Month: March 2018

アレクサンドル・オッソフスキー – Wikipedia

アレクサンドル・ヴャチェスラヴォヴィチ・オッソフスキー(ロシア語: Александр Вячеславович Оссовский 1871年3月31日(ユリウス暦 3月19日) – 1957年7月31日)は、ロシアの音楽ライター、評論家、音楽学者。サンクトペテルブルク音楽院の教授であり、ニコライ・リムスキー=コルサコフの門弟、セルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・ジロティ、ニコライ・チェレプニンとは友人であった。 1871年3月31日にロシア帝国ベッサラビア地方のキシナウに生まれた。父のヴャチェスラフ・ステパノヴィチ・オッソフスキー(Vyacheslav Stepanovich Ossovsky)はオデッサの宮廷で部門長を務めており、母はイェゲニア・チェルクノヴァ(Yevgenia Cherkunova)であった。作曲家のミコラ・ヴィリンスキーは従兄弟である[1]。1893年にモスクワ大学のロースクールを卒業している。 卒業後はサンクトペテルブルクの法務省に勤務した。1896年から1898年にかけてサンクトペテルブルク音楽院で学ぶ。1900年から1902年の間は作曲家のニコライ・リムスキー=コルサコフの下で作曲を習った[2]。1894年からは才能ある多作な音楽ライター、音楽評論家、音楽学者としてのキャリアを開始した。1915年から1918年と、1921年から1952年にかけてはサンクトペテルブルク音楽院(レニングラード音楽院)の教授を務め、1937年には副学長に就任した。 サンクトペテルブルクの雑誌『Muzykal’nyi Sovremennik』(音楽の現在 1915年-1917年)の創刊メンバーとなった。1923年から1925年にはレニングラードフィルハーモニー交響楽団の理事、1933年から1936年には芸術主幹を務めた。1943年から1952年にはレニングラード音楽劇場研究所の所長であった。1931年から1933年にかけてはレニングラードのエルミタージュ美術館に勤務していた[3]。 オッソフスキーはベリャーエフ・サークルの作曲家らと近しい結びつきを保っており、セルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・ジロティ、アレクサンドル・グラズノフといった数多くのロシア音楽の精鋭と交際し、仕事をともにした。作家、編集者、評論家としてのオッソフスキーはジロティの演奏会プログラムに幅広く貢献を行った[4]。 1911年、セルゲイ・プロコフィエフが最初の作品群を出版するにあたり、ロシアの出版社であるユルゲンソンに彼を強力に支援する書状を特別に書き送って援助した。同年、ラフマニノフがオッソフスキーの依頼により彼の従兄妹であったクセニア・デルジンスカヤ(1889年-1951年)をキエフでオーディションし[5]、彼女がオペラのキャリアを開始する手助けをしている。デルジンスカヤはロシアで著名な歌手となり、モスクワのボリショイ劇場のプリマドンナにまで登り詰めた。作曲家のニコライ・チェレプニンと友人関係であったオッソフスキーは、彼の息子でやはり有名な作曲家となるアレクサンドル・チェレプニンのキャリア初期に面倒を見ていた[6]。 オッソフスキーは1957年、ソビエト連邦のレニングラードで没した。 彼はミハイル・グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、その他のような傑出したロシアの作曲家による作品の研究や分析に関する論文やモノグラフを多数著した。またロシアの大衆にバッハ、ラモー、コレッリ、ヴィヴァルディ、ワーグナーを紹介した最初期の音楽評論家であった[7]。ラフマニノフや他の音楽家の伝記の中の多くの重要な出来事について直接触れ、見識を有していたため、彼が著したラフマニノフの回顧録は特別に興味を引き価値あるものとなっている[8][9]。オッソフスキーの著作はロシアの作曲家やその音楽に関する西側の出版物の多くで頻繁に引用されている。

