女子高のために書き下ろした曲集は「女に」第1集、第2集としてまとめられた。 菅野のこの選曲の変更以来、合唱界での鈴木の知名度が飛躍的に上昇していて、菅野が鈴木に委嘱した数々の作品は、翌年以後多くの合唱団に演奏されている。このことから、菅野は合唱界における鈴木ブームの仕掛人と目されている。 エピソード[編集] 安積女子高に赴任した際、渡部は「絶対にこの人(菅野)でなくてはいけないと思いまして、校長先生にお頼みしました」「私と同じことをしないでほしい。自由にやってください」と語ったとされる[3]。しかし当初菅野が渡部と同じ三善作品を取り上げたことについては「かれ(菅野)はやさしいものですから、来たばかりの年は三年生に押し切られたんですよ(笑)」と語っている[4]。のちに菅野が鈴木作品に変更したことについて、合唱指揮者の栗山文昭は、「多分この指揮者(菅野)は、探してらしたと思うんです―作品を。なにか流れている共通点のあるもの、百八十度転換するのではなくて―そういうものを求めていらして、それが鈴木作品だったのではなかろうかと思います」と評している[5]。 全日本合唱コンクールにおいて安積女子高・安積黎明高は渡部・菅野を含む四代の指揮者にわたり、1980年~2014年まで35回連続で全国大会金賞を受賞、コンクール界不朽の大記録となった。2015年は全国大会で銅賞に終わり連続金賞は止まったが、この年金賞を受賞した高校の一つが、菅野の指揮する郡山高であった。 NHK全国学校音楽コンクールにおいて安積女子高・安積黎明高は菅野と後任の星英一の二代の指揮者にわたり、1995年~2002年まで8回連続で全国大会金賞を受賞、同コンクールにおける最大連覇数を誇っている。2003年は東北大会止まりに終わり連覇は途絶えたが、この年東北大会で安積黎明高を退けて全国大会に進んだのが菅野の指揮する橘高であった。 全日本合唱コンクールでは、1997年より高等学校部門においてシード制を廃止したため、それまでシードで全国大会に出場していた安積女子高も、激戦とされる[6]東北大会を勝ち抜かなければならなくなった。この制度変更に対して菅野は、安積女子高の生徒の過半は好意的に受け止めているとしたうえで、「東北支部として(中略)全国大会出場枠を2団体分失った」「ほぼ横一列に並ぶ次点に泣いた数団体のみごとな演奏を、ぜひ全国に皆様にもお聴きいただきたい」「支部大会で名演をしながらも次点に泣いたあの子たちの涙を思う時、胸をしめつけられる思いがする」としてシード制廃止を批判している[7]。いっぽうNHK全国学校音楽コンクールではこの動きを受けてか、2000年からシード枠制を開始している。 ディスコグラフィー[編集] 鈴木輝昭作品集「女声合唱の響演」PLATZ 参考文献[編集]

Continue reading

ジュリアン・ブライアン – Wikipedia

1917年、フランスで「救急車第464号」を執筆するブライアン Siege ジュリアン・ブライアン制作 ジュリアン・ブライアン(Julien Hequembourg Bryan、1899年5月23日 – 1974年10月20日)は、アメリカ合衆国の写真家、映画製作者、ドキュメンタリー作家。1935年から1939年までのポーランド・ソビエト連邦・ナチス・ドイツの日常を撮影したドキュメンタリー作品でよく知られる。1974年、ポーランド侵攻の真実を公表するために最後にポーランドを訪問した際に、ポーランド文化功労賞(Zasłużony dla Kultury Polskiej)を受賞している[1]。 第二次世界大戦前[編集] ブライアンはペンシルバニア州タイタスビル(英語版)に、長い伝道歴を持つ長老派教会長老の息子として生まれる[2]。 ハイスクール卒業後、17歳で第一次世界大戦に参戦中のフランス陸軍を支援するアメリカ野戦奉仕団で奉仕活動に加わり、ヴェルダンとアルゴンヌで救急車を運転した[3][4]。その体験を自身が撮影した写真を付して『救急車第464号』(Ambulance 464)に著した[5]。 1939年、ワルシャワで 映画「Siege (包囲)」を撮影中のブライアン ワルシャワ包囲を撮影したブライアンの写真の一枚 ブライアンはプリンストン大学を1921年に卒業し、聖職者に進むことを選ばなかったにもかかわらずユニオン神学校を修了した。その後、ニューヨークブルックリン区のYMCAに進んだ。

