Month: April 2019

朝天舞晴多 – Wikipedia

一月場所初場所(東京) 三月場所春場所(大阪) 五月場所夏場所(東京) 七月場所名古屋場所(愛知) 九月場所秋場所(東京) 十一月場所九州場所(福岡) 2000年(平成12年) x (前相撲) 東序ノ口22枚目3–4  東序ノ口24枚目5–2  西序二段116枚目2–5  東序ノ口8枚目5–2  2001年(平成13年) 西序二段93枚目3–4  西序二段109枚目4–3  東序二段84枚目4–3  西序二段56枚目5–2  西序二段16枚目4–3  東三段目96枚目3–4 

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ペトル・コウバ – Wikipedia

ペトル・コウバ(Petr Kouba、1969年1月29日 – )は、チェコ・プラハ出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。実父のパヴェル・コウバ(英語版)も同じくサッカー選手であり、ゴールキーパーを務めた。 クラブ[編集] ボヘミアンズ・プラハでデビューし、1991年にACスパルタ・プラハへ加入すると、5シーズンの間にリーグ優勝4回(1990-91、1992-93、1993-94、1994-95)、カップ優勝1回に貢献した[1]。1993年にはチェコ年間最優秀選手賞に選ばれた[2]。 1996年、チェコ代表としてイングランドで開催されたUEFA EURO ’96に出場した後、同年夏にスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャに加入した[1][3]。 1997年にドイツの1.FCカイザースラウテルンへレンタル移籍をしたが[3]、このころから慢性的な膝の怪我に悩まされるようになった[1]。1998年4月15日には治療のためステロイド薬を用いたとしてドイツサッカー連盟から4週間の出場停止処分を受けた[4]。その後、FKヴィクトリア・ジジュコフへのレンタルを経て、ラ・コルーニャへ復帰したが、通算6試合に出場したのみで退団した[3]。 2001年に加入したFKバウミト・ヤブロネツでは、チームを前シーズンの12位から9位に押し上げる原動力となった[3]。2002年6月、古巣のスパルタ・プラハに復帰し3年契約を締結[3]。翌2003年に5度目のリーグ優勝を経験した後[1]、2005年に現役を引退した。 代表[編集] 代表レベルでは1991年1月30日に行われたオーストラリア代表との国際親善試合でチェコスロバキア代表デビュー[5]。続く2月のオーストラリア代表戦ではフル出場、3月のポーランド代表戦は15分間のみの出場となったが、3試合連続で無失点に抑える活躍を見せた[1]。 1993年1月にチェコスロバキア分離が実施されると、1994年以降はチェコ代表としてプレーし、1996年にイングランドで開催されたUEFA EURO ’96では正キーパーとして全6試合に出場し[5]、準優勝を果たした[1]。その後、1998年11月18日に行われたイングランド代表との国際親善試合が最後の代表出場となった[1][5]。チェコスロバキア代表とチェコ代表を含めた通算成績は国際Aマッチ40試合出場0得点[1][5]。 引退後[編集] 引退後はサッカー指導者となり、2005年1月からスパルタ・プラハのユースチームのキーパーコーチ兼Bチームのヘッドコーチを務めた[1]。その後はチェコサッカー協会に入り、各年代のキーパーコーチを務め、2015年に地元開催されたUEFA U-21欧州選手権2015ではU-21チェコ代表のキーパーコーチを務めた[6]。このほか、自身のゴールキーパースクールを経営した[1]。 2021年時点では、チェコ協会などが設立した14歳から15歳の選手育成を目的としたユースアカデミーのアカデミー部員兼ゴールキーパーコーチを務めている[6]。

