Month: August 2019

青木嵩山堂 – Wikipedia

青木嵩山堂(あおきすうざんどう)は、明治時代から大正時代にかけて、大阪と東京に事務所・店舗を構えていた総合出版社。 青木恒三郎(あおきつねさぶろう、1863年 – 1926年)によって創業された[1]。大阪心斎橋にて明治10年(1877年)から大正10年(1922年)にかけて営業[2]。東京では日本橋に店舗をもっていた[3]:71。当時の資と高さにおいて「東の博文館、西の嵩山堂」と言われ、当時の代表的総合出版社であり、当時にしてはめずらしくロゴをつけていた。「岩にたつライオン」である[1]。東京に進出した時期は丁度、木版口絵全盛期にあたり、口絵がついた単行本を出版した点数は一番多いかも知れず、鏑木清方の口絵がある単行本凡そ200冊の内、3分の1は嵩山堂から出版されている。清方の他に、木版口絵を描いた画家に井川洗厓、稲野年恒、梶田半古、久保田米僊、公文菊仙、小島沖舟、小堀鞆音、小峰大羽、坂田耕雪、鈴木錦泉、武内桂舟、富岡永洗、中野春郊、中村洗石、浜田如洗、鰭崎英朋、水野年方、宮川春汀、山崎年信がいた。 同社は出版社であると同時に印刷所でもあり、小売りも兼ね、大正四年版発行目録には約5300点の大量の書目が掲載され、出版範囲も多岐にわたっていた[1]。帝国大学や高等教育界の教科書の出版においても、学術書ならびに教育書の出版として名声と評価を得ていた。後世に残る名作も多く、その多くは一般読者向けだった。同社の発行目録には、他社の出版物も多く含んでおり、発行目録はいわば国内外の書籍を扱い、明治時代に広く読まれた西洋書の多くを取り扱っていた。膨大な国内出版物の総合取扱目録となっており、目録による書籍販売を行い、通販目録であったと考えられる。直接読者に通信販売を行っており、図書流通のパイオニアであり通信販売の元祖と言える[4]。 青木恒三郎の曾孫・青木育志の論文「明治の出版社・青木嵩山堂のこと」によると、志賀直哉や谷崎潤一郎の作品に青木嵩山堂が実名で登場していた(志賀直哉『暗夜行路』、谷崎潤一郎『幼少時代』)[5]。 代表的出版物[編集] 代表的出版物としては、明治18年(1885年)刊行の同社編『世界旅行万国名所図絵』、明治21年(1888年)刊行の上田維暁『内国旅行日本名所図絵』が出版社としての地位を確固たるものとした。『世界旅行万国名所図絵』は7巻あり、本文は文字も挿絵もすべて洋紙銅板摺で、針金を使った袋とじにされている。当時の擬似洋装本を踏襲した作りであるが、これほどまでに緻密な銅版画を全冊にちりばめ、きらびやかな造本は類を見ない。銅版画家には中井利山、長瀬盛松がいた。その内容は東京・横浜へ寄り米国に渡り、世界一周の後中国を経て神戸・大阪に帰帆する旅に書店主自らが誘う趣向である[6]。『内国旅行日本名所図絵』7巻を引き続き刊行。細密な銅版挿絵は変わらぬ出来栄えであった。決して高値ではなく、一冊一冊手作りの美本が広く流布した事は出版史に残るであろう。 出版の柱の一つは文芸出版であり、幸田露伴『五重塔』の初版出版は永久に記録され誇るべきとの意見も根強い。その他有名なものに、村上浪六『当世五人男』、末広重恭(末広鉄腸)『雪中梅』がある。作家的には、村上浪六(50冊以上)の他、江見水蔭(30冊以上)、小栗風葉(20冊以上)、山田美妙(10冊以上)、幸田露伴(10冊以上)、末広鉄腸(10冊以上)、稲岡奴之助(10冊以上)などの作品の出版が多い。 文芸出版以外でめぼしいものとしては、山田美妙『言文一致作例』『新体詩歌作法』、田口卯吉『日本開化之性質』、上田貞治郎編訳『分邦詳密万国地図』(出版として最初期の地図帳)、箸尾寅之助(上田竹翁)編訳『新訳和英辞書』(最初期の和英辞典)、箸尾竹軒(上田竹翁)『手風琴独案内』、成瀬仁蔵『女子教育』(日本女子大学創設につながる書)の刊行、松平定信編『集古十種』(全85巻の大シリーズ)の再刊などがある。 同社はこの他、小学校などの教科書や美術木版画も手がけていた。前者の遺産は大阪書籍株式会社に、後者の遺産は芸艸堂(うんそうどう)に受け継がれている。 出版目録には、他社出版社のものも取扱いされ、黒岩涙香『巌窟王』、尾崎紅葉の『金色夜叉』、国木田独歩の『武蔵野』、新渡戸稲造の『邦文・武士道』、福沢諭吉『修業立志編』なども記載されていた[3]:86-88。 経営者親族[編集] 青木恒三郎の親族には著作や関西財界で活躍したものが多い。父親の上田文斎(号は維暁)は漢方医であり文人で、『内国旅行日本名所図絵』を執筆した。長兄は朝鮮に渡り料亭を経営し成功した野々村藤助(本名は謙吉)であり、次兄は戦前を代表する写真材料商の一人で文人・著作家の上田貞治郎(号は松翁)である。また弟には、幼少時に鴻池家の別家の嗣子となり、その後和英辞書の編纂やピクトリアリスム研究で知られた上田竹翁(本名は寅之助)がいる。姪にはファッションデザイナーの上田安子がいる。 明治20年代から出版社・取次・書店という近代出版流通システムが整備され始め、大阪においても東京の出版社の取次ができるようになった。結果、地方の小売店が少数注文にも応じることができるようになり、取次としての商売が成り立つようになった[4]。 当時の大阪においては大抵の出版社と書店は直接取引をしており、出版社や有力書店が取次を兼ねていた。しかし明治30年代には大阪にも近代出版流通システムが普及していった。青木嵩山堂は衰退の一途を辿り、また息子や娘婿が跡を継がなかったこともあり、大正10年ごろに廃業した。大阪出版組合創設者の1人であり、初代会長だった彼がこの商売に見切りをつけた事は大阪出版界のためにも多大の損失であった[3]:94。 参考文献[編集] 鈴木徹造「青木恒三郎(あおき・つねさぶろう)」『出版人物事典』出版ニュース社、ISBN 4785200731、p.32 小川菊松『出版興亡五十年』誠文堂新光社、ISBN

