Month: January 2019

アシカ作戦 – Wikipedia

採用されなかった陸軍による初期のアシカ作戦計画案 アシカ作戦(アシカさくせん、独:Unternehmen Seelöwe、英:Operation Sea Lion)は、第二次世界大戦中にドイツが計画したイギリス本土上陸作戦の呼称。作戦は準備まで進められたが、英本土航空戦の結果が思わしくなく、1940年9月に無期限延期となり、結局実施されることはなかった。アシカ作戦は原語であるドイツ語をカタカナ書きしてゼーレーヴェ作戦、同じく英語をカタカナ書きしてシーライオン作戦とも呼ばれる場合がある。 1939年9月の開戦以前から、ドイツには、ポーランド侵攻計画(Fall Weiss)やフランス侵攻計画(Fall Gelb)は存在したが、対イギリス戦については、いくつかの小規模な研究案があるだけだった。 1940年5月10日に始まったドイツ軍の攻勢は、アルデンヌの森を抜け5月20日には先鋒のグデーリアンの装甲軍団はアブビル近郊で英仏海峡に到達し、英仏連合軍左翼は分断されてしまった。 イギリス国内では、”もはやフランスでの戦争は負けだ”、という見方が広まっていた5月26日、イギリス外相のハリファックス卿は、内閣にイタリアを仲介して和平交渉を行うことを提案した。2週間前に首相に就任したばかりのチャーチルは、徹底した対独強硬派で、これに強く反対したが、保守党内には党首であるチェンバレン前首相やロイド・ジョージ元首相など交渉案を支持する有力議員も多く、閣内の意見は割れた。チャーチル首相は、9回の閣議の末、戦時内閣に入っていた労働党のクレメント・アトリーとアーサー・グリーンウッドの助けを借りて、なんとかハリファックス卿の交渉案を葬った。 6月4日には、チャーチルは、有名な ‘We shall fight on the beaches‘演説を国会で行い、継戦意志を内外に表明した。 6月22日には、新たにフランスで成立したペタン政権と休戦協定が成立し、ヒトラーはイギリスとの戦争を終わらせてしまいたかったが、チャーチルのイギリスは徹底抗戦の構えで、ドイツは手詰まりに陥ってしまった。 この為、ドイツ側では、対イギリス戦略を練りなおすことになり、その中にはイギリス本土上陸作戦も含まれていたが、上陸作戦についての三軍の考え方には、大きな違いがあった。 作戦計画に至るまで[編集]

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銀筆 – Wikipedia

銀筆(ぎんぴつ、英: silverpoint、シルバーポイント)とは、細く尖らせた銀を芯に用いた描画材である。金属尖筆(メタルポイント)の一種。 骨灰などの白色顔料を混ぜた、研磨質の地塗りを支持体に施して描く。金属尖筆には金、銅、鉛など様々な素材があるが、銀は最もよく使われてきた素材で、灰色の筆跡が経時変化(硫化銀)によって褐色がかるのが特徴である。濃淡の表現が難しく、容易に消すことはできないが、緻密で半永久的に耐久性のある描線が得られる。少なくとも12世紀には存在し、15世紀頃から素描に盛んに使われたが、黒鉛を原料とする鉛筆の登場以後はあまり使われなくなった。キアロスクーロ素描などのために有色の地塗りも使われる。 類似の道具[編集] 現代では原理を同じくする金属ペン(メタルペン)と呼ばれる筆記具が売られている[3]。これは地塗りをしていない普通の紙に対して使うことができるが、画材用とは異なり、素材配合は必ずしも明かされていないが、鉛を含んでいることがあるので、注意が必要である。 現代生産される洋紙には、平滑性や不透明性、インク吸収性などを改善する填料として鉱物質が含まれており、多少の研磨性も与えている。抄紙の方式によっては填料の分布が表側で多くなる場合があり、紙の表裏の確認のために一円硬貨などのアルミニウム材を擦り付け、擦り痕の濃さによって判別する方法がある[4][5]。ただし一円硬貨のような貨幣は損耗すると貨幣損傷等取締法に触れうるため、便宜的な利用を越えるべきではないだろう。 ^ “Leonardo da Vinci, Bust of a warrior in profile, a silverpoint drawing”. British

