Month: February 2018

ローマ帝国の人口学 – Wikipedia

本項ではローマ帝国に関する人口学について記述する。 人口統計学的に、ローマ帝国は普通の前近代国家であった。ローマ帝国では、平均寿命が短く乳幼児死亡率が高い。また同様に結婚年齢は若く、出生率が高くなっている。誕生した時点でのローマ人の平均余命は20から25年程度であり、おそらく15から35%程度のローマ人は乳幼児の段階で死んでいた。一方で5歳以上成長した子供は四十代程度まで生きていたと思われる。ローマ人の女性は平均すると一生で6から9人の子供を生んでいたものと考えられている。 160年代に発生したアントニウスの疫病以前のピークにおいて、ローマ帝国の人口は約6000万人、人口密度は1平方kmあたり16人だった。古典期及び中世のヨーロッパ社会とは対照的にローマ帝国の都市化率は高く、2世紀の古代ローマ(都市)は100万人を超える住民を抱えていた。西洋において再びこの人口に匹敵する都市が現れるのは19世紀になってからのことである。 地中海およびその後背地において紀元前2千年紀から1千年紀初期は人口が着実に増加していった時期である。後にローマ帝国の領土となる地域では前12世紀から3世紀にかけて平均して人口の年成長率が0.1%であり、総人口は実に4倍となっている。既に発展していた地中海の東側ではこの増加ペースがよりゆるやかであり、およそ年率0.07%であった[1]。それでもこの値は後の時代に比べると低い値ではなく、200年から1800年にかけて帝国のヨーロッパ部分の成長率は年0.06から0.07%であり、帝国のアフリカやアジア部分の人口はこの時期ほとんど増えていない[2]。 比較として、1世紀から1800年にかけて現在中国の領土となっている地域の年人口成長率は0.1%であった。5世紀から6世紀にかけてのローマ凋落による人口減少の後、ヨーロッパがローマ時代の人口を取り戻したのはおそらく12世紀から13世紀であり、その後黒死病による人口減少の後に一定してローマ時代の人口を超える様になったのは15世紀半ばからである[2]。 ローマ帝国に関して信頼できる総合的な人口統計は存在せず、初期近代ヨーロッパの人口統計学の基礎となった詳細な地域記録に比するようなものも存在しない。人口に関して多くの数の曖昧で逸話的な記述が残されているが、これらは記録や観測に基づいているわけではなく、憶測や対照に頼っているためローマの人口統計を調べる上ではあまり役に立たない。 ローマ帝国の住民の平均余命は約25歳だった。この想定は、散在する質の悪い古代の証拠より寧ろ推測に依存しているものの、これらの証拠は、当時の歴史家が記載した一般人口調査が指摘しているものである。それは地域を横断したローマ帝国の、明らかとなっている社会と経済状況の比較にもとづいており、我々は、判明している近代人口の低い値に近い値を平均余命として想定すべきである。ローマの人口学は20世紀初頭のインドと中国の田舎に関するデータを比較に用いている。これらの地域における誕生時における平均余命は、20代前半だった[3]。 300もの戸籍調査が、最初の3世紀のエジプトに関して収集されている。R. Bagnall とブルース・フライアーは、それらを用いて、男性と女性の分布を再構成した。それは出生時平均余命が22歳と25歳であることを示し、生命表モデルについて広く一貫した結果を示した[4]。その他の史料は、北アフリカにおける墓地の人骨やローマ人の墓誌、”Ulpian’s life table“のような年金支給表などを含む人口再生産の状況を解明するために用いられている。これらの史料の解釈や基礎研究は議論のあるところで、遺骨は日付が明確ではなく、墓誌はサンプルとなる人口の代表値を示すものではなく、”Ulpian’s life table”の元となる史料は知られていない。それでも、彼らは文学史料に示される、ローマ人エリートの生存率を集計し、それらの証拠が18世紀フランスや20世紀初期中国やインドやエジプトのような地域の高い死亡率を、人口から推計したデータと比較した場合、一貫性があることから、彼らは出生時平均余命が20代前半だとするローマの人口学の基礎的推計値を補強するのである[5]。 正確な観察が残されているものは低い平均余命を示すものであって、人口を示すものではないが、生命表モデルは人口の年齢層を理解するために用いられなくてはならなかった。これらのモデルは歴史的データに基づき、異なった諸階層における死亡率の「典型的」な人口を描いている。ローマ帝国の人口学において、ブルース・フライアーは、「もっとも一般化され広く適用可能である」と、その Model West frameworkを利用している[6]。なぜならそれは唯一の実証的な情報をもとにしているため、その生命表モデルは唯一のローマ人口学のおおよその青写真を与えるものだからだ。二つの重要な指摘がある。その表はローマ人の状況を誤って表現している、というもので、子供と大人の死亡率の間の構造的関係と男女別の死亡率の関係性に関する指摘である[7]。どの場合でも、ローマ人の死亡率は時代と場所、階級ごとに非常に多様であると予測されるべきである[8][注釈 1]。10歳ごとの変動は異常なことではないだろう。20歳代と30歳代の間という平均余命の幅はありうる値であり[10]、それは周辺地域において、いづれかの方向で、それを越える値であったかも知れないけれども(e.g., マラリアの都会における高い度合と、その他の地域での低い度合いなど[5])。