Continue reading

パーダーボルン郡 – Wikipedia

パーダーボルン郡 (ドイツ語: Kreis Paderborn) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州に属す郡であり、オストヴェストファーレン=リッペ(ドイツ語版、英語版)の南部に位置している。大学都市パーダーボルンが郡庁所在地であり、本郡の中心であるとともに、パーダーボルン郡とヘクスター郡からなるオストヴェストファーレン南部地域の上級中心都市である。 位置[編集] パーダーボルン郡はトイトブルクの森の辺縁部、エッゲ山地(ドイツ語版、英語版)の西部に位置する。郡域の北部はゼンネに面し、西部はヘルヴェークの地区である。郡域南部の大部分はパーダーボルン高原であり、ザウアーラントの北端にまで延びている。 郡内の最低地点は、デルブリュック近郊の海抜 77 m、最高地点はブライヴェッシェ南東のトーテンコプフ前で 498 m である。トーテンコプフの山頂(海抜 502.6 m)はホーホザウアーラント郡に属している。 郡域の南北軸の幅は 47.6 km、東西軸の幅は 43.1 km、面積は1,245

Continue reading

マグネシアの戦い – Wikipedia

マグネシアの戦い(マグネシアのたたかい、英: Battle of Magnesia)は、ローマ・シリア戦争中の紀元前190年(あるいは紀元前189年)に起こった会戦である。スキピオ・アシアティクス率いる共和政ローマ軍と、アンティオコス3世率いるセレウコス朝シリア軍が激突し、多くの犠牲を出しながらもローマ軍が勝利を収めた。この会戦中に生じた霧が両者の運命を左右し、この霧によって混乱したセレウコス軍は負け、それを利用して奇襲を仕掛けたローマ軍が勝利した。 セレウコス朝シリアはアンティオコス3世による拡大政策で、東はインド、西は小アジアに至るまで領土を回復させていた。これに反発したローマとの間にローマ・シリア戦争が勃発し、ローマのことを快く思っていなかったアイトリア連邦とセレウコス朝は手を組んで、共にギリシアを攻めた。しかし、テルモピュライの戦い(英語版)に敗れたセレウコス朝はアイトリア連邦を見捨て、小アジアに逃れた。ローマはセレウコス朝を追撃して小アジアのマグネシアに来たり、雌雄を決するべく激突した。この時、大スキピオは息子を人質にとられていたため、病気と偽って戦線を離脱していた[1]。したがって、ローマ軍の指揮は大スキピオの弟、スキピオ・アシアティクスが執っていた。 戦いの経過[編集] アンティオコス3世は、両翼に重装騎兵カタフラクトイを配備していた。カタフラクトイは当時トップクラスの攻撃力を誇っており、攻めの時であればほとんど無敵であった。彼の作戦は、カタフラクトイを用いてローマ軍の騎兵隊をいち早く撃破し、カンナエの戦いのようにローマ軍を包囲・殲滅することであった。一方、ローマ軍はセレウコス軍を過小評価しており、ただ正面突破のことしか考えていなかった。 このまま戦いが始まれば、セレウコス軍の勝利は確実であっただろう。しかし、突然周囲に霧が生じ、戦場は全く見えなくなってしまった。視界が狭まったため、セレウコス軍の弓兵部隊はほぼ無力化されてしまった。これを利用し、ローマ軍右翼のエウメネスはクレタ軽装歩兵部隊に敵左翼を奇襲させた。この奇襲によってセレウコス軍の鎌戦車は自軍に突っ込んでしまい、セレウコス軍左翼は大混乱に陥った。 奇襲時に起こった喧噪を、アンティオコス3世は自軍の左翼が敵軍に突っ込み、計画通り蹂躙しているものと思い込み、自らのいる右翼も出撃した。ローマ騎兵が迎え撃ったが、カタフラクトイの圧倒的な攻撃力の前に瞬殺され、一気にローマ軍団に突っ込んだ。ローマ軍団と言えどもカタフラクトイの猛攻の前には歯が立たず、敗走してしまう。アンティオコス3世は彼らを追撃し、野営地まで追い詰めた。 ここで、野営地を守備していたマケドニアのファランクス(ローマと同盟を結んだ折、ペルセウスが送った重装歩兵)がセレウコス軍のカタフラクトイに立ち塞がった。ローマ軍団を蹴散らしたカタフラクトイであったが、ファランクスの頑強さを崩すのは簡単ではなく、一進一退が続いた。 この時、セレウコス軍左翼はローマ軍団・騎兵によって崩壊しており、セレウコス軍中央も包囲されていた。カタフラクトイは左翼にも配備されていたが、機敏な動きのできない彼らは守りには適しておらず、敗れ去っていた。セレウコス軍中央のファランクスは中空方陣を組み、ローマ軍団の攻撃を跳ね返していたが、自軍の戦象部隊が苦痛によって暴れ出したために戦列が崩れてしまった。ファランクスを突破できなかったアンティオコス3世が再び戦場に戻った時には、最早セレウコス軍は戦線を維持することができなくなっていた。この時、アンティオコス3世の持つカタフラクトイで攻めていれば、まだ勝機はあったかもしれない。しかし、彼は戦意喪失してしまい、撤退した。 戦いの結果[編集] セレウコス軍は5万名ほどの大損害を被ったという。更に、セレウコス朝シリアはローマとの和約によって軍備縮小及び莫大な賠償金を課せられ、衰退の道へと入っていく。 一方、ローマ軍は僅か300名ほどの損害であったと発表されているが、これは明らかにローマ側の捏造であり、ローマ兵の埋葬に2日以上掛かったという記録があることから、実際は2000~4000名であったと考えられる。これは想定以上の大損害であり、事実、この戦いを指揮したスキピオ家は以後影響力を低下させている。 この戦いは、ファランクス軍の頑強さを証明した。その防御力はローマ軍団を破ったカタフラクトイをも弾き返してしまうほどであった。しかし、霧が出たことによって奇襲を許してしまったことや、アンティオコス3世の追撃によって中央軍が置き去りにされてしまったこと、戦象が暴れて自軍を踏み荒らしてしまったことから、ファランクスはローマ軍団に敗北してしまった。ファランクスは今後消滅していくが、上手く運用されれば、その攻撃力・防御力はローマ軍団を凌駕するものであると示した。 ^ 人質が解放されると同時にマグネシアを目指したが、マグネシアの戦いには間に合わなかった。 参考文献[編集] 長田龍太、2015『古代ギリシア重装歩兵の戦術』新紀元社 市川定春、2003『古代ギリシア人の戦争』新紀元社

