Month: April 2020

東海理化女子ソフトボール部 – Wikipedia

東海理化女子ソフトボール部(とうかいりかじょしソフトボールぶ)は、愛知県丹羽郡大口町[1]を拠点とする女子ソフトボールチーム。チーム愛称は東海理化チェリーブロッサムズ。 2022年に開幕した新トップリーグのJDリーグに参加。同リーグ西地区所属。 チーム愛称のチェリーブロッサムズ(Cherry Blossoms)は、拠点のある大口町の花が桜であることから。ロゴのデザインは、町内を流れる五条川(日本さくら名所100選に選定)と桜をイメージしている[2]。 1979年 – 創部 2004年 – 日本リーグ3部で2位となり、入替戦にも勝利し2部昇格を決める 2020年 – セカンドネーム登録に伴い東海理化チェリーブロッサムズとなる 2022年 – JDリーグ(JD.LEAGUE)の発足に伴い、同リーグ西地区に所属。トヨタ自動車前監督の中西あかねが監督に就任 日本リーグ戦績[編集] 日本リーグが3部制から2部制に移行した2006年から、日本リーグの最終シーズンとなった2021年までの戦績。 年度 所属リーグ

Continue reading

竜の玉 – Wikipedia

「龍の玉」はこの項目へ転送されています。植物のリュウノタマについては「タマサンゴ」を、季語については「リュウノヒゲ」をご覧ください。 この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。出典検索?: “竜の玉” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年6月) 竜の玉(りゅうのたま)とは、静岡県の竜の伝承のことである。主に水窪[注釈 1]の竜戸[注釈 2]に伝えられている。竜戸とは水窪川付近の集落である。 水窪湖周辺の航空写真(1976年) 昔、ある猟師が水窪川上流の戸中川[注釈 3]峡谷を経て黒法師岳[注釈 4]まで猟に出たところ、木の根のような形をした、まだ子供の蛇を見つけた。猟師は、3歳の娘のきくのおもちゃにちょうど良いと考えて蛇を捕まえると、牙を抜き、藤蔓[注釈 5]でからめて持ち帰った。きくはこの蛇を相手に毎日を過ごすようになった。 間もなく、猟師の妻のお杉が、病にかかって痩せて血も吐くようになったが、血は地面に落ちる前に消える。猟師は、魔物が取り憑いたと疑って、お杉が血を吐くと山刀[注釈 6]を振り回した。しかし手元が狂いお杉の腹に突き刺さった。不思議なことに一滴も血は出なかったがお杉はこの傷がもとで死んだ。

Continue reading

安部信之 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “安部信之” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年12月)   凡例 安部信之 時代 江戸時代前期 生誕 慶長9年(1604年) 死没 天和3年7月28日(1683年9月18日) 改名 弥一郎(幼名)、信之

