Month: August 2018

イットリウム90 – Wikipedia

イットリウム90 (Yttrium-90、90Y) は、イットリウムの同位体の一つである[2]。イットリウム90はがんの放射線療法に用いられている[3]。 崩壊モード[編集] 90Yは半減期64.1時間[3]、崩壊エネルギー2.28MeV、平均βエネルギー0.9336MeV[4]でジルコニウム90にβ−崩壊する。また、90Zrの0+状態に崩壊する過程で1.7MeV[5]の光子を0.01%対生成する[6]。放出された電子が物質と相互作用することで、制動放射線が放出されることがある。 イットリウム90は、原子炉で使用されるウランの核分裂生成物である半減期約29年のストロンチウム90が核崩壊することで生成される。その後、化学的な高純度精製によってイットリウム90を分離してから沈殿させる[7][8]。 医学的応用[編集] 90Yは、肝細胞癌、白血病、リンパ腫の治療に重要な役割を果たしているが、様々な腫瘍を治療できる可能性がある[9]。経動脈的放射線塞栓療法は画像下治療で行われる処置であり、90Yを含浸させた微小球を腫瘍を栄養する動脈に注入する[10]。微小球は腫瘍の周囲の血管に留まり、その結果、放射線が近くの組織にダメージを与える[11]。90Yを用いた放射線塞栓療法は、肝細胞癌のTTP(time-to-progression)を有意に延長し[12]、有害事象の許容範囲も広く、同様の治療法よりも患者のQOL(生活の質)を向上させる[13]。90Yは、微小球から放出される制動放射線を画像化することで、腫瘍診断にも利用されている[14]。また、放射線塞栓療法後のポジトロン断層法も可能である[15]。 関連項目[編集] 参考資料[編集] ^ “The Half-Life of Yttrium-90”. Physical Review 93 (5): 1029.

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デロリアン・DMC-12 – Wikipedia

デロリアン・DMC-12は、1981年から1982年にかけてデロリアン・モーター・カンパニー(DeLorean Motor Company、DMC)が製造したスポーツカー。同社によって製造された唯一のモデルであるため、単に「デロリアン」と言えばこの自動車(乗用車)のことを指す。 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』に登場するタイムマシンの改造ベースとなった車両として知られている。 1976年10月、DMCのチーフエンジニアであるウィリアムT.コリンズは、デロリアンの最初のプロトタイプを完成させた[2]。このプロトタイプはDSV-1またはDeLorean Safety Vehicle(デロリアンセーフビークル)として知られており[3]、シトロエン・CXの直列4気筒エンジンを搭載していた[4]が、パワー不足のためPRV V型6気筒エンジンに変更された。 以上のような経緯を経て、1981年に登場したモデルがこのDMC-12である。ボディはイタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロがデザインし、ロータス・カーズが機構面を請け負った。DMC-12という車名は、当初計画されていた12,000ドルという販売価格に由来する[5]。 製造はイギリス・北アイルランドのベルファスト郊外、アントリム県ダンマリー村にある工場で行われ、量産第1号車は1981年1月21日に組立ラインをロールオフした[6]。製造スタッフの経験不足ゆえ、当初は品質について多くの苦情が寄せられていたが、1982年頃までにこの問題は多くが解決された[7]。 前宣伝の効果も手伝って、DMC-12は多くのバックオーダーを抱える中での発売となり、初年度は約6,500台を販売するなど売り上げは好調であった。この時期はターボチャージャーの搭載や、4枚ガルウイングドアの4シーター仕様などの追加計画もあったが、販売価格が25,000ドル[8](現在の価値で$68,896ドル[9])と高額であったことや、大量の受注キャンセルなどから、発売翌年以降はたちまち売り上げ不振に陥った。 その後も諸問題は続き、北アイルランドへの工場誘致の条件として交付されていたイギリス政府からの補助金発給が停止された。後にエンロンの会計監査も行ったアーサー・アンダーセンが、デロリアン社の資金を社長のジョン・デロリアンが私的に流用するなどしたことを黙認していたことがマスメディアの調査などで明らかになっている。 1982年10月19日には社長のジョン・デロリアンがコカイン所持容疑で逮捕され、会社は資金繰りが立ち行かなくなり倒産した[10][11]。なお、デロリアンは1984年8月に無罪判決を受けている[12]。 DMC-12は1981年1月21日から1982年12月24日までの間に推定8,975台が製造され[13]、うち約6,500台が現存するものと考えられている[14]。 デザインと力学[編集] リアに積まれるエンジン。 バックボーンフレーム上にFRPボディーを載せる構造はロータスが得意とした手法であるが、メンテナンスフリーをも狙って外部全体を無塗装ステンレスで覆った。表面は加工時のサンドペーパーの傷をそのまま残したヘアラインとなっている。なお車高や最低地上高が高いのは、当時の法的基準におけるヘッドランプの高さを満たすためと、北米の道路事情を配慮した実用性確保のためである。 エンジンはプジョー・ルノー・ボルボが乗用車用に共同開発した排気量2,849 ccのPRVV型6気筒SOHCをフランスで製造したもので、これを後部に搭載するリアエンジンレイアウト(RR)を採った。このパワートレインとレイアウトは、トランスミッションの歯車比やエンジンのチューニングは異なるものの、アルピーヌ・ルノーA310・V6とも共通する。このエンジンは当初90°バンクのV型8気筒として設計されていたが、1973年のオイルショックの影響で出力よりも経済性を重視せざるを得なくなり、そのままのバンク角で2気筒を切り落とした経緯を持つ実用型である。後に位相クランクピンの採用で60°ずつの等間隔爆発となるが、この当時は不等間隔爆発のままであった。 デロリアンは4輪独立懸架を備えている。フロントにはダブルウィッシュボーン式サスペンション、リアにはマルチリンク式サスペンションがある。4輪すべてにディスクブレーキが付いている。

