Month: March 2021

アルバロ・アントン・カマレロ – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はアントン、第二姓(母方の姓)はカマレロです。(Template:スペイン語圏の姓名) アルバロ・アントン 名前 本名 アルバロ・アントン・カマレロÁlvaro Antón Camarero カタカナ アルバロ・アントン ラテン文字 Álvaro ANTÓN 基本情報 国籍 スペイン 生年月日 (1983-12-28) 1983年12月28日(38歳) 出身地 カスティーリャ・レオン州ブルゴス県ピニージャ・デ・ロス・バルエコス(カタルーニャ語版)

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ホレイス・グラント・アンダーウッド – Wikipedia

ホレイス アンダーウッド 塑像 ソウルにあるアンダーウッドの妻の墓 ホレイス・グラント・アンダーウッド(Horace Grant Underwood、1859年7月19日 – 1916年10月12日)は、近代朝鮮で活動したプロテスタント(長老派)の宣教師・言語学者・教育者。元 杜尤(ウォン・ドゥウ)の朝鮮名を名乗った。 1859年、父ジョン、母エリザベスの四男としてロンドンに生まれる。5歳で母と死別。10歳の時にフランスのカトリック系寄宿学校に入学した。事業に失敗して再起を図る父とともに、13歳でアメリカ合衆国に移住。1877年にニューヨーク大学に入学、1881年卒業。ついでニュージャージー州のニューブラウンズウィック神学校(英語版)に学んで牧師となり、1884年同神学校を卒業。さらに1年間、海外宣教のため医学を修める。 朝鮮での宣教を志願し、1884年7月に北長老教会海外宣教師に任命され、朝鮮への派遣が決定される。1884年12月16日、サンフランシスコを出港。日本の横浜に到着するが、甲申政変にともなう朝鮮の政情不安や旅費の問題からそのまま横浜に滞在することとなり、当時日本で聖書の翻訳活動などを行っていた朝鮮人キリスト教徒・李樹廷から朝鮮語を学んだ。1885年4月5日、メソジスト教会のH・G・アペンゼラー夫妻とともに朝鮮・仁川に上陸する。 4月7日、漢城に入ったアンダーウッドは、H・N・アレンが開いていた広恵院(のちに済衆院、セブランス医学校を経て現在の延世大学校医学部)で物理と化学を教えた。また、1886年には朝鮮初の近代的孤児院を設立。この孤児院はやがて学校となり、基督教学堂・救世学堂などと称され、1905年に儆新学校に発展した。1915年には朝鮮基督教大学(儆新学校大学部)を設立し、同校は1917年に延禧専門学校となる(現在の延世大学校)。 1887年には朝鮮人信徒と貞洞教会(現・セムナン教会)を設立。また、布教のために朝鮮語の研究にも力を注ぎ、1890年には『韓英辞典』『韓英文法』を発行した。1894年には賛美歌を翻訳したほか、アペンゼラーらと聖書の朝鮮語訳をすすめ、1911年に完成させる上で貢献を果たした。このほか、『キリスト教新聞』発行(1897年)、YMCA設立(1903年)など、朝鮮における初期プロテスタント普及に足跡を残した。 1916年に健康問題のためアメリカに帰国。アトランタで没し、遺体はソウルの外国人墓地に埋葬された。 著書に『朝鮮の呼び声』(The Call of Korea、1908年)など。 父ジョンは化学技術者であり、インクやタイプライターの製造工場を興した。末兄のジョン・T・アンダーウッドはすぐれた事業家であり、アンダーウッド・タイプライター社(en:Underwood