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コリプレッサー – Wikipedia

分子生物学においてコリプレッサー(英: corepressor)は、遺伝子の発現を抑制する分子である[1]。原核生物ではコリプレッサーは低分子であるが、真核生物ではコリプレッサーはタンパク質である。コリプレッサーはDNAに直接結合しないが、リプレッサーに結合することで間接的に遺伝子発現を調節する。 コリプレッサーは、リプレッサー転写因子に結合して活性化することで、遺伝子の発現をダウンレギュレーション(抑制)する。リプレッサーは遺伝子のオペレーター配列(転写因子が結合して遺伝子発現を調節するDNA配列)に結合し、遺伝子の転写を遮断する。 調節エレメント上のコリプレッサー-転写因子複合体 原核生物[編集] 原核生物では、コリプレッサーという語はリプレッサータンパク質を活性化するリガンドに対して用いられる。例えば、大腸菌Escherichia coliのトリプトファンリプレッサー(英語版)(TrpR)は、コリプレッサーであるトリプトファンが結合した時にのみDNAに結合し、trpオペロン(英語版)の転写を抑制することができる。トリプトファンが結合していないTrpRはアポリプレッサーと呼ばれ、遺伝子の転写を抑制する活性はない[2]。trpオペロンはトリプトファンの合成を担う酵素をコードしている。そのため、TrpRはトリプトファンの生合成を調節するネガティブフィードバック機構を構成する。すなわち、トリプトファンは自身の生合成のコリプレッサーとして作用する[3]。 真核生物[編集] 真核生物では、コリプレッサーは転写因子に結合するタンパク質である[4]。コリプレッサーが存在せずコアクチベーターが存在する場合に、転写因子は遺伝子の発現をアップレギュレーションする。コアクチベーターとコリプレッサーは転写因子上の同一の結合部位をめぐって競合する。コリプレッサーが転写因子-DNA複合体に結合した際に転写開始を抑制する他の機構として、ヒストンのリジン残基からアセチル基を除去するヒストンデアセチラーゼのリクルートがある。その結果ヒストンの正電荷が増加し、正に帯電したヒストンと負に帯電したDNAとの間の静電的相互作用が強化され、転写のためのDNAへのアクセス性が低下する[5][6]。 ヒトでは数十種類から数百種類のコリプレッサーが知られており、コレプレッサーとしての特徴付けの信頼度によって数には開きがある[7]。 コリプレッサーの例[編集] NCoR[編集] NCoR(英語版)(nuclear receptor co-repressor)は、核内受容体のDドメインとEドメインに直接結合し、その転写活性を抑制する[8][9][10]。クラスIヒストンデアセチラーゼはNCoRによってSIN3を介してリクルートされ、クラスIIヒストンデアセチラーゼはNCoRに直接結合する[8][10][11]。 SMRT[編集] SMRT(英語版)(silencing mediator of retinoic

