Month: May 2019

加藤一夫 (政治学者) – Wikipedia

加藤 一夫(かとう かずお、1941年4月27日 – )は、日本の国際政治学者、社会運動家、静岡福祉大学名誉教授。専門は国際関係論、ナショナリズム論、国際福祉論[1]。 北海道岩内郡共和町生まれ。1968年東京外国語大学ロシア語科卒、1973年東京大学大学院社会学研究科国際関係論博士課程満期退学。国立国会図書館調査員を経て1992年に静岡県焼津市へ。静岡精華短期大学教授、副学長を経て、静岡福祉大学学長、名誉教授[2]。 1960年代からボランティア活動や社会運動に参加。PARC(アジア太平洋情報センター)機関紙編集委員、季刊『クライシス』編集委員、中東欧反体制支援『QUO』の編集委員などを務める。 目次 1 著書 1.1 共編著・監修 1.2 翻訳 2 脚注 『記憶装置の解体 国立国会図書館の原点』エスエル出版会 1989 『アポリアとしての民族問題

Continue reading

スーパーマリオメーカー – Wikipedia

配信開始日 コース名 説明 手に入るキャラマリオ 出典 2015年11月5日 アリノメーカー フジテレビONEのゲーム番組『ゲームセンターCX』で有野晋哉が「ニコニコ超会議2015」でのイベントに合わせて作成したコース。1つでもクリアするとキャラマリオが手に入る 有野課長 帰ってきた、アリノメーカー 新!アリノメーカー! スーパーバカリズムランド TVCMでバカリズムが作成し、唐沢寿明が挑戦したコース。期間限定コースとなっており、2016年2月22日で配信終了 なし ゼルダの伝説トライフォース3銃士 『ゼルダの伝説 トライフォース3銃士』の世界をイメージしたコース トーテムリンク Ship Love

Continue reading

ジェイ・ヒエロン – Wikipedia

ジェイ・ヒエロン(Jay Hieron、1976年7月29日 – )は、アメリカ合衆国の男性総合格闘家。ニューヨーク州フリーポート出身。エクストリーム・クートゥア所属。元IFL世界ウェルター級王者。 14歳の時よりレスリングを始め、フリーポート高校時代には州大会に優勝、卒業後はニューヨーク州立大学ナッソー・コミュニティ・カレッジに進学、全米カレッジジュニア大会で優勝しオールアメリカンに2度選出された。しかし進学したホフストラ大学ではマリファナの陽性反応が出て、レスリング部を退部、ドラッグの売買に手を染め逮捕された。心を入れ替えたヒエロンは友人フィル・バローニの勧めもあり総合格闘技の練習を始めた[1]。 2003年7月、プロデビュー。翌年にはUFC 48に出場し、ジョルジュ・サンピエールと対戦し、パウンドでTKO負けを喫した。 2006年からはIFLと契約を交わし、ロサンゼルス・アナコンダズに所属。2007年12月29日のIFLウェルター級グランプリ決勝でデウソン・エレーノに脚の負傷でTKO勝ちを収め優勝を果たし、世界ウェルター級王座に認定された。 2008年4月4日、IFL世界ウェルター級タイトルマッチでマーク・ミラーと対戦し、パウンドでTKO勝ちを収め初防衛に成功した。その後7月31日にIFLが活動停止し、Afflictionと契約を結んだ。 2009年8月1日、Affliction: Trilogyでポール・デイリーと対戦予定であったが、大会が消滅[2]。すぐにStrikeforceと契約し、半月後の8月15日に開催されたStrikeforce: Carano vs. Cyborgでジェシー・テイラーと対戦し、判定勝ち。 Bellator[編集] 2011年3月5日、Bellator初参戦となったシーズン4のウェルター級トーナメント1回戦でアンソニー・ラプスリーと対戦し、リアネイキドチョークで一本勝ち。4月9日、準決勝でブレント・ウィードマンと対戦し、3-0の判定勝ち。5月7日、決勝でリック・ホーンと対戦し、2-1の判定勝ちを収め優勝を果たした。 2011年10月29日、Bellator 56の世界ウェルター級タイトルマッチでベン・アスクレンと対戦し、僅差の判定負けを喫し王座獲得に失敗した[3]。 UFC復帰[編集] 2012年10月5日、7年ぶりのUFC参戦となったUFC

