Month: August 2020

モーリス・ジゴ・デルベ – Wikipedia

モーリス・ジョゼフ・ルイ・ジゴ・デルベ(Maurice Joseph Louis Gigot d’Elbée、1752年3月21日 – 1794年1月6日)は、フランス革命期の政治家。反革命反乱であるヴァンデの反乱に参加し、カトリック王党軍最高司令官の座に就いた人物。 デルベは1752年、ドレスデンのフランス人家庭に生まれた。若いころはザクセン公国軍で士官の座に就いていた。1777年にフランスへやってきて帰化した。その後も軍隊での経験を重ね、旧体制下でも彼の戦略家としての名は広く知られていた。 1793年、ヴァンデの反乱の勃発に際し、ボープレオの城主におさまっていた彼はこれに参加、カトリック王党軍の幹部となる。初代総司令官となった、商人出身のジャック・カトリノーとは異なり、軍属経験のあるデルベは、反乱を「土器で鉄器に挑むようなものだ」と評するなど、比較的慎重派であった。やがてカトリノーが戦死すると、代わりに最高司令官に選出される。カトリノーは純粋な農民反乱を想定していた様だが、貴族であるデルベにとっては、この反乱は王党派の乱としての側面も無視できないものであった。 戦略家として名を馳せた彼は、リスクの大きい遠征を避け、まずはヴァンデ地方一帯に確たる地歩を築くことに腐心する。まずは人事の刷新を行い、レスキュール、ボンシャンらを師団将軍に、アンリ・ド・ラ・ロシュジャクランやフランソワ・ド・シャレットを将軍補佐するなど、軍の指揮系統を整備した。また、行政機構である最高評議会を設置し、責任者にベルニエ師を置くなどして体制の改革をはかった。 しかし一方で、新人事に不満を持ったシャレットらの離反を招く結果ともなってしまう。ヴァンデの反乱における最大の激戦・ショレの決戦では、一時は共和国軍を街に追い込むなど善戦したが、その結果市街戦に突入し、戦線は混乱。さらには共和国軍に不意をつかれ、大打撃を受ける。その後自身も重傷を負い、王党軍に退却を命じた。戦いの後、カトリック王党軍は敵の追撃をかわすべくロワール川を北上するが、デルベはこの途中に療養のために戦線を離脱する。やがてノワールムティエ島のノワールムティエ=アン=リル(Noirmoutier-en-l’Île)で共和国軍に捕らえられ、1月6日に銃殺刑に処せられた。このとき捕らえられた兵士1,500名も一緒に銃殺され、足が不自由な状態だったデルベは椅子に座ったまま執行された。 関連項目[編集]