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石井亮次と福島暢啓のフダンギダンギ。 – Wikipedia

石井亮次と福島暢啓のフダンギダンギ。(いしいりょうじとふくしまのぶひろのフダンギダンギ。)は、MBSラジオが2021年3月29日から2ヶ月に1回のペースで放送しているトーク番組[1]。石井亮次(中部日本放送→CBCテレビ出身のフリーアナウンサー)と福島暢啓(毎日放送アナウンサー)の冠番組および、『次は〜新福島!』(福島が2017 – 2020年度のナイターオフ期間にパーソナリティを務めた生ワイド番組シリーズ)からの派生番組でもある。 毎日放送・MBSラジオの放送対象地域である大阪府東大阪市出身の石井が、『次は〜新福島!』の初年度からゲストとして年に1回のペースで出演していたことを背景に、福島との間で普段着感覚のトーク(フダンギダンギ)を展開する番組[1]。2021年3月29日(月曜日)に「MBSマンデースペシャル」枠で単発の特別番組として放送したところ、『次は〜新福島!』シリーズのリスナーなどから好評を博したため、同枠内のシリーズ企画として放送を続けることが決まった[1]。シリーズ番組へ移行してからは、放送済みの本編に「アフタートーク」(本番後に収録したトークの音源)を加えた音源を、放送後にYouTube上のMBSラジオ公式チャンネルとラジオクラウドで配信している。 毎日放送(MBS)は特別番組の放送時点でラジオ・テレビ兼営局であったが、放送の3日後(2021年4月1日)からラジオ放送の事業と免許を「株式会社MBSラジオ」へ移管。毎日放送は、福島の所属部署(アナウンスセンター)を残したままテレビ単営局へ移行した。このような事情から、シリーズ化を機に株式会社MBSラジオのコンテンツデザイン局プロデュースセンターが制作業務を担っているものの、福島は特別番組に続いて「MBSアナウンサー」との肩書で出演している。 なお、福島は2021年の10月改編から、『THE TIME,』(TBSテレビの制作によるJNN28局ネットの情報番組で平日の早朝に生放送)内の「列島リアルタイム中継」に近畿広域圏・徳島県担当のキャスターとして出演。MBSラジオでは2021年度のナイターオフ期間(2021年11月30日 – 2022年3月)に編成上の事情などから『次は〜新福島!』を放送しないため、当番組は不定期放送ながら、事実上『次は〜新福島!』の後継番組としての役割も担っている。このような事情から、『THE TIME,』が始まってからの当番組では、「列島リアルタイム中継」で近畿広域圏・徳島県以外のエリアを担当するキャスター(JNN加盟局の現職アナウンサー)をゲストに迎えることが相次いでいる。 2021年11月4日(木曜日)には、鹿児島県で唯一の民放ラジオ・テレビ兼営局である南日本放送(ラジオ放送部門がMBSラジオと同じくJRNとNRN、テレビ放送部門が毎日放送と同じくJNNへ加盟)との相互ネット方式で、17:54 – 20:00に「2時間スペシャル」を生放送。やきそばかおる(『次は〜新福島!』『福島のぶひろの、金曜でいいんじゃない?』コーナーレギュラー)と前田春香(福島の後輩アナウンサー)をスタジオに迎えたほか、『THE TIME,』の中継キャスターから若狭敬一(CBCテレビアナウンサーで同局における石井の先輩)が電話[2]・岩崎弘志(南日本放送アナウンサー)がMBSのスタジオ[3]からゲストで出演した。 なお、福島は2022年最初の生放送(1月31日)にも出演を予定していた。しかし、新型コロナウイルス(COVID-19)へ感染していることが放送の3日前(28日)に判明したため、療養に専念すべく出演を見合わせた。このような事情から、1月31日の生放送に際しては、大学生時代から石井と親交の深い河田直也(福島の先輩アナウンサー)を福島の代役に起用[4]。さらに、JNN・JRN加盟局の静岡放送から、牧野克彦(京都府宇治市・石井と同じ同志社大学出身で親交もある同局アナウンサー)が電話で特別に出演した[5]。福島は療養を経て2月11日の『金曜でいいんじゃない?』から生放送番組への出演を再開したが、翌週には石井にもCOVID-19への感染が確認された[6]ため、同月21日の生放送には三ツ廣政輝(福島の後輩アナウンサー)が急遽参加している[7]。 放送日程[編集] ゲストの肩書は出演の時点で、◎印を付けたゲストは『THE TIME,』の「列島リアルタイム中継」キャスター。●印のゲストは電話で出演。 外部リンク[編集]