Continue reading

のぶみ – Wikipedia

のぶみ(1978年〈昭和53年〉4月4日[2] – )は、日本の絵本作家。代表作に「ぼく、仮面ライダーになる!」や「しんかんくん」、「ママがおばけになっちゃった!」といったシリーズがある[14][6]。「うちのウッチョパス」はNHK教育でアニメ化された[15][16]。「おかあさんといっしょ」の歌「おしりフリフリ」、「おっとっとのオットセイ」の作詞も担当した[17][18]。 来歴・人物[編集] 東京都品川区出身[3]で、実家はプロテスタントの教会[19]。少年時代はいじめを受けたり不登校になったり[14]、自殺をしようとしたこともあったいう[2][20]。日本児童教育専門学校に在学[4]。1999年2月発行[7]の『ぼくとなべお』でデビューするが[5][6][注 1]、2007年の『しんかんくんうちにくる』までなかなか作品が売れなかった[2][18]。 2011年、他の漫画家と共同で東日本大震災チャリティ同人誌『pray for Japan』で執筆[21]。震災から約2週間後のボランティア体験をまとめたエッセイ漫画『上を向いて歩こう!』(講談社)を刊行[11]。翌2012年には森川ジョージがこれを原作とした『会いにいくよ』を、『週刊少年マガジン』2012年31号から短期集中連載した[11][12]。また、同年には復興チャリティアイドル「あたまがふくしまちゃん」をデザインする[22][23]。 一方でEXILE・USA著「ダンスアース」シリーズ(木楽舎)のイラストも担当し[3][24]、2015年には内閣府子ども・子育て支援新制度(すくすくジャパン)のシンボルマーク制作に無償で協力[25]。同年に出版した『ママがおばけになっちゃった』は、賛否両論を呼ぶもののベストセラーとなる[19][26][20]。2016年には知人の全盲のカメラマン大平啓朗が製作した、世界初となる手話・字幕・音声ガイド付MV「プリチュー」の挿絵イラストにも協力した[27]。2016年時点で絵本は170冊以上出版され、『ママがおばけになっちゃった』は累計54万部に達した[14]。 2016年には「情熱大陸」に出演し、『いのちのはな』の制作過程が取り上げられた[14]。キングコングの西野亮廣とはニコ生チャンネル「会議を見せるテレビ」を配信した[28]。2017年、2018年には「世界一受けたい授業」にも出演し、国語の先生として家族で読みたい絵本[29]や、2018年に読みたい絵本[30]を紹介した[31]。2018年、「だい!だい!だいすけお兄さん!!」で、のぶみが作詞した楽曲「あたしおかあさんだから」が横山だいすけにより歌われた。 この「あたしおかあさんだから」が批判を浴び(作風・評価参照)、動画の該当部分は削除されるに至る[32][33]。この余波で仕事が激減したのぶみは、「達成しなかったら絵本作家引退!絵本を買う事ができない子どもたちに届けたい!」というクラウドファンディングをCAMPFIREで開始[34]。期間終了日までに集まった応援購入額を獲得できる「All-In方式」でのプロジェクトで、148%の資金を集めた[34]。 その後、東ちづるから誘われて2021年開催の東京オリンピック・パラリンピック2020の文化プログラムに参加していたが、「役割を継続することはできない」として、出演を辞退した[35][20][36]。 作風・評価[編集] 自身の息子をモデルにした「かんたろう」、娘をモデルにした「アンちゃん」というキャラクターをいろいろな作品に登場させている[14]。「絵本の場合はエンドユーザーである母子の声を直接聞くことが大切」と考えており[6]、作品を作る際には多くの人に読み聞かせを実施し[14][6]、そこで得られた意見を踏まえて修正を重ねている[14][6]。制作には半年をかけ、読み聞かせは2000回に及ぶという[6]。「いのちのはな」は3000回以上読んでもらい、9か月を制作にかけた[14]。 『ママがおばけになっちゃった!』は、家庭文庫「子どもの本の家ちゅうりっぷ」主宰の神保和子が、「幼い子どもの発達段階や心理」に配慮できておらず「母子分離不安をあおる」ことを問題視している[26]。他方、「Amazonランキング大賞2015(年間ランキング)」の絵本部門で1位、和書部門で13位となる[37]。シリーズは3作制作され[38][19]、2016年にはシリーズ累計54万部を超える[19]。本屋で同作を読んだ際に「娘が大泣きしながら『これ買って』と訴えてきた」という母親の声もある[19]。 ネット動画配信サービスHuluの番組「だい!だい!だいすけお兄さん!!」の2018年2月2日放送で発表された、のぶみが作詞し横山だいすけが歌唱した楽曲「あたしおかあさんだから」は、「母親の自己犠牲を賛美」[32]、「母親に我慢や自己犠牲を一方的に強いている」[33]といった批判を浴び、動画の該当部分は削除された[32][33][35]。他方、「泣きました。解(わか)ってくれる人もいるんだなと感じた」という声があり、のぶみは「あるべき母親像を押しつけたつもりはまったくない」と語っている[33]。 絵本作品[編集] 講談社 「ぼくと」シリーズ

