Month: May 2020

廊坊事件 – Wikipedia

2006年3月現在の廊坊駅 廊坊事件(ろうぼうじけん)は、1937年(昭和12年)7月25日から26日に中華民国の北平(北京市)近郊の廊坊にある廊坊駅(現在の廊坊北駅)で発生した日中間の武力衝突。郎坊事件と表記される場合もある。 位置付け[編集] 7月7日夜の盧溝橋事件勃発後、現地停戦協定が結ばれたものの国民革命軍第二十九軍の部隊は7月13日に大紅門で日本軍トラックを爆破して4名を殺害し(大紅門事件)[1]。7月14日には日本軍騎兵を惨殺した[1]。 7月20日には盧溝橋城から日本軍に射撃を加え、同時に八宝山方面にあった部隊の一部も日本軍を攻撃したため日本軍も応戦するという事件を起こしていた[2]。廊坊事件が起きたことから7月26日日本軍支那駐屯軍司令官は日本陸軍参謀総長から武力行使容認の許可を受け[3][4]、盧溝橋と八宝山の部隊については27日正午、北平城内兵と西苑部隊については28日正午を期限とする退去勧告を二十九軍に出した[5]。 しかし、北平の広安門において中国側が広安門事件を起こすと日本軍支那駐屯軍は退去勧告を取り消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し、日本軍の軍事行使の宣言と北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告し[6]、28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、広報としては河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告したが、これと同じ内容は内閣書記官長談としても発表された[7]。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃討が完了した。 日本側の見解[編集] 盧溝橋事件発生以来、天津北平間の日本側軍用電線は度々中国側に切断されていた[8]。7月25日、廊坊付近で中国軍兵営内を通過する軍用電線が故障したため支那駐屯軍は前もって中国側に通報してから[注釈 1]、通信隊とその護衛に第20師団麾下の歩兵第77連隊第11中隊(中隊長、五ノ井淀之助中尉)を付けて派遣した[10]。部隊は午後4時半頃、廊坊に到着、付近の守備についていた国民革命軍第二十九軍第三十八師(中国語版)第百十三旅第二百二十六団と折衝を終えてから、その守備区域内を通過する日本軍の軍用電線の修理を開始した[10]。 午後11時10分頃、中国軍が小銃と軽機関銃による発砲を開始、廊坊駅の北300メートルの中国軍兵営からは迫撃砲の砲撃が加えられたため、五ノ井部隊は応戦した[10]。五ノ井部隊からの連絡により天津駐屯軍は歩兵第77連隊(連隊長、鯉登行一大佐)を現場に派遣し、この部隊は翌日午前6時半から午前7時半にかけて戦線に加わり、さらに北平居留民保護の為北上してきた広部部隊の協力と飛行隊による中国軍兵営への爆撃も加わり午前8時頃中国軍部隊は通州街道方面に潰走した[8]。 この中国軍部隊はそれまで日本軍と紛争を起こしたことが無かった張自忠が師長である第三十八師所属部隊であったため日本側に油断があった[10]。日本側の損害は戦死が下士官1名、兵3名、負傷が下士官1名、兵9名、死傷者の合計は14名であった[8]。この事件を重く考えた駐屯軍は午前11時中央部に積極的兵力行使を申請し、参謀本部第一部長からこれを認める回答を得た[4]。 中国側の見解[編集] 7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、「電話修理」と称して同駅を占拠した。廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、日本軍はそれを拒否。26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した[11]。 記録映画[編集] 注釈[編集] ^ 支那駐屯軍の参謀長であった橋本群中将は「不祥事件の勃発を予防する為予め支那側に通告して」いた、と証言している(『極東国際軍事裁判速記録』202号)[9]。 出典[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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レンフェ440系電車 – Wikipedia