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ヨハン・ヤーコブ・ベルンハルディ – Wikipedia

ヨハン・ヤーコブ・ベルンハルディ(Johann Jakob Bernhardi、1774年9月1日 – 1850年5月13日)は、ドイツの医師、植物学者である。 エアフルトに生まれた。エアフルト大学で医学と植物学を学んだ。卒業後、エアフルトで医師をしばらく開業した後、1799年にガルテンシュトラーセ(Gartenstraße)の植物園の園長に任じられ、1809年にはエアフルト大学の植物学、動物学、鉱物学、薬用植物の教授となった[1]。没する1850年まで、植物園長を続けた。 ベルンハルディは他の植物学者から標本を購入し、標本の交換を通じて、大きな植物標本コレクションを作りあげた。北米、南米、アジア、アフリカの種を含んで、60,000の種に達した。この標本はベルンハルディの没後、ドイツ生まれのアメリカ合衆国で働いた植物学者、ジョージ・エンゲルマンの仲介で、ミズーリ植物園の創設者ヘンリー・ショーによって購入され、ミズリー植物園の標本館(当時の呼称、”Missouri Botanical Garden herbarium”)のコレクションの中核となった。 「チューリンゲン庭園新聞」(Thüringischen Gartenzeitung)や「ドイツ一般庭園雑誌」(the Allgemeinen deutschen Gartenmagazin) を編集した[2]。 いくつかの種を記載し、そのなかにはEpipactis atrorubensなどのラン科の種やヴァイマルのヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの家の庭で見つかったとげのないバラ、Rosa×francofurtanaなどもある。トウダイグサ科の属名、Bernhardiaに献名された[3] 。 Bernh.は、植物の学名で命名者を示す場合にヨハン・ヤーコブ・ベルンハルディを示すのに使われる。(命名者略記を閲覧する/IPNIでAuthor

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保坂調司 – Wikipedia

保坂 調司(ほさか ちょうじ、1920年11月24日[1] – )は、日本の射撃競技(ピストル射撃)選手。警視庁所属の警察官。1956年メルボルンオリンピックに出場、男子フリー・ピストルで4位入賞。アジア競技大会2大会に出場し金メダル3つを獲得している。 目次 1 経歴 2 脚注 2.1 注釈 2.2 出典 3 参考文献 4 関連項目 5 外部リンク

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エクゴニジン – Wikipedia

エクゴニジン 8-Methyl-8-azabicyclo[3.2.1]oct-3-ene-4-carboxylic acid 識別情報 CAS登録番号 484-93-5  PubChem 101709 ChemSpider 16735787  CN1C2CCC1C(=CC2)C(=O)O OC(=O)C2=CC[C@@H]1CC[C@H]2N1 InChI=1S/C8H11NO2/c10-8(11)6-3-1-5-2-4-7(6)9-5/h3,5,7,9H,1-2,4H2,(H,10,11)/t5-,7-/m1/s1  Key: ZAZOGAHQAWUCJK-IYSWYEEDSA-N  InChI=1/C8H11NO2/c10-8(11)6-3-1-5-2-4-7(6)9-5/h3,5,7,9H,1-2,4H2,(H,10,11)/t5-,7-/m1/s1 Key: ZAZOGAHQAWUCJK-IYSWYEEDBT 特性 化学式 C9H13NO2 モル質量