Continue reading

文化功労者 – Wikipedia

文化功労者(ぶんかこうろうしゃ)は、日本において、文化の向上発達に関し特に功績顕著な者を指す称号。文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)に定められる。文化勲章よりも多くの者が選ばれ[注 1]、文化人にとっては同勲章に次ぐ栄誉となっている。文化勲章受章者は、すでに亡くなっている人物を除いては、文化功労者にあわせて決定される。 選考基準[編集] 文部科学大臣が候補者の選考を文化審議会に諮問し、その選考した者のうちから文部科学大臣がこれを決定する(文化功労者法第2条)。文化功労者には、終身、政令で定める額の年金(年額350万円・平成21年度予算計約8億円)が支給される(同法第3条)。 なお選考に国籍要件はなく、2014年(平成26年)末現在で、1978年(昭和53年)の南部陽一郎(物理学者[注 2])、1999年(平成11年)のマリウス・バーサス・ジャンセン(日本研究家)、2002年(平成14年)のドナルド・キーン(日本文学者[注 3])、2010年(平成22年)の王貞治(野球選手・監督)の4人の外国国籍者が選ばれている(王のみ中華民国国籍で他3人はアメリカ合衆国国籍。また南部とキーンは文化勲章受章、王は国民栄誉賞受賞)。 1989年(昭和64年/平成元年)にファッションデザイナーの森英恵、1990年(平成2年)に将棋の大山康晴・水泳の兵藤秀子、1991年(平成3年)にグラフィックデザイナーの亀倉雄策、1992年(平成4年)に囲碁の坂田栄男・野球の川上哲治、1994年(平成6年)に漫画家の横山隆一・洋画家の三岸節子[1]、2009年(平成21年)には元横綱の大鵬幸喜、2012年(平成24年)にサッカーの岡野俊一郎、2012年(平成24年)にアニメーションの宮崎駿が選ばれるなど、平成時代に入ってから対象分野の拡大が顕著である。2018年以降は、福原義春、茂木友三郎、滝久雄など、財界人も選ばれている。 受章者の数は、2017年までは毎年15人が原則であったが、2018年からは文化芸術基本法の施行により20人に増員され、分野も文化振興やアートディレクター、メディア芸術、映画評論、照明デザインなどに拡大されている[2]。 年金・褒賞金について[編集] 日本国憲法第14条に「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」とあるため、文化勲章受章者に年金や褒賞金を支給することができなかった。このため1951年(昭和26年)に勲章とは別制度として「文化功労者」を設け、これに年金を支給することで実質的に文化勲章年金の機能を持たせた。終身年金支給額は文化功労者年金法施行令(昭和26年政令第147号)で定められ、現在の額は1982年(昭和57年)に規定された年間350万円である。2020年現在存命の受給資格者は232人で、総額8億円余り[注 4]。 1951年(昭和26年)7月18日、文化功労者制度を検討した文化功労者選考審査会は、受賞対象者の年齢を70歳以上とするか、個人資産を持つ者への年金支給の可否についても検討した。また、年金に充てる予算が21人分しかなかったため、1949年に解散した恩給金庫の余裕金の活用についても検討した[3]。同年7月21日、文部省は、対象年齢と個人資産に特段の制限を付けないまま、34名の文化功労者を発表した。授与式は、特に行われなかった[4]。 文化勲章受章者は原則として、前年度までに文化功労者として顕彰を受けた者の中から選ばれる[5]。 注釈[編集] ^ 2017年までは毎年15人が原則であったが、2018年からは20人に増員されている。 ^ 日本出生であるが、1970年(昭和45年)にアメリカ合衆国国籍に帰化。 ^

