Month: August 2020

尾白利加川 – Wikipedia

尾白利加川 水系 一級水系 石狩川 種別 一級河川 延長 42.1 km 流域面積 157.3 km² 水源 南暑寒岳(新十津川町、雨竜町) 河口・合流先 石狩川 (滝川市) 流域 北海道空知総合振興局管内 テンプレートを表示

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新しい波16 – Wikipedia

「なみいろ」はこの項目へ転送されています。ソーシャルゲーム及びソーシャルゲームを基にした同名漫画作品については「なみいろ (ゲーム)」を、川崎真央写真集については「川崎真央#出版」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “新しい波16” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年4月) 『新しい波16』(あたらしいなみじゅうろく)は、2008年10月13日から2009年3月16日までフジテレビで放送されていたバラエティ番組。略称『なみいろ』。 「次世代のお笑い芸人の発掘」というコンセプトのもと、毎回原則1組の若手お笑い芸人が登場し、ネタを披露する。1992年から1993年まで放送された『新しい波』(『めちゃ×2イケてるッ!』(以下『めちゃイケ』)の源流)、2000年から2001年まで放送された『新しい波8』(『はねるのトびら』(以下『はねトび』)の源流)の系譜を引き継いでおり、タイトルは『新しい波8』の8年後を意味する。 『めちゃイケ』の総監督で『はねトび』の監修でもある片岡飛鳥が企画を担当し、『めちゃイケ』のプロデューサーである中嶋優一がプロデューサーを担当。スタッフは「波十六楽坊」(女子十二楽坊をもじったもの。「おだいばZ会」「波8組」に相当)と呼ばれている。 『新しい波』『新しい波8』の放送当時と違い、お笑い番組や若手芸人が飽和状態であり、これから世に出ようとする芸人にとって厳しい現状を砂漠に例えている。そのため司会のウエンツ瑛士は第2回よりアラブ人風の衣装を着せられている。 8年後の2016年12月28日、特別番組枠で『新しい波24』のパイロット版が放送され、翌年2017年4月からレギュラー放送がスタートした。 白いテントのようなセットの中、ウエンツの自由なオープニングトーク(主にスタッフネタ)があり、そのトークに繋がるようなナレーションのついたオープニングアニメーションが流れ番組は開始する。 再びテントの中、出演者の簡単な紹介をして背後のカーテンをめくり、舞台セットのある客席の一番後ろに座って開始の合図を出すと、照明が落ち拍手と共にネタが始まる。ネタを終えた出演者は舞台から客席中央に設けられた小さなステージに移動し、ウエンツとのエンディングトークで終了する。 番組終了前に出演者の中からオレンジサンセット・ヒカリゴケ・少年少女・ニッチェ・かまいたち・しゃもじが選抜され、この6組を主役とした後続番組『ふくらむスクラム!!』が決定した。 司会

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武蔵国分寺 – Wikipedia

武蔵国分寺(むさしこくぶんじ)は、東京都国分寺市にある真言宗豊山派の寺院。山号は医王山。院号は最勝院。本尊は薬師如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。創建当時の史跡については武蔵国分寺跡を参照。 『医王山国分寺縁起』によれば、武蔵国の国分寺は、元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いで焼失し、建武2年(1335年)、新田義貞により薬師堂が再建されたという。その後衰退し、1725年に本堂が再建され、宝暦6年(1756年)頃に薬師堂が再建された[2][3]。 武蔵国分寺の見取り図 薬師堂は、建武2年(1335年)に新田義貞が旧国分寺の金堂跡に建てたことに始まると伝える。現在の建物は宝暦年間(1751年-1763年)の再建。安置する薬師如来坐像は国の重要文化財である。仁王門は宝暦年間(1751年-1763年)の建立で、入母屋造の八脚門。楼門は米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したもの。これら薬師堂・仁王門・楼門は、市の文化財に指定されている。 また境内には「万葉植物園」として、元国分寺住職が昭和25年-38年(1950 – 1963年)の間に万葉集に歌われた植物160種を集めて造った植物園がある。この植物園は市の天然記念物に指定されている。 万葉植物園(市指定天然記念物) 薬師堂(市指定文化財) 仁王門(市指定文化財) 楼門(市指定文化財) 国分寺所有および武蔵国分寺関連文化財の一覧。 重要文化財(国指定)[編集] 木造薬師如来坐像(彫刻) – 平安時代末から鎌倉時代初期の作[4]。大正3年指定[5]。10月10日のみ公開。 武蔵多喜窪遺跡第一号住居跡出土品 – 昭和50年指定[6]

