Month: March 2020

ユーロビジョン歌合戦 〜ファイア・サーガ物語〜 – Wikipedia

『ユーロビジョン歌合戦 〜ファイア・サーガ物語〜』(原題:Eurovision Song Contest: The Story of Fire Saga)は2020年に配信されたアメリカ合衆国のコメディ映画である。監督はデヴィッド・ドブキン、主演はウィル・フェレルとレイチェル・マクアダムスが務めた。 アイスランドの漁村に住む、ラースは若い頃から歌手になることを夢見てきたが、その夢は周囲から理解されず、父親との仲違いの原因にすらなっていた。そんなある日、ラースが率いるバンド、ファイア・サーガがユーロビジョン・ソング・コンテストのアイスランド代表に選出された。ラースは夢を叶える最後のチャンスがやって来たと喜び、長年の相棒、シグリットと共に会場へと乗り込んだ。 しかし、ロシア代表のレムトヴにシグリットを奪われ、ラースは大会に出場することをあきらめ、アイスランドの地元に戻る。 キャスト[編集] 2018年6月19日、ウィル・フェレルが本作に出演することになったとの報道があった[1]。2019年3月、デヴィッド・ドブキンが監督に起用された[2]。5月、レイチェル・マクアダムスの出演が決まった[3]。8月、ピアース・ブロスナン、ダン・スティーヴンス、デミ・ロヴァートがキャスト入りした[4][5][6]。 なお、製作陣はアイスランドでの撮影が火山活動によってストップするのではないかと懸念していたが、幸いにも、そのような事態は起こらなかった[7]。 音楽・マーケティング[編集] 2020年5月15日、ウィル・フェレルとモリー・サンデーンが歌う劇中歌「Volcano Man」が先行リリースされた[8]。6月11日、本作のオフィシャル・トレイラーが公開された[9]。26日、本作のサウンドトラックが発売された[10]。 本作に対する批評家からの評価は平凡なものに留まっている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには63件のレビューがあり、批評家支持率は57%、平均点は10点満点で5.54点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「『ユーロビジョン歌合戦 〜ファイア・サーガ物語〜』は興味深い題材を扱っており、大声を出して笑ってしまうシーンも確かにある。しかし、上映時間が長すぎて間延びしており、そのせいで折角の魅力が損なわれている。」となっている[11]。また、Metacriticには27件のレビューがあり、加重平均値は47/100となっている[12]。

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ETERNALS – Wikipedia

この項目では、マーベル・コミックのヒーローチームについて説明しています。2021年のスーパーヒーロー映画については「エターナルズ」をご覧ください。 このページ名「ETERNALS」は暫定的なものです。(2021年10月) この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2019年9月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Eternals (comics)}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 エターナルズ(The Eternals)は、マーベル・コミック刊行のアメリカン・コミックスに登場するヒーローチームである。 他メディア[編集] 映画[編集] 2021年11月5日に映画公開予定。2008年に公開されたアメリカ合衆国の映画「アイアンマン」を皮切りに、これまでに23作品公開されているマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の25作目にあたる作品である。 登場人物[編集] セナ /演者 アンジェリーナ・ジョリー[1]