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察東特別自治区 – Wikipedia

察東特別自治区 察東特別自治区(ちゃとうとくべつじちく)は、1933年から1936年まで中華民国の察哈爾省に存在した大日本帝国の傀儡政府。 1933年(昭和8年)3月、日本軍は熱河省全域を占領。同省を満州国に統合し、関東軍による内蒙工作を開始。関東軍は間もなく察哈爾省を攻撃。東北辺防軍(中国語版)崔興武(中国語版)旅団の李守信は降伏し、関東軍は李を「関東軍の戦略部隊」である熱河遊撃軍師司令に任命した。 同年4月28日、李守信は熱河省に隣接する察哈爾省に攻め入り、4月29日に多倫を占領した[1]。7月12日、察哈爾民衆抗日同盟軍の吉鴻昌らは多倫を攻略した[2]。 8月には李守信は多倫を再び占領した。9月22日、察東特別自治区を樹立し、李守信は行政長官に任命され、同日着任した[3][4]。 1936年(昭和11年)5月12日、徳王は徳化市(現内モンゴル自治区ウランチャブ市化徳県)に蒙古軍政府を新たに樹立。察東特別自治区は消滅した。 行政[編集] 1933年(昭和8年)6月11日、多倫特務機関が開設され、自治区成立後は多倫県公署となった。自治区は満州国の影響下にあり、満州国に準じた県政を敷いて、参事官の安斎金治が県政を指導し、満州国熱河省の県長会議や参事官会議に客員として代表を派遣した。多倫県公署の行政機構は、総務科・内務科・財務科・警務科の四科および承審処・監獄処の二処からなり、行政区画は四区に分かれ、このほか大六号弁事処を置いた。毎週水曜日に特務機関・自治区長官公署の要員が列席して県政会議が開かれ、各科長は事前に議案の菓議書を提出し、県長・参事官が検閲や後に会議で討議し、会議録は各科・処に送られた。また、特務機関および長官公署は特別事項について臨時会議を聞くことが出来た。 満州国の諸機関が進出し、赤峰塩務局・承徳税関・満州郵政局・満洲電信電話・満鉄・国際運輸会社・満州中央銀行が出張所・支社などの現地出先機関を置いた。 軍事[編集] 自治区成立後、興安遊撃師は察東警備軍に改編され、漢族部隊二個師を基幹兵力とし、砲兵隊・通信隊・憲兵隊を置いた。主要幹部は、司令が李守信、参謀長が陳宝泉、作戦主任参謀が劉星寒、第一師長が劉継広、第二師長が芦宝山、砲兵隊長が丁其昌。李守信司令のみが蒙古人で他の将兵は漢族で構成された。 1933年(昭和8年)8月13日に多倫を奪還した際には、李守信軍約4600人が入城したが、財源の貧しさから翌年5月に部隊を改編し、3500人まで削減した。内蒙工作が本格化すると、1935年(昭和10年)7月以降は満州国軍政部が軍費を負担した。 人口動態統計は、1922年 (7万2200人)、1928年 (4万9044人)、1931年 (2万944人)、1933年(1万460人)、1935年は戸数7600戸、総人口 3万1600人(男 2万500人、女 1万1100人)。多倫に住む日本人は、1935年4月以前は30人足らずであったが、4月に特設隊が到着して100名余に増え、5月12日に日本人居留民会が結成された。会長は善隣協会内蒙支部長の藤中弁輔、副会長は参事官の安斎金治、顧問は下永憲次中佐および浅海喜久雄機関長が務めた。のち、役人・会社駐在員・芸妓が流入し、同年末には150数人まで増加した。 ^

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明治大学シェイクスピアプロジェクト – Wikipedia

