Month: November 2019

釜石市 – Wikipedia

釜石製鐵所(現・東日本製鉄所釜石地区)(2013年6月1日) 釜石市(かまいしし)は、岩手県南東部、三陸復興国立公園の中心に位置し、世界三大漁場の一つ北西太平洋漁場の一角をなす三陸漁場と典型的なリアス式海岸を持つ市である。旧上閉伊郡、気仙郡。 近代製鉄業発祥の地であり、最盛期の人口は9万人を超えた。 西を松倉山や仙磐山などの北上山地などに囲まれ、東を太平洋に囲まれている。平野部は少なく、可住地面積も多くない。 気候[編集] 夏はやませの影響を受けるが、フェーン現象によって暖められた風が北上高地から吹き降ろす事により、県内で最も高い気温を記録する事がある。 厳暑となった2015年の7月から8月上旬には、東北北部としては珍しく、38℃を超える気温を2回観測した。 釜石( 盛岡地方気象台・1981 – 2010年平均)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月

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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン – Wikipedia

麦藁帽子をかぶった自画像、1782年。 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(フランス語: Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun、1755年4月16日 – 1842年3月30日)は、フランスの画家。18世紀で最も有名な女性画家であった。 画家ルイ・ヴィジェの娘としてパリで生まれ、親から最初の絵画教育を受けたが 、ガブリエル=フランソワ・ドワイアン、ジャン=バティスト・グルーズ、クロード・ジョセフ・ヴェルネ他、当時の大家たちからの助言の方が彼女のためになった。彼女は10代前半ごろには、すでに職業として肖像画を描いていた。アトリエが無許可営業のため差し押さえられてから、組合のサロンに彼女の作品を快く展示してくれた聖ルカ組合に申し込み、1774年10月25日に会員になった。 1776年に、画家で画商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。彼女は当時の貴族の多くを肖像画に描き、画家としての経歴を開花させた。マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれた。王妃は大変喜び、向こう数年間ヴィジェ=ルブランは王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く依頼された。王妃とヴィジェ=ルブランは画家と王妃を超えた友人関係を築いていたといわれる。 1781年にヴィジェ=ルブランは夫と共にフランドル(現ベルギー)とオランダに旅に出た。フランドルの大家の作品がルブランを刺激し、新しい技法を試みさせた。その場所で、ルブランは後のオランダ王ウィレム1世を含む、数名の貴族達の肖像画を描いた。 モスリンのシュミーズ・ドレスを着た王妃マリー・アントワネット、1783年。 1783年3月31日、ヴィジェ=ルブランはフランスの王立絵画彫刻アカデミーの会員に、歴史的寓意画家として迎えられた。女性画家アデライド・ラビーユ=ギアールも同じ日に入会が認められた。ヴィジェ=ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを統括する男性達に反対されたが、結局、マリー・アントワネットが自分の画家の利益になるよう、夫のルイ16世に相当な圧力をかけたため、彼らの主張は国王の命令により覆された。同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーではなく、女性同士が比較されがちになった。 王族が逮捕された後、フランス革命の間ヴィジェ=ルブランはフランスから逃れ、数年間をイタリア、オーストリア、ロシアで暮らし、画家として働いた。そこでは貴族の顧客との付き合った経験がまだ役立った。ローマでは作品が大絶賛され、ローマの聖ルカ・アカデミーの会員に選ばれた。ロシアでは貴族から歓迎され、女帝エカチェリーナ2世の皇族を多数描いた。ロシア滞在中にヴィジェ=ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの会員になった。 革命政府の転覆後の1802年、ヴィジェ=ルブランはフランスへ戻った。ヨーロッパ上流階級からの引く手あまたの中、イギリスを訪れ、バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描いた。ナポレオン・ボナパルトの妹の肖像画も手がけたが、ナポレオンとの折り合いが悪くなり、1807年に出国、スイスに赴いて、ジュネーヴ芸術促進協会(Société pour l’Avancement des

