Month: December 2019

シンデレラ (1950年の映画) – Wikipedia

『シンデレラ』(原題:Cinderella)は、1950年のアメリカ合衆国のミュージカル・ファンタジー映画。ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作によるアニメーション映画である。原作は、シャルル・ペローの童話『シンデレラ』。本国米国で1950年2月15日に公開された。 日本初公開は、1952年3月7日。初公開から1974年再公開時までのタイトルは『シンデレラ姫』。 21世紀に入り、続編として『シンデレラII』(2002年)、『シンデレラIII 戻された時計の針』(2007年)がOVAで製作されており、またリメイクとして実写映画版も製作された。 また本作は、2018年にNational Film Registry(アメリカ国立フィルム登録簿)に登録された[2]。 概要 原作はシャルル・ペロー童話の『シンデレラ』。ウォルト・ディズニーはこの映画の構想に27年もかけたという。1923年に企画を立案するも第二次世界大戦によるスタッフ不足の影響があり中断[3]。1944年に企画を再立案し終戦後の1945年に制作を開始。ウォルトはシンデレラのデザインを創るにあたって色々な資料を集め童話の挿画や少年少女のイメージにあわせる事にし、青い眼、ブロンドの髪、体重120ポンドに決めた。更に独自のシーンや演出を多数盛り込んでミュージカル作品に仕立てている。また馬のメジャーや犬のブルーノ、トレメイン夫人の飼い猫ルシファーなどの動物たちはディズニーオリジナルのキャラクターである。 5年の歳月をかけて、絵の数は150万枚。長編アニメーション映画としては、1942年公開の『バンビ』以来となった。 ディズニー社では『白雪姫』の公開以降、ヒット作は出ておらず、第二次世界大戦の終戦時には会社の負債額は約400万ドルを超え、(現在では名作と名高い)『ピノキオ』『バンビ』等もヒットには至らず、興行収入的には失敗が続いていた[4]。スタジオは経営危機に陥り、次の作品でヒットを出せなければディズニー社は先がない状況であった[4]。 そんな状況下でウォルトは「逆境にある少女の物語を…」と、満を持して制作に踏み切ったのが本作である。1950年、本作は公開されるや否や瞬く間に話題を呼び、念願の大ヒットとなった[3]。関連商品は飛ぶように売れ、挿入歌の『ビビディ・バビディ・ブー』が収録されたレコードは好評を得て、同曲はアカデミー歌曲賞にもノミネートされた。ウォルト自身、アニメという金脈を掘り当てたシンデレラ・ボーイだった[3]。 アメリカでのビデオ発売は1988年で[3]、前年ビデオ発売された『わんわん物語』の2倍以上の720万本を売る特大ヒットを記録し[3]、アメリカに於けるセルビデオ時代の幕を開けたといわれた[3]。日本でのビデオ発売は1992年10月21日(通常版5768円)[3]。 後にウォルトは、(ディズニーアニメーションで)一番好きな作品は『シンデレラ』だと答えている[5]。ウォルト自身もシンデレラ同様に逆境を乗り越えて夢を掴んだ人物であり、映画評論家のジョエル・シエゲルは「彼がシンデレラに惹かれたのは、ウォルト自身がシンデレラだったから」だと語っている[4]。 あらすじ 遠い昔。