この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “明治大学シェイクスピアプロジェクト” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 明治大学シェイクスピアプロジェクト(めいじだいがくシェイクスピアプロジェクト)は、明治大学の学生が主催するシェイクスピア劇上演プロジェクトであり、翻訳、上演、企画運営の全てを学生が主体となって行う、学生演劇最大規模の演劇カンパニーの名称である。通称MSP[1]。 2004年の初演後、毎年11月初旬に明治大学駿河台キャンパスのアカデミーホールで上演されている。例年、200名を超える学生が参加し、4,000名以上の観客動員数を誇る日本最大規模の学生演劇プロジェクトである。 メンバーは毎年新たに選出され、キャスト、楽器隊、演出助手部、照明部、音響部、舞台美術部、衣裳部、映像スチール部、制作部、コラプターズの10部署からなる編成であり[2]、キャストと楽器隊はオーディションにて選出される。以前は明治大学以外の学生の参加もあったが、現在は原則として明大生のみによるメンバー構成となっている。また、中高生を限定としたバックステージツアーなども開催されている。 年々、公演規模が拡大する中、『スーパー歌舞伎II_ワンピース』などの脚本、演出を手掛けた横内謙介や『恋におちたシェイクスピア』(劇団四季)や歌舞伎作品の脚本、演出で知られる青木豪などの第一人者を監修として招聘するなど、意欲的な作品作りが続けられ、コロナ禍前の観客動員数は4,500名を超える規模となった。2020年は、新型コロナウイルス対策のため、無観客配信方式により上演され、累計再生回数は1万回を突破した。2021年、明治大学創立140周年を記念し、群馬県前橋市および宮城県仙台市で地方公演を開催する予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大により中止となった(作品自体は配信で公開される予定)。 2007年以来、明治大学がケンブリッジ大学の公認演劇団体である「ペンブルックプレイヤーズ」の日本公演を支援しており、アカデミーホールでのシェイクスピア劇の上演の他、ワークショップの開催など交流活動を行っている。2016年には、MSP出身の俳優やクリエイターにより、ウィリアム・シェイクスピアの様々な楽しみ方を探る目的でユニット「MSPインディーズ」が発足。唐十郎などを演出に迎え活動を行っている。 公演作品[編集] シェイクスピアプロジェクト(明大アカデミーホール) 2004年『ヴェニスの商人』11月11日/11月13日( 全2公演 ) 2005年『マクベス』9月16日

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松本ハイランド農業協同組合 – Wikipedia

松本ハイランド農業協同組合(まつもとハイランドのうぎょうきょうどうくみあい、略称JA松本ハイランド、松本ハイランド農協)は、長野県松本市南松本に本店(本所)を置く農業協同組合である。 1992年9月1日 – 松本平農協・波田町農協・山形村農協が合併し松本ハイランド農協が発足。 2000年9月2日 – 松本ハイランド農協、川手農協、四賀村農協、筑北農協が合併。 2004年10月1日 – 松本ハイランド農協、信濃朝日農協が合併。 2008年10月1日 – 組合員総合ポイント制度「夢あわせポイント」開始。 2014年4月 – 店舗統廃合により次の通り変更された。 芳川北部出張所が総合相談センターローンプラザへ業態変更。 内田出張所が寿支所へ統合。それにともない内田出張所は地域交流センターへ業態変更。 七貴出張所が明科支所へ統合。 本城支所と坂北支所が統合し、本城支所を「聖南支所」に名称変更し統合。坂北支所は地域交流センターへ業態変更。

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世界オピニオンリーダーズサミット – Wikipedia

世界オピニオンリーダーズサミット(せかいオピニオンリーダーズサミット、Global Opinion Leader’s Summit)は、神道系新宗教ワールドメイト教祖の半田晴久(深見東州)が総裁を務めるNPO法人世界開発協力機構が主催する不定期に開催されるイベント。元アメリカ大統領のバラク・オバマ、ビル・クリントン、元イギリス首相のトニー・ブレアらの元首脳を招聘したことでも知られている[1][2]。 各界のオピニオンリーダーが日本において世界平和への議論を交わし、情報を発信する。パネリストと過去の事例を語りつつ、未来の平和社会構築に向け議論する。若者世代が国際政治への興味をもち、国際社会の現状を正しくとらえる視点を養う機会となることも目指すとしている[3]。 目次 1 歴史 1.1 第1回 1.2 第2回 1.3 第3回 1.4 第4回 1.5 第5回 2 ヤングリーダープログラム