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魔法の弾丸 (医学) – Wikipedia

医学において、魔法の弾丸(まほうのだんがん、英: magic bullet、特効薬の意味)とは、1900年にドイツのノーベル賞受賞者パウル・エールリヒが提唱した科学的概念である[1]。実験治療研究所(Institut für experimentelle Therapie)に勤務していたエールリヒは、体に害を与えることなく、体に病気を引き起こす特定の微生物(細菌など)を殺すことができるのではないかという考えを確立した。彼は、その仮説の薬剤を「魔法の弾丸」である「ツァウバークーゲル」(Zauberkugel)と名付けた[2]。彼は、銃から発射された弾丸が特定の標的に命中するのと同じように、侵入してくる微生物を特異的に標的にする方法があるのではないかと心に描いた。魔法の弾丸を見つけるための彼の継続的な研究の結果、体の免疫系の機能に関するさらなる知識が得られ、1909年には梅毒の最初の効果的な薬であるサルバルサンが開発された。彼の研究は免疫学の基礎となり、その功績により、1908年にイリヤ・メチニコフと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した[3]。 1909年、エールリヒが梅毒の治療のために発見したサルバルサンは、「最初の特効薬」(first magic bullet)と呼ばれている。これが化学療法の概念の基礎につながった[4]。 抗体の研究[編集] 1890年代初頭、パウル・エールリヒは、マールブルグ大学の医学教授であるエミール・ベーリングと共同研究を始めた。ベーリングは、抗菌剤の研究をしていて、ジフテリア抗毒素を発見した。(この発見により、ベーリングは1901年に最初のノーベル生理学・医学賞を受賞している。エールリヒもこの年に候補に上っていた)。 ベーリングの研究から、エールリヒは、血液中で作られた抗体が、体に害を及ぼすことなく侵入する病原体を攻撃できることを理解した。彼は、これらの抗体が、銃から発射された弾丸のように、特定の微生物を標的にするために機能すると推測した。しかし、さらなる研究を進めていくうちに、彼は抗体が微生物を殺さない場合があることに気がついた。これにより、彼は、魔法の弾丸の最初のアイデアを放棄した。 ヒ素系色素の研究[編集] エールリヒは、1899年にドイツのフランクフルト・アム・マインにある実験治療研究所(Institut für experimentelle Therapie)に加わり、1906年にその研究所であるGeorg-Speyer Hausの所長になった。ここでの彼の研究は、微生物を殺すためのヒ素系染料のテストに焦点を当てた。ヒ素は悪名高い毒物であり、彼の試みは批判に遭った。彼は架空の「パンタソス博士」として世間から非難された[2]。しかし、エールリヒの理論的根拠は、側鎖と呼ばれる化学構造が毒素(病原体やその生成物など)に結合する抗体を形成するというものであった。同様に、ヒ素化合物などの化学染料もそのような側鎖を生成し、同じ微生物を殺すことができる。このことから、彼は「側鎖説」と呼ばれる新しい概念を提唱した。(後の1900年、彼はこの概念を「受容体理論」として修正した)。彼はこの新しい理論に基づいて、微生物を殺すためには「Wir müssen chemisch

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ペンシルベニア大通り – Wikipedia

ペンシルベニア大通りを西から東へ見る カナダ大使館 ホワイトハウス:ペンシルベニア大通り1600号 ペンシルベニア大通り(ペンシルベニアおおどおり、英語: Pennsylvania Avenue)は、アメリカ合衆国の首都・ワシントンD.C.の街路で、この都市のメインストリートである。合衆国議会議事堂とホワイトハウスを結んでいて、国民のパレード、あるいはデモなどでなじみの街路である。 目次 1 道路 2 短史 3 通りに添って 4 パレードとデモ 5 参照項目 6 脚注 ペンシルベニア大通りは首都・ワシントンD.C.にあるメインストリートで、全長9.7km(6マイル)である。ただし議事堂からホワイトハウスは1.9km(1.2マイル)で、東へメリーランド州、西へヴァージニア州へも続いている。

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ミスタートラ・唐渡吉則のOh!艶歌 – Wikipedia