ある所にシンデレラという美しく優しい娘が立派な屋敷に住んでいた。母親を早くに亡くした後、父親は妻の分までシンデレラを大切に慈しみながら育てていたが、まだ幼い彼女の身を案じ、二度目の結婚相手として新しい母親のトレメイン夫人と、その連れ子である二人の義姉・アナスタシアとドリゼラを迎える。しかし父親が亡くなると継母は本性を表し、義理の娘であるシンデレラに辛くあたり、自分の二人の娘だけを可愛がるようになった。そして継母や義姉たちが財産を浪費したため、屋敷は荒れ果てていった。 シンデレラはわがままな上に意地っ張りで意地悪な三人にいつもいじめられては罵られ、ついには召使いとして扱われるようになり、毎日灰にまみれて朝から晩まで洗濯や掃除、雑巾がけ、皿洗い、食事の支度などを押しつけられ、屋敷の外れにある塔の部屋に住まわされてしまう。しかし、シンデレラはきっと幸せがやってくる、いつかは夢が叶うと信じ、明るさと希望を失わなかった。そんな彼女の味方は鼠のガスとジャックの仲間や小鳥達、馬のメジャーと犬のブルーノだった。 そんなある日のこと、お城の王子であるプリンス・チャーミングの花嫁選びを兼ねた帰国祝いの舞踏会を開くことになり、シンデレラの家にも招待状が届いた。義理の姉達は大はしゃぎし、自身も行きたいと願うシンデレラに継母は、全ての仕事を片付け、ドレスを用意できたら舞踏会に行ってもいいという。 シンデレラは亡くなった実の母のドレスを手直しして着ていこうとしたが、三人は仕事をわざと多く押しつけ、ドレスが出来上がらないようにした。そこで小鳥や鼠達は義姉達がいらないと言って捨てたサッシュやリボンを使い綺麗なドレスを作る。しかし、舞踏会に行かせまいとする継母の悪巧みによって、義姉達はシンデレラを自分達が捨てたものを盗んで使った泥棒だと勝手に決めつけ、ドレスをボロボロに破かれてしまう。シンデレラはショックのあまり父との思い出の噴水まで走って泣いていたところ、彼女を励ますように妖精の老婆、フェアリー・ゴッドマザーが現れた。彼女が魔法の呪文「ビビディ・バビディ・ブー」を唱えて杖を振ると、瞬く間にカボチャが馬車に、ブルーノとメジャーは立派な従者と御者に、鼠達が白馬に変わっていった。最後に杖を一振りすると、破かれたドレスは美しく輝くドレスに変わり、気が付くとシンデレラはガラスの靴も履いていた。「12時になったら魔法は解ける」という忠告を聞いた彼女は、カボチャの馬車に乗って王子のいる城に向かった。 その頃、城の舞踏会では王子が出席者たちにお目通りを兼ねた挨拶をしていたが、元々結婚するつもりなど毛頭ないためすっかり退屈してしまっていた。そしてドリゼラとアナスタシアの番になった時、偶然現れたシンデレラの美しさに目を奪われダンスを申し込む。そのまま二人は踊りながら会場を抜け出し、城の庭を巡りながら楽しいひと時を過ごすが、シンデレラは相手が王子だと気が付いていなかった。そして時計塔の鐘が12時を打った途端シンデレラは妖精との約束を思い出し、王子の制止を振り切って走り出した。途中階段で靴が片方脱げてしまうが、シンデレラは拾う暇もなく馬車に乗り城を飛び出す。その一連を見ていた大公は慌てて兵士に馬車を追わせるが、魔法が解けてしまったため元の破れた服に戻ったシンデレラに気がつかず走り去る。シンデレラは足に残っていた片方の靴を抱きしめながら「素敵な夢をありがとう」と、もうここにはいないフェアリー・ゴッドマザーに御礼を言った。