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井上卓一 – Wikipedia

井上 卓一(いのうえ たくいち、1894年(明治27年)12月5日 – 1979年(昭和54年)12月7日[1])は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員、内閣官房副長官。 岡山県勝南郡湯郷村(現美作市)出身[1]。1923年、早稲田大学専門部法律科を卒業[2]。 東京で弁護士となり[1]、日本弁護士協会理事も務めた。その他、小石川区会議員、東京市会議員を歴任[2]。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で岡山県選挙区に日本自由党から出馬し当選。1947年4月の第23回総選挙で落選し、衆議院議員を一期務めた。落選後の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[3]。1954年12月から第1次鳩山一郎内閣の内閣官房副長官(事務担当)を務め[4]、第2次鳩山一郎内閣の内閣総理大臣秘書官に就任[2]。 以後、自由民主党顧問、パイオニア (株) 監査役などを務めた[1]。 ^ a b c d 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』70頁。 ^

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寄宿学校のジュリエット – Wikipedia

『寄宿学校のジュリエット』(きしゅくがっこうのジュリエット)は、金田陽介による日本の漫画。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を翻案した作品であり[3]、東和国とウェスト公国という2つの国家が対立する架空世界で、東和国の少年・犬塚露壬雄(いぬづか ろみお)とウェスト公国の少女・ジュリエット・ペルシアが織り成す恋模様を描く。 本作は『別冊少年マガジン』(講談社)で連載が始まり[4]、2015年8月号から2017年7月号まで連載された。その後、『週刊少年マガジン』(講談社)に移籍し[5]、2017年43号から2019年40号まで連載された。全119話で、コミックスは講談社コミックスから計16巻刊行されている。メディアミックスも行われており、2018年には本作を原作としたテレビアニメが放送されている。2020年6月時点で累計発行部数は370万部を突破している[6]。 あらすじ[編集] 本作の主人公・犬塚露壬雄は、ダリア学園という寄宿学校の学生で、「黒犬の寮」(ブラックドギーハウス)の高等部1年生のリーダーを務めていた。この寮は東和国の学生専用の寮であり、ウェスト公国の学生が住む「白猫の寮」(ホワイトキャッツハウス)とは敵対関係にあった。しかし露壬雄は、白猫の寮の高等部1年生のリーダー、ジュリエット・ペルシアに片思いしていた。 1学期のある夜、露壬雄はジュリエットに告白する。彼の告白に心を動かされたジュリエットは告白を受け入れ、2人は秘密裏に交際を始める。その後、ジュリエットの親友のシャルトリュー・ウェスティアと、露壬雄の親友・狛井蓮季が2人の交際を知るが、それ以外の学生には気づかれないまま、露壬雄たちは体育祭を迎える。体育祭では、ジュリエットが寮内の派閥争いに巻き込まれて負傷する事件が起きる。露壬雄は主犯のアビ・シニアを成敗するが、最後の騎馬戦で起こったアクシデントが原因となりチームの敗北を招き、リーダーの座を追われる。 一方、露壬雄の兄・藍瑠は、露壬雄とジュリエットの内通を疑うようになる。体育祭終了後に行われたジュリエットの誕生日会で、2人は藍瑠から追及を受けるが、辛くも切り抜ける。この一件を経て露壬雄は学園の変革を決意し、そのために、各寮から選出され、学園内で特別な権限を有する「監督生」になることを目指すようになる。手始めに監督生・王手李亞の補佐役に就いた露壬雄は、その後、夏休みの合宿で兄に一矢を報い、これを寮生に認められてリーダーに復帰する。 2学期、ダリア学園で学園祭が開催される。そこでジュリエットは、学園に来園した母親から、かつて黒犬の寮の寮生と白猫の寮の寮生が交際していたことと、後にそれが露見して2人が退学に追い込まれたことを知らされる。その2人とは、ジュリエットの父・ターキッシュと、露壬雄の母・千和だった。千和と話したいと思ったジュリエットは冬休みを利用して犬塚家を訪ねるが、遅れて帰省した藍瑠に露壬雄との交際を知られてしまう。2人の交際に反対する藍瑠に対し、露壬雄は兄弟喧嘩を挑んで勝利する。敗れた藍瑠は交際を黙認した上で、露壬雄とジュリエットに対し、各寮から1人ずつ選ばれる「監督生代表」に揃って就任するよう発破をかけた。 2年生に進級後、監督生選抜選挙が開催される。露壬雄とジュリエットは選挙で最も多くの票を集めて監督生代表になることを目指すが、選挙にはウェスト公国に強い憎しみを抱く狗神玲音も立候補しており、露壬雄と玲音は黒犬の寮の監督生代表の座を巡って対立する。そして選挙戦の最中、露壬雄とジュリエットが交際していることを知った玲音は、投票日当日に全校生徒に向けこれを暴露する。2人は瞬く間に非難の的になるが、黒犬の寮のアウトロー的存在である丸流千鶴が2人を支持したことで潮目が変わり、最終的に、黒犬の寮の監督生代表には露壬雄、白猫の寮の監督生代表にはジュリエットがそれぞれ選出された。 監督生代表就任後、露壬雄とジュリエットは、学園の変革の一環として、それまで寮ごとに分かれて実施していた修学旅行を改め、2寮合同でウェスト公国に赴くことを決定する。旅行中、露壬雄はジュリエットの両親に挨拶することを計画するが、逆にターキッシュによってジュリエットと引き離されてしまう。学友たちの助力を得てペルシア邸で再会した2人は、交際に反対するターキッシュに決闘を挑み、勝利する。 露壬雄とジュリエットは、自身の夢を叶えるため、ダリア学園からの卒業を機にそれぞれ国に戻るが、その後も交際は続けた。そして卒業から7年後、2人がダリア学園で結婚式を挙げたところで物語は終わる。 登場人物[編集] ※ 「声」は、本作を原作としたテレビアニメにおける声優。 主要人物[編集] 犬塚 露壬雄(いぬづか ろみお) 声 –