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てるてる坊主 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “てるてる坊主” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年7月) てるてる坊主(てるてるぼうず)は、日本の風習の一つである。照る照る坊主とも表記される[1]。翌日の晴天を願い、白い布や紙で作った人形を軒先に吊るすもので、「てるてる法師」、「てれてれ坊主」、「日和坊主(ひよりぼうず)」、「てれれ坊主」など地域によって様々な呼称がある。また、同名の童謡がある。 日本では、江戸中期には既に飾られていたようである。この頃の人形は折り紙のように折って作られるもので、より人間に近い形をしており、これを半分に切ったり、逆さに吊るしたりして祈願した。19世紀はじめの『嬉遊笑覧』には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記されている。『日本国語大辞典』によると、江戸時代の文献では「てり雛・てり法師・てりてり坊主・てるてる・てるてる法師・てるてる坊主・てれてれ法師」など、さまざまに呼ばれていた。 てるてる坊主に似た風習[編集] 中国には箒を手にした切り紙の人形である掃晴娘[2]があり、これと日本のてるてる坊主との類似はすでに江戸時代の榊原篁洲『榊巷談苑』で指摘されている[3]。また、ヘボン『和英語林集成』は「TERI-TERI-BŌZU」に「掃晴娘」の字をあてている。掃晴娘は文献上金末元初の李俊民の「掃晴婦」詩に見えるのが古い。『燕京歳時記』にも見え[4]、20世紀はじめまでは一般に見られる習俗だったようだが、現在は知らない人が多く、むしろ日本から伝わったてるてる坊主の方が知名度が高い[5]。 『蜻蛉日記』下巻に「今日かかる雨にもさはらで、同じ所なる人ものへまうでつ。さはることもなきにと思ひて出たれば、ある者『女神にはきぬ縫ひて奉るこそよかなれ。さしたまへ』と寄り来てささめけば『いで試みむかし』とて、縑(かとり)の雛衣(ひひなぎぬ)三つ縫ひたり」とあるのを、掃晴娘に関係づけるむきもある[要出典]。 童謡『てるてる坊主』[編集] 浅原鏡村(浅原六朗)が作詞し、中山晋平が作曲した『てるてる坊主』という題名の童謡がある。1921年(大正10年)、『少女の友』にて発表され、教科書にも掲載されていた。 最初に発表されたときには4番まであり、その1番は「もしも曇って泣いてたら 空をながめてみんな泣こう」という歌詞だったが、後に削除された[6]。また、3番で「それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ」もあるが、歌詞が残酷すぎるとしてその3番がカットされることもあるようである。 戦後から1960年までにレコード売上は15万枚に達し、ロングヒットを続けている[7]。 1976年のイタリアの国際児童音楽祭「第18回ゼッキーノ・ドーロ」では、この歌が「Teru terubozu」という題名でイタリア語詞を施され出場している[8]。イタリア語詞はフランコ・マレスカ(Franco