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朱戸アオ – Wikipedia

朱戸 アオ(あかと アオ)は、日本の漫画家[2]。女性[3]。2019年にテレビドラマ化された『インハンド』や[4]、「コロナ禍を予言したかのようなリアルさ」を描いた『リウーを待ちながら』で注目を集める[5]。 デビューまで[編集] NHK以外のテレビ番組を見せてもらえないような、厳しい家庭に育つ[5]。しかし宮崎駿は許され、『風の谷のナウシカ』のコミックスを買ってもらい、それがきっかけとなり漫画にハマる[5]。朱戸は「新刊が出る前に自分で『ナウシカ』の続きを描いて」いたという[5]。 進学校の高校で、幽霊部員ではあるが漫研に所属[6]。朱戸は高校在学中は「漫画家になりたい」と考えていたが、それ以外にもなりたい職業があった[6]。そこで朱戸は「自分の得意科目で入れそうなのが美大系の建築科だった」という理由により、美大の建築科に進学[6]。 大学4年の時に、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の編集部に初めて持ち込みをする[6]。読み切りを持ち込みするということを知らずにいた朱戸は、400ページの原稿を見せたのだという[6]。漫画家になるということを親に反対されたため、勉強をし、大学院に進学[6]。朱戸は「その間にしっかりマンガを描こうと思って」進学したのだという[6]。 『ビッグコミックスピリッツ増刊 Casual』(同)の新人枠でネームコンペがあり、違う種類のネームを3本描き、そのうちの1つが採用となる[6]。2004年、大学院1年の時に同誌に掲載された『そんな朝』でデビューする[7][2][6]。「漫画家になる」と朱戸が決意したのは、このころだったという[6]。 デビュー後[編集] 『ビッグコミックスピリッツ』で『日本沈没』のコミカライズ連載をしていた一色登希彦のもとで、アシスタントを経験する[7][6]。『ビッグコミックスピリッツ増刊 Casual』の雑誌がなくなり、『週刊ヤングサンデー』(同)が廃刊となったことにより同誌の連載が『スピリッツ』に移籍したため、朱戸の作品は掲載されなくなった[6]。そこで朱戸は『月刊アフタヌーン』(講談社)に投稿を始める[6]。 2009年11月30日、『月刊IKKI』(同)主催の新人賞イキマン単行本部門からオムニバス作品集『九段坂下クロニクル』が発売[8]。「イキマン単行本部門での受賞は逃し」たが、「『単行本化を最終目標に、IKKI編集部員が担当に付く』ことが決まった作品」として、朱戸の『此処へ』が収録される[8]。 2010年、アフタヌーン四季賞冬のコンテストで準入選を受賞する[9]。 連載を開始[編集] 2011年、『Final Phase』を集中連載する[7]。東日本大震災で揺れた時、第1話の扉絵の執筆中であった[6]。しかし「その時点では物語全体の流れがだいたい決まっていた」ため、震災について作品に反映することができずにいた[6]。それ以前は「自分の身のまわりのこと」を題材にして作品を執筆していたが、同作から取材をして「膨大な資料を渉猟」する方法へと制作スタイルを変更している[5]。 『Final Phase』が「ウイルス」を題材としていたため、「寄生虫」を題材とした作品を執筆したいと考案[6]。2013年1月、『月刊アフタヌーン』3月号より「本格医療ミステリ」の『ネメシスの杖』の連載を開始[10]。2016年3月より同誌にて、短期集中連載『インハンド 紐倉博士とまじめな右腕』を連載[11]。

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Dream Aya – Wikipedia

Dream Aya(ドリーム・アヤ、1987年7月16日 – )は、日本のフォトグラファー。元歌手、元ダンサー。Dream、E-girlsの元メンバー。 大阪府松原市出身[1]。 略歴 SOEIプロダクションのスクール生であった[2][3]。 2002年7月7日、オーディションを経て、dream(Dream)に加入[4][5]。 2011年4月24日、E-girlsとしても始動[6][7]。 2013年11月、E-girlsのリーダーに就任[8]。 2017年6月5日、予てから携わっていた制作活動に専念し、E.G.familyのチーフ・クリエイティブ・マネージャーとして活動することを発表[9]。同年7月16日、「E-girls LIVE 2017 〜E.G. EVOLUTION〜」が、DreamおよびE-girlsとして最後の活動となった[10]。 2020年1月からフリーランスで活動[11]。 人物 弟が1人、妹が1人いる[12]。 2021年9月7日、結婚を発表した[13]。夫の野嶋倫は[14]かつてTEAM dreamのコーチを務めていた。

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青い鳥文庫 – Wikipedia

青い鳥文庫(あおいとりぶんこ)は、講談社から刊行されている日本の児童向け小説叢書。1980年創刊。 文庫の名を冠しているが、サイズはポプラ社のカラフル文庫などと同じ新書判である。刊行されている作品の大半は小学生向けであり、ジャンルも多岐にわたる。 2017年より青い鳥文庫小説賞を実施。現在、第5回 青い鳥文庫小説賞の開催を発表。 主なシリーズ[編集] 括弧内は(作者、画家)を表す。fシリーズの作品もここに記す。 あ行[編集] か行[編集] さ行[編集] た行[編集] な行[編集] は行[編集] ま行[編集] や行[編集] ら・わ行[編集] 人気作家陣による書き下ろし短編集。創刊周年記念など、節目に発売されることが多い。なお、普通の青い鳥文庫よりも大きく(四六判)、緑色の枠のカバーをしている。 いつも心に好奇心(ミステリー)! -名探偵夢水清志郎 vs パソコン通信探偵団-[編集]

