Month: January 2018

2016年リオデジャネイロオリンピック – Wikipedia

2016年リオデジャネイロオリンピック(2016ねんリオデジャネイロオリンピック)は、2016年8月5日から8月21日までの17日間、ブラジルのリオデジャネイロで開催された第31回オリンピック競技大会。 206の国と地域から約11,000人が参加し、実質19日間(開会式に先立ち男女サッカーの一部試合が行われた2日間を含む)に28競技306種目が行われた。一般的にリオデジャネイロオリンピックと呼称され、リオ五輪[1][2]、リオオリンピック[3]と略称される。 ブラジル国内および南アメリカ大陸、そしてポルトガル語圏でオリンピックが開催されるのは初めてであり[1][2]、また、南半球での開催は1956年に開催されたメルボルンオリンピックと2000年に開催されたシドニーオリンピックに続き16年ぶり3度目の開催となった[4]。さらに  ブラジルは、開催地の気候が冬の時期に開催される初めての夏季オリンピックとなる[4][5]。ブラジルにおいて8月は冬期にあたるが、リオデジャネイロでは熱帯気候のため、平年の日平均気温は摂氏22度前後である[6]。 このオリンピックでトランスジェンダー選手の性別変更に関する基準を緩和して、性的適合手術を受けなくても出場を認めた [7]。 2012年のロンドン大会までは各競技の表彰式でメダル贈呈に続いて花束(ブーケ)贈呈があったが、今大会ではリオ五輪のロゴマーク型のメダルスタンド贈呈に代わった[8]。 開催都市決定までの経緯[編集] 2009年10月2日にデンマークのコペンハーゲンで開かれた第121次IOC総会で、IOC委員の投票によって開催地が決定した[9][10]。 参加国・地域[編集] 参加国・地域別の出場選手の人数 206のすべての国と地域から、各々の国内オリンピック委員会 (NOC) による代表選考を通過した選手が、各国・地域につき少なくとも1名は出場している[要出典]。最初に今大会への選手の出場資格を認めた3ヶ国は、イギリス、オランダ、ドイツで、2014年の世界馬術選手権でメダルを獲得したことにより、各国が4名の選手を馬場馬術団体の代表に選出した[11]。 ブラジルは開催国として、自転車競技のすべての種目と6つのウエイトリフティング競技の出場資格を含む、いくつかの競技で自動的に出場資格を得た[12][13]。コソボと南スーダンにとっては、今大会が初めてのオリンピックへの参加となる。ブルガリアとロシアのウエイトリフティングの選手は、数々の反ドーピング規程の違反により今大会への出場が禁止された[14][15]。 ロシアの国ぐるみのドーピング疑惑が発生してWADAなどがロシアの選手のオリンピックへの出場停止を勧告した。IOCは8月にロシア選手団389人のうち271人の出場を認めた(ロシアにおけるドーピング(英語版)も参照)[16]。 クウェートは同国のオリンピック委員会にクウェート政府が干渉したことを巡って、2015年10月にIOCから5年間で2度目となる出場資格停止処分を受けた[17]。 内戦などによる難民のために初めて「難民選手団」が結成され、参加した。 実施競技[編集] 本大会では、28競技306種目が行われた。以下、括弧内の数字は実施種目数、並びは競技名のアルファベット順。

Continue reading

ヴァレリー・レガソフ – Wikipedia

この項目「ヴァレリー・レガソフ」は途中まで翻訳されたものです。(原文:ru:Легасов, Валерий Алексеевич 04:26, 26 апреля 2011)翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2011年4月) ヴァレリー・レガソフ ヴァレリー・アレクセーエヴィチ・レガソフ(レガーソフ、ワレリー・レガソフ[1][2][3][4]、ロシア語: Вале́рий Алексе́евич Лега́сов、ラテン文字転写の例:Valeriy Alekseyevich Legasov、1936年9月1日 – 1988年4月27日)は、ソビエト連邦の化学者、ソビエト連邦科学アカデミー会員。チェルノブイリ原子力発電所事故の調査委員会責任者を務めた。 この節の加筆が望まれています。 チェルノブイリ原子力発電所事故への対応[編集] 1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所事故の直後、ソ連政府の対策メンバーに選ばれて現地に急行した。レガソフは、「今対応をとらないと、放射能は世界に拡散する」と声高に主張、鉛や炭酸水を混ぜた砂袋を空中から投下する緊急対策を認めさせ収束に寄与した[6]。 同年7月3日、事故対応のため極秘で開かれたソ連共産党中央委員会政治局会議に出席、ゴルバチョフ書記長の質問に答えた[7]。