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クイーンズランド鉄道 – Wikipedia

QR(キューアール)リミテッド – QR Limited(前 Queensland Rail, Queensland Railways)は、オーストラリア・クイーンズランド州の州営の鉄道会社で、クイーンズランド交通省が管轄している。鉄道インフラの整備を行うとともに、都市圏旅客輸送(シティートレイン)、長距離旅客輸送(トラベルトレイン)、貨物輸送(QRナショナル)の列車運行も行っている。 イプスウィッチ駅: 最初に開業した区間の起点駅。 グランドチェスター駅: 最初に開業した区間の終点駅。 1865年にクイーンズランド植民地で最初の鉄道路線がイプスウィッチ駅 – グランドチェスター駅(開業当時の名称は Bigge’s Camp)間で開業した。狭軌の1,067 mm幅(3フィート6インチ軌間)の線路を使った幹線としては世界で最も初期のものの1つである(のちに、西オーストラリア州、南オーストラリア州、タスマニア州、ノーザンテリトリー、ニュージーランド、南アフリカ共和国、日本、インドネシア、アフリカ南部、ナイジェリア、ガーナ などで使われる)。狭軌は急勾配の区間で建設費を抑える意図で採用された。 その後はブリスベン、メリーボロー、バンダバーグ、グラッドストーン、ロックハンプトン、マッカイ、ボーエン、タウンズビル、ケアンズ、クックタウンの東海岸の港湾から内陸へと路線が広がった。これらの路線はクックタウンからの路線を除き、1888年から1924年までにかけて東海岸に沿ったノース・コースト線が建設されたことにより連結された。1968年からは重量石炭輸送用の貨物線が加わった。

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リマ日本人学校 – Wikipedia

リマ日本人学校(スペイン語: ASOCIACION “ACADEMIA DE CULTURA JAPONESA” )は、ペルー共和国リマにある、ペルー在住日本人のための初等、中等(中学校)教育を行う日本人学校[1] である。  1969(S44)年4月27日、「リマ日本語講習会」の名称のもとにペルー国リマ市で開校式が行われ、それを契機に学校運営委員会とPTAの発足をみた。また、1971(S46)1月には、「リマ日本人学校」と呼称することになった。  しかしながら、ペルー国文部省の学校教育法規のもとでは、日本からの進出企業・団体・当国にある機関などに勤務する日本人駐在者の子女教育のために設立された日本人学校が、外国人学校としての法的地位を認められることは不可能な状況であった。そこで、日本人関係者を会員とする社団法人「日本文化協会」(Asociacion “Academia de Cultura Japonesa”)が設立され、その文化事業活動の主目的である日本語教育を行うための学園という形で、1971(S46)年6月、当国文化庁(Instituto Nacional de Cultula)(現、文化省(Ministerio de Cultura))の認可を得た。[1] 1965年 ブラント協会、吉田方明氏自宅にて学習会開始

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ルイ・デュレの楽曲一覧 – Wikipedia

Op. 作品名 作曲年 備考 1 2つの無伴奏合唱曲 1914 シャルル・ドルレアンとアンリ・ド・レニエによる詩 2 ヴェルレーヌの3つの歌 1914 ポール・ヴェルレーヌによる詩 3 ジャムの5つの歌 1914 フランシス・ジャムによる詩 4 歌の捧げもの 1914 ラビンドラナート・タゴールによる詩