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高射砲第134連隊 – Wikipedia

高射砲第134連隊(こうしゃほうだい134れんたい、高射砲第134聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊の一つ。防空第24連隊を改編して創設された。 元々、長崎要塞防空隊として存在した長崎地区の高射砲部隊を防空第21大隊、防空第24連隊と改編または改称を重ねた後、昭和19年6月に創設された高射砲連隊。 編成上は高射第4師団の隷下の部隊であるが、作戦指揮上は独立混成第122旅団の直轄部隊であった。 連隊の主たる任務は、川南造船所(川南工業)、三菱長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)、三菱兵器製作所、三菱製鋼所などの工場群と長崎港、市街地を空襲から守ることであり、創設以来奮戦し昭和19年6月16日から終戦までに敵機26機の撃墜を報告[2]している。また、米軍が長崎市周辺へ上陸した場合には、対上陸用舟艇及び対艦戦闘、対戦車戦闘も想定していた[3]。 しかし、昭和20年8月9日の長崎市への原子爆弾投下により甚大な被害を被り、負傷者の救護等に従事中に終戦を迎える。 部隊の変遷[編集] 昭和16年11月:長崎要塞防空隊を編成。稲佐山と星取山に計6門の高射砲を配備し、高射砲陣地を構築した。 昭和17年10月:独立防空第21大隊と改称。高射砲隊は、稲佐山と金比羅山に八八式七糎野戦高射砲を各4門配備し、星取山と神ノ島に十四年式十糎高射砲を各4門配備した。照空隊は長崎市各地に照空陣地を構築した。 昭和18年8月 :稲佐山、金比羅山、星取山、小榊、香焼島に八八式七糎野戦高射砲を各6門配備し、中ノ島(長崎駅)に十四年式十糎高射砲を2門、神ノ島に十四年式十糎高射砲を6門配備した。 昭和19年1月 :防空第24連隊と改称。高射砲4個中隊、照空2個中隊で編成される。 昭和19年6月1日 :高射砲第134連隊と改称[4]。連隊本部は長崎市南山手14番地(現・グラバー園付近)に、戦闘指揮所は鍋冠山に位置していた。 昭和19年6月 :立神及び蔭ノ尾に九八式二十粍高射機関砲を9門ないし6門配備した。 昭和20年4月 :香焼島安保に九九式八糎高射砲を6門配備。立神及び蔭ノ尾の高射機関砲隊は海軍佐世保警備隊(九六式二十五粍三連装機銃を各陣地に2基ずつ)と交代。また、三菱兵器製作所大橋工場に配備されていた詳細不明の陸軍機関銃隊が、海軍佐世保警備隊第26分隊樋口隊(九六式二十五粍連装機銃を家野町、山里町、西町の各陣地に2基ずつ)と交代している。 昭和20年5月以降:稲佐山、香焼島、星取山に配備の八八式七糎野戦高射砲3個中隊を伊万里、大刀洗、宮崎へ転用したため、戦力が低下する。 3個中隊転出後の戦力は、以下の通り。

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ベネッセ個人情報流出事件 – Wikipedia

ベネッセ個人情報流出事件(ベネッセこじんじょうほうりゅうしゅつじけん)とは、2014年7月9日に発覚した、「進研ゼミ」や「こどもちゃれんじ」を運営する、通信教育の最大手企業であるベネッセコーポレーションの個人情報流出事件。流出した顧客情報は最大で3504万件に及ぶ。 2014年6月ごろより、ベネッセの顧客に、ベネッセのみに登録した個人情報を使って他社からダイレクトメールが届くようになり、ベネッセから個人情報が漏洩しているのではないかという問い合わせが急増した[1]。 ベネッセは社内調査を行い、同年7月9日、原田泳幸会長兼社長が記者会見し、「データベースの顧客情報が外部に持ち出され、最大約2070万件の情報が漏洩した可能性がある」と発表した[2]。流出した情報は、進研ゼミなどの顧客の情報であり、子供や保護者の氏名、住所、電話番号、性別、生年月日など。 7月19日、警視庁は、ベネッセのグループ企業、シンフォームに勤務していた派遣社員のエンジニアを逮捕。取り調べで情報を持ち出し、名簿業者に売却したことを認めた。 この事件により、責任部署にいた二人の取締役が引責辞任した[3]。また本事件の影響で大規模な顧客離れが起き、同社は経営赤字に転落するなど、経営に対する重大な打撃となった。 2013年12月 – 情報の不正持ち出しが始まる 2014年1月ごろ – 名簿業者「パン・ワールド」が別の名簿業者から顧客情報を購入 5月中旬 パン・ワールドが名簿業者「文献社」に顧客情報を転売 同21日 – 文献社が通信教育を手掛ける「ジャストシステム」に顧客情報を転売 6月 – ジャストシステムが、名簿業者から購入した顧客情報を利用したダイレクトメールを送付。ダイレクトメールを受け取ったベネッセの顧客から、個人情報漏洩の問い合わせが相次ぐ 6月27日