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スーパーウィード – Wikipedia

スーパーウィード(英語: superweed)とは、除草剤の効果がない雑草のこと。スーパー雑草とも表記される。遺伝子組み換え作物との受粉により、除草剤に対する薬剤抵抗性を持った野生の植物である[1]。広義には植物から微生物にわたる超雑種の意味で用いられる。 パーマーアマランス 成長が早く、大きいものは3mを超える高さに生育する[2]。 アメリカ合衆国では、1970年代にモンサントが開発したグリホサート系除草剤ラウンドアップが普及し、また、1996年に同社の遺伝子組み換え作物「ラウンドアップレディ」が発売されると両者を併用しての耕作が広く用いられることとなった[3]。米国産の大豆の90%以上、トウモロコシと綿花の80%はモンサントの技術を内包する種子により栽培されている[4]。 ラウンドアップに耐性のあるラウンドアップレディの出現は、農家にとって手入れ作業の効率化につながり長年にわたり効果を上げてきた。ところが2010年代に入ると、グリホサートに耐性のあるスーパーウィードが繁殖するようになり、米国内の20州以上に及ぶ580万ヘクタールを超える農地に拡大している[3][4]。スーパーウィードの存在は2000年にデラウエア州の大豆畑で既に見つかっていたが[5]、年々深刻さが増している[注 1]。 スーパーウィードの発生要因は、ラウンドアップレディなどの遺伝子組み換え作物と、野生植物の受粉によるものとされ[1]、米農務省と米雑草学会の共同報告では、除草剤の無差別な使用が状況悪化の悪循環に繋がっているとの発表がある。また専門家からは抑制は困難であるとの指摘も出ている[4]。対策としては無農薬栽培を選ぶか[5]、除草剤の量を更に増やして抑制の発現を待つかのどちらかとなる[3]。 こうした中で2014年1月、同じく除草剤と遺伝子組み換え作物を手掛けるダウ・アグロサイエンス(英語版) が、新たな種子の登録と薬剤の規制緩和を米農務省に求めている。これはグリホサートに耐性を持つとされる種子であるが、新たに「2,4-D」の薬剤を除草剤として使用するものである。しかし、「2,4-D」の安全性を危惧する声や[注 2]、新しい薬品を取り入れてもグリホサートのように、いずれ耐性を持つ新たなスーパーウィードの発生を懸念する声が挙がっている[3][6]。 また、2015年3月には世界保健機関によりグリホサートの曝露による、非ホジキンリンパ腫発症増加の因果関係が発表されているが[7]、アメリカ合衆国連邦政府は大豆の主要な輸出先である中華人民共和国に対して、遺伝子組み換え作物の禁輸措置に対する規制の撤廃を求めている[8]。 注釈[編集] ^ 米国のアグリビジネス市場調査会社ストラタスの調べでは、スーパーウィードの発生は、2011年には農家全体の34%であったが、翌年には49%と半数近くに及ぶ被害となっている[3]。 ^ 「2,4-D」はベトナム戦争において使用された枯葉剤オレンジ剤の主成分である[6]。 出典[編集]

