大分県立日田高等学校 – Wikipedia
大分県立日田高等学校(おおいたけんりつ ひたこうとうがっこう)は、大分県日田市田島二丁目にある県立高等学校。普通科を設置。
略称は日田高(ひたこう)である。地理的な関係から旧山国町(現在は中津市の一部)、東峰村(福岡県)から通学する生徒もいる。
同校の特徴は、学業と部活動との両立であり、部活動では、ボート部や剣道部や弓道部が全国大会にしばしば出場するほか、野球部は甲子園に一度出場経験がある。一方で、文化部では、科学部、音楽部、放送部が、各種コンクール、大会において、九州大会や全国大会に出場することが多い。また、2006年には登山部が県大会で初優勝し、全国高校登山大会を兼ねたインターハイに出場した。文武両道の精神は、これらの部以外の部、また、非部活動生の中にも、クラスマッチや体育大会などの学校行事を通して根付いている。
2011年(平成23年度 )に文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクールに指定された。大分県下で2校目。それにより2、3年にSSクラスが設置され課題研究などに取り組んでいる。
校訓は、剛健・積極・明朗。校章は、「太陽の中に住む三本足の金の鳥」(金烏)をかたどったもので、中国の古い伝説「金烏玉兎」に由来している。
- 1912年(明治45年)5月25日 – 大分県日田郡立工芸学校女子部(後の大分県立日田高等女学校)設立。
- 1920年(大正9年)12月8日 – 大分県立日田中学校設立認可。
- 1948年(昭和23年)4月1日 – 学制改革により大分県立日田中学校と大分県立日田高等女学校が合併し、大分県立日田第一高等学校となる。
- 1949年(昭和24年)4月1日 – 定時制(夜間)課程を設置。
- 1951年(昭和26年)4月1日 – 大分県立日田城内高等学校と改称。
- 1953年(昭和28年)4月1日 – 大分県立日田高等学校と改称。23ページ
- 1957年(昭和32年)4月1日 – 商業科を設置。
- 1964年(昭和39年)4月1日 – 商業科を日田三隈商業高等学校(現在の大分県立日田三隈高等学校)として分離。
- 1970年(昭和45年)4月1日 – 理数科を設置。
- 1978年(昭和53年)4月1日 – 理数科を廃止。
- 2003年(平成15年) – 2学期制を導入。
- 2011年 (平成23年)文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクールに指定される。
教育目標[編集]
教育基本法の精神に則り、「剛健・積極・明朗」の校訓のもとに、自主性・創造性の資質を養い、民主的な国家及び社会の形成者として、心身ともに健全で豊かな人間育成をめざす。
学校生活[編集]
- 学期は3学期制である。2002年度までは3学期制であったが、2003年度に入って2学期制に変更された。しかし2015年度にまた3学期制に戻された。
- 通常の時間割は月・火・木・金曜が50分×7コマで水曜が50分×6コマ短縮授業では、その指定を受けた各授業が45分になる)。また、50分以上の授業が行われることもある(例: 土曜学習会など)。
- 課外授業は、県内の多くの高校と同じように導入されていない。
- 長期休暇は、春季休業、夏季休業、冬季休業がある。
- 4月 – 桜花会(新入生のための歓迎遠足。各部活動の紹介などが行われる)
- 6月 – クラスマッチ(1~3年までの全クラスが参加)
- 9月 – 響櫳祭(文化祭・体育祭)
- 2月 – 予餞会(平成28年度より廃止予定)、強歩大会
- 3月 – クラスマッチ(1、2年の全クラスが参加)
2年次の12月に修学旅行がある。行先は東京、長野である。
2年次にSSクラスに進む生徒は1年生の1月の終わり頃に筑波研修旅行がある。そこで最先端の科学について学ぶことができる。
2年次にSSクラスに進んだ生徒は、10月頃に国内研修または海外研修がある。海外研修ではマレーシアで研修を行う。
運動部[編集]
- バスケットボール部
- ソフトテニス部(男子・女子)
- ラグビー部
- バレーボール部(男子・女子)
- 陸上部
- サッカー部
- 弓道部
- 卓球部
- ボート部
- 剣道部
- 野球部
- バドミントン(同好会)
文化部[編集]
- 放送部
- 文芸部
- HLR部
- 茶道部
- 音楽部
- 器楽部
- 新聞部
- 美術部
- 書道部
- 科学部
- JRC
- 家庭科クラブ
- 陽柳会(ようりゅうかい)
出身著名人[編集]
アクセス[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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