Month: October 2018

容閎 – Wikipedia

アメリカに派遣された留学生たち 容 閎(よう こう、Rong Hong、1828年11月17日 – 1912年4月21日)は、清末の政治改革者・実業家。近代中国史上初のアメリカ合衆国への留学生である。 広東省香山県南屏村(現在の珠海市香洲区南屏鎮)出身。字は達萌、号は純甫、純父など。渡米したときには’Yung Wing’と名乗っている。 貧しい農家に次男として生まれた。1835年、7歳の時に父親に従ってマカオに行き、まずポメラニア人宣教師カール・ギュツラフの妻メリーが運営していた学校に入学した。ここではハリー・パークスの姉たちと机を並べている。その後1841年にモリソン記念学校に入学した[1]。1842年、香港がイギリスに割譲されるとモリソン記念学校は香港に移転し、容閎も香港で学業を続けた。1847年、校長のサミュエル・ロビンス・ブラウン(中国名:長塞繆爾・勃朗)牧師がアメリカに帰国することになると、容閎・黄寛・黄勝の生徒3人も帯同してアメリカに留学した。 アメリカに到着後はマサチューセッツ州で二年間ほど大学入学の準備をしている。この間キリスト教に入信している。1850年にイェール大学に入学した。1852年にアメリカ国籍を取得し、1854年に卒業した。留学中、森有礼とも交遊している。卒業後はすぐに帰国し、広州のアメリカ公使館や香港高等審判庁、上海海関などの通訳の職に就いた。また実業家としても歩み始め、外国商人のエージェントとして絹糸や茶の買い付けを行っている。 1860年、太平天国の洪仁玕と面会して、西洋文明を中国に導入するという内容の「治国七策」を提出した。提案は以下の通りであった。 合理性に基づいた軍隊を組織すること 士官学校を設立すること 海軍育成のために海兵学校を設立すること 優秀な文民を採用し、政府を運営するべきこと 銀行制度を立ち上げ、また度量衡を統一すること 年齢別クラスを内容とする学校を設け、聖書を教科書として採用すること 実業を教育する学校を設けること 洪仁玕の賛同は得られたが、他の諸王の支持は得られなかった。洪秀全は四等爵を授けたものの提案は拒絶している。そのため容閎は天京を辞去した。政治改革案は容れられなかったものの、容閎は実利を得た。南京を去る際、太平天国の支配領域を自由に行き来できる通行証を入手し、商売に最大限活用したのである。太平天国によって江南地方の物流は滞っていたが、容閎は通行証によって安全に買い付け、運送できた。これにより彼は多くの財を成したと言われる。

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芳徳寺 – Wikipedia

柳生家一族累代之墓所 芳徳寺(ほうとくじ)は、奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は神護山(じんごさん)で、本尊は釈迦如来。芳徳禅寺とも称される。 柳生藩主柳生氏の菩提寺。かつては柳生城があった柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える。柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。 北から寺へ登る坂が霊源坂、その登り口の橋は古楓橋であり、東南の小高い台地である山王台(清風台)とともに柳生十景に挙げられている。また、霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳(石舟斎)の居住地とされる。 寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、宗矩と親交のあった沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。宗矩の死後、当時、11歳であった末子の六ツ丸が仏門に入り、大徳寺の天祐和尚に預けられたのち、列堂義仙が当山の第一世住持となった。正保4年(1647年)正月、将軍家光の内意によって、宗矩の遺領小柳生村の1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。 廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義の弟・基夫氏が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた[1]。 本堂には本尊釈迦三尊像の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている[2]。 木造但馬守宗矩坐像は慶安4年(1651年)に宗矩の7回忌にあたり、柳生宗冬が京都の大仏師康看に彫らせたもの。また、木造沢庵和尚坐像は明暦3年(1657年)に、列堂が京都の大仏師康春に彫らせたものであり、ともに前述の火災を免れ、今に伝えられている[3]。 指定文化財[編集] 本堂 – 江戸時代建立、市指定文化財(建造物) 平成4年指定 柳生家墓所附列堂和尚墓所 – 室町時代~江戸時代、市指定文化財(史跡) 平成4年指定 正木坂剣禅道場[編集] 昭和38年(1963年)に当時の住職・橋本定芳により開設された剣道と座禅の道場。柳生三厳の正木坂道場に習って命名された。橋本が手がけた中でも、40年以上にわたり開設にまで力を尽くした一大事業であり、宇垣一成、徳富蘇峰、犬養毅、長谷川伸、吉川英治ら数多くの政治家や文化人、経済人の賛同の元、全国から資金を集めて行われた。奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一乗院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移された。座禅と剣道を一体とした指導が行われており、全日本剣道連盟による全国指導者講習会や、県下の剣道大会の会場に利用されている[4]。 交通アクセス[編集] ^ 柳生観光協会編『新版・柳生の里』、柳生観光協会刊、86、94-97頁、2000年