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加藤九祚 – Wikipedia

加藤 九祚(かとう きゅうぞう、1922年5月18日 – 2016年9月11日)は、人類学者。アジア文化史。創価大学、国立民族学博物館名誉教授。朝鮮名は李九祚[1] (イ・クジョ)[2]。 1922年、朝鮮慶尚北道に生まれ、山口県に育つ。鉄工所工員・小学校代用教員を経て、上智大学予科入学。1944年に応召し、満洲へ出征。1945年敗戦により、ソ連軍に捕らえられ、シベリア抑留。1950年帰国。 帰国後は上智大学文学部独文科で学び、1953年に卒業、平凡社に入社。ユーラシア大陸の考古学等の研究・翻訳紹介を始め、1963年、最初の著作である『シベリアの歴史』を刊行。1975年、平凡社を退社して国立民族学博物館教授。1983年、『北東アジア民族学史の研究』を大阪大学に提出して博士(学術)号を取得。1986年、国立民族学博物館を退官して、相愛大学教授、創価大学教授となった。 1998年以降、ウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同で、テルメズ郊外カラテパでクシャン時代の仏教遺跡の発掘を開始、2002年秋には出土品を東京・奈良・福岡の各都市で展示。最晩年まで発掘を継続した[3]。 2001年より単独編集誌『アイハヌム 加藤九祚一人雑誌』を秋から冬にかけ、毎年1冊東海大学出版会で刊行していた(ただし、2010年版は他の著作が重なり翌年刊)。最終号は追悼特集となる。 2016年9月、ウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、搬送されたテルメズの病院で死去。享年94[4]。追悼特集に『ユーラシア研究56号 〈特集〉ウズベキスタン考古学調査と加藤九祚』(ユーラシア研究所、2017年8月) 受賞・栄典[編集] 『シベリアの歴史』紀伊国屋新書, 1963 / 紀伊國屋書店(復刻版), 1994、新装版2018 『シルクロードの十字路

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中田康子 – Wikipedia

中田康子(1956年ごろ) 中田 康子(なかた やすこ[1]、1933年〈昭和8年〉2月18日[1][2] – )は、日本の元女優。宝塚歌劇団・日劇ダンシングチーム(NDT)出身。数多くの日本映画で脇役、端役をそつなくこなした。1964年のハリウッド調ミュージカル映画アスファルト・ガールでは歌って踊る主役を演じる。 生い立ち・芸能活動時代[編集] 1933年、長野県松本市に生まれ[1]、1946年、松本高等家政女学校に入学。 1950年、宝塚音楽学校入学[注釈 1]、翌1951年、宝塚歌劇団に入団。同期生(38期)に星空ひかる、長谷川季子、太田淑子(若樹美乃里)ら。宝塚入団時の成績は34人中16位[3]。星組公演『昔噺舌切雀/春のおどり』で初舞台を踏む。 宝塚時代の芸名は由狩 しのぶ[3](読み:ゆかり しのぶ。中田の両親が命名)。愛称マーミー、マミー。1952年[3]に花組に配属される。娘役[3]として活動。 1953年2月28日付[3]で宝塚退団、最終出演公演の演目は花組公演『白蓮記[3]』。日劇ダンシングチーム(NDT)に入団[1][2]。 1955年、日劇を辞め、NHKのバラエティ番組やドラマに出るようになる。 1956年、映画監督の成瀬巳喜男からの誘いを受け、東宝と契約[1][2]。多くの映画に出演。 1958年、東南アジア映画祭で大映の永田雅一社長と出会う。永田との関係は公私にわたり中田の芸能生活ひいては後年までの私生活に大いに影響を及ぼす。 1959年、大映に移籍。多くの映画に出演。 1964年、永田との別離を決断、これを機に大映退社・女優引退という形で表舞台を去る[注釈 2]。

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各務原市立稲羽東小学校 – Wikipedia

各務原市立稲羽東小学校(かかみがはらしりつ いなばひがししょうがっこう)は、岐阜県各務原市前渡西町にある公立小学校。 各務原市稲羽地区の小学校の一つであり、稲羽地区の東部(旧・稲葉郡前宮村)の児童が通学する。 通学区域(自治会名による)は、山脇町、下切町、前渡西町1、前渡西町2、前渡西町3、前渡西町4、前渡西町5、前渡西町6、北島、両内野、長平であり[1]、公立中学校の場合の進学先は各務原市立稲羽中学校である[2]。 1873年(明治6年)2月 – 桃春院を仮校舎として 不惕(ふてき)学校として創立。 1878年(明治11年) – 各務郡鵜沼村三ツ池組を当校の校下に編入 。 1880年(明治13年) – 各務郡三柿野村字三滝組を当校校下に編入。 1883年(明治16年) – 時習小学校に改称する。矢熊山の西麓に校舎を新築。 1892年(明治25年) – 鵜沼村三ツ池組に三ツ池尋常小学校が開校し、離脱。