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ミレトス – Wikipedia

ミレトス(古代ギリシア語: Μίλητος ミレートス、ラテン語: Miletus、トルコ語: Milet)は、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、アナトリア半島西海岸(今のトルコのアイドゥン県バラト近郊)メンデレス川河口付近にあった町(ギリシア人の植民市)である。青銅器時代から人が住んでいた。タレスなどミレトス学派をうんだことで有名である[1]。 都市の跡は、海岸付近の低湿地から5キロメートルほど内陸側にある。現代では海に接していないが、これはメンデレス川の堆積によって湾が埋まってしまったためであり、古代においては港町だった。 ミレトスには、2つの系統の建国神話が伝わっている。そのひとつはコドロスの息子ネレオスに率いられたイオニア人によって、先住者であるカリア人を制圧し建設されたというイオニア系神話で、ヘロドトスは戦いによって夫を殺された寡婦たちが、入植者たちに強制的に娶られたという屈辱を記憶するためにミレトスの婦人達に伝承されている奇妙な風習について記録している[2]。もうひとつは、クレタを追われたサルペドンもしくはミレトスという名の半神が小アジアに渡って建設したというミノア系神話である[3]。考古学的には、ミレトスが建設される以前の後期青銅器時代にはこの地にミノア人やミュケナイ系ギリシャ人が居住していた痕跡があり、紀元前13世紀のヒッタイト文書には、この地がアッヒヤワ人の勢力圏である旨が記されている[4]。 ミレトスの建設は紀元前12世紀以降のイオニア人の移動と呼ばれる民族移動期に行われ、オリエント世界の結節点という地の利を活かした貿易や黒海を中心とした植民活動によって、アルカイック期のイオニア系植民市の中で最も繁栄した[5][2]。メソポタミアやナイルデルタの科学や文化はミレトスを通じてギリシャに流入し、ギリシャの思想や科学の草分けとなる人々を数多く輩出した。一方、アルカイック期のミレトスはトラシュプロスと呼ばれる僭主が支配する独裁制で運営されており、しばしば内紛が発生していた[2]。紀元前6世紀よりリュディア王国、アケメネス朝ペルシアと相次いで勃興した大帝国に対して貢納を条件に一応の自立を維持し、人口6 – 7万人に達する繁栄を見せた。しかし、紀元前494年に勃発したイオニアの反乱で主導的な役割に就いたため、ペルシアに武力鎮圧された[6][2]。報復として神殿や市街は破壊され、すべての市民はバクトリアなど帝国内部に強制移住させられたが、紀元前5世紀前半に再建が許され、内陸の市域は失ったものの紀元前5世紀後半には人口は約2万人にまで復興した[4]。 ペルシア戦争後、ミレトスはデロス同盟に参加し、アテナイの指導のもとに寡頭制政体となった。その一方で、ペルシア帝国との関係も構築し、それはアテナイの支配による抑圧の捌け口としても機能した[4]。紀元前415年のシケリア遠征の失敗以後、アテナイの同盟支配が揺らぐと、ミレトスはスパルタのエーゲ海進出の拠点となった。ペロポネソス戦争の後、小アジアのイオニア系植民市の宗主権がペルシア帝国に返還され、ミレトスはペルシア人総督ティッサフェルネスの支配下に入る。紀元前334年にアレクサンドロス大王の東方遠征が開始されると、ミレトスは包囲攻撃を受け陥落した[4]。 ヘレニズム時代には戦略的な重要都市の地位を維持したものの、ローマ帝国時代には小アジアの政治の中心はエフェソスに移り、ミレトスは15,000人を収容できる劇場やファウスティナ浴場が建設されるなど、文化都市として存在感を示した[4]。しかし、土砂堆積による海岸線の後退が進み、運河によってかろうじて維持されてきた港湾機能もビザンツ帝国の時代になると完全に喪失してしまう。海上交通路を断たれたものの、近世に至るまでアナトリア方面のキャラバンサライの中継地として命脈を保った。20世紀中頃に起きた地震の被害によって街は放棄されたが[4]、現代では古代ギリシア、ローマ時代の遺跡は観光スポットとなっている[7]。 ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは『博物誌』の中で(5.112)、ミレトスは(黒海やマルマラ海沿岸に)90もの植民地を作ったと書いている。 例を挙げると、アポロニア(現ソゾポル)、オデッソス(現ヴァルナ)、トミス(現コンスタンツァ)、ヒストリア、ティラス、オルビア(en:Olbia)、パンティカパイオン(現ケルチ)、テオドシア、タナイス、ピティウス(現ピツンダ)、ディオスクリア(現スフミ)、ファシス(現ポティ)、トラペズス(現トラブゾン)、ケラソス(現ギレスン)、コテュオラ(現オルドゥ)、アミソス(現サムスン)、シノペ(現スィノプ)、キュトロス(en:Cytorus)、セサモス(現en:Amasra)、などである。 合同植民市ナウクラティスの植民に参加するなどエジプト方面にも進出しており、ストラボンはプサンメティコス1世の時代にはナイルデルタに「ミレトス人の城壁」と呼ばれる要塞が存在したと述べている[5]。 ミレトス出身の著名な人物[編集]  出土品[編集] 参考文献[編集] 田中きく代、中井義明、朝治啓三、高橋秀寿『境界域からみる西洋世界:文化的ボーダーランドとマージナリティ』ミネルヴァ書房〈西洋史ライブラリー〉、2012年。 ISBN 978-4-623-06122-8。