Continue reading

江別市立野幌小学校 – Wikipedia

江別市立野幌小学校(えべつしりつ のっぽろしょうがっこう)は、北海道江別市西野幌にある公立小学校。 江別市内唯一の小規模特認校。 学校沿革史(書籍)や江別市史等、他の資料をお持ちの方の加筆訂正をお願いします。 1896年(明治29年)10月 – 野幌尋常小学校創設、修業4か年[2]。 1908年(明治41年)4月 – 修業年限6か年となる。 1916年(大正5年) 11月 – 野幌実科農学校を併置。 12月 – 志文別簡易教習所併合、現在地移転。 1927年(昭和2年)4月 – 高等科設置、野幌尋常高等小学校と改称。

Continue reading

ケータイデータお預かりサービス – Wikipedia

ケータイデータお預かりサービス(ケータイデータおあずかりサービス)は、ドコモ安心サービスの機能のひとつ。電話帳やメール、写真のバックアップをリモートでとることができるサービスである。以前の名称は、電話帳お預かりサービスであったが、2009年冬モデルから名称を変更し、バックアップ項目が最大12種類と増えている。 NTTドコモの携帯電話のアドレス帳や写真、メールなどをNTTドコモのサーバにバックアップがとれる。またメールアドレスを変更した際など、友人に一斉通報できる。さらに写真は保存だけでなくPCでの編集ができる。 バックアップは携帯電話または、PCからの手動でのバックアップをとる方法と、定期的に自動でバックアップを問う方法がある。誤ってサーバ上のアドレスを消してしまっても、復活することも可能。 アドレス帳や写真の編集などで、パソコンで利用する場合My docomoサイトからアクセスし、利用する。 携帯電話からは、機種の機能としてバックアップをとるか、iモードでアクセスしバックアップをとることができる。 csv形式のファイルをMydocomoサイトから、パソコンにダウンロードし、ドコモケータイdatalinkを使って編集などもできる。 iモードメールをPCやスマートフォンのブラウザで送受信するサービスである、iモード.netを利用する場合、本サービスを利用していれば、iモード.net用のアドレス帳として利用が可能となる。 2009年1月7日から、保存容量が4MBから100MBに拡大した。 利用料 100円/月(2009年6月1日より、初月無料) 利用可能機種 902is以降の機種(対応していない機種もある) バックアップが可能なもの[編集] 機種によって預かれるデータが変わる。 スマートフォン[編集] 2011年3月15日より、NTTドコモではドコモ スマートフォンでも電話帳のバックアップサービスを開始すると発表した。保存可能容量は100MB(または3000件)となり、バックアップやリストア機能などを備えている。しかし、2011年3月11日に発生した、東北太平洋沖地震によるネットワークの負荷を考慮して、サービス時期を後ろ倒しをするとしている。 法人での利用[編集] ビジネスmopera安心マネージャーの機能で、電話帳お預かりサービスの機能以上のことができる。 アドレス帳の遠隔削除 共有アドレス帳