Continue reading

カレワラ – Wikipedia

『カレワラ』(Kalevala、カレヴァラ) は、フィンランドの民族叙事詩。19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot, 1802年 – 1884年)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つで、フィンランドを最終的に1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えたとされている。名称は「カレワという部族の勇士たちの地」の意[1]。 リョンロートによる『カレワラ』は、1835年に2巻32章からなる叙事詩として出版され、当時の知識人階級に大きな衝撃を与えた。その後、それを増補し、1849年には全50章からなる最終版として出版した。[2] フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスは『カレワラ』に影響を受けた音楽を多数作曲しているほか、文学、絵画など、フィンランドのさまざまな文芸に影響を与えた。[3] 成立の過程[編集] フィンランドに独特の伝説や伝承が多数存在することは17世紀ころから知られ始め、18世紀には多くの研究が行われるようになった。1809年、フィンランドがロシア帝国に編入されたことを契機に民族意識が高まり、民族に特有の伝承が、固有の文化として認識されるようになった。 そうした中、エリアス・リョンロートがこの分野の研究を始めた。まず1827年に『ワイナミョイネン・古代フィン人の神格』という博士論文を発表[4]。その頃から民族詩の採集旅行を行った。何度かの旅行の後、北フィンランドのカヤーニに医師として赴任、そこを本拠地に歌謡の収集を精力的に行った。1833年、アルハンゲリスクのブオッキニエミで大量の歌謡を採集した。これによってサンポにまつわる物語の大部分がそろい、彼はこれにレンミンカイネンの物語と結婚歌謡をまとめ、『ワイナミョイネンの民詩集』として発表した。これは後に「原カレワラ」と呼ばれるようになった。 彼は翌年もその地を訪れて多くの歌謡を収集し、原カレワラを補修改訂して『カレワラ・フィンランド民族太古よりの古代カレリア民詩』を発表(1835年)、これは「古カレワラ」と言われる。彼はその後、調査地域を広げ、ラップランドや南カレリア、イングリアなどからも民詩を採集、それまでのものを見直した。その後内容を増補した『カレワラ』が1849年に発表された(新カレワラ)。これが現在カレワラとして知られているものである。 リョンロートによる創作[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “カレワラ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp ·

Continue reading

レディ・ジョーカー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “レディ・ジョーカー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月) 『レディ・ジョーカー』は、高村薫の小説。警視庁警部補である合田雄一郎を主人公とした推理小説の一作である。シリーズ化されており、『レディ・ジョーカー』は、その合田雄一郎シリーズの第3作である。 1995年から1997年にかけて週刊誌『サンデー毎日』に連載され、1997年12月に毎日新聞社から上下2巻で単行本化された。のち、2010年4月に新潮社より文庫判が上中下3巻で刊行された。文庫本化にあたっては、内容が一部改変されている。 小説はグリコ・森永事件から着想を得て執筆された[1]。 小説は1997年に第52回毎日出版文化賞を受賞、1998年に「このミステリーがすごい!」1999年版国内編第1位を獲得した。 2004年12月に日活により映画化され、2013年3月にWOWOW「連続ドラマW」枠でテレビドラマ化された。 あらすじ[編集] 昭和22年、日之出麦酒(ビール)は人員整理で40名の社員を解雇した。その一人である岡村清二は、解雇の理由の中に被差別部落の問題が含まれていたことを知り、会社に意見の手紙を送付した。 平成2年、歯科医である秦野浩之の息子・孝之が、車の無謀運転で死亡した。東大薬学部生の孝之はビール業界最大手の日之出ビールに内定が決まっていたが、日之出は社長の姪と交際していた孝之の身辺調査をしていた。事故の前に孝之は、自分が被差別部落の血筋だという事実を、会社から知らされたのだった。 息子の死は日之出ビールに責任があるとして、日之出に抗議する秦野。秦野の行動について情報を得た総会屋の西村は、入手した昭和22年の岡村清二の手紙のコピーを秦野に渡した。差別の問題は企業を強請る恰好の材料である。西村は秦野に日之出へ対して更に抗議活動を続けるようたき付ける。しかし、秦野は自殺してしまう。秦野の親戚として「日之出ビール」の問題を知る物井清三。清三自身は被差別部落とは無縁だったが、彼は秦野の舅であり、岡村清二の実弟だった。 平成6年、清三の頭に、身内の仇の日之出ビールから大金を奪うという考えが取りついた。70歳の老体で、競馬場仲間から共犯者を集める清治。トラック運転手の布川や、蒲田警察署刑事課の半田巡査部長ら4人が、熱中するものを求めて集まる。 平成7年、「レディ・ジョーカー」と名乗って、日之出ビールの城山社長を誘拐する清三たち。