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岡松甕谷 – Wikipedia

岡松 甕谷(おかまつ おうこく(子孫は「ようこく」と呼び慣わす[1])、文政3年1月14日(1820年2月27日) – 明治28年(1895年)2月18日)は幕末、明治時代の漢学者。名は辰。字は君盈。通称は辰五、後に伊助。諡号は文靖先生。号は故郷上徳丸村より大野川対岸の百堂村(大分市種具)山麓の谷に由来するという。 帆足万里に漢学を学び、熊本藩や明治政府の下で法制に携わり、晩年は東京大学や府下の中学で教鞭を取った。漢文に巧みなだけでなく、洋学にも心得があり、オランダ語、英語を解した。 文政3年(1820年)1月14日、豊後国大分郡高田手永上徳丸村(大分県大分市丸亀)に、岡松数右衛門真友の次男として生まれた。叔父亀吉信甫より高山彦九郎の話を聞かされて育ち、幼い頃から学問を志した。熊本藩藩校時習館への入校を希望するが受け入れられず、天保7年(1836年)日出藩の儒学者帆足万里に入門した。万里は門下生に自著『究理通』『井楼纂聞』の校訂、漢訳を命じたところ、甕谷の文が最も優れていたという。 天保9年(1838年)疫病が流行し、4月20日に母、12月10日に父を喪った。 弘化4年(1847年)、万里に従い京都、次いで12月江戸に行き、安井息軒、木下犀潭等と交わり、また蘭方医竹内玄同に迎えられ仮寓した。嘉永元年(1848年)大番頭久貝正典に知られ、市谷加賀町の道場内寓舎に移り、蘇軾の詩より東雪舎と名付けた。 嘉永2年(1849年)、万里が日出藩に呼び戻されたため、甕谷も豊後国に戻り、万里私塾で塾生を監督、教授した。嘉永5年(1852年)万里が死去し、同年冬時習館の寮生に認められたが、すでに学識は学生の域を超えており、藩臣沢村西陂の目に止まり、経筵侍講に取り立てられた。中国歴代律例の知識を買われ、安政2年(1855年)獄曹掾、詮曹を歴任した。安政3年(1856年)参勤交代に従い江戸に出て、羽倉簡堂、安井息軒等と交わった。翌年4月帰郷し、北野氏を娶った。文久3年(1863年)、熊本城下坪井川畔に家を構え、竹寒沙碧書屋と称した。 慶応3年(1867年)、病を以て詮曹を辞し、慶応4年(1868年)1月23日、新政府刑法事務科より広沢真臣と共に刑法書調方を命じられ、仮刑律を編纂したが、これによって友人安井息軒門下雲井龍雄を死に追いやることとなった。明治2年(1869年)10月大学少博士に就任し、頼支峰、川田甕江、芳野金陵、重野安繹等と交わった。翌年5月、兄真任病気のため暇を請い、高田に帰郷した。7月辞任、太政官権少史に命じられたが固辞して高田に帰郷した。 明治4年(1871年)延岡藩に招かれ、英文を学び、『窮理解環』を訳出した。明治6年(1873年)12月病で辞職し、熊本の旧宅に戻ったが、明治9年(1876年)2月東京の旧友の誘いで弟魯と上京し、紹成書院を設立し、徳富蘇峰、中江兆民等を教えた。明治10年(1877年)、西南戦争により竹寒沙碧書屋を焼失した。この頃北畠道竜設立の講法学舎で法学を教授した。 明治14年(1881年)12月東京府中学(東京都立日比谷高等学校)講師、明治15年(1882年)7月28日文部省御用掛兼東京大学文学部教授、明治15年9月2日更に予備門教授を兼任、明治16年(1883年)東京大学文学部諮詢部会会員、明治17年(1884年)10月23日文部省から東京大学御用掛に転任、明治18年(1885年)3月27日予備門を辞し、明治19年(1886年)東京大学御用掛兼教授も退いた。 明治22年(1889年)東京学士会院会員に認められた。明治23年(1890年)4月5日東京府高等女学校(東京都立白鷗高等学校)講師、明治27年(1894年)4月1日華族女学校(学習院女子中・高等科)講師。 晩年肺を患い、明治28年(1895年)2月18日、京橋区築地で病死。3日後青山墓地に葬られた。 死後、嫡子岡松参太郎の尽力で著書が公刊された。 主な著書[編集] 『初学文範』紹成書院、明治9年(1876年) 『地理撮要』奎文堂、明治14年(1881年) 『紹成講義』岡松甕谷、明治19年(1886年)

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原子位置の平均二乗偏差 – Wikipedia

タンパク質・トリオースリン酸イソメラーゼの三次構造を表記方法を変えて表したもの。RMSDの計算では、これらに含まれる原子に座標を設定し、他のタンパク質の構造と比較する。 原子位置の平均二乗偏差(げんしいちのへいきんにじょうへんさ、英語: root-mean-square deviation of atomic positions)とは、タンパク質あるいはその他の分子の構造同士の平均二乗偏差であり、バイオインフォマティクスにおいてこれらの類似性を示す指標である。単に平均二乗偏差 、英語の略記でRMSDとも。 タンパク質・その他分子における原子位置の平均二乗偏差 (RMSD) は[1]、重ね合わされたタンパク質の対応する二原子間の距離を二乗し、その相加平均の平方根をとった値である[2]。このとき、主に計算に使用される原子はタンパク質主鎖の原子である。球状タンパク質の構造の研究では、通常、タンパク質同士で後述する最も適した重ね合わせを行い、アミノ酸の中心炭素原子に対して原子座標のRMSDをとることにより、三次元構造の類似性を比較する。 これらの比較には、並進や回転によってRMSDを最小化するように構造を移動させる方法が広く用いられている。Coutsiasらは、四元数を用いて二組のベクトル間でRMSDを最小化する剛体変換を行う簡単な方法を導出し[3]、これらの方法がKabschアルゴリズム(英語版)と等価であることを証明した[4]。また、Kabschアルゴリズムで得られる解は、HurleyとCattellによって導入された、任意の次元の行列に対する特異値分解を用いた最小二乗法の解の一例となっている(プロクラステス解析(英語版))[5]。さらに、最適な回転を計算するための四元数の解がPetitjeanによって論文に掲載され[6]、この解と任意の次元での最適な等長写像の計算が無限集合と連続の場合へと拡張された[7]。 また、力学系が明確に定義された平均位置を中心にゆらぎを起こす場合、平均位置を基準としたずれをRMSF (root-mean-square fluctuation) という[8]。 RMSD=1N∑i=1Nδi2{displaystyle mathrm {RMSD} ={sqrt