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宇宙軍士官学校 – Wikipedia

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新住友ビルディング (東京都) – Wikipedia

東京新住友ビルディング(とうきょうしんすみともビルディング)は、かつて東京都千代田区に所在したオフィスビルである。大手町交差点の角に住友銀行系の大手町建物が建設し、晩年には「三井住友銀行大手町本部ビル」と称していたが、所在地は丸の内である。2011年に解体され、跡地には超高層建築物の三井住友銀行東館が建つ。 東京駅前の後に住友信託銀行東京支店が置かれた場所にあった住友合資会社が1933年に建設した東京住友ビルディングには、住友銀行や住友信託など連系各社がテナントとして入居し住友の東京の拠点としていたが、太平洋戦争前からスペースが狭いことが問題となっていた。しかも、終戦後の1947年暮には銀行と信託が使用していた1、2階部分を除くほぼすべてのスペースが連合国総司令部(GHQ)に接収の上で改造され、外国人実業家向けの宿舎「ホテルトウキョウ」として使われることになった。 戦後は経済復興とともに東京地区の経済活動がいっそうたかまってきたにもかかわらず、同ビルではスペースの拡張ができないため、住銀東京支店と本店東京事務所は極度の不便を強いられ、東京地区での業績を伸ばすためには、これにかわるあたらしい拠点がどうしても必要となった。 住銀は行名復帰以前から東京地区の新拠点として大規模なビルを建設することを計画し、日本発送電が所有していた永代通りと西側の日比谷通りの交わる大手町交差点の角、皇居前広場を望む約6,300㎡の土地を買収。1953年6月に新ビルの建設、管理にあたる会社として大手町建物(現:銀泉)を住銀関係者と解散した日本発送電関係者による折半出資で設立した。 住友合資会社工作部の流れを汲む日建設計工務(現:日建設計)が設計、清水建設が施工を手掛けたビルは、地上9階、地下3階、延床面積約50,000㎡で「東京新住友ビルディング」と命名され、住友グループにおける新しい東京の拠点として、複数の住友系企業が入居した。なお、日本発送電関係者の保有していた大手町建物の株式は、着工前の1954年9月、すべて住銀および住銀関係者にゆずりわたされた。 増築・改称[編集] 東京新住友ビルディングは、入居各社の業容拡大にともない手狭になったので、1971年に地上12階に増築された[6]。その後、同居していた各社はより広いスペースをもとめて相次いで移転して住銀だけが使用するようになり、1984年1月、「住友銀行東京本部ビルディング」と改称され、1985年4月から住銀の単独所有となり、2001年のさくら銀行との合併に伴い、「三井住友銀行大手町本部ビル」と称するようになった。 こののち大手町本部ビルは特定目的会社大手町キャピタル有限会社の所有となったが、2007年3月23日に三井住友銀行が取得している[7]。大手町キャピタルには、住友不動産全額出資のエスエフピー投資有限会社が匿名組合出資していた[8]。 2010年、日比谷通りを挟んだ日本鋼管本社ビル跡地に「三井住友銀行本店ビルディング」が竣工。本店ビル竣工を機に、大手町本部ビル、日比谷三井ビルディング、東京宝塚ビルに分散していた本店機能は新本店ビルに集約となった(一部の業務は大手町一丁目三井ビルディングで行う)[9]。また大手町本部ビルは解体され、跡地に2015年、「三井住友銀行東館」が完成した[10]。 外壁は花崗岩、竜山石および擬石で仕上げられている。南北に通る内堀通りに面して正面玄関とエレベーターホールがあり、基準階ではそれを挟んでコの字型に南北にオフィスフロアが設けられる。外部に面した窓など開口部には全てシャッターが設けられ、防音や防災に配慮されている。本建物は、建築業協会主催の第1回BCS賞を受賞している[1] 入居企業[編集] 竣工当初は、下記のように住友グループの複数の企業が拠点を構えていた[1]。 (北側) (南側) ^ a b c d e

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血小板第4因子 – Wikipedia

血小板第4因子(けっしょうばんだい4いんし、英: platelet factor 4、略称: PF4)は、CXCケモカインファミリーに属するサイトカインで、chemokine (C-X-C motif) ligand 4(CXCL4)という名称でも知られる。血小板の凝集中、このケモカインは活性化された血小板のα顆粒(英語版)から放出され、ヘパリン様分子の効果を緩和することによって血液凝固を促進する。こうした機能のため、創傷治癒や炎症に役割を有すると予測されている[5]。通常はプロテオグリカンとの複合体として存在している。 ヒトの血小板第4因子をコードするPF4遺伝子は、4番染色体(英語版)に位置している[6]。 血小板第4因子は70アミノ酸からなるタンパク質で、活性化された血小板のα顆粒から放出されてヘパリンと高い親和性で結合する。その主要な役割は血管内皮表面のヘパリン様分子を中和することのようであり、アンチトロンビン活性を局所的に阻害し血液凝固を促進する。血小板第4因子は好中球、線維芽細胞や単球に対する走化性因子であり、CXCR3Bと呼ばれるCXCR3のスプライスバリアントと相互作用し、おそらく炎症や創傷治癒に役割を果たしている[5][7][8]。 臨床的意義[編集] 抗凝固薬ヘパリン投与に対する特異的自己免疫反応であるヘパリン起因性血小板減少症(HIT)において、ヘパリン:PF4複合体は抗原として機能する[9]。PF4に対する自己抗体は、ヘパリンの投与がなくともHITに似た特徴を示す血栓症の患者でもみられる[10]。 PF4は、間質性肺炎を有する全身性強皮症(英語版)の患者で増加している[11]。 ヒトの血小板第4因子は、赤血球内のマラリア原虫の食胞(英語版)を選択的に溶解することで殺作用を発揮する[12]。 ^ a b c GRCh38:

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新田義貞 – Wikipedia

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。建武の元勲の1人。 上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 – 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。 後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武の新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。 元弘の乱以前[編集] 出生と元服[編集] 新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。義貞の生年については判然としていない。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ[7]、生年は正安3年(1301年)前後と考えられている 。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は弟・脇屋義助との関係から39歳没説を採用している。 また、『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が同族の里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある[10]。また、近年では「新田氏本宗家」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであり、新田家は創設(初代新田義重)以来、足利家を宗家とする庶家の1つに過ぎなかったとする谷口雄太の見解も出されている[11][12]。 義貞の出生地には三つの説がある。 新田郡宝泉村由良(太田市宝泉地区):『新田義貞正伝』より 新田郡生品村反町館(太田市新田地区): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より 

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海の彼方に (X-ファイルのエピソード) – Wikipedia

「海の彼方に」(原題:Beyond the Sea)は『X-ファイル』のシーズン1第13話で、1994年1月7日にFOXが初めて放送した。本エピソードは『X-ファイル』のエピソードの最高傑作と位置付けられることが多い(後述)。 スタッフ[編集] キャスト[編集] レギュラー[編集] ゲスト[編集] ストーリー[編集] スカリーは、父親ウィリアムと母親マーガレットの2人を自宅に招いて楽しいひと時を過ごした。2人が帰るとすぐに、スカリーはソファで寝てしまった。スカリーが目を覚ますと、目の前の椅子にウィリアムが座っていた。ウィリアムはスカリーに何か語り掛けているようだったが、スカリーはそれを聞き取ることができなかった。電話が鳴ったので、電話の方を見たスカリーだったが、もう一度イスに目を向けるとそこにウィリアムの姿はなかった。スカリーはマーガレットからウィリアムが心臓発作で亡くなったことを知らされる。 ノースカロライナ州ローリー。警官に変装した男が若いカップルを誘拐した。その数日後、モルダーとスカリーはその事件について話し合っていた。モルダーはその誘拐事件が連続誘拐犯による仕業で、その推測が正しいならば、カップルは数日のうちに殺されると考えた。また、数年前にモルダーが逮捕に関わった連続殺人犯、ルーサー・リー・ボッグスから死刑撤回と引き換えに自身の霊能力を使って誘拐事件の捜査に協力するとの申し出があった。モルダーはいつもと違ってルーサーの霊能力を疑ってかかっていた。 2人は刑務所に収容されているボッグスの元を訪れた。モルダーが誘拐事件に関連する物をボッグスに渡すと、それを介してボッグスは誘拐されたカップルの状態を詳細に霊視した。しかし、モルダーが渡したのは自分のTシャツの切れ端だった。モルダーはボッグスが嘘をついていると判断し、2人は刑務所を去ろうとした。そのとき、スカリーがふとボッグスの方を振り返ると、そこに父親の幻影を見た。