Continue reading

高島喜久男 – Wikipedia

高島 喜久男(たかしま きくお、1909年2月10日 – 2000年11月15日[1])は、昭和から平成時代の労働運動評論家[2]。総評本部書記。高野実のブレーン[3]。 金沢市野町生まれ。金沢第二中学校(現石川県立金沢錦丘高等学校)を経て[4]、1926年慶應義塾大学経済学部予科に入学[1]。在学中、河上肇に手紙を出して新労農党本部書記となり、同党の解消運動で河上を補佐。1930年の大島製鋼所争議で開設されたプロレタリア小学校の教師として検挙され[4]、1931年慶應義塾大学経済学部を中退[1]。郷里で全協運動に従事した後[4]、山崎経済研究所、日本南京大使館嘱託、長野県農業会を経て[5]、敗戦時は華北交通株式会社社員[1]。敗戦を治安維持法違反で収監されていた北京の監獄で迎え[6]、予審中に釈放[7]。1946年3月帰国、社団法人日本経済復興協会、外国為替管理委員会事務官[1]。1951年に高野実と知り合い[4]、同年末から1956年まで合化労連本部顧問、総評本部書記。その後、労働運動に関する評論を執筆[1]。1958年『週刊労働情報』『労働周報』編集責任者[7]。1968年から1973年まで東京経済大学学務部長[1]。 『国際的経験による労働運動実践叢書(全10巻)』(天達忠雄、風間竜、草光実共編、青木書店、1954-1956年) 『戦後労働運動史論』(柘植書房、1977年) 『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』(六本木敏、鎌倉孝夫、村上寛治、中野洋、佐藤芳夫共著、社会評論社、1988年) 『戦後労働運動私史 第1巻 1945-1949』(第三書館、1991年) 『反戦運動と戦後労働運動史』(全国労働組合交流センター編、全国労働組合交流センター[交流センター・ブックレット]、1992年) 『戦後労働運動私史 第2巻 1950-1954』(第三書館、1993年) 『戦後労働運動私史 第3巻 1955-1960』(第三書館、2008年)