Continue reading

ヒルデ・ドミーン – Wikipedia

ヒルデ・ドミーン(英:Hilde Domin 1909年[注 1]7月27日 – 2006年2月22日)はドイツ系ユダヤ人の詩人・作家・写真家ならびにエッセイスト[3]。ドイツ生まれで第二次世界大戦前にイタリア・イギリスへ亡命した後にドミニカ共和国へ移住し、再びドイツへ帰国。ドミーンの名はドミニカ共和国に由来し[3]、本名はヒルデガード・ディナ・レーヴェンシュタイン(英:Hildegard Dina Löwenstein)。 ヒルデはドイツ帝国のケルンにて弁護士のオイゲン・レーヴェンシュタイン(Eugen Löwenstein)とフランクフルト出身の歌手として訓練を受けていた[2]ポーラ・トリーア(Paula Trier)の間に生まれ、裕福な家庭で育った。ヒルデは幼い頃からガーデニングやピアノや歌のレッスンといった当時の上流階級における英才教育を受けていた。また、ヨーロッパ全般の言語の才能を有していた[3]。 小学校に通うことはせず、家庭での授業を受けた後、ケルンのメルロ・メヴィッセン・ライシアム(Merlo-Mevissen-Lyzeum)に入り、1929年3月6日に最終試験に合格して卒業。在学中にはドイツ女性デーにおいてケルンでの学園の代表にも選ばれた。 1929年4月23日にハイデルベルク大学で弁護士である父への熱意もあって[4]法学部に入り、初めはグスタフ・ラートブルフ教授の教えを受けたが、自分の性に合わず、経済学に転向した。1929年・1930年の冬の間はカール・マンハイムの下で社会科学や政治学、カール・ヤスパースの下で哲学を学んでいた。やがてヒルデは事故で負傷したため、夏ごろには療養を兼ねてより実家に近いケルン大学とボン大学へ移った[3]。この間に経済に関する知識を深め、理論武装をし[5] 、後に作家・評論家になるハンス・メイヤー(英語版)とは政治的議論を深める仲になり、ドイツ社会民主党(SPD)のケルングループにも属した[3]。 1930年10月22日にはベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現・フンボルト大学)に入学。1931年とをはさんでベルリンでは「活発な闘争」が始まっていた。大学においても中庭で熱烈な討論が繰り広げられていた。1930年12月4日にはヒルデもベルリンでハッセンハイド(Hasenheide)において学生たちを前にしての[6]アドルフ・ヒトラーの演説を聞いていた。学友と『我が闘争』を読んでいるうちに、ヒトラーが本の通りの内容をいずれは実行するであろうとこの時ヒルデは思っていた[7]。 1931年夏頃にハイデルベルクへ戻って1932年に政治学の学位を取得[5]。その前に大学の哲学セミナー[5]の時に考古学を学んでいたユダヤ人学生エルヴィン・ヴァルター・パーム(英語版)と知り会った[2]。エルヴィンはフランクフルトの正統派ユダヤ教徒の商人の一家に生まれた。互いに知的な分野で共に譲らず、共に傷つきながらもかけがえのない関係であった[5]。 二人はイタリアへの憧れとドイツでの不穏な空気を感じていたことを理由に、1932年秋にローマへ渡り、ローマ・ラ・サピエンツァ大学へ入学した。後にヒルデが予想していた通りにドイツでナチスが政権を握ると正式に亡命者となった。ヒルデは両親も説得し、彼らの方も1933年にドイツを出てベルギー、オランダ、イギリス、後にアメリカへ亡命することになった[2]。 1934年にフィレンツェのチェザーレ・アルフィエリ研究所(イタリア語版)で社会政治学を学び[3]、1935年に政治学の博士号を取得し、ニッコロ・マキャヴェッリ研究の先駆けとなる論文”Pontanus“を発表した[1]。1935年から1939年までローマで語学教師として働いた。ヒルデはエルヴィンと1936年10月30日にローマの宮廷音楽院(イタリア語版)で結婚式を挙げ[2]、名をヒルデ・パーム(英:Hilde Palm)に変えた。 ヒルデは生活のためにドイツ語の教師をする他に、夫の研究論文の翻訳も手伝い、その一方で詩を読むのも好きだった[2]。