レンフェ440系電車 440系電車フランス・セルベール駅(1988年) 基本情報 運用者 レンフェ(スペイン国鉄) 製造所 艤装CAFMACOSA(スペイン語版)電気機器三菱電機[注釈 1]WESA[注釈 2]GEE[注釈 3] 製造年 1974年 – 1985年 製造数 255編成 運用開始 1975年 主要諸元 編成

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エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ – Wikipedia

エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ(Emir Kusturica & The No Smoking Orchestra)は、ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエヴォで結成された音楽バンド。バルカン半島の伝統音楽を下敷きに、ロックやジャズ・スカなど多様なジャンルを混合させた独特の音楽性を持つ。 原型となったバンドは、1980年に現リーダーのネレ・カライリチを中心として結成された。 デビュー直後に新鋭のパンク・バンドとして国内でブレイクを果たすも、当時のチトー政権を批判したとして活動休止状態に追い込まれる。 86年には新鋭の映画監督として注目を集めていた友人のエミール・クストリッツァがギタリストとして帯同するようになり再び脚光を帯びるも、新作映画の撮影開始に伴うクストリッツァの脱退や、92年ボスニア紛争による治安の悪化・メンバー同士の政治的対立などで、今度は事実上の解散となる。 内戦が終わった97年頃に、再び活動を再開。98年にクストリッツァの映画『黒猫・白猫』の音楽を担当し、音楽性がパンク・サウンドから、ブラス楽器を取り入れた現在のミクスチャー・サウンドへと変化。以後クストリッツァ作品の音楽を殆ど担当し、国内だけでなく海外からの評価も受けるようになる。 2000年から今のバンド名を名乗るようになる。2008年にはワールドツアーを敢行。日本にも初めて訪れる。 ちなみにドラムを担当しているストリボル・クストリッツァは、エミール・クストリッツァの実子である。 メンバー[編集] ドクトル・ネレ・カライリチ Dr Nele Karajlić (ヴォーカル) デヤン・スパラヴァロ Dejan Sparavalo (ヴァイオリン) エミール・クストリッツァ Emir

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テクノプロ – Wikipedia

株式会社テクノプロTechnoPro, Inc. 種類 株式会社 本社所在地 日本〒106-6135東京都港区六本木6-10-1六本木ヒルズ森タワー35階 設立 1997年6月 業種 サービス業 法人番号 2010401069169 事業内容 技術系人材サービス(労働者派遣、受託、請負、コンサルティング) 代表者 代表取締役社長 西尾保示 資本金 1億1百万円 売上高