Continue reading

兵庫県議会 – Wikipedia

兵庫県議会(ひょうごけんぎかい)は、日本の地方議会。兵庫県の議決機関。 概要 正副議長のポストは1966年(昭和41年)以来、半世紀以上にわたり自民党県議団が独占している[2]。2019年(令和元年)6月の定例県議会では、4月に執行された第19回統一地方選挙で自民党が保守系無所属の追加公認や会派入りを含めても単独過半数を割り込んだため、他会派が副議長ポストを第2会派のひょうご県民連合に譲るよう要求したが折り合わなかった。そのため副議長ポストの決選投票が行われたが、疑問票の扱いを巡って紛糾した末に従来通り自民党の両ポスト独占が維持された[3][4]。自民党会派は2021年(令和3年)7月の知事選挙を巡って県議団(32人)と第4会派の「自民党兵庫」(12人)に分裂したが、選挙の前月に行われた正副議長改選においては自民系2会派の合意により県議団が引き続き両ポストを占有している[1]。 任期 4年。議会が解散されれば、その時点で失職する。 任期のずれ解消措置 1995年(平成7年)1月に発生した阪神・淡路大震災の影響により、県下において同年4月の第13回統一地方選挙実施が見込めなかったため、特例で議員の任期を2ヶ月延長して同年6月に県議会議員選挙を実施した。しかし、4年後の1999年(平成11年)には選挙日程だけを第14回統一地方選挙に合わせている。そのため、以降も4月に選挙が行われても実際の任期は6月からとなり、選挙で当選した新議員が2ヶ月間議員活動ができない一方で、引退や落選した旧議員が議員身分を持つことになり、選挙後の2ヶ月間は議会も開かれない。このような有権者の判断がすぐに反映されない状況が続いていた[5]。 しかし、2017年(平成29年)5月に次回選挙の当選者について任期を約2か月短縮する特例法が国会で成立したことにより、2019年(平成31年)4月の第19回統一地方選挙については当選者の任期が通常4年のところ「3年10か月」となり、震災から28年を経た2023年(令和5年)4月の第20回統一地方選挙からは「ずれ」が解消される予定となっている[6]。 選出方法 中選挙区制と小選挙区制を実施。 事務局 県議会を補助する事務組織として、事務局が置かれている。 総務課 議事課 調査課 図書室 会派 ※2021年(令和3年)10月19日現在。 常任委員会 総務常任委員会

Continue reading

与那城町 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “与那城町” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年3月) 旧・与那城町役場(現・うるま市与那城庁舎) 与那城町(よなしろちょう)は、沖縄県中頭郡に属していた町。町域の全ての島が海中道路や橋で結ばれている。 2005年4月1日に具志川市、石川市、中頭郡勝連町と合併してうるま市になったため消滅した。町役場は屋慶名に置かれたが、1993年に現在地に移転するときに役場周辺を字名を「中央」とした。合併後は、うるま市役所与那城庁舎となった。 沖縄本島東海岸に突き出た与勝半島の北半分と4つの島(藪地島、平安座島、宮城島、伊計島)からなる。全ての島は海中道路や橋によって結ばれている。南は勝連町に接し、北は金武湾に面している。 隣接していた自治体[編集] 安勢理(あせり) 伊計(いけい) 池味(いけみ) 上原(うえはら) 中央(ちゅうおう) 照間(てるま)

Continue reading

国王誕生日 (オランダ) – Wikipedia

オレンジ色の衣装を身に着ける人々で埋め尽くされたアムステルダムの運河(2007年の女王誕生日) 国王誕生日(こくおうたんじょうび)は、オランダ国王の誕生を祝う、オランダの祭日である。オランダ語では Koningsdag。直訳で王の日(おうのひ)または国王の日とも言う。オランダの国家の日とされている。 2013年4月30日のベアトリクス元女王の退位までは女王誕生日 (じょおうたんじょうび)または女王の日(じょおうのひ、オランダ語: Koninginnedag)として知られた。現在は息子のウィレム=アレクサンダー国王の誕生日のお祝いである。 日付は4月27日。ただし27日が日曜日なら4月26日にずらされる。 この日は現国王ウィレム=アレクサンダーの誕生日である。 過去の日付[編集] 女王誕生日は第3代国王ウィレム3世の時代の1885年に始まった。日付はのちに第4代女王となるウィルヘルミナ王女の誕生日8月31日だった。 1949年、ウィルヘルミナが退位し第5代女王ユリアナが即位すると、女王誕生日はユリアナの誕生日4月30日に変更された。 1980年の71歳の誕生日にユリアナは退位し、第6代女王ベアトリクスが即位した。ユリアナの誕生日とベアトリクスの即位日が同じなのはこのためである。前女王の誕生日は1月31日だが、屋外で行われる祝賀行事に不向きな季節であることと、母である先代への敬意から日付は変更されなかった。 2013年の女王誕生日にベアトリクスは退位し、第7代国王ウィレム=アレクサンダーが即位した。即位に伴い「女王の日」は「王の日」に変更された。 この日にはオランダ全土がオレンジ色(オランダ王家の色)の飾りが掲げられ、さまざまなパレードや音楽祭が催されるほか、 vrijmarkt(フリーマーケット)が開かれ、街の通りで住人が自由に物を売買することが許されている。 2009年4月30日にアペルドールンにおいて開かれていたオランダ王室メンバーのパレードにおいて、観客の中に自動車が突っ込み記念碑に衝突し、大破する事件がおきた。運転手を含め7人が死亡し、10人が怪我を負った。事件を起こし死亡した男性に対しては王室を狙ったテロの疑いで捜査が行われたが、前科や病歴はなく、テロ組織への関与の有無は確認されなかったが、長年にわたり勤めていた警備員の職を失い失業中だったと報道されている。