Continue reading

ジャクソンビル (ノースカロライナ州) – Wikipedia

ジャクソンビル(英: Jacksonville、)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州オンスロー郡の都市であり、同郡の郡庁所在地である[3]。2010年国勢調査での人口は70,145 人だった。ノースカロライナ州では第14位である[4]。ジャクソンビル大都市圏に属し、その主要都市である。2014年、雑誌「フォーブス」がジャクソンビルを国内で急速に成長している小都市の第5位に挙げていた[5]。人口動態的に平均年齢が22.8歳と、ジャクソンビルは国内でも若い都市であり、その要因は軍人が多いことである。また1930年の人口が783人であったものが、その後の80年間で70,145人と急速に増加したことも、平均年齢の低さに影響している[6]。 市内にはアメリカ合衆国海兵隊キャンプ・レジャーンと同ニューリバー航空基地がある。州内南アウターバンクス地域に隣接している。 ジャクソンビルの歴史初期は1713年にタスカローラ戦争が終わったときに始まっていた。タスカローラ族などインディアンが強制移住させられた後に、ニューバーンとウィルミントンの間の地域で恒久的な入植が行われた。ニュー川の水源が海軍用の物資、特にテレピン油の生産拠点になった。中心街のウォーターフロント公園はウォントランド渡し船の場所に建設された。当初の渡し場の両側に橋が建設された。 1752年、激しいハリケーンが郡庁所在地のジョンストンを破壊し、またニュー川の上流にあったウォントランド渡し船も破壊した。現在のジャクソンビルの場所が新しい郡庁舎を建てる場所に選ばれた。この場所は後にオンスロー・コートハウスと呼ばれるようになった。1842年、町が法人化され、元アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンにちなんでジャクソンビルと名付けられた。南北戦争の1862年、アメリカ海軍(北軍)ウィリアム・B・クッシングが率いた襲撃隊によって町が占領され、短期間支配されていた。 ジャクソンビルとオンスロー郡の経済は、海軍用物資、木材、タバコに依存し続けた。1939年、アメリカ陸軍工兵司令部のジョージ・W・ジレット大佐がバージニア州モンロー砦からサウスカロライナ州サムター砦までの地域を測量して地図化した。その範囲にはオンスロー郡の海岸線やニュー川も含まれていた。その地図は陸軍省と海軍省に水陸両用の訓練基地を設立することに関心を抱かせることになった。ニューバーン出身のアメリカ合衆国下院議員グレアム・アーサー・バーデンが議会に働きかけ、ニュー川の東岸約10万エーカー (400 km2) の土地を購入する予算を付けさせた。1941年に設立されたニュー川の海兵隊駐屯地が、後にキャンプ・レジャーン海兵隊基地と改名され、700家族が移転させられた。その土地所有者は補償されたが、移転させられた家族の多くは小作人でありその家がある土地を所有してはいなかった。その建物に対する補償も無かった。アフリカ系アメリカ人の中にはレイモンド・ケラムから土地を購入できる者がおり、ケラムタウンの町を創った。他の移転させられた家族はジョージタウン、ピケットタウン、ベルフォーク、サンディランに町を造った。そういった町はその後にジャクソンビル市に吸収されていった。ジレット大佐はマリーンという小さな村近くに引退する計画があった。そこは地元住民の姓がマリーンというもので(海兵隊のマリーンではない)、町の名前が付けられていたが、用地買収でその土地を失っていた。 キャンプ・レジャーンの建設は、人口約800人の小さな町に新しい労働者が移住してきたので、人口の爆発を引き起こした。海兵隊の若い家族や退役した軍属によって成長が続いた。今日、ジャクソンビルの主要産業は小売業とサービス業である。アメリカ海兵隊があることへの人の移動は今も続いている。 バンク・オブ・オンスロー・アンド・ジャクソンビル・フリーメイソン・テンプル、ミル・アベニュー歴史地区、ペレティア邸とウォントランド・スプリングがアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている[7]。 ジャクソンビルは北緯34度45分35秒 西経77度24分35秒 / 北緯34.75972度 西経77.40972度 / 34.75972; -77.40972