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フェリーニへのオマージュ – Wikipedia

『フェリーニへのオマージュ』(原題:Omaggio a Federico e Giulietta)は、ブラジル人ミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾが1997年に録音、1999年に発表したライブ・アルバム。イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニと、彼の妻ジュリエッタ・マシーナに捧げられた特別公演のライブ録音を収録している。 公演地はフェリーニの故郷リミニに近いサンマリノ共和国で、公演日はフェリーニとジュリエッタの結婚記念日に合わせて10月30日となった[1][2]。ヴェローゾによれば、このコンサートが企画されたきっかけは、フェリーニの妹マッダレーナ・フェリーニ(イタリア語版)からの手紙だったという[3]。以前よりヴェローゾの作品をプロデュースしてきたジャキス・モレレンバウンに加えて、ルイス・ブラジル、ジョルジ・エルデル、カルロス・バラといったミュージシャンがバックを務めた[2][4]。 「キ・ナォン・シ・ヴェー(見えないもの)/コメ・トゥ・ミ・ヴオイ(目には見えない)」は、映画『甘い生活』で使用されたニーノ・ロータの曲が元になっており、ヴェローゾ自身がポルトガル語詞を追加した[3]。ヴェローゾがジュリエッタに捧げたオリジナル曲「ジウリエッタ・マシーナ」は、1987年のアルバム『フェラ・フェリーダ』が初出であり[2]、マッダレーナからの手紙によれば、生前のジュリエッタ自身もこの曲に感動したとのことである[3]。「ジェルソミーナ」はニーノ・ロータが映画『道』のために作った曲で、本作では異なるアレンジで2度収録されている。アーヴィング・バーリンが映画『艦隊を追って』(1936年)のために作詞・作曲した「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス」のカヴァーのみ英語詞で、フェリーニの監督映画『ジンジャーとフレッド(イタリア語版)』(1985年)でも使用されていたことから取り上げたという[3]。 Alvaro Nederはオールミュージックにおいて5点満点中4点を付け「ヴェローゾが長年崇拝してきた人物のイメージと向き合った感激のせいか、彼自身は決して本調子ではない。しかし、時々ボーカルが弱くなっているにもかかわらず、彼の解釈は極めて誠実で、監督に対する敬愛に満ちた不思議な特質を、優美に伝えている」と評している[5]。また、Josef Woodardは『ジャズタイムズ (JazzTimes)』誌で、「このコンサートは、フェリーニに特化した言及というよりも、むしろ偉大なイタリアの映画監督の魂に対する、極めて個人的なオマージュである」と評している[6]。 特記なき楽曲はカエターノ・ヴェローゾ作。 キ・ナォン・シ・ヴェー(見えないもの)/コメ・トゥ・ミ・ヴオイ(目には見えない) – “Que Não Se Vê (ComeTu Mi

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女囚さそり 第41雑居房 – Wikipedia

この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください。 『女囚さそり/第41雑居房』(じょしゅうさそり/だい41ざっきょぼう)は、1972年(昭和47年)12月30日公開の日本映画。東映東京撮影所製作。 同年8月25日公開『女囚701号/さそり』に次ぐ、女囚さそりシリーズの第二弾。 本作は、前作の続編で脱走したナミが再び刑務所に入れられ、刑務所の外での作業終わりに移送中の車から女囚6人たちと共に脱走し、街まで逃亡を試みるという内容になっており、ややロードムービー的な作品となっている。 本作では、女囚たちの過去の犯罪が語られるシーンやナミたちが乗ったバスがトンネルに入るシーンなどで現実世界とは違う空想世界のような演出が取られている。 ストーリー[編集] 女囚さそりこと松島ナミ(梶芽衣子)は法務省巡閲官の目前で、刑務所長の郷田(渡辺文雄)の隻眼めがけ、尖らせたスプーンの柄を突き刺した。女囚逹への憎悪を燃やす郷田は、石切場の重労働を与えた。ナミは、郷田の企みにより看守の辻(小松方正)らに凌辱される。看守らの隙を突き彼らを殺害し、ナミ、大場(白石加代子)ら女囚逹7人は脱走を図る。 スタッフ[編集] キャスト[編集] 松島ナミ 演 – 梶芽衣子 『さそり』の異名を持つ。脱走の常習犯。前作の口数の少ない性格に加え、攻撃的な性格で強い視線と瞬間的な怒りの感情を出すようになっている。ひでたち6人の女囚と共に脱走を図っているが、ひでたちからは良く思われておらず、その場しのぎに一緒に行動している状態。脱走中は、途中で出会った老婆からもらった包丁を武器に行動する。 ナミと共に脱走する6人の女囚[編集] 大場ひで 演 – 白石加代子 女囚たちのリーダー的存在。野心家で気性が激しく、手段を選ばない。自身の顔にコンプレックスを持っている。ナミと共に脱走しているが彼女のことを敵視している。過去に夫が浮気した腹いせに自身の2人の子供を殺害している。脱走中は、看守から奪ったライフル銃を武器にして行動を取る。

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日本紡績協会 – Wikipedia

日本紡績協会(にほんぼうせききょうかい、英文名称Japan Spinners’ Association)は、紡績会社による業界団体。 1882年(明治15年)10月 – 愛知紡績所所長岡田令高の主唱により紡績聯合会設立 1888年(明治21年)6月 – 第6回総会で、綿花輸入関税の免除の運動を決議。「大日本紡績同業連合会」と改称。 1890年(明治23年)11月15日-11月21日 – 臨時総会で、ふたたび綿花輸入税免除を政府に請願すること、綿糸輸出税免除・綿糸輸入税増額の請願を決議。 1894年(明治27年)3月6日 – ボンベイから輸入の綿花の輸送をすべて日本郵船に委託する契約を同社と締結。 1895年(明治28年)1月 – 首相その他へ綿花輸入税免除にかんする請願書を提出。 1896年(明治29年)5月6日 –

