容閎 – Wikipedia
アメリカに派遣された留学生たち 容 閎(よう こう、Rong Hong、1828年11月17日 – 1912年4月21日)は、清末の政治改革者・実業家。近代中国史上初のアメリカ合衆国への留学生である。 広東省香山県南屏村(現在の珠海市香洲区南屏鎮)出身。字は達萌、号は純甫、純父など。渡米したときには’Yung Wing’と名乗っている。 貧しい農家に次男として生まれた。1835年、7歳の時に父親に従ってマカオに行き、まずポメラニア人宣教師カール・ギュツラフの妻メリーが運営していた学校に入学した。ここではハリー・パークスの姉たちと机を並べている。その後1841年にモリソン記念学校に入学した[1]。1842年、香港がイギリスに割譲されるとモリソン記念学校は香港に移転し、容閎も香港で学業を続けた。1847年、校長のサミュエル・ロビンス・ブラウン(中国名:長塞繆爾・勃朗)牧師がアメリカに帰国することになると、容閎・黄寛・黄勝の生徒3人も帯同してアメリカに留学した。 アメリカに到着後はマサチューセッツ州で二年間ほど大学入学の準備をしている。この間キリスト教に入信している。1850年にイェール大学に入学した。1852年にアメリカ国籍を取得し、1854年に卒業した。留学中、森有礼とも交遊している。卒業後はすぐに帰国し、広州のアメリカ公使館や香港高等審判庁、上海海関などの通訳の職に就いた。また実業家としても歩み始め、外国商人のエージェントとして絹糸や茶の買い付けを行っている。 1860年、太平天国の洪仁玕と面会して、西洋文明を中国に導入するという内容の「治国七策」を提出した。提案は以下の通りであった。 合理性に基づいた軍隊を組織すること 士官学校を設立すること 海軍育成のために海兵学校を設立すること 優秀な文民を採用し、政府を運営するべきこと 銀行制度を立ち上げ、また度量衡を統一すること 年齢別クラスを内容とする学校を設け、聖書を教科書として採用すること 実業を教育する学校を設けること 洪仁玕の賛同は得られたが、他の諸王の支持は得られなかった。洪秀全は四等爵を授けたものの提案は拒絶している。そのため容閎は天京を辞去した。政治改革案は容れられなかったものの、容閎は実利を得た。南京を去る際、太平天国の支配領域を自由に行き来できる通行証を入手し、商売に最大限活用したのである。太平天国によって江南地方の物流は滞っていたが、容閎は通行証によって安全に買い付け、運送できた。これにより彼は多くの財を成したと言われる。
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