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ジャン=ジャック・バール – Wikipedia

ジャン=ジャック・バール(Jean-Jacques Barré、1901年 – 1978年1月1日)はフランスの宇宙工学の先駆者である。彼はフランスで最初期の液体燃料ロケットであるEA-41とEOLE(EA 46)ロケットの設計者として知られる。 ジャン=ジャック・バールは1924年にエコール・ポリテクニークを卒業後、フォンテーヌブローの砲兵学校に入校した。彼は当時天文学に関心を抱き、1923年から1934年に複数の記事を寄稿した。1927年に彼はフランスの航空工学と宇宙工学の先駆者であるロベール・エスノー=ペルトリ(Robert Esnault-Pelterie)の講義を受講した。ロケットによる上層大気の調査や惑星間旅行の可能性に関して学んだ。この講義はおそらく彼のロケット開発の動機となったと考えられる。 1927年から1922年にジャン=ジャック・バールはロケットの研究をフランスの宇宙工学の先駆者であるロベール・エスノー=ペルトリと共に取り組んだ[1]。彼は1935年に戦争での契約を獲得した。第二次世界大戦の開始で彼の開発は無誘導の16kgのロケット推進式対航空機砲弾が注目された。独仏休戦協定後も彼は自由地帯(英語版)でEA-41 (EA-推進式機械)の研究を継続した。:このロケットは重量100 kg、全長3.13 mで直径が26 cmで25 kgの重量物を100 kmの距離まで運ぶ能力を有した。これは液体酸素とガソリンを窒素ガスで加圧してエンジンに供給して1トンの推力を生み出した。戦局によりロケットの試験は中断したものの、1945年から1946年にかけて7回打ち上げられ、3回成功した。 1946年にジャン=ジャック・バールは弾道技術・航空力学研究所(LRBA)に参加して300kgの重量物を1000km輸送できる弾道ミサイルの開発を開始して、そこで開発されたEOLE(EA 46)ロケットは液体酸素とガソリンを推進剤とするEA-41の特徴を取り入れており、大型化され、全長11m、直径80 cmで重量は3.4トンで地上試験中の爆発後、推進剤として使用されていたガソリンはエチルアルコールに換えられた。地上試験は1950年から1952年に実施された。ジャン=ジャック・バールは射点のガイドレールの長さが21m以上でなければ、空力的な安定を得るための十分な速度に到達しない事を見出した。 (ブースターの離陸に関する)開発の保留中の1952年11月にアマギールで(推進剤が完全には満たされていない)軽量のロケットが2回打ち上げられ、その結果、両機共に音速を超える時に尾部が分解して失敗した[2]。この計画は1952年9月30日に中止され、1960年代にHM4の開発に着手されるまで、しばらくの間、極低温推進剤の使用が中断した。 1960年に退役後、スネクマ等でコンサルティングとして勤務して1978年に77歳で亡くなった。 Jean-Jacques