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新上五島町立上五島中学校 – Wikipedia

新上五島町立上五島中学校(しんかみごとうちょうりつ かみごとうちゅうがっこう)は長崎県南松浦郡新上五島町青方郷にある公立中学校。 略称「上中」(かみちゅう)。五島列島の中通島に位置している。 歴史 1985年(昭和60年)4月に上五島町立の中学校4校(青方・上郷・浜ノ浦・今里)が統合されて開校した。2015年(平成27年)に創立30周年を迎える。 校区 長崎県南松浦郡新上五島町の上五島地区全域。 小学校区は新上五島町立青方小学校、新上五島町立上郷小学校、新上五島町立今里小学校。 校訓 「志を立て共に耐えて励まん」 校章 学問を表す「ペン先」と成長を象徴する「羽根」の絵を合わせたものを背景にして、中央に「中」の文字を置いている。 校歌 作詞は中山利郎、作曲は百本照夫による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「上五島中学校」が登場する。 前史(青方中学校) 1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革(六・三制の実施)が行われる。 1948年(昭和23年)3月 –

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われらの日本 – Wikipedia

「新憲法施行記念国民歌 われらの日本」(しんけんぽうしこうきねんこくみんか われらのにほん[1])は、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行を記念して憲法普及会が選定した国民歌である。作詞・土岐善麿、作曲・信時潔。 1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法の理念普及活動の一環として憲法普及会が「憲法音頭」と併せて選定した楽曲である。この際、第二次世界大戦期に戦意高揚のプロパガンダとして演奏されていた軍歌や一部の県民歌(初代「山口県民歌」、熊本県の「菊池盡忠の歌」など)、市町村歌に対しては演奏禁止命令が下されるが、戦前(大日本帝国の時代)から慣習的に国歌とされていた「君が代」は占領開始時こそ禁止対象とされたが日本側の要望を受けて1年ほどで緩和された。 しかし、GHQの禁止措置は緩和されたものの民間では「君が代」の天皇賛美は新憲法の国民主権と相容れないのではないかとの批判もあり、自治体や教育現場では演奏自粛の措置が取られることも珍しくなかった。これと同時期に憲法普及会が新憲法の理念を一般国民に普及する活動の一環として、将来的な国歌への採用も視野に入れ「憲法音頭」と共に選定された国民歌が「われらの日本」である。作詞は国語学者の土岐善麿、作曲は東京音楽学校講師の信時潔にそれぞれ依頼され、1947年(昭和22年)5月3日に皇居前広場で政府が主催した「日本国憲法施行記念式典」では公布記念式典から一転して「君が代」は演奏されず東京・武蔵野・国立の3音楽学校生徒らが合唱する「われらの日本」が代用曲として演奏された[2][3]。 憲法施行記念式典で演奏された後、5月8日からはNHK『ラジオ歌謡』の1曲に取り上げられた。事実上の前身番組である戦前の『国民歌謡』において“準国歌”と言われるほど普及した「海行かば」を筆頭に信時潔が作曲した楽曲が頻繁に取り上げられていたのに対して『ラジオ歌謡』で取り上げられた信時の楽曲は「われらの日本」と1951年(昭和26年)の「吹雪の道」(作詞:白鳥省吾)の2曲のみとなっている。SPレコードは「憲法音頭」との両A面扱いでビクターレコード(現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)が柴田睦陸の歌唱吹込みにより制作し、日本蓄音機商会(現在の日本コロムビア)が製造(プレス)を行う異例の形で作成されたが現存枚数は非常に少なく、長野県中野市の中山晋平記念館に展示されているものなど数点しか確認されていない。2007年(平成19年)、平凡社が発売したCD6枚組『SP音源復刻盤 信時潔作品集成』では戦後の代表曲としてディスク6のトラック16に収録された[1]。 「われらの日本」の旋律は2015年(平成27年)12月31日に著作権の保護期間を満了している。 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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カルマフォールズ – Wikipedia

カルマフォールズはウガンダにある町。 本地はカンパラ – グル・ハイウェイ(英語版)がナイル川を渡る場所のすぐ南、マシンディ(英語版)から車で北東に約97キロメートル[1]、北ウガンダ最大の都市グルから車で南に約77キロメートル[2]離れている。座標は2°14’3.00″N,32°14’47.00″E(2.234167,32.246390)[3]、平均標高は約1000メートル[4]。ここには、出力600メガワットとウガンダ最大の水力発電所となるカルマ水力発電所(英語版)の建設が計画されている[5]。 2013年3月、ウガンダの新聞は、政府が近代的大都市を現代的にすることを計画しており、その一環としてここに建設中のカルマ水力発電所(英語版)が開所すると報じた[6]。 ^ GFC (2016年1月7日). “Distance between Masindi, Western Region, Uganda and Karuma Falls, Kiryandongo, Western Region,

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弦楽四重奏曲第3番 (ニールセン) – Wikipedia