その幻影はウィリアムの葬式で流れた『ビヨンド・ザ・シー』を口ずさんでいた。しかしスカリーはそのことをモルダーに言わなかった。2人はボッグスが死刑を回避するために何者かと組んで誘拐事件を起こした可能性について議論した。2人はカップルが見つかったという内容の偽の新聞記事をボッグスに渡した。それを見たボッグスが外部の共犯者と連絡を取るように仕向けるためである。ところが、ボッグスは偽の新聞記事には引っ掛からなかった。その一方で、ボッグスは2人に誘拐事件に関する曖昧なヒントを与えた。ボッグスのヒントに従ったスカリーはある倉庫を調べた。すると、カップルがある時点までその倉庫に拘禁されていた証拠が見つかった。モルダーは数人の捜査官を引き連れ、誘拐犯がカップルを監禁しているボート小屋に突入した。女性は助かったが、モルダーは誘拐犯に撃たれてしまい、誘拐犯は男性を連れて逃走した。 ボッグスが誘拐事件に関与している可能性を考慮して、刑務官たちはボッグスに対して優しく振る舞っていた。ボッグスはスカリーに自分ならウィリアムと交信できるという。ボッグスは「もし君が自分の死刑に立ち会ってくれるのなら、君の父親の最後のメッセージを伝えよう」とスカリーに持ち掛けてきた。さらに、ボッグスは誘拐犯が今いる場所に関する情報もスカリーに伝えた。その時ボッグスは「悪魔を避けるように」とスカリーに忠告した。スカリーは数人の捜査官を引き連れ、ボッグスから聞いたビール工場に突入し、誘拐されていた男性を救出することができた。スカリーは逃走した誘拐犯を追ったが、犯人がビール工場のロゴ(悪魔が描かれている)が張ってある足場へ逃げ込んだため、スカリーはボッグスの忠告を思い出してそこで立ち止まった。その足場に足を踏み入れたとき、床が抜けて犯人は転落死した。 ボッグスは死刑を執行する部屋へと連れていかれた。そこにスカリーの姿はなかった。ボッグスは刑場へ向かう途中に、自分が殺した人間達の霊を見る。ボッグスの霊能力は本物だったのだ。スカリーが入院中のモルダーの元を尋ねると、怪我は治っていた。モルダーは「なぜボッグスを介して、亡くなったお父さんの最期の言葉を聞かなかったんだい」とスカリーに訊いた。それに対しスカリーは「何も聞く必要はなかったの。父が何を言いたかったかぐらいはわかるわ。娘なのだから。」と答えるのだった[1]。 シリーズ開始直後からスカリーというキャラクターの掘り下げが足りないという批判があり、脚本担当のグレン・モーガンとジェームズ・ウォンはその批判を受けて本エピソードを執筆した。ウォンは「ジリアン・アンダーソンは女優としての才能をもっと視聴者に見せる必要があった。『海の彼方に』こそ『スカリーは超常現象なぞ信じない』という固定観念を打ち破る絶好の機会だった。スカリーは今まで懐疑主義者でしかなかったが、その枠を超えてキャラクターとして深みを持たせる必要があったんだ。」と振り返っている。ただし、スカリーが霊能者を信じるというアイデアに対してFOXの重役は反対したが、クリス・カーターの説得でそのアイデアを実現することができた[2]。 モーガンとウォンはルーサー・リー・ボッグスに映画界の名優、ブラッド・ドゥーリフを起用しようとしたが、そのギャラの高さ故に反対の声が大きかった。そこで、カーターは感謝祭の日のディナーに20世紀フォックスの会長、ピーター・ロスを招待し、ドゥーリフを起用できないかと相談した。その結果、ドゥーリフの起用が認められた[3]。 ドゥーリフには準備のための期間として4日間しかなかった。そのため、ドゥーリフは『X-ファイル』への出演を取りやめようとしたが、製作スタッフがさらに1週間の準備期間を設けたため、依頼を受けることにした[4]。ドゥーリフは役に入り込む前に深呼吸を行うことで、顔色を紫がかった色にしていたという[4]。 本エピソードの原題「Beyond the Sea」は1959年に発表されたボビー・ダーリンの同名の歌からとられた。劇中ではウィリアムの葬式に流れた歌として登場する[5]。本エピソードに登場するルーサー・リー・ボッグスの風貌は実在の殺人犯、リチャード・ラミレスによく似ている。また、ルーサー・リー・ボッグスとルーカス・ヘンリーの名前は実在の連続殺人犯ヘンリー・リー・ルーカスからとられたものである[5]。 なお、ボッグスの名前は『X-ファイル』の映画版第2作『X-ファイル:

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