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紀州一揆 – Wikipedia

この項目では、江戸時代初期の日高・名草を中心に起こった一揆について説明しています。戦国時代から安土桃山時代にかけての紀伊惣国一揆(根来・雑賀一揆)については「紀州攻め」をご覧ください。 紀州一揆(きしゅういっき)は、慶長20年(1615年)、日高郡、名草郡を中心として紀伊国全域で発生した一揆。定着した名称はなく、熊野一揆や日高一揆とも呼称される。 紀州一揆は大坂夏の陣に連動する形で発生しており、浅野氏の『浅野考譜』によれば「大野治長の部下が紀州へ潜入、浅野長晟出陣後に和歌山城を占領すべく一揆を扇動。また、和歌山城占領後は背後より浅野軍を攻め立て、挟撃する計画であった」と記されている。 当時、摂津国・河内国・和泉国の計70万石を抱えていた豊臣氏は東西決戦にあたり、隣接する37万石の浅野氏をまず潰しておくという戦略をたてていた。豊臣氏の思惑と、紀州に住む土豪たちが抱え蓄積していた不満[1]の利害が一致し、一揆というかたちで具現されたと考えられる。 大野治長は扇動工作に伴い、北村善大夫、大野弥五右衛門らをその工作担当者として紀州へ送り込んでいる[2]。また、各地の動向として日高郡では湊惣左衛門[3]という男が「大坂方に味方すれば所領は望み次第与える」旨の事が記された朱印状を携え、同志を募っていた[4]。名草郡では山口喜内の一族、薗部兵衛、和佐半左衛門、土橋兵治らを首謀者としている[5]。 こうした各地での不穏な動きは前年の大坂冬の陣を前後した際でも発生しており、浅野長晟も感得していたが、徳川家康からの出立の催促を断りきれず、背後に不安を残したまま4月28日、和歌山城を出陣することになった。しかし和泉佐野あたりまで進軍した頃[6]、紀州国における一揆の情報が浅野氏の元へ届けられ、北村善大夫、大野弥五右衛門、山口喜内らが捕らえられた[7]。 一方大坂城では大野治長の弟である大野治房を頭首とする一軍が編成され、紀州へ向けて南下を開始した[8]。一軍は3万とも4万とも言われる大軍であったが、内部統率が不完全であり、和泉樫井にて浅野長晟軍に迎撃され、壊滅状態となっている[9]。 浅野長晟は和泉樫井での戦闘後、和歌山城へ踵を返し、日高方面の一揆鎮圧を手がけた。鹿ヶ瀬や蕪坂峠などで一揆勢を次々と討伐していき、壊滅させていった。 こうして一揆は終結し、浅野氏の取りまとめた史料『浅野家文書』によれば、処分された村は日高郡が5村252名、有田郡が4村48名、名草郡が6村114名、那賀郡・伊都郡がそれぞれ1村29名の合計5郡17村443名に及んだ。 ^ 歴史人口学・経済学者の速水融も指摘している通り、浅野氏は元来27万石だった紀州国を慶長検地によって領内で半独立的に活動していた地侍を叩き伏せ、37万石へとしている。 ^ 『浅野考譜』による。ただし、歴史学者の鈴木眞哉は大野治長よりもむしろ大坂方にいた紀州牢人達の個々の働きかけで散発的に発生した一揆であり、そのようなささいなきっかけで燃え広がる土壌が紀州国には既にあったとしている。 ^ 上野村(現御坊市)出身で元は湯河氏の家老として仕えていた者とされるが、『紀伊国地士由緒書抜』では雑賀衆の一で、雑賀の湊の城主とされており、『大坂合戦口伝書』では「湊の鈴木惣左衛門」とあり、鈴木氏とされている。 ^ 『玉木文書』による。 ^ 『浅野考譜』ではそれぞれ浅野氏に仕え、知行を取っていた土着の有力者とされている。 ^