『唐さん・一枝の艶歌でOH!きに』(からさん・かずえのえんかでおおきに)はMBSラジオの演歌専門の音楽番組である。 番組はリスナーからのリクエストやゲストコーナーを交え、古今東西の演歌の名曲を紹介する。 2004年4月に『ミスタートラ・唐渡吉則のOh!艶歌』(からわたりよしのりのオーえんか)と題してアシスタントに稲野一美を起用し、日曜日の21:00 – 21:55で放送を開始[1]。2007年4月にナイターが組まれていない月曜日の19:00 – 19:30、同年10月から再び日曜日に移動。16:30 – 17:30に放送され、2008年4月から現在の題名となり、アシスタントが桜井一枝に交替した[2]。 2009年4月12日からは日曜12:00 – 13:00、2013年10月6日からは30分縮小し12:30開始、2014年4月6日からは日曜16:30 – 16:59、2015年4月5日からは10分拡大[3]し17:09終了の生放送である。 2014年以降、阪神タイガースがクライマックスシリーズ1stステージに進出し、日曜日にデーゲームとして開催される場合は、その試合中継の関係で当番組を18:00開始[4]に設定する。例として タイトル・アシスタント・放送枠の変更をはさんで16年半にわたって放送されてきたが、2020年9月27日でレギュラー放送を終了。同年10月以降は、特別番組扱いでの不定期放送[8]へ移行する。 外部リンク[編集] ^ AMラジオ 1179kHz

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沖ノ神島神社 – Wikipedia

沖ノ神島神社(沖ノ神嶋神社、神島(嶋)神社、おきのこうじまじんじゃ)は、長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷(野崎島)にある神社。境内の奇岩「王位石」で知られる。島内北端、標高305mの山の中腹の斜面(標高200m超)に建てられ、五島列島に所在する神社では最古の1つとされる。旧社格は郷社。 野崎島では江戸時代末期に移住してきた隠れキリシタンを除くほとんどの島民が同社の氏子であり、非キリスト教徒集落の野崎集落では親家(おやけ)と称する神官家を中心として、住民が非常に強い絆で結ばれていた。神官家は、野崎島の各集落が島外へ移住した後も残り続け、同島が無人島になる前の最後の住人となった。 本来は、本社を沖津宮、前方湾を挟んで対岸の小値賀島(本島)前方郷にある地ノ神島神社を本宮(辺津宮)とし、2社を合わせた1社として神島神社(または神島宮)と呼ばれた。主祭神は神島大明神(鴨分一速王命)で、志自岐大明神(十城別王命)と七郎大明神(七郎氏廣王)を併祭する。なお、十城別王命は、長崎県本土唯一の式内社として高い格式をもっていた志自岐神社(平戸島)の主祭神であり、鴨分一速王命の兄とされる。また、七郎氏廣王は二人の部下と伝える[2][3][4]。 境内から見た小値賀島 拝殿の後背には、王位石(おゑ石、おえいし)と呼ばれる巨大な盤座が存在する。頂上までの高さ24m、両柱の端から端までの幅12m、頂上テーブルの広さ5m×3mという非常に大きなものであり、自然の産物か人の手によるものかその成り立ちは定かでない。神社創建以前の古代から原始祭壇として本来の神島信仰の対象となった巨石ともされ[9]、かつてはこの石の上で神楽が舞われたとも言われている[10]。 山越え参道入口の鳥居 山越え参道 – 最寄りの野崎集落まで、島内最高地点の平岳(標高350m)を経由し島の北半分を縦走して結ぶ山道。創建より無人島になるまでの1300年余り島内の参詣者が通った。1970年代には九州自然歩道の一部として整備されている[11]。2001年に野崎島が無人島になった後もよく利用されていたが、2012年頃のイノシシの来島から道の荒廃が進んでおり、2015年現在滑落や道に迷う危険があることから、近辺の観光窓口となっているNPO「おぢかアイランドツーリズム」ではガイドなしでの走行を控えるよう呼びかけている[12]。 海からの参道 – 真下の海岸との標高差200mの斜面を結ぶ山道。かつて、小値賀島から船で来た参詣者が通った。現在は利用されていない。 肥前型鳥居 – 海からの参道の起点の海岸に建てられている。1680年(延宝8年)建立。 社叢 – スダジイを主とする第一次原生林。 神島神社遥拝所 –

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第19回全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会 – Wikipedia

第19回全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会は2018年3月30日から4月8日まで熊谷ラグビー場及び補助陸上競技場にて行われた[1]全国高校選抜ラグビー大会である。 北海道ブロック 東北ブロック 関東ブロック 北信越ブロック 東海ブロック 近畿ブロック 中国ブロック 尾道(6大会連続11回目) 四国ブロック 城東(2大会連続2回目) 九州ブロック 開催県枠 実行委員会推薦枠 試合結果[編集] 予選プール[編集] プールA 2018年03月030日 15:30 深谷

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