Continue reading

バターンを奪回せよ – Wikipedia

『バターンを奪回せよ』(原題:Back to Bataan)は、1945年に公開されたアメリカ合衆国の戦争映画である。エドワード・ドミトリクが監督を務め、ジョン・ウェインやアンソニー・クインが主演した[4]。1941年から1942年までのバターンの戦い(英語版)を題材としており、フィリピン・ルソン島を舞台に史実とフィクションを織り交ぜつつ抗日ゲリラの戦いを描く。製作中の仮題はThe Invisible Armyだった[5]。 プロット[編集] 1945年、アメリカ陸軍レンジャー(英語版)は日本軍のカバナツアン捕虜収容所を襲撃(英語版)し、大勢の捕虜を解放することに成功した。ここで1942年の回想が始まる。 1942年、ダグラス・マッカーサー将軍指揮下のアメリカ軍は、バターン半島で劣勢を強いられていた。やがてバターンからの撤退が決定すると、ジョセフ・マッデン大佐は司令部へ呼び出され、フィリピンに残留して戦線後方で抗日ゲリラを編成指揮せよとの特命を受ける。こうして結成されたマッデン率いるゲリラ隊は、まず部隊の精神的支柱とするべくアンドレス・ボニファシオ大尉を救出する。彼はマッデンの部下で、またフィリピンの国民的英雄アンドレス・ボニファシオの孫の1人である。 一方、ホンマ将軍率いる日本軍は着実にフィリピンの支配を強め、マッデンのゲリラ隊を追い詰めていく。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替(パブリックドメインDVDに収録) また、映画の冒頭とクライマックスには、1945年1月30日に撮影されたカバナツアンから解放された捕虜たちの実際の映像が挿入されている[1]。 本作のプロデューサーであり、また後にジョン・ウェインのプロダクション・パートナーとなるロバート・フェローズは、本作以前にも太平洋戦線での実話を元にした戦争映画を2つ手がけている。すなわち、1942年のドーリットル空襲を題材とした1943年の映画『ボンバー・ライダー/世紀のトップ・ガン(英語版)』(原題:Bombardier)と、マリーン・レイダース(英語版)の活動を題材とした1944年の映画『Marine Raiders』である。また、それ以前にもRKO社の元ではウェイン主演の西部劇映画『拳銃の町』(原題:Tall in the Saddle)などを手がけている。フェローズは戦争初期の敗北からアメリカ人およびフィリピン人による抗日ゲリラの抵抗、そしてマッカーサー将軍の帰還までを描くことで非常に収益性の高い映画となるだけではなく、彼らに対する最良の賛辞になりうると考えていた。そしてフェローズは戦争情報局および軍部との交渉を重ね、撮影に向けて全面協力の約束を取り付けた[6]。 当時の最新ニュースを元に内容を段階的に修正していった為、撮影完了までには130日を要した。さらに撮影が3分の2ほど完了した時点でフィリピンにおける反攻作戦(レイテ島の戦い)が始まり、脚本の一部が書き直されることとなった[7]。また、第6レンジャー大隊(英語版)によるカバナツアン襲撃(英語版)が成功し、大勢の捕虜が解放されると、この際に撮影された映像も映画の冒頭とクライマックスに挿入された。 ベン・バーズマンが手がけた脚本は、フィリピン人のナショナリズムとアメリカ人の愛国心を強調したものだった。これは例えば、学校が日本軍に兵舎として接収された後も校庭の星条旗を下ろす事を拒み、日本軍将校の命令で掲揚台に吊り下げられ処刑されるフィリピン人校長のキャラクターなどに反映されている。そのほか、バーズマンの脚本にはゲリラ戦術そのものの紹介も含まれていた。 音楽の大部分は、マックス・スタイナーが手がけた1933年の映画『キング・コング』のサウンドトラックから流用された。

Continue reading