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多重劣調和函数 – Wikipedia

数学において多重劣調和函数(たじゅうれつちょうわかんすう、英: plurisubharmonic function)は、複素解析において用いられるある重要な函数のクラスを形成する。しばしば psh、plsh あるいは plush 函数と略される。ケーラー多様体上で、多重劣調和函数は劣調和函数の部分集合を形成する。しかし、(リーマン多様体上で定義される)劣調和函数とは異なり、多重劣調和函数は複素解析空間上で完全な一般性をもって定義される。 正式な定義[編集] 定義域が G⊂Cn{displaystyle Gsubset {mathbb {C} }^{n}} であるような函数 f:G→R∪{−∞},{displaystyle fcolon Gto {mathbb {R}

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礁渓駅 – Wikipedia

礁渓駅(しょうけいえき)は台湾宜蘭県礁渓郷にある台湾鉄路管理局宜蘭線の駅。三等駅であるが、ホーム上では駅弁を販売している。礁渓温泉の最寄り駅であり、自強号など各級の列車が停車するため、近隣で一等駅の蘇澳新駅や二等駅の冬山駅、蘇澳駅などより役割のかなり大きな駅になっている。 のりば[編集] 利用状況[編集] 年別利用推移は以下のとおり。 -2000年 年 年間 1日平均 乗車 下車 乗降計 出典 乗車 乗降計 資料なし 1946 167,689 127,935 295,624 [3]

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ロバート・チャートフ – Wikipedia

ロバート・チャートフRobert Chartoff 生年月日 (1933-08-26) 1933年8月26日 没年月日 (2015-06-10) 2015年6月10日(81歳没) 出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク 死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンタモニカ 職業 映画プロデューサー 主な作品 『ロッキー』シリーズ   受賞

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アレキサンダー・ピチュクノフ – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “アレキサンダー・ピチュクノフ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年10月) アレキサンダー・ピチュクノフ(アレクサンダー・ピチュクノフ) 基本情報 本名 アレクサンドル・ピテュクノフ 通称 極真ロシアからの刺客拳の皇帝 異名 {{{catchphrase}}} 階級 ヘビー級(K-1) 身長

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エリトリア鉄道R441形蒸気機関車 – Wikipedia

エリトリア鉄道R441形蒸気機関車(エリトリアてつどうR441がたじょうききかんしゃ)はエリトリアの通称エリトリア鉄道で使用されていた単式マレー式蒸気機関車である。 アフリカ大陸東部の紅海に面する、現在エリトリアとなっている地域は1930年代にはイタリア王国の植民地であり、エリトリアもしくはイタリア領東アフリカとなっていた。エリトリアでは紅海沿岸の港湾都市であるマッサワから建設が始まり、現在では首都となっているアスマラを経由して内陸のスーダン国境方面のビシアまでの鉄道が1887年から1932年にかけて敷設されていた。軌間はマッサワ近隣のみの路線であった当時は750mmであったが、後にイタリアの狭軌鉄道標準の950mmとなっており、全長 351km、標高2-2394mの山岳路線であった。この路線では、開業以降イタリア製の蒸気機関車を主な機材として運行がされていたが、マッサワまでの山岳路線の開業に備えてマレー式蒸気機関車を導入することとなり、1907年に導入されたバイエルン王国(現在のドイツ)のマッファイ[1]製の8-10号機(後の440.025-027号機)をベースとし、これをイタリア国内で量産したR440形が1912-16年、36年に計23機導入されていた。なお、1936年導入の機体はイタリア国鉄所有でイタリア本国で運行されていた機体を編入したものであるほか、このほかに同一機番の機体が2機、後年になって予備部品等を組み立てた機体が3機存在し、これらの機体が貨車もしくは客車を牽引していた。 本項で述べるR441形は、路線の延伸への対応と輸送力の増強のため、R440形の増備形として若干の拡大と単式マレー化の上で1933-36年に計16機が導入された機体であり、また、並行して1935-37年にはイタリアのフィアット[2]で製造された狭軌・勾配線区用2機関搭載型リットリナ[3]のA60号機からA70号機まで計11機を導入して旅客列車の高速化を図っている。R441形は、過熱蒸気式ボイラーとワルシャート式弁装置を装備したR441.25-27号機、同じく過熱式ボイラーとカプロッティ式弁装置[4]を装備したR441.28-32号機が1933年に計8機導入された後、飽和蒸気式ボイラーとワルシャート式弁装置を装備したR441.33-40号機が1936年に8機導入されており、その装備の多様さや、過熱式の機体が導入された後に飽和式の機体が増備されていること、R441.32号機とR441.33号機の導入が3年開いているにもかかわらず製造番号が連続していることなどが特徴となっているほか、製造所もR440形のアンサルド[5]からSAOMI[6]に変更となっている。 カプロッティ式弁装置はイタリアのエンジニアで建築家のアルトゥーロ・カプロッティにより考案されたもので、一般的な蒸気機関車の弁装置の給排気弁として使用されているスライドバルブやピストンバルブの代わりにポペットバルブを使用していることが特徴である。この弁装置は1921年にイタリア国鉄の740蒸気機関車に初めて採用されて以降、イタリアでは1930年代までにイタリア国鉄に334機が、私鉄等の狭軌用として77機が導入されている一方、イギリスでは1920年代後半から改良を重ねながら1950年代まで採用されるなど、いくつかの国で採用されていた。 R441形はその後1939年には称号改正により、イタリア国鉄で狭軌用を表す「R」を省略して441形となり、併せて機番も変更されて、過熱蒸気式でワルシャート式弁装置装備の機体が100番台、同じく過熱蒸気式でカプロッティ式弁装置装備の機体が200番台、飽和蒸気式でワルシャート式弁装置の機体が0番台となっており、それぞれ441.1形、441.2形、441.0形と通称されることもあり、本項においてもこの通称を用いて記述する。各機体の製造時の形式機番、製造所、SAOMI製番、製造年、1939年称号改正後の形式機番とその後の履歴は以下の通り。 R441形経歴一覧 形式機番(1939年以前) 製造所 製番 製造年 車軸・シリンダ配置[7](製造時) 弁装置 形式機番(1939年以降) 過熱式化改造(1939-40年)後機番 車軸・シリンダ配置(最終時) 備考 R441.25 SAOMI 136