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フロリアン・ヴィルツ – Wikipedia

フロリアン・リヒャルト・ヴィルツ(ドイツ語: Florian Richard Wirtz、2003年5月3日 – )は、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州プルハイム出身のサッカー選手。ドイツ代表。ブンデスリーガ・バイエル・レバークーゼン所属。ポジションはMF。 クラブ[編集] 2010年に1.FCケルンのユースアカデミーに入団。2018年にU-17チームに昇格。2018-19シーズンはU-17リーグで14試合4得点を記録。翌2019-20シーズンも同ユースリーグで10試合で8ゴールを決めていたところで、2020年1月に同じノルトライン=ヴェストファーレン州に本拠地を置くバイエル・レバークーゼンが、ヴィルツの獲得に興味を持っていることが報じられた[1]。その噂が浮上した数日後の、移籍市場が閉まる直前の1月31日にレバークーゼンへの加入が決定[2]。 その後全世界を襲った2019新型コロナウイルスの影響による長いリーグ戦中断を経て再開となった、5月18日のヴェルダー・ブレーメン戦の招集メンバー入りが決定[3]。当日の試合で先発で起用され、後半16分までプレーし、プロデビュー戦を4-1で勝利。17歳15日でのブンデスリーガ史上3番目の若さでのデビューとなり、カイ・ハフェルツの17歳125日でのプロデビューをも更新する、チーム史上最年少デビューを果たした[4][5]。 2020年6月6日のFCバイエルン・ミュンヘン戦では、後半44分にプロ初ゴールまで決め、2005年11月にヌリ・シャヒンが17歳82日で決めた初ゴールをも上回る、17歳34日でのブンデスリーガ最年少初ゴールを達成した[6][7][8][9]。 代表[編集] 2021年3月19日、ワールドカップ予選に向けたドイツ代表に初招集された[10]。同年9月2日のリヒテンシュタイン代表戦で代表初出場を記録した。 所属クラブ[編集] 外部リンク[編集] U-17 05: エフリュスキン, D.ハルファー, ティラワ 06:

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万暦帝 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “万暦帝” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) 万暦帝(ばんれきてい)は、明朝の第14代皇帝。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は神宗。諡号は範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝。日本では一般的に治世の元号を取って万暦帝と呼ばれる。 万暦の中興[編集] 隆慶帝の第3子として生まれ、10歳(9歳という説も)で即位した。即位直後は主席大学士(宰相)張居正の手腕により、両税法にかわる一条鞭法の導入・無駄な官職の撤廃・全国的な検地・無用な公共事業の廃止などにより財政は好転し、満州の女真も李成梁により一時的に落ち着いた状態となり、内外政で大きな成果を上げた。また帝自身も幼少年期には聡明利発で、将来の大器と目されていた。 堕落[編集] しかし万暦10年に(1582年)に張居正が死去し、親政を始めると一転して堕落し、寵姫鄭貴妃の偏愛による立太子問題(詳しくは泰昌帝の項を参照)が起きた。また日本の豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助し、それ以外にも寧夏の哱拝の乱・播州の楊応龍の乱の鎮圧(朝鮮の役を含めて万暦の三征と呼称)などによって、軍制の腐敗と相まって財政は悪化した。 さらに朝廷の中では、顧憲成が復興した東林書院を中心とする東林党と、魏忠賢ら宦官勢力と結んだ非東林党の争い(党争)が激化して宦官が跋扈するようになり、また満州の女真もヌルハチの下で明の遠征軍を破るなど強大化して国事多難となった。 しかし万暦帝は相変わらず政治に関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走った。官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行い、このために一時期は閣僚が一人しかいない、あるいは地方長官が規定の半数しかいないなどという異常事態となった。 さらに悪化した財政への対策として(あるいは自らの貯蓄を増やすために)、全国に税監と呼ばれる宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取を行った。この搾取に反対する民衆により税監たちがたびたび殺される事件が起こったが、万暦帝は最後まで廃止しようとはしなかった。 国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で、私的な事柄には凄まじい贅沢をした。例えば鄭貴妃の子である福王朱常洵を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている(張居正が政治を執っていた十数年に国庫に積み上げた金額が400万両である)。このことで民衆の恨みを買い、後に朱常洵は蜂起した李自成軍に捕らえられた時に残忍な殺され方をしている。 後半生では25年にわたって後宮にこもり、朝政の場には全く姿を現さなかったという。その一方で文禄・慶長の役で突然臨朝し断固出兵を主張したときは大臣を吃驚させること少なくなかった。 万暦帝の治世は明の退廃と爛熟の時期であった。この時期に外国産の銀が大量に流入したことにより、経済界は好況に沸き、その影響で文化的には最盛期を迎え、景徳鎮における万暦赤絵などの陶磁器の名品が生まれた[1]。万暦帝はこのことに気を良くしていたのだろうが、明の衰退は明白になっており、女真の力も増す一方であった。『明史』は「明朝は万暦に滅ぶ」と評している。