Continue reading

ブルボン・ボパール家 – Wikipedia

この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年12月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 ブルボン・ボパール家(英語:Indian Bourbon House[要検証 – ノート])は、インドに居住するフランス王・ブルボン家の後裔を称する氏族。この一族は、ムガル帝国のアクバル皇帝の宮廷に亡命したフランスの貴族であるクレルモン・アンボーベーの伯爵であるジャン・フィリップ・ド・ブルボンの子孫であると主張する。この家は「バーボンボパール」(ボパールのブルボン家)とも呼ばれる。インド中央部のボパール市に由来する名前であり、最後の数世代が居住したという。 ブルボン・ボパール家の出発[編集] 16世紀中頃に決闘によって親戚を殺してしまい、ムガル帝国、アクバル大帝に仕える人物は、当主が正統なブルボン家の後継者「相続人」であると主張した事で著名である。[要出典]かなり最も富裕・裕福な一族・一門の一つでもあったという。その一族の人物はボパールの裁判所にも勤務したほどであった。 また、1580年に海上で行方不明となったジャン・フィリップ・ド・ブルボン・ブッセという人物もブルボン・ボパール家の一員である、との考え方も存在する。また、ギリシャに居住しているミシェルは、ブルボン家の隠れた息子シャルル3世の子孫であると個人的に確信しているにも拘らず、これらの仮説はいまだに確認されていない。 インドの情報筋[信頼性要検証]によると、1550年代には、ブルボン家の者であることを宣言したフランス人のジャン・ド・ブルボンという人物が、アクバル皇帝の宮廷に姿を現したという。彼は1541年にシチリア島を離れてフランスに戻った後、海賊に捕らえられてエジプトに連れて行かれたことを語っている。彼はその後、スルタンに仕え、彼を高い地位に昇格させた。「アビシニアで捕虜となり、アビシニア商船に乗ってマラバルの海岸に到達した」、と語った。彼の本当の家柄が何であれ、彼はすぐにムガル帝国の司令官になり、アグラでの彼の人生を終えた。そのうちのいくつかの遺体は、当時はインド北部で唯一のキリスト教の埋葬地であったアグラ墓地に埋葬された。 ジャン・ド・ブルボンの子孫が今日まで続いている。中でも特に著名な人物は、ボパールの総司令官であったサルバドール3世(第7世代)と、ボパールの大臣であり摂政であったバルタザール1世(1879年死去)(第8世代)である。 現在[編集] 現在の当主は、その十数代後の「バルタザール4世・ド・ブルボン」(Balthazar Napoleon

Continue reading

金剛敏彦 – Wikipedia

金剛 敏彦(こんごう としひこ、1940年9月24日 – )は、二所ノ関部屋に所属した元力士。本名は中島 敏彦(なかじま としひこ)。現在の佐賀県神埼郡吉野ヶ里町出身。182cm、101kg。最高位は東十両10枚目。得意技は左四つ、上手投げ。 三田川中学校では卓球部に所属し、主将を務めて団体優勝した。三養基高校の時に勧誘されたが、その時は勉強に努めたかったので入門の意志は無く、長男との理由で親も反対したが、結局は上京して入門した。1958年3月場所に初土俵。入門後も雪谷高校の夜間部に通って卒業し、地元にある九州大学へ進学を希望したが、力士生活を続けながらの通学は無理なので拓殖大学へ進学した。しかし、1年後に休学した。1963年7月場所に十両昇進。1966年1月場所に幕下に陥落し、この場所限りで廃業。 主な成績[編集] 通算成績:220勝182敗4休 勝率.547 十両成績:51勝69敗 勝率.425 現役在位:48場所 十両在位:8場所 場所別成績[編集] 金剛 敏彦 一月場所初場所(東京) 三月場所春場所(大阪)