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永田佐次郎 – Wikipedia

永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永3年10月7日[注 1])- 1928年(昭和3年)1月7日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村大字高津原、鹿島町を経て現鹿島市横田)で、鹿島藩士・永田佐一の長男として生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永野静雄と共に副島の警護に当たった。藩では学校寮監、仏式練兵教師、予備隊長を務め、慶応4年(1868年)戊辰戦争で鹿島藩の北陸道出陣に従軍した。 1870年5月(明治3年4月[注 2])藩命で大阪兵学寮(のち陸軍士官学校)に入学したが、同年11月[注 3]、父の病により退学した。1871年(明治4年)中は再び藩学校で学び、1872年(明治5年)1月からのちの佐賀市で福島昭庸から洋学を学んだ。同年、学制発布により鹿島での小学校創設に参画し、教員伝習所の設置に係わり、1873年(明治6年)10月、高津原小学校訓導に就任。1875年(明治8年)3月、佐賀県第6大区3小区1等副戸長となり、以後、第7大区3小区1等副戸長、三潴県第7大区3小区1等副戸長、学区取締、佐賀県藤津郡書記などを歴任。1879年(明治12年)旧藩主鍋島直彬が沖縄県令として赴任した際に従い、同年4月、沖縄県6等属に任官し、第2回内国勧業博覧会委員、米麦大豆煙草菜種共進会委員、中頭役所長、同県4等属、沖縄県人種物品取調委員などを務め、1883年(明治16年)9月に退官した。 政界では1884年(明治17年)2月、高津原村会議員に当選。同年2月から1896年(明治29年)4月まで佐賀県会議員に在任し、同常置委員、勧業諮問会員なども務めた。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙で佐賀県第3区から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 実業界では、志保多銀行取締役、同頭取、鹿島銀行取締役、祐徳軌道取締役などを務めた。 1904年(明治37年)祐徳稲荷神社社司に就任し、佐賀県神職会の役員に長年在任した。また、旧藩主鹿島鍋島子爵家の家令も務めた。 注釈[編集] ^ 『衆議院議員列伝』305頁では10月5日。 ^ 『衆議院議員列伝』305頁では7月。 ^ 『衆議院議員列伝』305頁では12月。 出典[編集]

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1918年春季攻勢 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “1918年春季攻勢” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年4月) 1918年の春季攻勢(しゅんきこうせい、ドイツ語: Frühjahrsoffensive, フランス語: Offensive du Printemps)は、第一次世界大戦末期の1918年に行われた、西部戦線におけるドイツ帝国の最後の大攻勢である。皇帝の戦い(ドイツ語: Kaiserschlacht カイザーシュラハト)とも呼ばれる。 戦いの背景[編集] 長引く戦争で人的にも経済的にも疲弊しきったドイツは、もはやこれ以上長期化する戦争には勝利することはできないこと、迫りくるアメリカ軍はますます多くなるのが確実なことを悟っていた。その状況の中で戦争に勝利するためには新しい歩兵戦術の活用と迅速な攻勢により、決定的な勝利を得る必要が有ると判断した。ドイツ軍西部戦線司令官エーリヒ・ルーデンドルフはアメリカ軍の存在が致命的となる前、1918年春に攻勢をかけて英仏軍に壊滅的な打撃を与え、休戦に追い込もうと考えた。 そこでまず、ブレスト=リトフスク条約によってソビエト政権と単独講和し、東部戦線を終結させ、東部戦線のドイツ軍を西部戦線に転進させて西部戦線における英仏軍との数的優位を作った。