弦楽四重奏曲第3番 変ホ長調 作品14は、カール・ニールセンが1897年、1898年に作曲した弦楽四重奏曲。ニールセンが書いた公式の4曲の弦楽四重奏曲では3番目の作品にあたる。初演は1899年5月1日に『Vor Forening』にてアントン・スヴェンスン、ルズヴィ・ホルム、フレズレク・マーガ(Marke)、アイラ・イェンスンの演奏により私的に行われた。 1897年と1898年にニールセンは忙しく過ごしていた。オペラ『サウルとダヴィデ』の作曲準備をしていただけでなくユトランド半島コリングに程近い義理の両親が営む農園の世話を見ながら過ごしていたのである。第3楽章と第4楽章を浄書に回そうとした際に不幸な経験に見舞われている。彼が写譜者のもとに到着したとき、1頭の馬が荷車の前で辛い姿勢で横たわっていた。彼は楽譜を巻いて少年に手渡し馬が起き上がるのを手伝った。しかしわずか数分の間に少年は楽譜ごと姿を消してしまっていたのである。ニールセンはもう一度これらを一から書き起こさねばならなかった[1]。 私的な演奏は一度ならず行われたらしいことがわかっているが、第3弦楽四重奏曲のコンサート会場での公開演奏は1901年10月4日のコペンハーゲンのOdd Fellows Mansion(英語版)小ホールが初めてとなる。これはギーオウ・フベア、Louis Witzansky、アントン・ブロク、エアンスト・フベアから成る新しく結成されたフベア四重奏団の初の室内楽コンサートであった[1]。 評論家は演奏家を褒めはしたものの、音楽に称賛を寄せるものはいなかった。『Nationaltidende』紙のGustav Hetschは第1楽章について「五線紙の上で読むには素晴らしい音楽というようなものに属するのだろうとみえるが、結局のところ響きは不愉快である。我々が音楽的な部分をつかみ取れた僅かな瞬間は、それ以外の不協和音の泡に飲まれて消えていた。」と評した。しかし彼はアンダンテは好んでおり「雰囲気によって非常に高尚なものとなっている(略)この音楽には広大な地平線、蒼穹の星々の豊かさ、そして高尚なる糸杉があり、その音楽は現代的であるが故に過去の音、簡素な色合いに手を届かせんとするのである。」他の評論家も同じように第1楽章に対して批判的であった[1]。 その他の演奏[編集] 本作はニールセンの生前にフベア四重奏団やブロイニング=ベイチュ四重奏団などにより何度も演奏された。第1ヴァイオリンを務めたのはピーザ・ムラやテルマーニー・エミルらである。1925年にはニールセンの生誕60周年を祝うため大学の式典ホールで開催された3回のコンサートの1回目に演奏されている。『Politiken』紙の評論は「変ホ長調の四重奏曲とその反駁の余地のない熟達の度合い、彼の当音楽ジャンルにおけるこの上なく偉大な勝利、力強く雄々しく、深遠な詩情を持ち、優美に田園的、勇敢に野心的」であるところに言及している。1902年にドイツで行われた演奏にも同様に前向きな論評がなされた[1]。 演奏時間[編集] 約33分[2]。 楽曲構成[編集] 第1楽章[編集] Allegro con brio

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チャッカブーツ – Wikipedia

チャッカブーツ、チャッカーブーツ(Chukka boots)はくるぶし丈で複数の紐穴を持つ革靴である。 同様なブーツにデザートブーツ(Desert boots)、ジョージブーツ(George boots)がある。 チャッカブーツ[編集] チャッカブーツは様々なバリエーションがあるが、基本的なデザインは以下。 くるぶし丈。 2~3組の紐穴・はと目を持つ。以前はそれ以上在る場合、チャッカブーツと呼ばれていなかったが、現代ではメーカー各社が、足へのフィット性を向上するためにシューレースホールを多く設けた製品をチャッカと呼んで製造・販売を行っている例は多い。 伝統的なデザインはカーフのスエード ラウンドトゥ 爪先革(Vamp)と腰革(Quarter)の2パーツが組み合わされており、それぞれひと続きの革で作られている。 薄いレザーソールを用いる(デザートブーツにはクレープソールやラバーソールが用いられる)。 伝統的にはライニングを用いない。 チャッカブーツがなぜそのように呼ばれるかは諸説ある。チャッカ(Chukker、またはChukka)とはポロ競技の競技時間の単位であり、1チャッカは7分30秒である。元来「chukkar」とはヒンディー語で円環や回転を表す言葉で、これがポロ競技に取り入れられた。チャッカブーツがポロ競技に用いられていた説もあるが、通常ポロ競技ではジョッパーブーツ等の乗馬靴を履いて競技を行い、チャッカブーツは用いられない。19世紀末頃、ポロ選手が試合後に履いていたジョッパーブーツに似たカジュアルなブーツが、いつしかチャッカブーツと呼ばれていったのではないかと考えられている。 チャッカブーツを有名にしたのはウィンザー公である。1920年代~1930年代に、ポロ競技にも精通し、ファッションアイコンであったウィンザー公がチャッカブーツをよく着用したため、多くの男性に浸透していった。 チャッカブーツはスポーツが由来のため、ダークスーツなどのフォーマルな装いには合わせない。しかし、フォーマル過ぎず、カジュアル過ぎないため、様々なシーンで使用することができる。たとえば礼を失することができない私服が必要な場合や、フォーマルすぎる服装をカジュアルダウンする場合などに重宝する。 デザートブーツ[編集] クラークス デザートブーツ