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カーマック・マッケンドリック理論 – Wikipedia

カーマック・マッケンドリック理論(カーマック・マッケンドリックりろん、英: Kermack–McKendrick theory)は、集団を介して時間をかけて伝播していく感染症の症例数と分布を予測する仮説である。ケルマック・マッケンドリック理論とも呼ばれる[1]。ロナルド・ロスとヒルダ・ハドソン(英語版)の研究を基に、A・G・マッケンドリック(英語版)とW・O・カーマック(英語版)は1927年、1932年、1933年に3つの論文として理論を発表した。カーマック・マッケンドリック理論は確かにSIRモデルとその近縁モデルの源流であったが、カーマックとマッケンドリックは、ここで論じられている単純な区画モデルよりも、もっと繊細で経験的に有用な問題を考えていた。現代の論文と比べるとやや読みにくい文章ではあるが、重要な特徴は、感染年齢が伝播率と除去率に影響を与えるモデルであったことである。 これらの論文は、理論疫学の分野では非常に重要な意味を持つため、1991年にBulletin of Mathematical Biology(英語版)に再掲載された[2][3][4]。 エピデミックモデル(1927年)[編集] カーマック・マッケンドリック理論は、初期の形式では、感受性保持者(S)と回復/隔離者(R)のための単純な区画を使用しながら、感染した集団を感染年齢の観点から構造化する区画微分方程式モデルである。指定された初期条件は、 dSdt=−λS,{displaystyle {frac {dS}{dt}}=-lambda S,} ∂i∂t+∂i∂a=δ(a)λS−γ(a)i,{displaystyle {frac {partial i}{partial t}}+{frac {partial i}{partial

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夫婦岩 (北海道和寒町) – Wikipedia

北側ふもとから見える夫婦岩 夫婦岩(めおといわ)は、北海道上川郡和寒町にある岩(夫婦岩)。 1903年10月に発見され、中央に高さ10m級の男岩、男岩の西に女岩、男岩の東に子岩と呼ばれる岩が立ち並んでいる[1]。現在は和寒町が所有。家族岩と呼ぶ場合もあるが定着していない[2]。 所在地については、1975年発行の『和寒町史』では「市街の南西約9km、南丘の小高い山の上にある[3]」、2000年発行の『和寒町百年史』では「市街の南西約7kmで、標高333mの頂上に位置する[1]」と記載する一方、国土地理院の地形図では標高を323mと表記している[4]。 成因と成分[編集] 西側から見える夏の夫婦岩 夫婦岩は1300万 – 200万年前、火山活動により陸上に噴出した溶岩とされる[3]。成因は、現地設置の案内板では、1枚の岩が浸食されて3つに分かれたか、個別に堆積した溶岩が3つの塊になったかのいずれかであるとする[3]。岩質はいずれも角閃石安山岩[3]。この時代の角閃石を含む安山岩は道北ではここから幌加内町を経て天塩中川にかけて分布している[3]。 南側から見える冬の夫婦岩 記録に残る発見は1903年10月である。 町史での記述[編集] 西側から見える夏の夫婦岩 1975年発行の『和寒町史』では「夫婦岩は1903年10月、材木調査に出掛けた大石次郎、井内惣七、星長治、渋谷某の一行が発見したものである」と伝えている[3]。 南側から見える冬の夫婦岩 2000年発行の『和寒町百年史』では「発見は1903年、材木調査の折発見されたものである」と記している[1]。 相馬妙見神社[編集] 1915年4月1日からは夫婦岩を含む剣淵村の南部が和寒村となった。1917年、岩のある土地の所有者となった人物の呼びかけにより相馬妙見神社の分霊が岩に祀られ、祭礼も毎年開かれた[2][3]。和寒町が2005年に編纂した地元民の回顧談集によると、ふもとで暮らす男性は小学1年生の1923年ごろ、父の命で小学校6年生の姉とともに道産子を連れてへ夫婦岩に登り、祠に参拝したとという[5]。夫婦岩の前で子供相撲も行われていた。祠は1923年ごろにふもとへ移り(『和寒町史』の記述では「字三笠の競馬場に遷宮[3]」)分霊は合祀された[5]。 観光地としての整備[編集] 夫婦岩を説明する現地の看板

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