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クリス・バライカ – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 クリストファー・アンドリュー・バライカ(Christopher Andrew Valaika, 1985年8月14日 – )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡サンタモニカ出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。右投右打。現在は、MLBのクリーブランド・ガーディアンズで打撃コーチを務める。 弟のパット・バライカもメジャーリーガー(内野手)である。 メディアによっては「バレイカ」と表記されることもある。 プロ入りとレッズ時代[編集] 2006年のMLBドラフト6巡目(全体84位)でシンシナティ・レッズから指名され、6月19日に契約。契約後、傘下のパイオニアリーグのルーキー級ビリングス・マスタングス(英語版)でプロデビュー。70試合に出場して打率.324、8本塁打、60打点、2盗塁を記録した。 2007年はまずA級デイトン・ドラゴンズでプレーし、79試合に出場して打率.307、10本塁打、56打点、1盗塁を記録した。7月にA+級サラソタ・レッズへ昇格した。ここでは57試合に出場して打率.253、2本塁打、23打点を記録した。 2008年はまずA+級サラソタでプレーし、32試合に出場して打率.363、7本塁打、31打点、2盗塁を記録した。5月にAA級チャタヌーガ・ルックアウツへ昇格した。ここでは97試合に出場して打率.301、11本塁打、50打点、7盗塁を記録した。また、この年はオールスター・フューチャーズゲームのアメリカ合衆国選抜に選出された。 2009年はAAA級ルイビル・バッツでプレーし、95試合に出場して打率.235、6本塁打、36打点、1盗塁を記録した。オフの11月20日にレッズとメジャー契約を結び[1]、40人枠入りした。 2010年3月18日にAAA級ルイビルへ異動し、そのまま開幕を迎えた。AAA級ルイビルでは118試合に出場して打率.304、4本塁打、53打点、3盗塁を記録した。8月24日にメジャーへ初昇格し[2]、同日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビュー。6回表に代打として出場し、サンティアゴ・カシーヤからメジャー初安打を放った。この日は2打数1安打1三振だった[3]。8月27日のシカゴ・カブス戦では、3打席目にトム・ゴーゼラニーからメジャー初本塁打を放った[4]。この年メジャーでは19試合に出場して打率.263、1本塁打、2打点を記録した。 2011年3月27日にAAA級ルイビルへ異動し、そのまま開幕を迎えた。4月24日にスコット・ローレンが故障者リスト入りしたため、メジャーへ昇格した[5]。8試合に出場したが、5月13日にローレンが故障者リストから復帰したため、AAA級ルイビルへ降格した[6]。ロースターが拡大した9月1日にメジャーへ昇格[7]。9月12日に前十字靭帯を損傷し[8]、そのままシーズンを終えた。この年は14試合に出場して打率.280を記録した。 2012年3月25日にAAA級ルイビルへ異動し、そのまま開幕を迎えた。この年はメジャーへ昇格することなく、AAA級ルイビルとルーキー級アリゾナリーグ・レッズでプレー。AAA級ルイビルでは85試合に出場して打率.223、6本塁打、29打点、2盗塁を記録した。9月4日に40人枠から外れた[9]。オフの11月3日にFAとなった。 マーリンズ時代[編集] 2012年11月5日にマイアミ・マーリンズとマイナー契約を結んだ。 2013年3月31日にマーリンズとメジャー契約を結んだ[10]。開幕後は22試合に出場したが、5月8日に左手首の故障で15日間の故障者リスト入りし[11]、7月7日に60日間の故障者リストへ異動した[12]。7月23日に故障者リストから外れたが、同日にDFAとなり[13]、25日にマイナー契約で傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズへ配属された[14]。この年マーリンズでは22試合に出場して打率.219、1本塁打、9打点を記録した。レギュラーシーズン終了後の10月1日にFAとなった。

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タイ・ウェスト – Wikipedia

タイ・ウェストTi West 2013年 生年月日 (1980-10-05) 1980年10月5日(41歳) 出生地 アメリカ合衆国 デラウェア州ウィルミントン 職業 映画監督、脚本家、編集技師、俳優 ジャンル 映画、テレビドラマ テンプレートを表示 タイ・ウェスト(Ti West、1980年10月5日 – )は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、編集技師、俳優である。2013年、雑誌『Complex』によって「25人の注目すべき35歳以下の映画監督」の1人に選ばれた[1]。 目次 1

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花岡堅而 – Wikipedia

花岡 堅而(はなおか けんじ、1910年11月12日-1997年4月22日)は日本の医師。日本医師会会長、長野大学理事長、長野五輪招致委員会の自然保護専門委員長などを務めた。 長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)生まれ。旧制松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1936年に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業し、同大学の生化学教室や産婦人科教室で勤務した。1941年、岡谷市立岡谷病院の産婦人科医長に就任し、1943年から軍医として中国北部で従軍。終戦後の1946年に復員して新潟大学の産婦人科教室に戻り、翌1947年に岡谷病院の産婦人科医長に復職している。 1955年、入院施設のなかった長野市吉田地区に医療法人慈恵会吉田病院を開設した。1958年に長野市医師会理事に就任し、1962年に日本医師会代議員、1970年から長野市医師会長を務める。1976年には長野県医師会長、1982年から1984年までは日本医師会会長に就いた。1986年に勲二等旭日重光章を受けている。戦時中の体験から長野県日中友好協会長を1985年から9年間務め、医学交流などを推進した。また、長野五輪招致委員会の自然保護専門委員長として、環境への影響が小さい白馬村・白馬八方尾根スキー場での滑降の開催の検討を提言した。1992年に脳卒中で倒れた後、1997年に心臓発作のため86歳で死去。正四位が追贈されている。 『安曇野の幻想』 参考文献[編集] 『花岡堅而 元日本医師会長のご逝去を悼む』 日医雑誌、Vol.118(2)、P.241-245、1997年 表 話 編 歴 日本医師会会長(第12代: 1982年-1984年) 初代 北里柴三郎1916-1931 / 2代 北島多一1931-1943 /