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ニーデルンハウゼン – Wikipedia

ニーデルンハウゼン (ドイツ語: Niedernhausen)は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区のラインガウ=タウヌス郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。人口約15,000人のタウヌス山地の町である。ライン=マイン地方の西部、ライン=タウヌス自然公園に位置し、州都ヴィースバーデンと境を接している。 ニーデルンハウゼン地区(ここだけで人口の半分が住んでいる)とケーニヒスホーフェン地区は谷の斜面に位置している。町の中心部は谷の底にあたる。町は、面積の 58 % を占める混交林に囲まれている[2]。 ニーデルンハウゼンは、ドイツ全体の平均に対して 134 % という高い購買力インデックスを示している。ニーデルンハウゼンは、シュラーゲンバートを抑えてラインガウ=タウヌス郡で最も人口1人あたりの収入が多い町である[3]。 位置[編集] ニーデルンハウゼンの概略図 ニーデルンハウゼンでは、アルト=ニーデルンハウゼンがケーニヒスホーフェン地区やオーバーヨスバッハ地区とともにホーアー・タウヌスに位置している。ホーアー・タウヌスは、中低山地であるタウヌス山地の高い山の多くが集まっている地域で、広い森に覆われて、集落はわずかである。ホーアー・タウヌスはリューデスハイム・アム・ライン近郊のニーダーヴァルトから北東方向にバート・ナウハイム近くのヴェッテラウ(ドイツ語版、英語版)まで延びている。残りの地区はヒンタータウヌスに属す。タウヌス山地は、切れ目となっているイトシュタイン盆地(ニーダーゼールバッハ近くでアウタールとなってニーデルンハウゼンの一部がこれに属す)によって東西に分けられている。ニーダーゼールバッハは、高度 351 m で、タウヌス山地中部における最も低い峠となっている。このため、この谷は広域交通にとって極めて重要である。 タウヌス山地の主脈は町域を南西から北東に貫いている。これは同時に南側のライン川水系およびマイン川水系と北側のラーン川水系とを分ける分水域にもなっている。この稜線の一部で、同時にヴィースバーダー・ホーホタウヌスの一部には、町内の最高地点である海抜 592 m のホーエ・カンツェルや海抜 492

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ヨーロッパ通常戦力条約 – Wikipedia

ヨーロッパ通常戦力条約(ヨーロッパつうじょうせんりょくじょうやく、英名:Treaty on Conventional Armed Forces in Europe)は、欧州各国が核兵器以外の通常戦力の削減について締結した条約。通称CFE条約。 第二次世界大戦後初の通常戦力削減に関する軍縮条約である。 署名は1990年11月、暫定発効を経て1992年11月に正式発効した。条約が提起され、締結について議論されたのが冷戦中であり、条約は冷戦の継続を前提として通常戦力の削減について定めている。その後、冷戦終結による国際情勢の変化などを受け、1997年1月から、いわゆる条約の適合化交渉が始まり、1999年11月に条約適合のための合意文書、通称「CFE適合条約」が作成された。ただ、同適合条約はロシア連邦など一部の国のみが批准しており発効していない。 2007年12月12日、ロシアはNATO諸国がCFEを批准していないとしてCFE履行の一時的な履行停止を宣言した。また、2015年にはロシアが離脱表明をしており、現在この条約は有効に機能していない状態にある。 NATO 16ヶ国 ワルシャワ条約機構 14ヶ国 この条約は、戦車、装甲戦闘車両、火砲、戦闘機、攻撃ヘリの5つのカテゴリーの兵器について、東西両陣営において保有数の上限を定め、上限を超える兵器の速やかな廃棄、および条約遵守のための査察について取り決めている。 以下は5つのカテゴリーそれぞれの兵器について、条約締結時点(1992年7月)の各陣営の保有数、および条約で定められた目標数を示している。 上段:現有数下段:削減目標数 NATO 旧ワルシャワ条約機構 アメリカ