Continue reading

藤本隆史 – Wikipedia

藤本 隆史(ふじもと たかふみ、1965年〈昭和40年〉3月23日[1] – )は、日本の警察官僚。 岡山県岡山市出身[2]。岡山県立岡山朝日高等学校を経て[2]、1987年(昭和62年)3月、東京大学法学部を卒業[1]。同年4月、警察庁に入庁[1]。 広島県警察刑事部捜査第二課長、警察庁長官官房総務課課長補佐、警察庁刑事局暴力団対策部暴力団対策第一課課長補佐、大分県警察警務部長、警察庁長官官房人事課理事官、警視庁組織犯罪対策部組織犯罪対策総務課長、兵庫県警察刑事部長、警察庁長官官房会計課会計企画官、警察庁生活安全局地域課長、香川県警察本部長、警察庁長官官房国家公安委員会会務官、警視庁生活安全部長、警察庁長官官房人事課長、警察庁長官官房首席監察官、警察庁長官官房総括審議官などを歴任[1]。途中、国税庁、総務庁に出向し、国税庁課税部所得税課国税実査官、高松国税局宇和島税務署長、総務庁行政管理局副管理官を務めた[1]。 2020年(令和2年)1月17日、大阪府警察本部長に就任[4]。就任に際した記者会見で藤本は、近年のサイバー犯罪、特殊詐欺が情報通信技術の進展で痕跡が残りにくくなったことを懸念し、「関係するセクター、事業者と連携し、抑止と捜査の対応を進化させる。サイバー人材の育成を一層強化する」と抱負を述べた[5]他、児童虐待やストーカー、ドメスティックバイオレンスについても重点的に取り組む姿勢を示した[5]。 2021年(令和3年)1月15日、警察庁刑事局長に就任[3]。 2022年(令和4年)1月14日、辞職[6]。 1987年(昭和62年) 3月 – 東京大学法学部を卒業[1]。 4月 – 警察庁入庁[1] 1990年(平成2年)9月 – 神奈川県警察刑事部捜査第一課課長代理[1]