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潮 (吹雪型駆逐艦) – Wikipedia

潮(うしお / うしほ)は、日本海軍の駆逐艦[1]。一等駆逐艦吹雪型(特型)の20番艦(特II型の10番艦)。吹雪型の後期型(朧型)[2]。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「潮」に続いて2隻目[2]。 浦賀船渠で建造[3]。1929年(昭和4年)12月24日に起工[3]。一等駆逐艦に類別された。1930年(昭和5年)11月17日に進水[3][4]。1931年(昭和6年)11月14日に竣工[3]。第七駆逐隊に編入。 1932年(昭和7年)、第一次上海事変において長江水域の作戦に参加。 日中戦争に際して、1937年(昭和12年)以降、上海、杭州湾上陸作戦、仏印の作戦に参加。 1940年(昭和15年)4月15日、「漣」の復帰により第七駆逐隊は4隻(潮、曙、朧、漣)となり、引続き第六駆逐隊(暁、雷、電、響)と共に第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦「那珂」)に所属する[5]。11月15日、第六駆逐隊と第七駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦「阿武隈」)に編入される[6]。 1941年(昭和16年)7月18日、第七駆逐隊は第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将)・第一航空戦隊(空母赤城、加賀)に編入される[7]。8月、それまで7駆司令だった渋谷紫郎大佐は第十六駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)司令へ転出、第七駆逐隊に小西要人大佐(後日、軽巡洋艦「阿武隈」艦長。雲龍型航空母艦1番艦「雲龍」艦長として戦死)が着任した[8]。 9月1日、「漣」「朧」は第七駆逐隊から除籍され、第五航空戦隊(翔鶴型航空母艦《翔鶴》、特設航空母艦《春日丸》)に編入される[9]。第七駆逐隊は一時的に2隻(潮、曙)となるが、「漣」は9月25日に第七駆逐隊に復帰[10][11]。第七駆逐隊は吹雪型3隻(潮、曙、漣)で太平洋戦争に突入した。 太平洋戦争緒戦[編集] 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦と共に、本艦は第七駆逐隊司令駆逐艦(駆逐隊司令小西要人大佐)として姉妹艦「漣」と共に、ミッドウェー島に対するミッドウェー島砲撃に参加する[12][13]。これは真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊の退避を行うための囮作戦であった[14]。11月28日、2隻は館山湾を出航[15][16]。1941年(昭和16年)12月8日、南雲機動部隊が真珠湾を攻撃してから十数時間後の12月8日午後6時40分、艦砲射撃を開始する[17]。「潮」は12.7センチ砲弾108発を発射した[18]。20分ほど砲撃を行って退避したが、この時空母「レキシントン」は同島まであと1日の距離であった[19]。砲撃後、給油艦「尻矢」と合流して補給を受け、12月21日に日本に帰投する[18]。12月22日、呉に到着した[20]。 日本海軍は第七駆逐隊に対し、南方進攻作戦に参加するよう命じた。1942年(昭和17年)2月27日、スラバヤ港沖北東60浬で陸軍今村兵団と海軍陸戦隊が搭乗する輸送船50隻を護衛中、連合軍艦隊と遭遇する[21]。これがスラバヤ沖海戦の始まりだった。第五戦隊司令官高木武雄少将の下令により、第七駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦「神通」)に臨時編入され、軽巡1隻(神通)・駆逐艦8隻(雪風、時津風、初風、天津風、山風、江風、潮、漣)という戦力で2月28日の戦闘に参加(他に第五戦隊、第四水雷戦隊が参加)[22]。第二水雷戦隊に、特に戦果はなかった。3月2日午前5時49分、パウエマン島西73海里で浮上航行中のアメリカ潜水艦「パーチ」を発見、「潮」は潜航した「パーチ」に対して爆雷攻撃を実施した[23]。