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しんのすけ – Wikipedia

しんのすけ(1973年2月17日 – )は、日本のパチスロ関連ライター、パチスロ専門家、プロフェッショナルスロットルレーサー。千葉県松戸市出身。法政大学卒業[1]。身長164cm血液型O型。靴のサイズは23cm。 来歴・人物[編集] 大学4年生の時にパチスロ必勝本に編集のアルバイトとして雇われる。大塚商会から内定を貰っていたが、内定を辞退してパチスロ必勝本のライターになる。初期の紙上ネームは「船橋の狼」。 学生時代にテニスのコーチをしていた経験から、「コーチ山田」という名前で当初は活動していたが、パチスロ必勝本の発行が不定期から各月になる時に当誌のバトル企画に出る事になり、その時に現在の「しんのすけ」に改名した[1]。 30年間、血液型はA型と信じていたものの人間ドックにてO型と判明した[2]。 競馬記者になりたかったぐらい競馬にはまっていた時期がある。しかし、3連単が導入された時に、そんな射幸性を煽るのがでたらそこを狙わないわけにいかないということで、競馬は無理だと判断した[1]。 現在は、活躍の場を主にCS放送やネット配信の番組に移し活動している。 曰く「パチスロはイメージするスポーツ」 ドラゴン広石も同論者である。 古参ライターの中でもAタイプはめったに打たない。医者に止められているそう。 レバーON108の奥義[編集] しんのすけがレバーを叩く際に使用するオリジナル技。毎ゲーム乱発するのではなくここ一番で使用し数々の結果を引き寄せてきた。表記はレバーオンではなくレバーONである。 奥義ごとにナンバリングしてあるがしんのすけ本人が偶に間違えることがある。 技の一部14アロー17明鏡止水46オーディエンス89クラッシュ104天空の城ラピュタ107バーニングヘッド109エルコンドルパサー(読者募集企画で決まった番外技) リアロー・虚子・川崎さん・爪の垢・レバー・ワイパー・鬼打ち・Air・左手の小指・空振り・右手中指・右手中指のはら・グランドクロス・はら・孤月・天地動鳴・リオデジャネイロ・北斗白鷺拳・ムツゴロウ・レーザービーム・タックル・牛歩・カスタネット・ダンプ・風鈴・合掌・サクリファイス ギガグラビティ・スマッシュ・無我の境地・夢想転生・鉄山靠・三沢のエルボー・まねまねキング・挙手・未来予想図 パチンコ・パチスロもっとまっしぐら!!(PS-STATION-TV) パチスロ-ライフ(エンタメ〜テレ)

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三国ヶ丘FUZZ – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2014年7月) 独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。(2014年7月) 広告・宣伝活動的であり、中立的な観点で書き直す必要があります。(2014年7月)出典検索?: “三国ヶ丘FUZZ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 三国ヶ丘FUZZ(みくにがおかファズ)とは、大阪府堺市にあるライブハウス。 三国ヶ丘FUZZが入るビル 目次 1 概要 2 施設概要 3