Continue reading

福岡県立育徳館中学校・高等学校 – Wikipedia

福岡県立育徳館中学校・高等学校(ふくおかけんりつ いくとくかんちゅうがっこう・こうとうがっこう, 英語: Fukuoka Prefectural Ikutokukan Junior and Senior High School)は、福岡県京都郡みやこ町豊津にある県立中学校・高等学校。 歴史 小倉藩の藩校の流れをくむ「豊津中学校」(旧制中学校)と「豊津高等女学校」を前身としている。藩校開設の1758年(宝暦8年)を創立年、中学校設置の1871年(明治4年)を開校年としている。2009年(平成21年)に創立250周年を迎えた。 校訓(校風) 「文武両道」「質実剛健」 を教育の柱としている。 校章 藩校思永斎を開校した小倉藩にちなみ、家紋の三階菱を3つ組み合わせたものを背景に、校名の「育徳」の文字(縦書き)を中央に置いている。 校歌 作詞は、小宮豊隆[1]、作曲は信時潔によるもの。歌詞は4番まである。

Continue reading

チート薬師のスローライフ〜異世界に作ろうドラッグストア〜 – Wikipedia

『チート薬師のスローライフ〜異世界に作ろうドラッグストア〜』(チートくすしのスローライフ いせかいにつくろうドラッグストア)は、ケンノジによる日本のライトノベル。WEB版は「小説家になろう」にて2016年7月から2020年7月まで連載され、同年10月に削除された[2]。書籍版は2017年にレッドライジングブックス(リンダパブリッシャーズ)から『チート薬師のスローライフ 異世界に作ろうドラッグストア』のタイトルで全2巻刊行された後、ブレイブ文庫(一二三書房)より2018年4月から刊行されている。イラストはレッドライジングブックス版を庄司二号、ブレイブ文庫版を松うにが担当。2021年7月時点で累計発行部数は80万部(電子版・小説・漫画を含み)を突破している[3]。 メディアミックスとして、春乃えりによる漫画版が『WEBコミックガンマぷらす』(竹書房)にて2018年12月より連載されており[4]、また2021年7月から9月までテレビアニメが放送された(後述)。 ウェブ版は削除されたが、書籍にて連載を続ける旨の発言をしている[5]。 あらすじ[編集] 社畜生活を送っていた桐尾礼治(レイジ)は、会社に向かって歩いていたらいつの間にかに異世界の森にいた。持っていたスキルは鑑定と創薬の2種類。森の中を歩いていると重傷を負っていた人狼の少女ノエラを見つける。レイジは創薬スキルで得た知識と鑑定スキルで集めた素材で製薬したポーション(優)を使いノエラを助ける。助けたお礼としてノエラの案内で田舎町のカルタを訪れる。そこで金を得るために持ち込んだポーション(優)が雑貨屋の店主アルフの関心を引き、レイジは店主からの頼みで革命ポーションと商品名を改め製造納品することになる。宿屋で寝泊まりしながら1週間ほど働き、300万リンを儲けたレイジはアルフに紹介された空き家(家賃なし)に住むことにする。数日後、家を改装しドラッグストア「キリオドラッグ」を開店することを決意する。 登場人物[編集] この節の加筆が望まれています。 登場人物の設定、登場順が原作小説、コミカライズ版、テレビアニメ版で異なる。本項では原作小説の設定と登場順で紹介する。 声の項はテレビアニメ版の担当声優。 主要人物[編集] 桐尾 礼治(きりお れいじ)/レイジ 声 – 福島潤[6] 本作の主人公。24歳の青年[7]。社畜生活を送っていたが、ある時鑑定と創薬のスキルを所持した状態で異世界に転移させられる。キリオドラッグの店長。 生成する薬がかなり強力なほか、周囲の人間関係が特殊なこともあり、革命児、異国の天才錬金術師、薬神、大魔王等様々な異名を(勝手に)付けられている。

Continue reading