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ディラシェ特別郡 – Wikipedia

エチオピアの地図。現在の特別郡(ワレダ)と南部諸民族州の各県を示す ディラシェ特別郡(Dirashe Wareda, ディラシェとくべつぐん)はエチオピアの南部諸民族州(SNNPR= Southern Nations, Nationalities, and Peoples’ Region)内のワレダ(woreda(英語))の一つである。2011年以前のディラシェは南部諸民族州のどの県にも属しておらず、自治区に似た特別「郡(ワレダ)」として扱われた。2011年にディラシェと周囲の旧特別郡3ヵ所を統合してセゲン地域人民県(英語版)を設立[1]、名前の由来はこのワレダ東部を故郷とするディラシェ人(英語版)にちなむ。 エチオピアの大地溝帯に位置するディラシェは、南にコンソ特別郡、西にワイト川を挟んでデブブ・オモ県、北にガモ・ゴファ県、北東にチャモ湖(英語)、東はアマロ特別郡と接する。ディラシェ特別郡の行政の中心地はギドレ(英語)である。 2004年の報告書によると、ディラシェには全天候型道路の区間57kmと44kmの乾式道路が通り、平均道路密度は1000km2あたり66kmである[2]。ガルドルラ山(標高2545 m)は地域内の最高地点のひとつ。 南部諸民族州の設立に続いてディラシェ特別郡が設置された。2011年に統合によりセゲン地域人民県が成立される。 2002年4月、土地争いがディラシェ人とザイス人の間で勃発すると、以前は平和だった民族グループ間に地元の与党当局者が介入して扇り立てて戦闘に発展、死者数名、焼き討ちにあった家屋多数が出る[3]。翌年末には旧特別郡管理者ほか責任を負う立場の地方当局者は、暴力扇動を訴追され有罪判決を受けた[4]。 人権啓発団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは2009年6月25日、農民を対象に聞き取り調査をしたところ、野党を支援したせいで土地を没収され、家を追い出されたと主張した[5]。 人口統計[編集] エチオピア中央統計局(CSA)が実施した2007年国勢調査に基づくと、この特別郡の総人口は14万2758人、内訳は男性7万111人、女性7万2647人であった。面積1,487.38km2、人口密度95.98人で都市住民は1万3184人(9.24%)を占める。総世帯数は2万6838、1世帯あたりの人数は平均5.32人で住戸数は合計2万6102戸である。民族グループ8つのうち大きい順にディラシェ人(45.01%)、ガワワダ人(27.94%)、モッシーヤ人(9.27%)、クスミエ人(5.08%9、マソール人(4.34%)、コンソ人は2.35%に分かれる。ガモ人1.76%、アムハラ人1.62%であった。その他の民族グループの合計は人口の2.63%にあたる。ディラシェ語(Dirashe)(英語)を母語(第一言語)とするのは住民の47.51%、ガワワダ語は27.43%、ブッサ語9.09%である。4.82%はオロモ語を、4.1%はアムハラ語、3.66%はガモ語、1.76%はコンソ語を日常に話し、残りの1.63%は上記の主要言語をすべて話す多言語の人々である。宗教を見るとキリスト教プロテスタント派50.03%、34.27%はエチオピア正教会を実践し、伝統的な宗教に生きる人々は人口の12.84%と国勢調査に答えた[6]。 上記の国勢調査から7年さかのぼる1994年の同調査では、ディラシェの総世帯数と戸別の人数は1万7181世帯、8万9900人で男女の内訳は男性4万5617人、女性4万9038人、都市住民は人口の9.08%(8167人)を占めた。最大の民族グループ5つは人数の順にディラシェ人(58.44%)、ガワワダ人(19.75%)、モシーヤ人(10.06%)、アムハラ人(2.99%)、コンソ人(2.34%)、その他の民族グループの小計は人口の6.48%にあたった。第一言語は順にディラシェ語55.08%、19.64%はガワワダ語、7.26%はブッサ語、5.41%はオロモ語、さらに4.97%はアムハラ語が第一言語である。残りの7.64%は上記の主要言語をすべて話すと答えた[7]。宗教は人口の51.63%が伝統宗教を信じ、キリスト教プロテスタント派35.46%、10.38%はエチオピア正教会の信者だと回答した[8]。 エチオピアの教育関連(英語)では1994年当時の識字率は人口の17.49%と見なされ、児童の年齢順に7~12歳人口の9.69%が小学校に通い、中学校進学は13~14歳の3.2%、高等学校進学率は15~18歳の3.48%に相当した[9]。 同年の国勢調査時点のエチオピアの衛生状態(英語)を見ると、安全な飲料水が手に入る住戸数は都市部の約74%、住宅総数で見ると19%にあたる。トイレが備わった家屋は都市部64%、全体では12%であった[10]。