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朴林恒 – Wikipedia

朴 林恒(パク・イムハン、박임항)は大韓民国の軍人、政治家。創氏改名時の日本名は鶴山林恒。 1919年3月、咸鏡南道洪原に生まれる。満州国間島省龍井街の光明中学校に入学した。丁一権の講演に影響を受け、1938年に新京軍官学校に入学した。 1940年春、新京軍官学校予科第1期を優秀な成績で卒業(生徒隊予科第1連第1区隊歩兵科)。李周一、崔昌彦らと共に陸軍士官学校(第56期相当)に留学。1942年、佳木斯部隊に配属され歩兵少尉に任官。のちに奉天陸軍飛行学校操縦科に入校して、1945年3月に卒業。終戦時は満州軍飛行兵中尉。 終戦後はソウルに行き呂運亨の所に身を寄せた。建国準備委員会青年部で活動し、全国軍事準備委員会委員。1946年2月27日、呂運亨の指示により金永澤、金インキ、朴俊鎬、朴蒼岩、李再起、崔在桓、崔昌崙と共に越北。朝鮮人民軍の創設に参与し、美林自動車工場長として勤務。1947年末、密航交易船で越南。韓国で朝鮮民族青年団教務次長として活動していたが、1948年8月に陸軍士官学校に入学。 1948年10月、陸軍士官学校卒業(特任第7期)、任大尉(軍番12319番)、陸軍本部作戦課長。 1948年11月から1950年1月まで陸軍第211部隊を率いて麗水・順天事件鎮圧作戦や智異山ゲリラ討伐作戦を実施した。 1950年1月15日、第3連隊長、任大領。 1950年6月10日、陸軍本部作戦教育局次長。東海岸の第8師団を検閲中に朝鮮戦争が勃発したため、兵器運搬車でソウルに帰った。9月、第1軍団作戦主任参謀。12月、参謀総長秘書室長。 1951年7月、第1師団長、任少将。 1953年6月、アメリカ第1軍団副軍団長。同年9月、アメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。 1954年6月、陸軍本部人事局長。同年10月、陸軍歩兵学校長。同じ駐屯地の砲兵学校長は朴正煕准将であり軍事クーデターに参加する機縁となる。 1955年7月、第6軍管区司令官。10月に国防研究院の創設を任じられ4年間、総長として精魂を傾け、自らも院生として学んだ。 1959年7月、国防部次官補。 1960年7月、第1軍団長。10月、第5軍団長。 1961年1月、中将に昇進。5月、5・16軍事クーデターの首謀者の1人として参加し、隷下の第5師団(蔡命新准将)をソウルに派遣してクーデターを成功させる。クーデター後、国家再建最高会議最高委員兼第1軍司令官。 1962年6月、建設部長官。 1963年3月、反革命事件関与の容疑で拘束、予備役編入。 1966年3月、病気のため刑停止、釈放され入院し、5月に退院。 1969年8月、特別赦免。

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思い出のとき修理しますのあらすじ – Wikipedia