3月3日午前6時52分、前日の爆雷攻撃で損傷し浮上航行中のパーチを再び発見し、攻撃[24]。「パーチ」は沈没し、「潮」はパーチ乗員を救助し捕虜とした[25]。捕虜は同日中にオランダ病院船「オプテンノール」(後日、天応丸/第二氷川丸と改名)に移された[25]。 日本軍の東南アジア占領後、第七駆逐隊(潮、曙)は内地に帰投。4月18日、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦「愛宕」)の指揮下でドーリットル空襲に対応し、空母「祥鳳」の護衛を命じられるが合流できなかった。その後、トラック泊地へ進出。第五戦隊(司令官高木武雄少将)の重巡2隻(妙高、羽黒)を護衛し、さらに航空部隊(指揮官原忠一第五航空戦隊司令官:空母《瑞鶴、翔鶴》、第二十七駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》)と共にMO機動部隊を編制し、珊瑚海海戦に参加した[26]。姉妹艦「漣」は空母「祥鳳」直衛艦として行動し、さらに第六戦隊(司令官五藤存知少将)の重巡4隻(青葉、加古、衣笠、古鷹)と共にMO攻略部隊主隊を編制しており、「潮」「曙」とは別行動である[27]。 5月8日、MO機動部隊は空母2隻(瑞鶴、翔鶴)、重巡4隻(妙高、羽黒、衣笠、古鷹)、駆逐艦5隻(時雨、白露、夕暮、潮、曙)という戦力で米軍機動部隊(サラトガ、ヨークタウン)と交戦。空母「翔鶴」は米軍艦載機SBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃により被弾、中破する[28]。「潮」はカタログスペックを超える40ノットを発揮して戦場を離脱する「翔鶴」を追ったが、「翔鶴」は40ノットの「潮」を引き離したという[29]。しかしこの話は当時の第七駆逐隊司令部付通信士の事実誤認の可能性が高く、珊瑚海海戦での「翔鶴」の乗員の証言や記録等と照合すると、『荒れた海面状況で殆ど速度の出ない「潮」を、「翔鶴」が最高速(34ノット)で追い越した。』…というのが有力な説である[要出典]。「翔鶴」の火災鎮火および燃料補給のため「潮」は約4時間程で「翔鶴」護衛を打ち切った[30]。 翌日、7駆第1小隊(潮、曙)は第五戦隊(妙高、羽黒)直衛として行動[31]。11日附で南洋部隊(第四艦隊)より除かれ、内地へ帰投した[32]。日本軍駆逐艦の対空戦闘能力の低さを痛感した第七駆逐隊側は[33]、高射砲を装備した駆逐艦(秋月型駆逐艦)の出現を強く求めている[34]。 5月20日附で第七駆逐隊(潮、曙、漣)は、第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)、第一水雷戦隊(旗艦「阿武隈」、第六駆逐隊《響、暁、雷、電》、第二十一駆逐隊《若葉、初霜、子日、初春》)、第四戦隊第二小隊(摩耶、高雄)と共に北方部隊(指揮官細萱戊子郎第五艦隊司令長官:旗艦「那智」)に編入される[35]。第七駆逐隊3隻は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、補給船「帝洋丸」と行動を共にした[36]。6月のミッドウェー作戦では、アラスカ・ダッチハーバーの米海軍基地を攻撃する北方部隊の一員として参戦[37]。米軍機動部隊との戦闘は生起しなかった。 7月14日、第七駆逐隊は連合艦隊直属部隊となる。7月29日、「潮」と「漣」は航空機輸送の特設航空母艦「八幡丸」を護衛して横須賀発[38]。サイパンを経由して8月9日にウルシーへ到着し、8月13日に呉に入港[38]。 ガダルカナル島の戦い以後[編集] 8月17日、大和型戦艦1番艦「大和」(連合艦隊司令長官山本五十六中将、同艦隊参謀長宇垣纏少将、黒島亀人先任参謀等座乗)、特設空母「春日丸(大鷹)」、第七駆逐隊(漣、潮、曙)は桂島泊地を出撃し、トラック泊地に到着へ向かった[39]。8月23日、駆逐艦「浦波」、油槽船「極東丸」と合同し、燃料補給を受ける[40]。第七駆逐隊(潮、漣、曙)はたびたび「大和」から洋上燃料補給を受けており、宇垣参謀長は陣中日誌戦藻録に『四日毎に腹を減らす赤坊にも困りものなり。』と述べている[41]。第二次ソロモン海戦時、「春日丸」「潮」「漣」「曙」は山本長官(「大和」)を護衛し、ソロモン諸島北東方面を航海していた[42]。