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都々古別神社 – Wikipedia

  上:馬場都々古別神社(棚倉町棚倉)下:八槻都々古別神社(棚倉町八槻) 馬場社・八槻社と関係社の位置 都々古別神社(つつこわけじんじゃ、都都古別神社/都都古和気神社/都々古和気神社)は、福島県東白川郡棚倉町にある神社。主な同名神社として2社があり、いずれも陸奥国白河郡の式内社(名神大社)論社で、陸奥国一宮。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で陸奥国白河郡に「都都古和気神社 名神大」と記載された式内社(名神大社)で、福島県東白川郡棚倉町内の次の2社が論社とされている。 都都古和氣神社(馬場都々古別神社)[注 1](棚倉町棚倉字馬場) – 旧国幣中社、別表神社。 都々古別神社(八槻都々古別神社)(棚倉町八槻字大宮) – 旧国幣中社、別表神社。 両社はともに味耜高彦根命・日本武尊を祭神とし、それぞれ古社として知られ中世以降は陸奥国の一宮とも称されている[注 2]。いずれが『延喜式』に載る神社であるかや本社・分社の関係などについては古来論争があるが、現在までに明らかとはなっていない。 これらの社は、馬場社を上宮(上社)、八槻社を中宮(中社)、そして近津神社(茨城県久慈郡大子町下野宮)を下宮(下社)として「近津三社」をなしたといわれる。棚倉町周辺には「都々古別」や「近津」を社名に持つ神社や、馬場社・八槻社同様に味耜高彦根命を祭神とする神社など、分祀社が多数分布することに見られるように、南陸奥地方で広い信仰圏を営んだ神社になる。 古代の社名・神名は、 などと見える。「つつこわけ」の由来については、籾を入れる藁苞(わらつと)の美称「ツツコ」によるという説、「筒」すなわち太鼓状のものを指すという説、長野県諏訪地方の千鹿頭神に由来するという説などがある。同様に「都都古和気」を冠する神社として、『延喜式』神名帳では陸奥国白河郡に「石都都古和気神社」(現在の石川郡石川町の石都々古和気神社)が記載されている。 中世から近世には、馬場社は「馬場明神」「近津明神」、八槻社は「八槻明神」「近津明神(千勝明神)」などと称された。明治以降、両社は「都々古別神社」と称し、それぞれ「馬場都々古別神社」「八槻都々古別神社」と呼び分けられた。戦後も福島県神社庁での登録名では両社に「都々古別神社」の表記が使用されているが[6]、馬場社のみは表向きでは古名の「都都古和氣神社」を正式名称に改めている[7]。 創建[編集]

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池田七郎兵衛 – Wikipedia

池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい[1] / しちろべえ[2][3]、1882年(明治15年)6月11日[4] – 1962年(昭和37年)2月20日[2][3][5])は、大正から昭和前期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、参議院議員、福井県足羽郡酒生村長。幼名・千代三[1][6]。 福井県[2][3][5]足羽郡荒木新保村[1](酒生村荒木新保[7]、足羽村、足羽町を経て現福井市[1])で、地主、先代・池田七郎兵衛の三男として生まれる[1][6]。北陸中学校(現北陸中学校・高等学校)を卒業[1]。1913年(大正2年)父の死去に伴い家督を相続し七郎兵衛を襲名した[1][6]。農業を営む[6]。 経営不振の第九十一銀行を買収して取締役頭取に就任[1][2][3][7]。その他、福井紡績取締役、大正電気取締役、白山水力取締役、福井電力取締役、日本水力監査役などを務めた[2][3]。また、足羽郡教育会長、同農会長、足羽馬匹組合長、酒生村耕地整理組合長、同信用購買販売利用組合長、福井県農会評議員、同畜産組合連合会副会長などを歴任した[2][3]。 政界では、1915年(大正4年)[注 1]福井県会議員に初当選し県政革新会の結成に参画[1]。県議に通算4期在任し、その間、副議長、議長、参事会員を務めた[1][2][3]。その他、酒生村長(2期)も務めた[2][3]。1916年(大正5年)立憲政友会に入党して同福井県支部の幹部となり、1920年(大正9年)以降、山本条太郎の支援に尽力した[1]。1932年(昭和7年)政友会福井県支部長に就任し1936年(昭和11年)まで在任した[1]。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で福井県全県区から出馬したが落選[1]。1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙で当選し[1][5]、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した[2][3][5]。戦後、1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に福井県地方区から無所属で出馬して当選し[1][2][3][8]、参議院議員に1期在任した[2][3][5]。 注釈[編集] ^ 『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』244頁では大正3年。 出典[編集] ^ a b

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