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アレ (斉藤和義の曲) – Wikipedia

「アレ」は2019年2月20日にSPEEDSTAR RECORDSから発売された。斉藤和義48作目のシングル。 前作から3ヶ月でのシングル。日本テレビ系ドラマ「家売るオンナの逆襲」主題歌。初回限定盤と通常盤の2形態で発売。初回限定盤はライブ音源を13曲収録。[1]通常盤はライブ音源を6曲収録。[2] 初回限定盤 収録曲[編集] 全曲 作詞・作曲・編曲:斉藤和義 *2~14は「KAZUYOSHI SAITO 25th Anniversary Live 1993-2018 25<26 〜これからもヨロチクビーチク〜 After Party at Zepp Sapporo 2018.09.19」Live音源(曲名に下線が引かれている6曲は通常盤と共通曲)。 アレ(3:32) Would

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部分写像 – Wikipedia

単射な部分写像の例 単射でない全域写像の例 数学において部分写像(ぶぶんしゃぞう、英: partial mapping)あるいは部分函数(英: partial function)は適当な部分集合上で定義された写像である。即ち、集合 X から Y への部分写像 f は X の任意の元に Y の元を割り当てることが求められる写像 f: X →

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シッキム州 – Wikipedia

シッキム州(シッキムしゅう、英語: Sikkim)は、インド北東部の州のひとつである。中国語(漢字)では錫金と表記し、ヒマラヤ南麓のネパールとブータンの間に位置する。かつてシッキム王国だった歴史的な経緯により、インド28州のうち人口最少、面積はゴア州に次いで2番目に狭い小さな州となっている。 シッキム王国[編集] シッキムにはもともとレプチャ人が居住していた。しかし、1642年、チベットがチベット仏教ゲルク派が主導する政権であるガンデンポタン(ダライ・ラマ政権)により統一されると、ゲルク派に対立していたチベット仏教ニンマ派の高僧と同派を奉ずるチベット人 の一部(のちのブティヤ人)がシッキムの地に亡命し、プンツォ・ナムゲルを擁立してシッキム王国(ナムゲル朝)を建国した。チベット人の亡命政権だったことからチベットはシッキムを属国とし、チベットを属国としていた清朝もシッキムを自らの属国とみなすという複雑な状況となっていた。 1706年、 ブータン王がカリンポン一帯を奪い取り、現在の地名に変更した。1780年代後半、ネパールから来たグルカ族がダージリンとカリンポンに侵攻し、1788年までに一帯を支配した。イギリス領インド帝国時代になると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通の敵とみなされた。イギリス東インド会社がネパール(ゴルカ朝)に侵攻したグルカ戦争(1814年 – 1816年)でスガウリ条約が結ばれ、シッキムの王ツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還に成功した。 その一方でイギリスはチベットとの交易も模索し始め、シルクロードのあるシッキムはその中継点として理想的といえた。それは南下しつつあるロシア帝国がチベットとの関係を深めようとすることを牽制する意味があった。 1840年に隣国の清がアヘン戦争になると、緩衝地帯の西に位置するラダックに当時あったシク王国とチベットの間で清・シク戦争(1841年 – 1842年)が行われた。しかしその直後、イギリスとの間で第一次シク戦争(1845年 – 1846年)及び第二次シク戦争(1848年 – 1849年)が行われ、シク王国は滅亡し、ジャンムー・カシミール藩王国が誕生した。 1849年、シッキムは南部のダージリン地方を当時の35,000ルピーでイギリスへ割譲させられた。チベットは、イギリスと隣接する領域が西部だけでなく東部にもできることに脅威を感じ反発したが、イギリス軍がチベット軍を撃退、1861年には清朝との間でシッキムをイギリスの保護国とすることが定められた。1866年、フランスによる雲南省経由通商路の調査がきっかけとなって、雲南問題で知られるイギリス、フランス、中国間の紛争が始まると、イギリスの主な関心はより豊かな雲南方面へと移っていき、この地域に求められる役割はインド総督府の避暑地となった。しかし1888年のシッキム遠征(英語版)で初めてチベット軍と戦闘になり、英国のチベット遠征の前哨戦となった。この時期に茶葉栽培のためにネパール人[1]が労働力として大量に移住し、ブティヤ人を凌ぐ人口を擁するようになった。 シッキム王国時代の基礎情報[編集] 1975年時のシッキム王国の基礎情報。[2]

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先人たちの底力 知恵泉 – Wikipedia

月間テーマ 放送日 回 サブタイトル お客(ゲスト) 2013年4月「新規プロジェクト必勝法」 4月2日 第一回 東大寺 奇跡の復活劇 重源 予算ゼロからの挑戦(前編) 川口淳一郎、本郷和人、はな 4月9日 第二回 東大寺 奇跡の復活劇 重源 予算ゼロからの挑戦(後編) 4月16日