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ヘルマン・ベーレンス – Wikipedia

ヘルマン・ベーレンスHermann Berens 基本情報 生誕 1826年4月7日 自由ハンザ都市ハンブルク 死没 (1880-05-09) 1880年5月9日(54歳没) スウェーデン、ストックホルム ジャンル クラシック音楽ロマン派オペラ 職業 ピアニスト作曲家指揮者 担当楽器 ピアノ ポータル クラシック音楽 ヘルマン・ベーレンス(Hermann Berens, *1826年4月7日

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サンドイッチの一覧 – Wikipedia

名称 写真 発祥 備考 ベーコンサンドイッチ イギリス料理 しばしばケチャップまたはブラウンソースと一緒に食べられる。 ベーコンと卵とチーズのサンドイッチ アメリカ料理 朝ごはんとして食べられる際は、たいてい目玉焼きまたはスクランブルエッグが使われる。 ベイクドビーンサンドイッチ(英語版) アメリカ 缶入りのベイクドビーンズを白パン、黒パンにトッピングしたサンドイッチ。しばしバターを塗る。 バインミー[4] ベトナム料理 肉やサーディン、豆腐、パテなどをニンジンの酢漬けやコリアンダー、唐辛子などと一緒に、穴の多いバゲットにはさんだサンドイッチ バーベキューサンドイッチ[5][6][7] アメリカ ぶつ切りにした(スライスしたり細かく刻む場合もある)プルドポークや鶏肉、牛肉を ハンバーガー用バンズにはさんだもの。コールスローがトッピングとして用いられることもある。

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王林 (リンゴ) – Wikipedia

この項目では、リンゴについて説明しています。タレントおよびアイドルについては「王林 (アイドル)」をご覧ください。 熟すにつれて果皮に茶色いサビが見られるようになるが、見目に反して甘みは強くなる[3]。 王林(おうりん)は、福島県で結実したリンゴで、主に長野県、青森県などで生産される[2][4]。黄緑色の果皮の表面に茶色い果点があるのが特徴で、そばかす名人、ナシリンゴなどとも呼ばれた[4]。日本においてはふじ、津軽に次ぐ生産量を誇っている[2]。 王林は芳醇な香りと甘みの強さが特徴で、酸味が弱く、食感は非常に軟らかい[5]。果皮の表面に多く見られる果点は熟すにつれて荒れていき、細かいヒビ(サビ)となってしまうため、B級品リンゴとして安価で取引消費される[2][6]。味と値段から人気を博し、また着色管理が不要なため、省力品種として生産者からの支持も得ている[1][7]。 りんごポリフェノールの主成分であるプロシアニジンを多く含む品種であり、その含有量はふじと並んで多い[8]。また、赤色色素を作るアントシアニンが少ないため、成熟しても赤くなりにくいことから、「青リンゴ」として販売される[9][10][3]。 晩生品種であり、貯蔵性に優れているため、10月下旬より翌8月ごろまで出荷が見られるが[3]、旬の時期としては11月から翌2月ごろとなる[2]。 1931年ごろよりリンゴの品種改良に取り組んでいた、福島県伊達郡桑折町の大槻只之助はゴールデンデリシャスと印度を掛け合わせることにより、1943年に初めて結実した[4][11]。栽培当初は王林という名前ではなく、そばかす名人やナシリンゴなどと呼称されていたが、1952年、当時伊達農協の組合長を務めていた大森常重により「りんごの中の王様」という意味をこめて「王林」と命名され、市場に出回るようになった[4][5][12]。 果点の目立つ独特な外観が欠点とされ、農林水産省の品種登録には至っていない[1][12]が、1961年には桑折町の生産者によって「王林会」が設立され、王林の普及が推進された[12]。無袋栽培に適した品種であり、生産工数低減に寄与した王林は着実に生産数を増やしていき、2011年時点で5.1万トンあまりが出荷され、リンゴ品種としてはふじ、津軽に次ぐ生産量となっている[2]。アメリカ・ワシントン州では王林が奨励品種として登録されている[12]。 王林を交配親とした品種もあおり9[13]、きおう[14]、トキ[15]、秋しずく[16]など、複数登録されている。 農林水産省の「平成30年産果樹生産出荷統計」[17]による王林の2019年の都道府県別生産出荷量は以下の通り。 順位 都道府県名 収穫量(トン) 出荷量(トン) 結果樹面積(ha) 1 青森県 41,500 37,700

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