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宣旨 (役職) – Wikipedia

この項目では、上級女性使用人である女房の筆頭について説明しています。天皇など貴人の口頭命令および公文書については「宣旨」をご覧ください。 宣旨(せんじ)は、公家社会の上級女性使用人である女房の筆頭。俗称は、せじ[注釈 1]。天皇の後宮十二司でいう典侍(女官長)に相当する最高職。わかりやすく言えば、第一秘書のような立場である。主に中宮・東宮・斎院に設置され、このほか斎宮・院(上皇)・摂政・関白などにも置かれることがあった。貴人の口頭命令である宣旨を取り次いだのが由来だが、渉外役だけではなく、主人に直属する女房集団を統括し、主人が女性である場合はその代理人的存在であるなど、高い職責を有した。800年前後、藤原薬子が安殿親王(のちの平城天皇)の東宮宣旨に補任されたのが史料上の初見。 中宮(皇后らを含む)に仕える中宮宣旨は「宮の女房」の長であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍とほぼ同格の顕職と見なされた。中宮に次ぐほどのきわめて高貴な身分の女性から選ばれ、中宮の姉妹であることもあった。中宮の緊急事には、宣旨が指揮を取ってその善後策を講じた。家格・知性・実務・教養のいずれを取っても同時代の最高峰で、勅撰歌人であることも珍しくなく、主人の代詠も行った。既婚者でも働き続ける者が多く、妊娠・出産後の職場復帰も広く認められていた。忠誠心も高く、主人の出家や崩御に殉じて出家したり、主人の子に仕えたりする場合が多かった。ただ、11世紀半ばから末には半ば名誉職化して序列第二位に落ち、中宮御匣殿が「宮の女房」の首座になったという。鎌倉時代の序列は宣旨と御匣殿のどちらが上かは不明。代表的存在に、一条天皇中宮藤原彰子に仕えた源陟子、三条天皇中宮藤原妍子に仕えた大和宣旨、後醍醐天皇中宮西園寺禧子に仕えた二条藤子らがいる。 東宮(皇太子)に仕える東宮宣旨は、主に弁官や受領などの中級貴族の娘から選ばれ、幼少期の乳母の一人が昇格する場合が多かった。東宮の乳母と共に女房集団を率い、しばしば乳母より上位の筆頭に置かれた。東宮の即位後は典侍に補任されることが多く、長年の功績によって従三位に叙されることもあった。 斎院宣旨は、両賀茂神社に奉仕する未婚の皇女・王女である斎院に仕える宣旨で、弘仁元年(810年)の斎院設立後間もなくから置かれた。斎院の乳母の一人が昇格することが多かった。中宮宣旨と同様、文学的能力に優れていた者も少なくはなかった。その代表は、作家の六条斎院宣旨である。 中宮や東宮にとっての最大の側近の一人という立場から、王朝物語では重要な脇役として登場することもある。その場合、機知を活かして主君を助ける役として登場することが多い。作家の六条斎院宣旨は自身が斎院宣旨経験者であるが、その著『狭衣物語』では斎院宣旨がヒロインの補佐役として登場する。散逸したが、『心高き東宮宣旨』という宣旨を主役にした物語も存在した。 発祥[編集] 日本の公家社会における高位の女性使用人である女房の中でも重職とされるのが、宣旨・御匣殿・内侍の三役で、宣旨はその筆頭である。院(上皇)・東宮(皇太子)・中宮・斎宮・斎院・摂政・関白などに置かれた。 その起源・職務については、古くは和田英松『官職要解』(1902年)で、立后の時に宣旨(天皇・上卿の命令)を取り伝えたために、「中宮の宣旨」「宮の宣旨」ともいった、とあり、この説が定説だったこともあった[注釈 2]。しかし、実際には、中宮宣旨・中宮御匣殿・中宮内侍らは、立后の儀の「後」に令旨(皇后らの命令)によって決められており(『小右記』天元5年(982年)藤原遵子立后記事など)、『官職要解』説は誤りであることが指摘されている。 女房としての宣旨の史料上の初見は、皇太子安殿親王(のちの平城天皇)の東宮宣旨を務めた藤原薬子である(『日本後紀』弘仁元年(810年)9月12日条)。