Continue reading

秋田市八橋運動公園硬式野球場 – Wikipedia

球場正面。2016年の命名権実施後、さきがけ八橋球場のプレートが掲げられている。(2018年10月) 秋田市八橋運動公園硬式野球場(あきたしやばせうんどうこうえんこうしきやきゅうじょう)は、秋田県秋田市の八橋運動公園内にある野球場。現在、球場の銘板は秋田市八橋野球場と表記されている。施設は秋田市が所有し、秋田市教育委員会スポーツ振興課が運営管理を行っている。2016年(平成28年)4月1日からは、秋田魁新報社が命名権を取得し、さきがけ八橋球場という呼称を用いている。 1941年9月、秋田市営八橋球場(あきたしえいやばせきゅうじょう)として完成。 八橋球場は戦後秋田県内の野球の中心的な存在となり、高校野球、社会人野球などアマチュア野球公式戦が現在に至るまで行われている他、2002年まではプロ野球公式戦も開催された。特にプロ野球では秋田県南秋田郡若美町(現男鹿市)出身の落合博満(中日ドラゴンズ元監督)が現役時代、ロッテオリオンズに在籍していた頃にはロッテ主催のパ・リーグ公式戦がほぼ毎年開催されていた。 しかし、当時のフィールドは両翼90m、中堅112mと非常に狭隘で、プロ野球公式戦開催規格よりも10mも狭く、特にプロ野球では本塁打が多数出るなど問題になっていた[要出典]。このため、秋田市では球場の完成50周年に合わせて1990年に外野拡張・スコアボード改築など大規模な改修工事を実施し、1991年シーズンから供用を再開。両翼100m、中堅122mのプロ野球開催規格に適合するフィールドを備える野球場となった。なお、八橋球場はこの改修工事のため1990年シーズンは全面閉鎖となったが、同年予定されていたパ公式戦・ロッテオリオンズ対近鉄バファローズ戦は旧秋田県立球場(1974年竣工)で代替開催された。 プロ野球公式戦ではロッテの他、オリックス・ブルーウェーブ、広島東洋カープなども主催試合を開催していた。しかし八橋球場は、開場当時のスタンドを増改築しながら供用し続けたものであるため老朽化・狭隘化が著しく、また幹線道路に面しているため大規模な増改築やプロ野球のナイター開催に対応できる照明設備を追加設置するのが困難な状況だった。また八橋球場はバックネット裏のメインスタンド、一・三塁側の内野スタンドの全席がいわゆる「長椅子」のベンチ席となっているため、プロ野球などを開催するにも座席の設定に指定席を設けることができなかった。このため近年のプロ野球公式戦では、内野スタンドは「全席自由」とされたケースがほとんどだった。さらにロッカールーム(控室)などメインスタンド内の諸室が非常に狭いため、選手がスタンド外で着替えを強いられる事もあったほどで、こうした八橋球場の設備不備はプロの選手・コーチ・スタッフからも非常に不評であった。このように八橋球場は、次第にプロ野球を開催するにはそぐわない状態となりつつあった[要出典]。こうした中、県内の競技団体や市民団体が市に対し、八橋球場の改築や新たな市営野球場の整備、さらには移動照明車によるプロ野球・Jリーグのナイター開催を求め、署名や募金活動を行うなどといった動きも見られた(一部後述)。 2003年、県が市街地西側の向浜地区に秋田県立野球場(こまちスタジアム)を完成させた。同じく老朽化が進んでいた旧秋田県立球場に代わる施設として整備したもので、25,000人収容でプロ野球にも対応できる照明設備が設けられた。これに伴い、八橋球場では2002年シーズンを以ってプロ公式戦の開催を終了。以後は高校、社会人などアマチュア公式戦や一般利用などに供用されるようになった。 しかし、八橋球場の老朽化・狭隘化は著しいままで、アマチュア公式戦を開催する上でも問題点が数多く[要出典]、また2007年開催の第62回国民体育大会(秋田わか杉国体)の会場として使用することもあり、抜本的な対策が求められていた。このため、市は2005年の全国高等学校野球選手権秋田大会終了後(8月)から大規模な改修工事を実施した[1]。メイン・一、三塁側スタンドを全面改修し、外装補修の他、ロッカールームなど諸室も拡充された。またスタンドの座席を全て交換した上で設置方法も改善して通路を拡幅し、トイレなどスタンド内各所にスロープを設置するなどバリアフリー対策も執られた。またスコアボードも磁気反転式に改修されるなど施設拡充が図られ、2006年シーズンより供用を再開した。