Continue reading

佐藤芳夫 – Wikipedia

この項目では、労働運動家について説明しています。スチールカメラマンについては「佐藤芳夫 (写真家)」をご覧ください。 佐藤 芳夫(さとう よしお、1928年9月13日 – 2006年11月25日[1])は、昭和から平成時代の労働運動家。全国労働組合交流センター代表運営委員。元全造船機械労組石川島分会執行委員長、中立労連議長。 東京、浅草生まれ。1948年石川島重工業[注 1]に管理工として入社。1951年中央大学専門部経済学科(二部)卒業[2]。1950年頃は組合の青年協議会副議長をしていたが、共産党員ではなかったためレッドパージを免れた。パージに賛成した柳沢錬造、金杉秀信ら愛国労働運動派に対抗し[3]、1952年春に左派社会党に入党[2]。同年6月全造船石川島分会執行委員に初当選。1961年11月全造船石川島分会執行委員長に初当選(1期)。1963年10月同執行委員長、石川島播磨重工労働組合連合会中央執行委員長(それぞれ2期)。1966年9月全造船中央執行委員長(代行)[4]。同年10月中立労連議長[5]、全造船中央執行委員長[4]。1968年中立労連・全造船の役職を降り[3]、同年10月全造船石川島分会執行委員長に復帰(2期)。1969年10月関東地方造船労協副議長[4]。1970年に石川島分会の右派が全造船脱退を機関決定。一般投票で脱退賛成7500、反対2900の結果が出ると共産党系も党本部の指令で全造船を脱退したため、1万2000名の多数派労組に対し、28名で全造船の旗を守り、少数派労組を立ち上げた[3][6][7]。同年11月に全造船石川島分会が名称変更した石川島播磨重工労働組合連合会東京労組の財政部長となるが、まもなく辞任[4]。ナショナル・センターのトップを務めたにもかかわらず、1971年3月に一工員として職場復帰した。1986年石川島播磨重工業を定年退職[1]。定年退職後に一般合同労組の全造船東京地域分会(1988年10月東京地域連帯労組に改称)を結成し、委員長に就任[3]。1989年2月に動労千葉の中野洋委員長と呼びかけて全国労働組合交流センターを結成し、代表運営委員に就任[1][8]。 資本・同盟による全造船石川島分会の解体攻撃、共産党の追随と闘い、少数派労働運動を実践した。 思想的には1952年春に左派社会党に入党[2]。20年あまりして社会党を脱党し、脱党直前に「三里塚派」(「新左翼のファン」)となった[9]。社会党系・新左翼系の全労活(全国労働組合活動家会議)運動に参加。70年代後半の動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争をきっかけに動労千葉と連帯し、三里塚闘争にも参加した。1989年の総評解散・連合結成時は全労協に参加せず、動労千葉の中野洋とともに全国労働組合交流センターの代表に就任した[1]。 『あたりまえの労働組合へ』(亜紀書房、1973年) 『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』(六本木敏、鎌倉孝夫、村上寛治、中野洋、高島喜久男共著、社会評論社、1988年) 『小沢一郎の暗躍を支える連合――大量失業時代に山岸・連合はどこへ?』(社会批評社、発売:新泉社、1993年) 『生涯一労働者――あたりまえの労働組合へ(続)』(労働者学習センター、2007年) 注釈[編集] ^ 1960年㈱播磨造船所を合併し、石川島播磨重工業㈱に商号変更。2007年㈱IHIに商号変更。 出典[編集]

Continue reading

中尾剛久 – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。基準に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “中尾剛久” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) 中尾(なかお) 剛久(たけひさ) [[ファイル: 画像をアップロード |200px]] 生誕 (1962-12-26) 1962年12月26日(59歳) 日本 鹿児島県 所属組織

Continue reading

東京電力パワーグリッド – Wikipedia

東京電力パワーグリッド株式会社(とうきょうでんりょくパワーグリッド、TEPCO Power Grid, Inc.)は、関東地方、山梨県全域と静岡県東部を供給区域とする一般送配電事業者である。東京電力ホールディングスの子会社で、2016年(平成28年)4月に東京電力が会社分割して発足した。会社設立は2015年(平成27年)4月である。略称は、東京電力、東電、または東電PG。 東京電力パワーグリッド(東電PG)は、送電線、変電所などの送配電網を維持して運用し、発電事業者、小売電気事業者など事業者に発電量調整供給、接続供給などの送配電サービスを提供する会社である。発電事業者の発電所から受けた電力を小売電気事業者と契約する需要家へ自社の送配電網で給電し、対価として小売電気事業者から託送料金を収受する。 会社分割前の東京電力(東電)は、発電・送配電・小売供給の全てを1社に垂直統合した「発送配電一貫経営」の会社であったが、2016年(平成28年)4月の会社分割でそれぞれが別会社となり、当社は送配電を継承した。 2013年(平成25年)4月1日 東電の社内組織として「パワーグリッド・カンパニー」が発足[1]する。 2015年(平成27年) 4月1日 東電が「東京電力送配電事業分割準備株式会社」を設立する。 5月1日 東電と準備会社とが吸収分割契約を締結する。 6月25日 東電の株主総会が吸収分割契約を承認する。 2016年(平成28年) 2017年(平成29年)4月1日 東京電力ホールディングス(東電HD)が所有する水力発電所の保守・制御業務の受託を廃止し、業務を東電HDに移管[6]した。 2019年(平成31年・令和元年) 電気事業の概要 [編集]

Continue reading