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レジナルド・ケル – Wikipedia

レジナルド・クリフォード・ケル(Reginald Clifford Kell, 1906年6月8日 – 1981年8月5日)は、イギリスのクラリネット奏者[1]。 ヨークの生まれ。当初はヴァイオリンを学ぶが、クラリネットに転向し、ロンドン王立音楽院でハイドン・ドレーパーに師事。在学中からロイヤル・フィルハーモニック協会のオーケストラで首席奏者を務め、1932年に卒業してからは、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に移籍し、1936年まで在任した。1939年にはアルトゥーロ・トスカニーニによってルツェルン音楽祭に招聘されている[2]。その後、BBCサロン・オーケストラやリヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者を務めたが、1948年にアメリカに渡ってアスペン音楽祭などに出演した。 教育者としては、1935年から1939年まで母校で教え、アメリカに渡ってからはベニー・グッドマンに私的にレッスンしたり、アスペン音楽祭のマスター・クラスでピーナッツ・ハッコーらを教えたりしていた。1958年には母校の教授としてイギリスに戻ったが、この頃には演奏活動から退いていた。1959年にはふたたびアメリカに渡り、ブージー・アンド・ホークスの器楽部門で1966年まで働いた後に隠居し、画家としていくらかの展覧会を開くなど悠々自適の余生を送った。 ケンタッキー州フランクフォートにて死去。 ^ [1] ^ [2] この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:クラシック音楽/PJ:クラシック音楽)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 典拠管理 BIBSYS: 3121981 BNF: cb14006611g

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国鉄タキ42250形貨車 – Wikipedia

国鉄タキ42250形貨車(こくてつタキ42250がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)及び1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化後は、日本貨物鉄道(JR貨物)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 本形式は、ナフタリン専用の32t積タンク車として1978年(昭和53年)3月9日から1979年(昭和54年)10月27日にかけて2ロット5両(タキ42250 – タキ42254)が製作された。この内4両(タキ42250 – タキ42253)はタキ1500形(タキ15455, タキ15463, タキ15458, タキ15459)からの改造車である。改造内容はタンク体は種車のものを活用して温水加熱装置、外板(キセ)が装備された。 所有者は、日本陸運産業の1社のみであり、その常備駅は、総武本線越中島支線の越中島駅、鹿児島本線の西八幡駅であったがその後全車京葉臨海鉄道臨海本線の、村田駅(現在の千葉貨物駅)常備となった。全車生涯所有者が変わることなく運用された。 ナフタリンを専用種別とする形式には、他には例がなく本形式が唯一の存在であった。 1979年(昭和54年)10月より化成品分類番号「侵40」(侵食性の物質、可燃性固体、危険性度合3(小))が標記された。 塗色は、黒色であり、全長は13,700mm、全幅は2,600mm、全高は3,863mm、台車中心間距離は9,600mm、実容積は33.3m3、自重は21.6t、換算両数は積車5.5、空車2.0、台車はベッテンドルフ式のTR41DS13又はTR225であった。 1987年4月の国鉄分割民営化時には全車(5両)がJR貨物に継承されたが、1996年(平成8年)1月に最後まで在籍した1両(タキ42254)が廃車となり、同時に形式消滅となった。 年度別製造数[編集] 各年度による製造会社(改造による編入車は改造会社)と両数、所有者は次のとおりである。(所有者は落成時の社名) 昭和53年度 – 4両 川崎重工業

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汐田総合病院 – Wikipedia

汐田総合病院 情報 正式名称 公益財団法人横浜勤労者福祉協会 汐田総合病院 前身 汐田診療所 標榜診療科 内科, 整形外科, 外科, 小児科, 脳神経外科, 神経内科, 眼科, 精神科, 皮膚科, 泌尿器科, 耳鼻いんこう科, 婦人科,

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平沢安政 – Wikipedia

平沢 安政(ひらさわ やすまさ、1954年 – )は、日本の教育学者、大阪大学教授。 大阪府生まれ。1978年大阪大学人間科学部卒業、羽曳野市立羽曳野中学校教諭。82年退職。84-92年国際会議同時通訳者。1989年ハーバード大学教育大学院博士号取得。1992年大阪大学人間科学部助教授、96年教授。2012年人間科学研究科・学部長。部落解放・人権研究所理事、大阪府人権施策推進審議会委員など。 『アメリカの多文化教育に学ぶ』明治図書出版 オピニオン叢書 1994 『人権文化を育む生涯学習について』亀岡市 亀岡生涯学習市民大学 2000 『人権教育のための世界プログラム 解説と実践』部落解放・人権研究所 ヒューマンライツベーシック 2005 共編著[編集] 『人権教育と市民力 「生きる力」をデザインする』編著 部落解放・人権研究所