なお、この改修に伴い収容人員は19,560人から16,421人に減少した。 2015年11月に命名権を秋田魁新報社が取得し、2016年4月1日より3年間の契約期間で「さきがけ八橋球場」(さきがけやばせきゅうじょう)の愛称が使用される[2]。 2017年5月16日、当球場自体は15年ぶりに、東北楽天ゴールデンイーグルスの当球場での主催試合としては初めての開催となるプロ野球公式戦(東北楽天ゴールデンイーグルス対北海道日本ハムファイターズ)が開催される予定[3] であった。球場は交通量が多い山王大通りに面しているため、球場外に出たファウルボールが人や車に当たることが懸念されており、球団側は当初安全対策として「大通り側に複数のクレーン車を配置し、延ばしたクレーンの間にネットを張って対応する」方針だったが、強風時にクレーン車がネットごと倒れる恐れが拭えないとして、秋田県立野球場へ変更となった[4]。 主なエピソード[編集] 観客の負傷事故 1981年5月23日に開催された近鉄バファローズ対西武ライオンズ戦で、近鉄の島本講平の打ったファウルボールが観客(学生)の顔面に当たり、3針を縫う負傷事故が起きた[5]。観客を多く入れたためにボールを避けきれなかったことが原因であった[5]。 金田vsトレーバー 1991年5月19日のロッテ対近鉄戦では、ロッテ・園川一美の内角攻めに激高した近鉄・ジム・トレーバーが園川に暴行を加えたのをきっかけに、両チーム入り乱れての大乱闘に発展。トレーバーは暴力行為で退場処分を受け、一旦乱闘は治まった。 ところが、収まりが付かないトレーバーは再び激高するや、一塁側のロッテベンチへ猛突進。止めに入らんと再び両チームがとっさに駆け寄ったが、トレーバーは勢い余ってバックネット付近で前のめりに転倒。この際、ちょうど転倒した場所にいたロッテ監督・金田正一がとっさにトレーバーの顔面に蹴りを入れた。しかし審判からこの一部始終は見えなかったためか金田は不問とされ、退場者はトレーバー一人だけだった。 移動照明車購入構想 秋田市でのプロ野球・Jリーグのナイター開催を目指す市民団体「市民の手でナイターを実現させる会」は、1995年3月から1998年6月にかけて募金活動を行った。これは、八橋運動公園内の野球場と陸上競技場に、移動照明車による簡易ナイター照明を導入しようというもので、団体がまず市民・県民からの募金により1億円を集めて照明車を1台購入し、更にプロ野球開催に必要な5台分の購入を、秋田市に働きかけるというもの。 募金開始から1年9か月後の1997年12月の秋田市議会では、募金額は「約2,000万円」と秋田市の教育長から答弁されている[6]。しかし安全性やランニングコストの問題がネックとなったこと、更にはJリーグ公式戦開催スタジアムの要件緩和(照明なしでも開催可能に)、それに秋田県立野球場の建設計画が具体化するなどしたため、その後は募金額が伸び悩み、募金は結局20,346,914円で打ち切られ、集まった募金は全額、秋田市体育協会に預託され、プールされた。[要出典]

Continue reading

弘前大学教育学部附属小学校 – Wikipedia

弘前大学教育学部附属小学校(ひろさきだいがくきょういくがくぶふぞくしょうがっこう, Elementary School Attached to the Faculty of Education, Hirosaki University)は、青森県弘前市大字学園町にある弘前大学教育学部附属の国立小学校。 附属幼稚園と附属中学校に隣接している。 歴史 1877年(明治10年)6月創立の「青森県小学師範学校弘前分校附属小学校」を起源とする。1879年(明治12年)は師範学校青森本校に移転し、長く青森市にあったが1945年(昭和20年)の青森大空襲により校舎が全焼したため弘前市に移転。公立の国民学校・小学校の附属代用を経て、1948年(昭和23年)に附属弘前小学校および附属駒越小学校の2校が設置される。新制弘前大学の発足および青森師範学校の廃止に伴う改称を数回経て、1965年(昭和40年)に2校あった附属小学校を統合し、現校名となった。 校訓 「強く 明るく 豊かに」 校章 青森師範学校時代の校章を継承し、旭日章を背景にして、中央に「附小」の文字(縦書き)を置いている。

Continue reading