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酒井勝一 – Wikipedia

さかい かついち 酒井 勝一 住居 日本・東京都港区六本木 国籍 日本 出身校 慶應義塾大学経済学部中退明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科 (MBA) 職業 実業家起業家 酒井 勝一(さかい かついち )は、日本の実業家・起業家。 名古屋証券取引所セントレックス市場に上場していた太陽商会グループ前会長であり、創業者。 幼少期を福島県いわき市で過ごし、いわき市立平第一小学校、第一中学校、高校は学校法人石川高等学校を卒業。大谷トレーニングセンター(現大谷競輪選手養成所)に所属し競輪学校一次試験を合格。二次試験直前に街道練習中落車、左足靭帯損傷を負い競輪試験を断念。その後、慶應義塾大学経済学部に入学、不動産バブル経済に魅了され大学を中退、株式会社初穂・本社:東京都新宿西新宿第2三井ビル内(ブランドマンション販売会社:グローリア初穂マンション)・大手不動産デベロッパー会社などへ入社。[1]トップセールスマンとして7年間勤務。大手証券会社や経営コンサルティング会社へ転職。 高度経済成長期、バブル経済等、様々な経済環境を経験し、投資用・資産運用型マンション、ファミリーマンションを販売。22歳から26歳までに数百億円以上の販売実績、トップセールスマンとして管理運営に携わってきた経緯を持つ。不動産バブル終焉時27歳、1992年6月独立し、日栄リアルエステート株式会社・本社:東京都渋谷区神宮前に設立。神奈川県藤沢市江の島(片瀬地区)中心に江ノ島マンション販売、戸建住宅販売。栃木県那須塩原「病診連携推進モデル事業の那須グリーンパーク・スクエア」建立し「不動産業界の異端児」、「若きベンチャー起業家」などと呼ばれ、数々のマスコミにフィーチャーされる。鳩山友紀夫、前原誠司、小渕恵三、石原慎太郎など政治家の関係もあったとみられる。元妻には医師や、京都お茶屋の若女将がいる。政治経済界に幅広い人脈を持つ、武藤一彦との関係が強いとされている。

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工芸指導所 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年5月) 工芸指導所(こうげいしどうしょ)とは、日本固有の金工、木工、漆工、その他各種工芸産業の改善発達を図るため1928年に設立された国立の研究指導機関。1952年に通商産業省工業技術院産業工芸試験所と改称した。 工芸指導所建物配置図 仙台市二十人町通10番地[1] 昭和13年春 工芸指導所原型室にて 左から藤沢幾之輔、松崎福三郎、国井喜太郎、八井孝二 (撮影 臼井正夫) 1927年12月 商工省の予算に工芸指導所設置に関する経費27万円を計上した。しかし商工省が「美術工芸」を所管することには大蔵省から異論もあったため、東北の未利用資源の開発、東北工芸産業の育成その他を主目的に加えて再度要求した結果認められた。直接の立案担当者は工務局工政課長の吉野信次(途中で竹内可吉に引き継ぎ)であった。国立の工芸指導所が仙台に設けられたのは、宮城県出身の藤沢幾之輔が商工大臣に就任したとき、東北の振興を目的として設立案を提出したことによる。[3] 1928年  3月31日 官制公布(勅令第47号)、国井喜太郎を所長に任命。[4] 10月 仙台市二十人町通10番地の土地約10,000平米に庁舎と工場が竣工。 11月 商工省内の仮事務所を閉鎖して移転。設立当初の年間予算は約70,000円(経常部)という、国立の機関としては極めて小規模であった。 組織: 第一部(木工、塗工、玩具)、第二部(鋳造、鈑金、化学)、第三部(図案設計、彫塑、写真及印刷)、庶務課、調査係、伝習生係 1929年 2月1日 第1回伝習生事業開始 6月3日 機関誌「工芸指導」創刊 1932年 6月28日 月刊機関誌「工芸ニュース」創刊 1933年 5月5日 出張員事務室を商工省内に開設。 11月10日 来朝中のドイツ建築家ブルーノ・タウトが嘱託となる(~1934年3月)。 1934年 タウトの指導の下で椅子及び照明器具の規範原型を研究発表する。 1937年 8月12日 工芸指導所官制改正(勅令427) 「木工品及金属工芸品」を「工芸品」に改め事業対象を拡大。

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