これは公文書としての宣旨が普及し出した延暦年間以降(782年以降)と近いため、その発祥・職務もおそらくそれと重なると考えられる。諸井彩子によれば、貴人の宣旨(口頭による指示・命令)を別の者に取り次ぐのが本来の職務ではないか、という。これは、天皇の後宮十二司においては典侍・掌侍が担当する職務であるから、宣旨もまた典侍・掌侍同様の職責を持っていたと考えられる。 中宮宣旨[編集] 中宮宣旨は、天皇の正妃である中宮に仕える宣旨である。皇后や、正妃としての皇太后もここに含まれる。天皇付きの女房を「上の女房」(公的な官職である後宮十二司を含む)と言うのに対し、中宮付きの女房を「宮の女房」と言い、宮の女房の筆頭が中宮宣旨である。宮の女房は、中宮の実家の父が選ぶことが多かった。 中宮宣旨の出自は、上級貴族である公卿の娘であることがほとんどである。仕える中宮の姉妹である場合もあり、円融天皇皇后藤原遵子の中宮宣旨は姉の詮子が務め、円融天皇皇太后藤原詮子(前記の詮子とは別人)の中宮宣旨は自身の異母姉妹が務めた。公卿の娘の場合は、後ろ盾となる父が薨去した女性が、中宮宣旨として入る場合が多い。中宮の幼少期からの乳母が宣旨に昇格した場合もあるが、どちらかといえば中宮と同世代の女性であることが多い。 主人の中宮が流産・崩御など非常事態にあった時は、その代行として指示や命令を伝達し、また善後策を講じるなど、高い職責を有した。後一条天皇中宮藤原威子が流産した際には、二条院宣旨は後一条典侍の藤三位を呼んで二人で緊急の対応を協議しており(『左経記』長元8年(1035年)6月23日条)、天皇側の典侍・掌侍と職務が基本的に重なることを示している。宣旨(貴人の口頭命令)の名の通り、中宮の命令系統を代理で司る立場であり、二条院宣旨は威子の命を取り次いで、歌人の出羽弁に出仕を促す文章を書くなどしている。また、中宮の顔であり、渉外役も担当した。 教養も非常に高く、様々な歌集・歴史物語・日記に中宮宣旨の歌が残っている。宇多天皇皇太夫人の藤原温子の宣旨は、部下の伊勢との贈答歌が勅撰和歌集『後撰和歌集』に入集。一条天皇中宮の藤原彰子の宣旨だった源陟子は、和泉式部が彰子に贈った歌に対し、彰子に代わって返歌を詠んでいる(『栄花物語』巻15)。中宮の藤原妍子に仕えた大和宣旨は、勅撰集『後拾遺和歌集』などに名を残す勅撰歌人である。二条院宣旨は、勅撰歌人である出羽弁に出仕を促す歌を、主君の威子のために代詠している。後醍醐天皇中宮の西園寺禧子に仕えた二条藤子も、二条派当主の二条為定の姉妹であり、『続千載和歌集』などに入集した勅撰歌人である。 宮中の花形であることから、恋愛対象としても高嶺の花だった。円融天皇中宮の藤原媓子の異母弟で勅撰歌人でもある公卿藤原朝光は、媓子の宣旨に恋文と歌を贈ったが、返歌も来ず、あっけなく振られている(『朝光集』28および29)。藤原彰子中宮宣旨の源陟子は、部下だった紫式部から美貌を称えられたほどで(『紫式部日記』)、中古三十六歌仙の公卿藤原定頼も陟子に言い寄ったが、やはり振られている(『定頼集』134)。三条天皇中宮の藤原妍子に仕えた大和宣旨も当時の著名人との恋歌が多く残っている。後醍醐中宮の西園寺禧子に仕えた二条藤子は、後醍醐から禧子・阿野廉子に次ぐ寵愛を受け(『増鏡』「久米のさら山」)、征西大将軍懐良親王(日本国王良懐)をもうけ、三位に叙されている。 鈴木織恵によれば、中宮宣旨は婚姻が忌避されておらず、既婚者のまま働き続ける者も多かったという。たとえば、藤原妍子に仕えた大和宣旨は、次男の観尊を中宮宣旨在職中にもうけており、妊娠・出産してから職場に復帰することも広く認められていた。 主君が中宮を辞して皇太后や女院となった後も仕え続けることがほとんどだった。主君が出家した場合や崩御した場合には、自身も殉じて出家する場合も多かった。また、主君の子に仕える場合もあった。