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野沢卯市 – Wikipedia

野沢 卯市(野澤、のざわ ういち、1868年10月20日(明治元年9月5日[1])- 1961年(昭和36年)7月26日[2])は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・石塚。 佐渡国羽茂郡徳和村[3](新潟県[2]佐渡郡赤泊村[4]大字徳和[5]を経て現佐渡市徳和)で、素封家[5]・石塚孫四郎の二男として生まれ、野沢長吉の養子となった[3][6]。進学のため上京する際、寺泊から三国峠を徒歩で進む中で佐渡が本土よりも豊かであると気づき、北前船の恩恵であると判断して、航路整備を生涯の課題とすることに決した[3]。1890年(明治23年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業[2][4][5]。1895年(明治28年)家督を相続した[6]。 1895年2月、新潟県会議員に選出され6期在任[2][3][5][4]。1897年(明治30年)2月、佐渡郡会議員となり1期在任[2][4][5]。その他、新潟県水産試験場評議員、同衛生会商議員、同森林会議員、同産業調査会員も務めた[2][4]。鉄道時代の到来を見据えて、両津港を玄関口とする佐渡航路の充実整備に尽力した[3]。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から立憲民政党公認で出馬して当選し[3][5][7]、衆議院議員に1期在任した[2][4]。民政党の重鎮として新潟県支部長を長らく務めた[3][5]。 実業界では、二葉社常務取締役、新潟貯蓄銀行監査役、佐渡汽船取締役、佐渡水力電気取締役などを務めた[2][4][5][6]。 国政選挙歴[編集] 妻 野沢カツ(養父長女)[6] ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、9頁。 ^ a b c d e f

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ひとりで飲めるもん! – Wikipedia

『ひとりで飲めるもん!』(ひとりでのめるもん、英語: ENJOY DRINKING ALONE))は、コナリミサトによる日本の漫画作品、およびそれを原作とするテレビドラマ。『まんがタイムオリジナル』(芳文社)2017年8月号から2019年2月号まで連載された[1]。 仕事もできて、さらに美人である化粧品会社の女性社員が安くて美味しい食事をしながら、ひとり飲みを楽しむグルメ漫画[1]。 登場人物[編集] 紅河メイ(べにかわ メイ) 化粧品会社「コスメーズ」広報部所属の社員。 リーズナブルでサクッと飲めるチェーン店の食事が大好き。あまりに美味しいと張りつめた糸が切れたように等身が縮む。 書誌情報[編集] テレビドラマ[編集] 2021年6月4日から毎週金曜 23時30分 – 翌 0時00分にWOWOWオリジナルドラマとして放送されている[3][4]。主演は大政絢[3][4]。 あらすじ[編集] 化粧品会社「コスメーズ」の広報部に勤務する28歳の紅河メイ(大政絢)は、容姿端麗な上、若くして広報部のリーダーに抜擢される仕事ぶりから社内では一目置かれる存在。しかし、その分、やっかみも多かった。誰もがうらやむ美貌とスタイルゆえ、食には相当気を使っていると周りから噂される。 実は彼女には、そんなイメージとは正反対の、知られざる裏の顔があった。仕事帰りの飲食チェーン店でのひとり飲みが、メイにとって自分への何よりのご褒美だ。メイは至福の一杯に酔いしれ、ひたすらおいしいものをリーズナブルに食べ、今日をリセットしていく。[5]

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リースの補題 – Wikipedia

数学の関数解析学の分野におけるリースの補題(リースのほだい、英: Riesz’s lemma)は、リース・フリジェシュの名にちなむ補題である。この補題は、ノルム線型空間の中の線型部分空間が稠密であるための条件を明示するものである。「リース補題」(Riesz lemma)や「リース不等式」(Riesz inequality)と呼ばれることもある。内積空間でない場合は、直交性の代わりと見なすことも出来る。 補題の内容について述べる前に、いくつかの記号を定める。X を、ノルム |·| を備えるノルム線型空間とし、x を X の元とする。Y を、X 内の閉部分空間とする。元 x と空間 Y との距離は、次で定義される。 d(x,Y)=infy∈Y|x−y|.{displaystyle d(x,Y)=inf

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