思い出のとき修理しますのあらすじ(おもいでのときしゅうりしますのあらすじ)は、谷瑞恵による日本の連作短編集『思い出のとき修理します』(集英社文庫)各話のあらすじを記す。 黒い猫のパパ[編集] 思い出を修理される人:咲と父親 都会で恋愛にも仕事にも疲れた美容師・仁科明里は、小学2年生の頃に1か月だけ過ごした「ヘアーサロン由井」に引っ越してきて、「おもいでの時 修理します」というプレートを掲げた時計店の店主・飯田秀司と、近くの津雲神社の社務所で寝起きしている大学生・太一に出会う。太一が神社で拾ったという壊れたオルゴール箱を見せ、秀司が底を開くと、中に入っていたのは母娘と黒猫が写ったネガだった。 太一に案内されて商店街を歩いていた明里は、黒猫を「パパ」と呼んだ女性、咲に出会う。咲は、オルゴールの中にあった写真は自分と母を写したものだが、オルゴールは自分が落としたものではなく、高校生の頃にいなくなった飼い猫「パパ」のお気に入りで、「パパ」がいなくなった頃に見当たらなくなったものだという。「パパ」は、咲が生まれる前に亡くなった父親が拾ってきた猫で、元は別の名がつけられていたが、幼い咲が「パパ」と呼ぶのでいつの間にかその名になったらしい。 明里は、猫の寿命から考えるとそんなことはあり得ないと知りながら、商店街で見かけた黒猫が「パパ」だったらいいなと思い、太一と一緒に探し始める。猫を追いかけているうち、明里は日比野写真館の裏口に迷い込み、主人とたまたま訪問していた秀司に会う。日比野の話から、咲は隣町の写真館で例の写真を撮ったということと、その写真館の親戚の中に、高山など人が滅多に足を踏み入れない場所の風景を撮影して、様々な賞を取っている写真家がいることを知る。 咲が直之と入籍する日、明里は咲から、商店街のみんなと一緒に撮る記念写真に加わってほしいと誘われる。快諾した明里は、咲の髪をセットさせてもらう。セットされながら、咲は「パパ」がいなくなった日、自分を振り返って「咲、元気でな」としゃべったと語る。そして咲が「いつかまた、会えるかな」と尋ねると、「おまえが嫁に行くころには」と答えたという。記念写真が終わると、咲は黒猫を見つけて、「お父さん」と呼びかけ、「幸せになるから心配しないで」と語りかける。猫は、それに応えるようにしっぽを揺らす。 買い物の帰り道、明里は秀司と太一と会い、オルゴールの話になる。秀司は、二人に自分の推理を語って聞かせる。おそらく、咲の父親は、日比野が言っていた風景写真家である。そして、彼は今も生きているが、危険な仕事をしている自分では責任ある父親の立場にはなれないと思って、娘に一生名乗り出ないと決めたのではないか。しかし、彼が帰国したとき、親戚の写真館へ行き、そこで彼が母娘の写真を撮るという約束をしたのではないかと。また、咲が最後に「パパ」を見た日も、父親は家族の様子を見に行っており、「パパ」がそれを見つけて連れて行ってとせがんだが、父親は「パパ」のそばにオルゴールを見つけて一緒に持ち去り、中に思い出のネガを入れたのではないかと。 秀司は、オルゴールに記念写真を入れて咲に渡す。しかし、咲と直之が神社にお参りに行ったとき、そのオルゴールをちょっと石垣の上に置いておいたらなくなったという。おそらく、咲の父親が持って行ったのだろう。その記念写真には、黒猫も写っていた。明里は、オルゴールの中のこの写真を見た咲の父親は、自分の代わりに黒猫が家族写真に加わったように感じるだろうかと思い、秀司はやっぱり思い出を修理してくれる人なのかもしれないと感じる。 茜色のワンピース[編集] 思い出を修理される人:ハルエ 明里は、3軒隣にある「ハル洋品店」のハルエが、足をくじいたという話を秀司から聞く。明里が回覧板を持って行くと、ハルエは店をたたんで姪の世話になることにしたため、今度の縁日が最後だからと、18歳の頃に着ていた茜色のワンピースを取り出そうとして足をくじいたという。翌朝秀司に会うと、ハルエが、秀司にあのワンピースを着た明里と、縁日にデートして欲しいと願ったという。また、太一によれば、ハルエは不治の病でそういう施設に入るとのことであった。 回覧板を届けた3日後、ハルエが尋ねてきて明里に依頼の理由を語る。それは、18歳の時の縁日にある男性とデートしたが、悲しい結末に終わってしまったため、自分の涙を吸ったワンピースに、改めて楽しい経験をさせてやりたいからだという。 18歳の頃のハルエは、商店街でも有名な美人看板娘で、多くの男たちから言い寄られていた。ハルエ自身は、当時は恋だとは気づいていなかったが、別の商店街の漆器店の次男のことが気になっていた。彼は自分に気があるはずなのに、ちっとも言い寄ってこないため、古書を一緒に探して欲しいと言って、ハルエの方から縁日に誘ったのだ。 縁日当日、明里と秀司は、ハルエのためにやり直しのデートに出かける。神社に行くと、太一が御神酒を勧めてきて、明里はそれを飲んでめまいを覚える。秀司が水を探しに行っている間、明里はハルエに聞いたデートの顛末を思い起こす。なかなか彼が告白してこないため、彼がハルエの同級生とお見合いをするという噂を思い出し、ハルエはつい彼女の悪口を言ってしまった。そして、それを彼にたしなめられたハルエは、彼にも嫌みを言ってしまった。後悔したが、プライドが邪魔して謝ることもできず、また知り合いに二人が一緒にいることをからかわれて、おそらくハルエを守るためにその場を立ち去った彼の後を追うこともできなかった。その後、彼は都会に働きに出て、若くして病死した。ハルエも一度結婚したがうまくいかず、その後はずっと一人で暮らしてきたという。 金木犀の香りと心地よい酩酊感の中で、ふと気がつくと明里は昔の縁日の神社にいた。そして、ハルエの代わりに彼を追いかける。彼は、ハルエが探していると言った古書を見つけて、ハルエと別れた神社の金木犀のそばに戻ってくる。ハルエが見当たらないため肩を落とすが、足音に気づいて彼は明里をじっと見つめる。そしてハルエの名を呼び、とびきりの笑顔になる。明里は、彼もまたハルエのことが好きだったのだと知る。 気がつくと、明里は自宅にいた。実は御神酒にはテキーラが混ぜてあり、明里はそれを一気飲みして酔ってしまったのである。そして、水を探しに行った秀司を追いかけていき、追いつくと抱きついたという。しかし、その時に耳元で聞いた「受け取って、くれるよね」という言葉を思い出した明里は、何気なくスカートのポケットを探ると、ルビーの指輪が入っているのに気づく。指輪には「to HARUE from

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