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ラルブル・コンペティション – Wikipedia

1995年 ポルシェ・911 GT2 1994年ルマン24時間レース ポルシェ・911カレラRSR 2002年ルマン24時間レース クライスラー・バイパー GTS-R 2007年ルマン24時間レース アストンマーティン・DBR9 2011年ルマン24時間レース シボレー・コルベット C6.R 2018ルマン24時間レース リジュ・JS P217 ラルブル・コンペティションは、1988年にジャック・ルコントによって設立されたフランスのレーシングチーム。 デュ・ヴァル・ド・ヴィエンヌ・サーキットが本拠地で、ラルブルは、ポルシェ・カレラカップ、フランスGT選手権、FIA GT選手権、ル・マン24時間レースで成功を収め、ポルシェ、フェラーリ、クライスラーなどの主要な自動車メーカーと協力していた。 ラルブルは、ルマン24時間レースでポルシェ・911カレラRSRで、1993年GTクラス、94年LMGT2クラスでクラス優勝を果たす。

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トーテムポール – Wikipedia

アラスカ州ケチカン市に建つトリンギット族のトーテムポール トーテムポール(英語: totem pole)は、北アメリカ大陸の太平洋に面した北西沿岸部に住む先住民インディアン(Northwest Coast Indians)の多くが、彼らの家の中、家の前、あるいは墓地などに立ててきた柱状の木造彫刻の総称。家族の出自、家系に関わる紋章や、「所有する」伝説、物語の登場者など文化的伝承に基づいて彫刻された。 彼らの彫刻柱の呼称には「トーテム」という表現があるものの、この地域の彫像は崇拝の対象としての偶像ではなく、宗教的な意味合いは全くないためトーテムポールという表現は正確なものとはいえない。しかし、現在まで長い間使用され続けた通称として、確立された表現となった。先住民たちは英語表現としては単に「ポール」(pole、「柱」) と呼ぶことが多い。 トーテムポールを彫刻してきた人々[編集] 北西沿岸インディアン(Northwest Coast Indians)とかつて呼ばれた先住民の居住領域は、北はアメリカ合衆国アラスカ州の太平洋岸から、南はカリフォルニア州の最北端にまで達する、太平洋岸である。一般的に、沿岸から約100キロから150キロ前後内陸に入った段階で、彼らの領域は終わっている。 トーテムポールを彫ってきた地域は、このアラスカ州からブリティッシュ・コロンビア州太平洋岸に限られる。部族は北西沿岸の先住民のうち、おおよそ北から順にトリンギット族(クリンキット族)、ハイダ族、チムシャン族 (ツィムシャン族)、ベラクーラ族(ヌハルク族)、クワキウトル族(クヮクヮキワク族、クヮクヮカワク族、クワギル族などとも呼ばれる)、ヌーチャーヌルス族、沿岸セイリッシュ族(サリシ族とも発音される)である。ただしチムシャン族はニスガ族、ギックサン族、それに沿岸チムシャン族の三つの支族によって構成されている。 なお、北西沿岸の先住民たちを含め、アメリカ合衆国においてもカナダにおいても、先住民たちは、今日、「インディアン」という表現を避け、”First Nations People” 、”Native People”、”Indigenous People”

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ベストオブ田原俊彦 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ベストオブ田原俊彦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 『ベストオブ田原俊彦』(-たはらとしひこ)は、田原俊彦1枚目のベスト・アルバム。1982年9月1日、LP2枚組でリリースされた。 デビュー3周年を記念して発売された初のベスト・アルバム。 田原初のLP2枚組。既発シングル9曲、既発アルバム・サウンドトラック盤・カップリング曲から併せて9曲。田原のナレーションが2パターン。合計20トラック。カセットテープは1本。未発表曲は無し。 「キミに決定!」はミキシング違いで、コーラスがシングルより大きく聞こえる。 アートワークとして、表ジャケットは赤いバックを背に立つ全身赤コーデの田原のウエストライン部に白いスプレーで「Toshi」と描かれており、裏ジャケットは白いバックを背に立つ全身白コーデの田原のウエストライン部分に赤いスプレーで「Toshi」と描かれている。帯には「豪華12ページ写真集付」とある。 当ベスト・アルバムの発売経緯は明確にされていないが、1982年夏、フジテレビ系の「ひらけ!ポンキッキ」で田原の「NINJIN娘」が使用されたことに依り、お茶の間に田原の歌が浸透、田原の人気が実ファンの女性層だけ留まらず、老若男女問わずファンが増えたことに対する入門編としての意味と、キャニオン・レコードが1982年10月から社内のレーベル・マークを「PC(通称パックマン)マーク」に統一前に、発足から10年存在した現レーベルNAVロゴマークが消滅前にNAVとして大ヒット・好セールスを残したいというレコード会社側の要望ともみられる。 LPの帯コピーは「初めてのベストアルバム。デビュー曲《哀愁でいと》から最新曲《原宿キッス》まで、TOSHIのすべてをキミに贈る!」。 RECORD 1[編集] A1 哀愁でいと (NEW

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