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ダニエル・ヴィエルジュ – Wikipedia

ヴィエルジュのサイン(1871年) ダニエル・ヴィエルジュ (西:Daniel Vierge、1851年3月5日 – 1904年5月10日) はスペイン – フランスの画家、製図工、イラストレーター。マドリードで生まれ、パリで活躍した。 30歳のときに病で右半身不随となるが、左手でも多くの作品を残し、『レ・ミゼラブル』、『ドン・キホーテ』などの小説の挿絵も描いた。 父ヴィセンテ(左)と弟のサムエル ダニエル・ヴィエルジュ(本名:Daniel Urrabieta Vierge)は、製図工の父親、ヴィセンテ・ウラビエタとフランス生まれの母親、フアナ・ヴィエルジュ・デ・ラ・ベガの間にマドリードで生まれた。弟のサムエル・ウラビエタものちに画家となった。 彼は1864年から王立サン・フェルナンド美術アカデミーで学び、フェデリコ・デ・マドラーソに師事した。1869年頃に家族とともにパリへ移住し、普仏戦争が始まると、家族はスペインに戻った。 彼は1870年に雑誌『ル・モンド・イリュストレ』で働き始め、1870年9月17日号に初めて彼のイラストが掲載された。 彼は自分の作品にセカンド・ネームのVIERGEと署名した。これはフランス人にとって覚えやすい名前であるだけでなく、ともに画家として活動していた父親と区別するためでもあった。 彼は版画家のエドモン・モランの作品から影響を受け、1871年パリ・コミューンにおいてはギュスターヴ・フルーランス (fr) やロワール・リゴー

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茨城県道25号土浦稲敷線 – Wikipedia

茨城県道25号土浦稲敷線(いばらきけんどう25ごう つちうらいなしきせん)は、茨城県土浦市から稲敷市に至る県道(主要地方道)である。 茨城県土浦市中村南の学園東大通り入口交差点を起点とし、JR常磐線を跨線橋で渡り、阿見住吉交差点で折れて南下し、稲敷郡阿見町実籾を経て稲敷市江戸崎の終点へ至る主要地方道である。阿見町住吉 – 牛久市ひたち野東間は、JR常磐線や国道6号と平行し、阿見町荒川本郷 – 稲敷市江戸崎間は、首都圏中央連絡道(圏央道)と平行する。 路線データ[編集] 1972年(昭和47年)3月1日、前身路線の谷田部江戸崎線を廃止して、その一部区間(荒川本郷 – 江戸崎)を引き継ぐ路線として、土浦市を起点とし、稲敷郡江戸崎町(現:稲敷市)の終点とする区間を茨城県が土浦江戸崎線として路線認定した県道である。1995年(平成7年)に、茨城県道の路線再編が行われた際に、整理番号43から現在の整理番号25となり、さらに市町村統合(平成の大合併)が行われたため、2006年(平成18年)には終点の自治体名称の変更に合わせて、現在の路線名称である土浦稲敷線に変更されて現在に至る。 年表[編集] 1972年(昭和47年)3月1日 茨城県が土浦江戸崎線(整理番号43)として路線認定[3]。 土浦市大字 – 稲敷郡江戸崎町戸張の区間(延長20.692 km)を道路区域に決定、供用開始[1]。 前身路線である谷田部江戸崎線(筑波郡谷田部町 – 稲敷郡江戸崎町、整理番号135)を廃止[4][注釈

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