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農耕/言語拡散仮説 – Wikipedia

農耕/言語拡散仮説(のうこうげんごかくさんかせつ、Farming/language dispersal hypothesis)は、世界の主要な語族のいくつかが、農耕の拡散とともに拡散したとする仮説である。ピーター・ベルウッド(英語版)とコリン・レンフルーによって提唱された。 インド・ヨーロッパ語族[編集] アナトリア仮説では、印欧祖語の話者が新石器時代を通じてアナトリアに住んでおり、印欧語族の拡散は紀元前7-6千年紀の新石器革命と関連しているとする。印欧語族は新石器革命にともなって紀元前7000年頃より小アジアからヨーロッパに拡散し、それは平和裏に先住民族と混合しながら起こったものと主張する。ゆえに、新石器時代のヨーロッパのほとんどの住民は印欧語を話しており、のちに起こった移住によって別の印欧語に属す言語に置き換えられたとしている[1]。しかし、学問的には、もう一つの仮説であるクルガン仮説を支持する結果が出ている[2][3]。 バントゥー諸語[編集] バントゥー祖語の話者は、2,500〜3,000年前(紀元前1,000年から紀元前500年)に、農業を伴い、カメルーンから東と南に移住を始めた。このバントゥー系民族の拡大は、カメルーンの東にあるサブサハラアフリカを支配するようになり、この地域では、バントゥー族がほぼ全人口を占めている[4][5][6]。 アフロ・アジア語族[編集] アフロ・アジア語族の原郷については、レバントとする説と、アフリカ大陸内とする説がある。レバントとする説では、農耕の拡散と連動して、アフリカへ分布を広げたとしている[7][8]。 ノストラティック大語族[編集] Bomhard (2008) [9]は、ノストラティック祖語は紀元前8,000年にレバントの新石器革命の開始と共に分化し、肥沃な三日月地帯を越えてコーカサス(カルトヴェリ祖語)、エジプトと紅海を超えてアフリカの角(アフロ・アジア祖語)、イラン高原(エラム・ドラヴィダ祖語)、中央アジア(ユーラシア祖語、その後紀元前5,000年にインド・ヨーロッパ祖語、アルタイ祖語、ウラル祖語に分化)へそれぞれ拡散していったとしている。 エラム・ドラヴィダ語族[編集] エラム・ドラヴィダ語族はしばしば肥沃な三日月地帯からインダス文明への農耕の拡散に関連付けられる。しかしこれには異論もある。遺伝子の調査では、新石器時代のイランと南アジアの人々の遺伝的関連が検出された[10]。 トランスユーラシア語族[編集] マルティン・ロベーツは、従来の広義のアルタイ語族(チュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族、日本語族、朝鮮語族)を「トランスユーラシア語族」 (Transeurasian) と呼称しており、「トランスユーラシア祖語」は紀元前6千年紀の遼西興隆窪文化を原郷とし、雑穀農耕とともに周辺に拡散していったとしている[11][12]。ベイズ法による系統解析により、トランスユーラシア祖語から日本・朝鮮系統/アルタイ系統の分岐を紀元前4700年、アルタイ祖語からツングース/チュルク・モンゴル系統の分岐を紀元前3293年、チュルク・モンゴル祖語からチュルク語族/モンゴル語族の分岐を紀元前1552年、日本・朝鮮祖語から日本語族/朝鮮語族の分岐を紀元前1850年と算出した[13]。 日本語族[編集]

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カナダの勲章等 – Wikipedia

この項目「カナダの勲章等」は途中まで翻訳されたものです。(原文::en:Orders, decorations, and medals of Canada)翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2015年12月) カナダの勲章等は、カナダの栄典制度において国家または地域に多大な貢献をした者、あるいは賞賛されるべき行動をした者に、カナダ国王の名において授与される褒章である。イギリスの制度に範を採って1930年代に制定されたが、制度として確立したのは1967年にカナダ独立100周年を記念してカナダ勲章が制定された時である。その後、勲章の種類および範囲が広がり、王族章(英語版)や身位章、市民章(英語版)、軍人章(英語版)や各種の従軍記章[要リンク修正]が設けられている。 カナダ各州政府には独自に州の勲章(英語版)を定めることが許されており、各州に顕著な功績があった住民に授与されている。 各州の勲章を受章した者は、国家の勲章を受章した者と同様に、ポスト・ノミナル・レターズの使用や各自の紋章にサポーターなどを付加することが許される。 カナダにおいては、カナダ国王が唯一の「名誉の源泉(英語版)」 – カナダの栄典を権威付け、また新たな栄典を定め得る者 – とされており、カナダ国王またはカナダ王族により制定・授与が行われることになっている[1]。 実際には、カナダでは国王の地位は総督によって代行されており、総督が国王の名において制定・授与を行っている。このため、栄典の運用は総督公邸に設置されたChancellery of Honours(総督官房の一部門)が行っている。総督はまた、枢密院勅令を通じて勲章の序列(英語版)を定めている。 関連項目[編集] 参考文献[編集] McCreery,

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