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シャハブッディン・アーメド – Wikipedia

シャハブッディン・アーメド(ベンガル語: শাহাবুদ্দিন আহমেদ、英語: Shahabuddin Ahmed、1930年2月1日 – 2022年3月19日)は、バングラデシュの政治家。同国大統領を1996年から2001年まで務めたほか、1990年から1995年にかけてはバングラデシュの最高裁長官(ベンガル語版、英語版)を[1]、民衆蜂起に伴いフセイン・モハンマド・エルシャド大統領が辞任した際には大統領代行を務め、暫定政権のもと1991年2月の総選挙を執行し混乱を収拾した[1]。 アーメドは1930年2月1日にネトロコナ県(ベンガル語版、英語版)ケンドゥア郡(ベンガル語版、英語版)パマル村で生まれた。父タールクダール・レサット・アーメド・ブイヤンは篤志家であった。入学試験と中間試験に合格した結果1948年にダッカ大学へ入学し、ファズルル・フク・ムスリム・ホール(ベンガル語版、英語版)寮生として1951年に経済学学士を、1952年に国際関係学修士を取得した。その後、彼はオックスフォード大学で行政学の特別課程を受講した[2][1]。 1990年1月14日に最高裁長官に就任。ところがフセイン・モハンマド・エルシャド大統領に対して巻き起こっていた民衆蜂起(英語版)によって12月6日にムドゥード・アフメド(英語版)副大統領が辞任し、アーメドが副大統領代行となる。その日のうちにエルシャド大統領も辞任したためアーメドが大統領代行となった。中立的な非政治家による暫定政権のもと、アーメドは1991年2月27日の総選挙(英語版)を執行し、政情の混乱を沈静化させたほか、報道の自由などを復活させた。1991年10月10日にアブドゥル・ラフマン・ビスワス(英語版)が後継の大統領に就任したためアーメドは最高裁長官の職務を再開し、1995年2月1日に退任した[1]。 アーメドは1996年7月23日にアワミ連盟政府の推薦を受けて無投票で大統領に選出され、同年10月9日に就任した[1]。2001年11月14日に退任した[1]。2001年にアワミ連盟が議会選挙で敗北したとき、彼はシェイク・ハシナ首相から「裏切り者」と呼ばれた。アーメドは「党員たちの思い通りに事が運んでいる限り私は天使だが、そうでなければ私は悪魔なのだ」と嘆いた[3]。 2022年3月18日、首都ダッカにある軍合同病院にて92歳で死去[4]。 ^ a b c d e f Islam, Sirajul

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