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イソセタン – Wikipedia

イソセタン 2,2,4,4,6,8,8-Heptamethylnonane[1] 識別情報 CAS登録番号 4390-04-9  PubChem 20414 ChemSpider 19228  UNII 918X1OUF1E  EC番号 224-506-8 MeSH 2,2,4,4,6,8,8-heptamethylnonane CC(CC(C)(C)C)CC(C)(C)CC(C)(C)C InChI=1S/C16H34/c1-13(10-14(2,3)4)11-16(8,9)12-15(5,6)7/h13H,10-12H2,1-9H3  Key: VCLJODPNBNEBKW-UHFFFAOYSA-N  特性 化学式

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ベル・モンターニュ・エ・メール – Wikipedia

ベル・モンターニュ・エ・メール(Belles montagnes et mer)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が富山県内で運行する臨時快速列車(観光列車)、ならびに同列車で使用される鉄道車両の愛称である。べるもんた[1][2]の公式愛称がつけられている[3][4]。 城端線と氷見線を経由して新高岡駅・高岡駅 – 氷見駅間を結ぶ列車と、城端線の高岡駅 – 城端駅間を結ぶ列車が設定されている。 2015年10月より実施される「北陸デスティネーションキャンペーン」に合わせて、北陸新幹線と城端線が接続する新高岡駅を軸とする城端線と氷見線の観光列車として、同年10月10日より運行を開始した[5]。「走るギャラリー」のコンセプトを基に、山と海の変化に富んだ両線の美しい車窓を1枚の絵画のように演出するデザインとしている。 高岡駅を起点に城端線は山側に、氷見線は海側に伸びることから、このエリアの特徴である「美しい山と海」をフランス語に訳した「ベル・モンターニュ・エ・メール(Belles montagnes et mer)」を列車名とする[6][7]ことで、国内の旅行客にインパクトを与えるとともに、海外の旅行客への認知をも図っている。 なお、車内には高岡銅器、井波彫刻といった沿線の伝統工芸が飾られ、食のサービスとして、同乗した板前による握りたての寿司や地酒の飲み比べを味わうことができる[4][6][7]。「ぷち富山湾鮨セット」(提供区間限定)と「ほろ酔いセット」が提供はそれぞれ、3日前までに着地型ツアーサイト「VISIT富山県」での予約が必要となる(当日車内で販売する場合もある)。 ぷち富山湾鮨セット(左半分)ほろ酔いセット(右半分) 運行概況[編集] 土曜・日曜を中心に運行される。ダイヤはAパターン(日曜)とBパターン(土曜)の2つが設定されており、Aパターンは1 – 4号として新高岡駅

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ザンブーラキ – Wikipedia

南アジアのザンブーラキの一例 ムガル帝国では、様々なタイプのザンブーラキが使用された。 ザンブーラキ (zamburak、もしくはzumbooruk) とは、近代から20世紀まで使われた駱駝騎兵と火器とを組み合わせた特殊な動物兵器である。ザンブーラキの騎乗者は zamburakchi または zumboorukchee と呼ばれていた。 ザンブーラキは旋回砲(小型のファルコネット砲)、それをヒンジ止めしたサドルを背負ったラクダ、そしてそれに騎乗する兵士で構成される。1850年以降からはガトリング砲も同様にラクダに取り付けられている様子がみられる[1]。 背負った旋回砲を特にシャテーナル (Shutermal) と呼称するとも言われている。使用法は砲自体をラクダから下ろして発砲するとも、載せたまま砲撃を加えるとも諸説あってはっきりしないが、砲撃時の反動問題から下ろして使用するのが主で、機動戦時のみ駄載状態で(走行せずに座り込ませて、右図)発砲するのが妥当な使用法だと思われる。砲弾は主に対人用のキャニスター弾を用いた。 語源はアラビア語: زنبور‎(zambūr、スズメバチの意。おそらく クロスボウの発射音から)に由来している。 ザンブーラキはエジプトの兵士が大型のクロスボウをラクダの背に乗せたのが始まりである。 ザンブーラキは急速にアラブ、アフガニスタン、ムガル帝国、ペルシャ、サファヴィー朝、アフガニスタンに広まった。 ムガル帝国時代に駱駝騎兵とクロスボウの組み合わせから、旋回砲を取り付ける駱駝と砲兵を組み合わせに改良された。 ムガル帝国崩壊後も、駱駝と砲兵を組み合わせた駱駝砲兵は、軽装騎兵部隊として砂漠地方のインドで使用され続けていた。

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