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紫安新九郎 – Wikipedia

紫安新九郎 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日[1] – 1952年(昭和27年)7月8日[2])は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山[1]。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に当選。当選回数は合計9回を数えた。その間、第2次大隈内閣で大蔵副参政官を、第2次若槻内閣で拓務政務次官を務めた。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった[3]。 その他、出羽石油株式会社取締役、城東土地株式会社取締役を務めた[4]。 [脚注の使い方] ^ a b 『日本ダイレクトリー』P.325-326 ^ 『政治家人名事典』 ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面。 ^

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小白川愛菜 – Wikipedia

こしらかわ まな小白川 愛菜 プロフィール 性別 女性 出身地 日本・秋田県[1] 生年月日 (1997-04-15) 1997年4月15日(24歳) 職業 声優 事務所 賢プロダクション[1] 公式サイト 小白川 愛菜|タレント・声優|賢プロダクション 活動 活動期間

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デル・カリー – Wikipedia

デル・カリーDell Curry 2016年のカリー 引退 ポジション SG 基本情報 愛称 “Dell” 生年月日 (1964-06-25) 1964年6月25日(57歳) 国籍 アメリカ合衆国 出身地 バージニア州ハリソンバーグ 身長(現役時) 193cm (6 ft 4 in) 体重(現役時) 90.5kg (200 lb)

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第64回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 – Wikipedia

第64回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(だい64かいダヴィッド・ディ・ドナテッロしょう)の授賞式は、2019年3月27日にローマで行われた。 国際映画賞に準拠した大規模な授賞規定の見直しが行われ、観客賞が新設される等の変更があった[1]。 ノミネートは2019年2月19日に発表された。『ドッグマン』が最多16部門にノミネートされ、最多9部門で受賞する結果となった。 受賞とノミネート一覧[編集] 太字が受賞者。 作品賞[編集] 監督賞[編集] 新人監督賞[編集] アレッシオ・クレモニーニ(『Sulla mia pelle』) ルカ・ファッキーニ(『Fabrizio De André – Principe libero』) シモーネ・スパーダ(『Hotel Gagarin』) ファビオ&ダミアーノ・ディンノチェンツォ(『La

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さいたま市立宮原小学校 – Wikipedia

さいたま市立宮原小学校(さいたましりつ みやはらしょうがっこう)は、埼玉県さいたま市北区に所在する公立小学校。学校の西側にある樹齢約130年のセンダンの大木が、この小学校のシンボルとされている[1]。 1873年(明治6年)5月30日 – 加茂宮吉祥院に仮校舎が開設されて加茂宮学校(加茂学校とも)として開校[2]。 1883年(明治16年)5月 – 現在校地に仮校舎を建設する。 1884年(明治17年) – 日進学校(現さいたま市立日進小学校)の分校(分教場)となる。 1889年(明治22年)5月30日 – 日進学校より分離して宮原小学校と改め、この日を開校記念日に制定する[2]。 1947年(昭和22年)7月1日 – 地元の実業家で大宮市の市議会議員の川鍋秋蔵よりプールが寄贈される。 1950年(昭和25年)1月8日 校舎2階建6教室を焼失する。 1953年(昭和28年)3月15日

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