台湾からの引き揚げ(たいわんからのひきあげ)では、1946年(昭和21年)2月21日から開始された台湾在留日本人の引き揚げについて解説する。 1945年、ポツダム宣言受諾による、日本の敗戦に伴い、外地に在留していた日本人の引き揚げ事業が始まった[1]。その開始当初の予定では、台湾以外の他の地区からの帰還を優先させ、台湾からの帰還は最終段階で実施される予定だった[1]。台湾の治安をはじめとする状況が、他の地域(例えば満州)に比べてはるかに良かったからである[1]。 敗戦を迎えても在台日本人のなかで本国へ引き揚げを希望する者はわずかしかいなかった[2]。彼ら日本人のほとんどが、台湾人によって危害を加えられたり、不安にかられたことがなかったことによる[2]。朝鮮や満州と比較して、在台日本人の敗戦認識には特異なものが見られる[2]。 多くが都市生活者だった在台日本人は、すでに生活用品の切り売りなどでタケノコ生活に陥っていながらも、住居を追い出されることもなく、敗戦前と同じように市内も自由に歩き回ることができた[2]。また戦前からの紙幣であった台湾銀行券が、敗戦後も主軸通貨として流通していた。朝鮮各地で在朝日本人が日本人世話会を結成していたのと違い、在台日本人は自らを守るための組織をつくろうとしなかったが、これには敗戦前と変わらず台湾総督府が機能していたことが大きな要因であった[2]。しかし、台湾統治の中核は、陳儀率いる行政長官公署による大陸系中国人に握られ、台湾人の政治参加が限定されていることへの不満、大陸から持ち込まれたインフレーション、大陸系中国人と台湾人との言語や習慣の違いに起因する些細な軋轢の積み重なりなどにより、政府に対する不信感・反感は日増しに高まり、やがてその不満は、日本人に対しても向けられるようになった[3]。これまで安閑と過ごしてきた在台日本人のなかからも、接収に伴う失業者の増大や物価の高騰、反日的言動の増加によって、日本への引き揚げを希望する者が次第に増加してきた[3]。 1945年10月になり、台湾の接収が現実化するにつき、台湾総督府の権威も低下してきた。また敗戦時に30万を数えていた第10方面軍が、敗戦後に現地招集者や台湾人の招集解除により17万人程度に減ったとはいえ、なお駐留を続けていた[3]。連合国にとっても現地に日本軍が残留していることは、治安維持の観点でも好ましくないので、日本で不足している輸送用船舶を提供してでも、出来るだけ早く本国に帰還させようと考え始めた[3]。そこで最初に軍人軍属を優先的に復員させ、その後1946年2月21日から民間人の帰還を開始した[1]。この2月21日以降の帰還事業は、第一次帰還から第三次帰還を中心に数次に分けられる[1]。 この台湾からの引き揚げ事業で帰還した日本人は、最終的に、軍人軍属15万7,388人、民間人32万2,156人、合計47万9,544人である[1]。 第一次帰還[編集] 第一次帰還は、1946年2月21日から同年4月29日までの2か月の間に行われた。この2カ月の間に帰還された台湾在留日本人の内訳は以下のとおりである。 台湾在留日本人の内役 軍人・軍属の家族 8,208人 遺族・留守家族 5万9,941人 一般日僑 21万5,956人 計 28万4,105人 「日僑」とは、日本国外にいる日本人のことを「華僑」になぞらえた中華民国側の呼び方である。台湾各地に住んでいた台湾在留日本人は、基隆、高雄、花蓮港のいずれかの「集中営」に集められ、これらの港から乗船した。「集中営」とは岸壁に仮設された倉庫のことである。3月2日出航分からは、月日別・出航地別の人数の記録が残されている。この記録によると3月2日から4月18日まで例外なく毎日出航者を送り出しており、二か月以内の極めて短期間に3万人弱の引き揚げ者を帰還させていた実態がよく把握できる[4]。 基隆・高雄・花蓮各港別出航者数 日付
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